冷たく光る照明、静かな廊下……人の姿がないので余計に寂しく感じる。誰もいない通路の真ん中で、ここにいる理由を思い出すのにしばらく時間がかかった
幾度となく歩いた道を進むと、見慣れたオフィスの前に着いた。ベルを鳴らそうとした時、部屋の中から強く冷静な声が響いた
入れ
電子ロックの緑色のランプが3回点滅し、合金のドアが横にスライドした
飾り気のないオフィスに入ると、目の前の老人は演算中のホログラフウインドウを閉じた
君を呼んだのは、卒業後の進路について話をしたいからだ
無駄な遠回りをせず、単刀直入に本題が切り出された
君の選択に干渉はしないが、教官として、君がそうする理由は知っておくべきだろう
なぜ司令部からの招聘を断ってまで、前線の執行部隊の指揮官枠に応募した?
声の主は、鋼のように冷たく、鷹を思わせる鋭い目つきをしている。それは入学以来ずっと変わらず、皆のことを見続けてきた目だった
その口調からは激励や不服といったものは感じられず、ただただ突きつめられた厳格さがあるのみだ
少しでも嘘や言い訳を口の端にのぼらせれば、容赦なく追究される――そう思わせる佇まいだった
口を開くと同時に、世界が揺れるような感覚に陥った
しき……し……どうか……
意識が遠のき、目の前が真っ暗になっていく
目を開けると、見慣れた休憩室にいた。隣にはリーフがいる。彼女は片手をこちらの肩に置き、もう一方の手で検査用の医療機器を持ち、心配そうに見つめてきていた
机上のモニターに書きかけのレポートが表示されている。前半はごく普通だが、後半になると無意味な文字列が延々と続いていた。誤入力が連続したらしい
長時間の圧迫でむくんだ顔を揉みながら、改めて視線をリーフに向けた
指揮官、こんなところで寝てしまわれるなんて……お疲れが溜まっているのではないでしょうか?
……
そんな適当な言葉では、リーフを安心させるのは難しいようだ。彼女が更に心配そうな顔をする前に、両手を高く上げて降参のジェスチャーをしてみせた
では、頭を少し後ろに傾けて、リラックスなさってください
リーフは慣れた手つきで検査を終えると、ほっとひと息ついた
はい、大丈夫です。ですが指揮官、やはり早めにお休みになった方がいいと思います
リーフはこちらに向かって頷いた
そうですねえ、患者さんが健康管理計画をどの程度実践してくださるかによります。たとえば、今すぐ休憩してくださるとか
自分の「助けを乞う言葉」に、リーフは微笑みながらそう返した
私も事務仕事を手伝いますから。早く終わらせれば、指揮官もそれだけ早く休めます
もう終わりました
指揮官こそ、今日のリハビリ訓練、遅刻してませんよね?
そう言って、ふたりして苦笑いを浮かべた。自分の硬くなった筋肉、リーフの時々痛みを伴う意識海。まともに作戦を行える状態じゃないのはふたりともだった
外骨格の力を借りて、非作戦任務を何度か行ったが、そのような任務は常にある訳ではない
それに、外骨格の利用は一時的な手段にすぎない。体を完全に回復させることが一番の解決法のはずだ
厳しい戦況が続く中、優れた能力を持つルシアとリーが、自分とリーフと一緒に空中庭園に留まることは許されない
隊員の皆と一緒に前線で戦いたかったが、リハビリ訓練をしながら事務仕事をするようにと、彼らに説得されたのだった
リーさんとルシアはどうしているんでしょう……
リーとルシアはいつも、作戦に支障をきたさないよう、地上の拠点での休憩時間に連絡をくれる。先日は彼らがいる戦区で、小さな勝利を収めたようだ
はい!
重い空気を打ち破って、再び目の前のレポートに集中した。削除キーを長押しして意味不明な文字列を削除しながら、近くのコーヒーカップに手を伸ばすと――
思いがけず、温かい指に触れた……
指揮官、別の飲み物にしましょうか
リーフはカップをこちらに差し出した。白い湯気が立ち上がっている。それは漆黒色のコーヒーではなく、琥珀色の紅茶だった
ノンカフェインのハーブティーをどうぞ。今日指揮官は180mgものカフェインを摂取されています。健康のためにもこれ以上の摂取は推奨できません
リーフは真顔で説明してきた。小隊の健康管理は彼女の担当だ。ここはおとなしく、プロのアドバイスに従おう
琥珀色のハーブティーの豊かな香りと温かさが喉を通り、それが胸いっぱいに広がると、ノンストップで仕事をして蓄積していた疲労や倦怠感が薄らいでゆく
リーフに目をやると、すでに向かいの席に腰かけて、懸命に残りのレポートを処理していた
柔らかな光を放つモニター、軽快な打鍵音、漂うハーブの香り、真剣な面持ちのリーフ……部屋の中には穏やかさと平和が満ちている……
こんな安らぎを感じたのは久しぶりだ……
指揮官、レポートに確認していただきたい箇所がまだいくつかあります
これで最後です
リーフが整理した書類を受け取り、確認してレポートの最後に自分のIDをサインした。夜までかかりそうな作業だったが、ふたりのスムーズな連携で2時間もかからずに完了した
少女は空になったカップに、お茶を注いだ。そして、まだ閉じられていない世界作戦地図をぼんやりと眺めている
ルシアとリーさんの位置を探しています……
昨晩の通信、逃してしまったんです
昨晩、ルシアとリーからいつもの通信がくる少し前に、リーフの疼痛症状が突然表れたのだ。まだ完全に回復していない意識海が極めて不安定な状態に陥った
すぐに、常に携帯しているリンクケーブルで深層リンクし、彼女の状態を安定させると、外骨格を着用して彼女を抱き抱え、スターオブライフに走った
その後、ルシアとリーからの通信があったが、リーフはまだ治療中だったのだ
指先で地図上のある拠点をタップすると、人員配置、物資補給や敵との接触状況等の情報が表示された
人員配置の画面で、ルシアとリーの名前をすぐに見つけたが、彼らの状態について書かれている情報は2行のみだった
機体損傷率:15.32%
侵蝕率:0.00%
作戦報告によると、補助型構造体の警告サポートのない状態で、ふたりだけで赤潮の支流を1本見つけたらしい
異合生物との激戦の中、彼らは指示ビーコンを設置して拠点の駐屯軍を導き、限られた火力で的確に支流を切断したとのことだ
私もその場にいられたら……
リーフの目が作戦報告の1行に留まった。報告には、拠点の物資不足以外に、全ての小隊に補助型構造体の支援が至急必要である、そう特記されていた
指揮官が仰っているのは、深層リンクの改善のことですか?
意識海の疼痛症状が出たら、深層リンクを通して安定させる必要がある。アシモフたちはリンクケーブルに頼らず、遠隔転送で深層リンクを行う難題に取り組んでいた
この技術的難関をクリアできれば、グレイレイヴン一同が戦場に戻って、ともに戦う日もそう遠くはないはずだ
リーフは頷き、ふと何かを思い出したように、少し困惑した表情を見せた
ところで指揮官、教授は適度な運動を推奨されていましたが、完全に回復するまでは、地上の任務を控えめにした方がいいと思います
リーフの表情に「不信感」が浮かんだような気がした
幸い、リーフはそれ以上追究してくることはなく、別の質問をしてきた
これからどうしましょう……?
リーフの最大の目的は自分を早く休ませることだったとして、それでも寝るには少し早すぎる
今日のリハビリ訓練は午前中に終わっている。もう一度したくても、前日までに予約が必要だった
急に訊かれると、今から何をすればいいのか本当にわからない
えっ……私ですか?
特に考えていませんが……もし指揮官もご用がないのなら……
通信の通知音が休憩室に響き、ふたりの会話が途切れた。通信が繋がると、アシモフのホログラムが空中に現れた
今、どこだ?
手持ちの仕事がよほど重要というんじゃなけりゃ、とりあえず作業を一旦置いて、すぐに科学理事会に来てくれ
アシモフの表情は非常に険しい。目の周りのクマが更に濃くなったようだ
通信では詳しいことを説明できない。ラボに来てくれたら説明するから、リーフも途中で連れてきてくれ
え?
突然名前を呼ばれて、リーフは少し驚いた
リーフもそこにいるのか?一緒に来てくれ
こちらの返事を聞くと、アシモフはすぐに通信を切った
アシモフさん、私たちに何の用なんでしょう?
椅子から立ち上がると、全身の痛みがほとんどなくなっていた。リハビリ訓練と栄養管理の賜物だ
指揮官、お手伝いしましょうか?
リーフに寄りかかりながら、松葉杖を使ってアシモフのラボにたどり着いた
リーフ、あまり患者を甘やかさないように
思いがけず、よく見知った人物がその場に現れた
自分で松葉杖をついてゆっくりと歩き、アシモフのラボにたどり着いた
車椅子を使わなかった理由は「これもリハビのひとつ」だからだ
リーフはこちらを見つめながら、少し後方を歩いている
ラボの扉を開けると、予想外の人物がそこにいた
さすがに若い。順調に回復してるようですね
教授?
目の前に現れたのは、自分とリーフの治療プログラムを担当するヒポクラテスだった
彼女の後ろで、アシモフが目の前のスクリーンを凝視している。そのスクリーン上では、複雑な数値やグラフが素早く変化していく
彼らは所属している部門が違うから、普段なら一緒に仕事をすることはないはずだが……
察しがいいわね。あなたとリーフが呼ばれた理由がわかりました?
その通り。白夜に設置した意識海監視プローブからデータを伝送した
今アシモフが視覚化を行っているけれど、件のデータは……
そう言って彼女は急に話をやめ、自分とリーフをじろじろ眺めた
スペシャルだわ
残念ながら、そういうことじゃないわね
でも、白夜に設置した意識海監視プローブから伝送されたデータですから
深層リンク技術の改善に役立つかもしれない。今、アシモフが視覚化処理をしている最中です
できたぞ
アシモフはスクリーンから顔を上げ、スクリーンをこちらにぐいと向けてきた。画面には鬱蒼とした森の鳥瞰図が映っている
順を追って説明しよう。リーフの意識の欠片を捜索した件は覚えているだろうな?
当時、リーフの安全を確保後に、自分はことの詳細を残らず全て説明した。どんな些細なことでも、リーフの意識海修復に役立つかもしれないからだった
未発見だった7個目の意識欠片を、あの時お前が見つけた
意識を闇蝕の機体に転移して以降、俺たちは定期的に違う周波数信号で白夜の機体をスキャンしていたんだ。遺漏があっちゃ不味いからな
そうだ。シグナル反応は見逃してもいい程度には弱いものだが、確かにリーフの一部だ
だが、プローブの伝送データによれば、周波数帯が特殊でな。たとえて言うなら……
アシモフはわかりやすい、適切な言葉を探しているようだった
詳しく解説しましょう
簡単な例を挙げると……そうだ、昨日リハビリセンターで何人とすれ違ったか覚えています?
そう、人が今まで食べたパンの枚数を覚えていないようにね
え?覚えているの?それはそれは、よくよく研究させてもらいたいものだわ
人間の意識は収集した全ての情報を記録する訳じゃないの
実際の経験や思考が記憶に深い痕跡を残すとは限らないんです
教授の言う通り、このデータも同じく意識に「無視」されたか「忘却」されたか、あるいは「拒否」された部分だ
フィードバック信号の波形を分析すれば、森を投影する意識欠片の大体の位置を推定できる
アシモフは画面の中央部分を、ほぼ全画面の大きさに拡大した
塔のシルエットが拡大され、その周りに緋色の植物が纏わりついている
軽微の侵蝕だが、無視できるものでもない
だからお前とリーフとで汚染を浄化し、調査と回収を進めてもらいたい
少し心配になってリーフを見た。彼女の意識海はまだリハビリ中なのだ。今の状況で、このような任務を遂行するのはかなりリスクが高い
指揮官、心配しないでください。私は平気です
何が心配なのかはわかっています。あなたたちの安全確保は一貫して最優先事項です
前回と違って、今の我々には準備するための十分な時間があります
アシモフが「安全トリガー」プログラムを書いてくれました
状況が制御不能に陥ったら、「トリガー」が起動してあなたたちを強制的に呼び覚まします
もし現場の状況が調査の継続に適さないと判断したなら、自ら「トリガー」を引いてもいい
それでこちらの意識にダメージを与えられないためなら、この欠片は諦めるしかありません
ふたりを選んだもうひとつの理由は、この欠片が潜在意識に似ているからよ。どちらも意識海の基底を構成するものです
一緒に行動する際のデータフィードバックは、深層リンク技術の改善にも大いに役立つでしょう。この手の意識サンプルは希少だから
そう言うと、彼女の顔が少し曇った
とはいえ、この手のサンプルは二度と御免だけれど……
もうひとつよろしいでしょうか?
重苦しくなった雰囲気を察し、リーフは自ら声を発した
何かしら?
どうやって指揮官と一緒に自分の意識欠片に入るんでしょうか?
アシモフはあなたのために専用の潜入プログラムを組んでくれました、まずは彼に調整を任せてみては
指揮官なら、あなたが調整し終わってから潜入します
わかりました
指揮官、ではまた後で
リーフはこちらに手を振ると、アシモフの後ろについて、潜行のためのキャビンへ向かった。自分も松葉杖をついて立ち上がろうとしたが――
強い力で椅子に押さえつけられた
リーフ本人は意識欠片の中で多少影響を受けるかもしれない
意識の形態かもしれないし、性格かもしれない、具体的な事象はこの意識欠片がリーフのどの部分であるかによります
ある意味これは「内的自己への潜入」ともいえる行為なの
だから、彼女のことは頼みました
ヒポクラテスは、こちらの肩をぽんぽんと叩いてきた
無重力感が消え、視界が戻った。背中に当たるざらざらした樹皮、土とやわらかい草の香りが鼻をかすめる
太陽の光が木々の隙間から差し込み、温かく優しい愛撫のようだった。澄んだ鳥の鳴き声が森に響き渡る
ふわふわした重さを感じ、視線を向けると、1匹の小さなリスが手の甲で寝ていた
こちらの視線が見えない弦に触れてしまったようだ、一瞬で森の静けさが破られた
リスは体を丸めてぴょんとこちらの手の甲から飛び降りると、慌てて森の奥に消えていった
立ち上がり、しばらく混乱した思考を整理していた……
周りの景色はアシモフが見せてくれた画像とまったく同じだが、一緒に潜入したはずのリーフの姿が見あたらない
初めての試みだから、ふたりの潜入位置に多少のずれが生じるかもしれません
ラボでの会話を思い返すと、調査を始める前に、まずはリーフと合流すべきだと思われた
人間が乱雑な描画を目の前にすると本能的に最も馴染みあるものを探してしまうように、指揮官と構造体の間にも何らかの引力のようなものが存在する
目を閉じ、触れることのできない「引力」を感じようとしたが、断続的な反響だけが聞こえるだけで、まったく手がかりにはならない
暗い深海で手探りしているようなものだ。相手が近くにいるとわかっていても、導いてくれるものがなければ、進むべき方向がわからない
その時、暗闇に微かな光が差し込んできた
目の前に現れたのは1匹の蝶だった。羽の真ん中に、蛍光の緑色を刺繍するように、細くて黒い線模様が入っている
なんだか懐かしい気がする……
蝶はひらひらと周囲を2回舞って、光る粉のようなものを撒いている。ついてくるように、そう合図をしているみたいだった
その「懐かしさ」に惹かれ、蝶の動きを追っていった
広大な森を通過し……
果てしなく続く同じ景色の中を歩き……
前方に伸びる道はますます暗くなり、蝶が放つ光が唯一の誘導灯になった……
その時、耳元でガサガサという音がした。誰かが森の雑草を踏んで、こちらに向かって歩いてきているようだ
指揮官?
聞き慣れた声が背後の茂みから聞こえた。足音が早く大きくなり、木陰からリーフの姿が現れたが……
記憶の中とは「少し違う」姿だった
少女の華奢で美しい体を、黒い衣装が包んでいる。印象的かつ独創的な服だった。背中の薄緑の羽がとても幻想的で、少しでも目を離すと風に乗って消えそうに儚い
し……指揮官、そんなに見つめないでください……
何も言わずにぼんやり眺めていたせいか、少女は恥ずかしそうに少しうつむいた
視線を別のところに向けた。目の前の光景があまりにも予想外で、呆気にとられている内に、ここへと導いてくれた蝶はどこかに消えてしまっていた
目の前のリーフの外見は、潜入前に着ていた衣服と明らかに違った
どうしてこんなことになったのか……気がついたらこうだったんです
リーフも自身を改めて見て、手を伸ばして背中の羽に触れてみていた
アシモフさんもそんなようなことを仰っていました……
リーフはいつも白と薄いピンクの服を着ている。こんな色使いの服を着ているのは見たことがない
指揮官はいかがですか?
指揮官……
少し恥ずかしそうにしながらも、リーフは嬉しそうだ……けれど、なぜか少し驚いたようにも見える
いえ、指揮官も私同様何か影響を受けてないかお訊きしたかったんです……でも、ありがとうございます
え?
リーフは少し驚いた表情を見せた
いえ、指揮官も私同様何か影響を受けてないかお訊きしたかったんです……でも、ありがとうございます
指揮官は元の姿の方がお好きなんですね。わかりました……
いえ、指揮官も私同様何か影響を受けてないかお訊きしたかったんですが……
現実に起きていたあちこちの痛みは意識海には持ち込まれていない
ひとつだけ……影響を受けたのではと思うことがあります
自分の戸惑う顔を見て、リーフは3回手を叩いた
すると、静かな森の中で急にガサガサという音が聞こえた。音がする方を見ると、リスの群れがあちこちから頭を出している
草むらや樹冠、岩陰等……あらゆるところに出現していた
小さな瞳が自分とリーフの間を行ったり来たりして、ここにふたりの人間がいたことに困惑しているようだった
大丈夫ですよ。この人は悪い人じゃありませんから
リーフの言葉を聞いて、リスたちは一斉に隠れていた場所から飛び出してきた
反応する間もなく、自分とリーフは温かいリスの群れに圧倒された。愛おしそうにこちらの頬や手のひらに自らを擦りつけ、彼らなりの方法で好意を示してくる
リーフに隠れてこっそりと3回手を叩いてみたが、何も出てこなかったのだ
温厚なリーフはいつも動物に好かれるが、手を叩くだけでこんなにも多くのリスが集まるのは、もはや「動物に好かれる」レベルではない
手についた土を落とそうとしたら、この子たちが現れたんです
手拍子のリズムや回数を変えてみたり、あと、子供向けの番組の魔法少女の真似とか……
リーフはしまったというように突然言葉を止めた
と……とにかく色々試したんですけど、まるで効果がなくて。リスだけが来てくれたんです
彼女は慣れた手つきで小さなリスたちをなでながら、遠くを見つめた
自分の肩からうっかり落ち、ポケットの中で短い足を必死にバタバタさせているリスを地面に逃がしてやりながら、話を続ける
はい。私が気がついてから……
リーフの簡潔な説明を聞くと、潜入時間はほぼ同じだったが、彼女と自分の潜入位置は約1㎞離れていたことがわかった
意識海の影響を受けたのかもしれない。背中に白夜に似た羽はあるが、飛行することはできないらしい
森の真ん中まで飛んでいくアイデアは諦めるしかないようだった
リーフに続いてこちらも簡単に説明した……
蝶ですか……私が目覚めた時には、指揮官が話してくださったような蝶はいませんでした
精密スキャンをした方がいいでしょうか?
蝶のことは気になるが、幻のような出来事よりも、森の中央部を調査する方が、より明確で重要な目標なのだ
地形スキャンとルート分析を行います
あれ……
範囲内の障害物が多すぎて、森の中央部までのルートを演算できません
別れの雰囲気を察したのか、リスの群れが退散し始めた
ナッツ、ベリー、種、花びら……ポケットはリスたちからの贈り物でいっぱいだ
最後のリスがリーフに手を振って、岩の隙間に飛び込んだ
リーフは微笑みながら別れを告げた
い……今、他のルートを策定していますので
リーフの探知能力があれば、どんな複雑な地形でも楽勝だと思っていた
しかし、どうやらこの森の複雑さを過小評価していたようだ
複雑というよりも、まだリーフは気づいていないようだが……
まるで、想像を超えた底なし沼のようだった
出発してからもう、かなり時間が経っている
森の道は極端に歩きにくい。分厚い靴底が尖った石から足を守ってくれはするが、滑りやすい苔の上を歩くのは、神経を集中させる必要があった
どこもを見ても、同じ色、同じ木、同じ雑草、そして同じ花が続く……
人が訪れた痕跡はなく、虫の鳴き声が遠くに聞こえている
方向感が完全に狂ってしまい、リーフの案内を頼りにゆっくりと進むしかない
その時、前を歩くリーフが足を止めた
あれ?
この橋は……想像していたのと少し違います
リーフは少し驚いたように、戸惑いながらそう言った
行く手を阻む岩を乗り越え、視線を地面から前方に移した
目の前に広がる光景に、完全に言葉を失ってしまった
突然現れたのは、幅が20mほどもある深い谷だ。上にはそれを横切って「橋」があった
この特別な橋はいくつもの「円盤」で構成されており、クリスタルのように七色に輝き、つやつやとした光を放っている
「橋」の周りにも同じような円盤が宙に浮かんでおり、それらは不規則に揺れている
薄暗い森の中で、この円盤たちは街灯のように周囲を明るく照らしていた
よく見ると、これらの「円盤」の下には、半透明の長い触手がぶら下がっている
視線を感じたのか、数本の触手が動き、こちらに向かって手を振ってきた
突然、浮遊するクラゲに挨拶された格好だ
まさかそんな……ですが、敵意はないように見えます
ここまで来る途中、特に何も異変がなかったからか、ひとつ忘れていることがあった
意識海と現実世界の違いは、時間の速さだけではない……
リーフが手を叩くだけでリスを呼べるように、現実を超えた出来事に出くわすことがある
だったら、「クラゲの橋」があっても別におかしくはないのでは?
質問に答えるかのように、谷の奥から巨大な噴水が湧き上がってきた。橋を形成していたクラゲが流されると、すぐに別のクラゲがやってきて空いた場所を埋めた
自然の恵みを受けたためか、橋はよりツヤツヤと輝いている
もしかしたら……幼い頃に聞いた「カササギ橋」の物語と何か関係が……?
リーフは一瞬、困惑したようだ
カササギ橋は、九龍の伝説において、ある特別な日にカササギが連なってできる橋らしい
確かに、目の前の「クラゲ橋」と事象としてはとてもよく似ている
カササギは空を飛ぶもの、クラゲは水を泳ぐものの違いはあるが
はい、おとぎ話に関する記憶かもしれません……
実際の経験や思考が記憶に深い痕跡を残すとは限らないんです
教授の言う通り、このデータも同じく意識に「無視」されたか「忘却」されたか、あるいは「拒否」された部分だ
ヒポクラテスとアシモフが、この欠片を説明した時の言葉が蘇った。確かに特徴もほぼ一致している
小さい頃に読んだおとぎ話の記憶はもうおぼろげなものだった
指揮官、子供っぽいって思ってますか?
おとぎ話の記憶なんだから
大人になってから、再び子供時代の思い出に触れるのもロマンチックなものだ
優しく口数の少ないリーフだが、彼女はいつも、いろんな局面で皆の世話をしてくれている
彼女は誰よりも、大人だ
……
自分の答えを聞くと、リーフはほっとひと息ついた
では指揮官、別のルートを策定しますか?
リーフは頷いた
ええっと、ま……まずは靴を脱いだ方がいいでしょうか?
リーフは下を向いて、殺傷力すらありそうなピンヒールを見た
意見が一致したので、前へと歩き始めた。半透明のクラゲを踏むと、足の裏に柔らかく弾力ある感覚が伝わってきた
重心を低くして、このペースを維持できれば……
指揮官、戻ってください!
リーフが声を上げて、自分の左手を引っ張ったが、手遅れだった
足下のクラゲがぐにゃりと凹み、その後激しく収縮して上へグッと突き上げてきた……
リーフとふたり、宙を漂うクラゲと顔を突き合わせる形になった。もちろん、相手には顔はないのだが
降下の無重力に襲われる前に、目の前のクラゲが触手を伸ばして、自分とリーフをさっと捉えた
しかし、ふたりの体重はクラゲの細い触手には重すぎたようで、ふたりを捉えたクラゲはまるで破れたパラシュートのように落下していく
幸い、隣のクラゲが気づいて、そちらも触手を伸ばしてきた。ふたつのクラゲの力に支えられてようやく、ふわりと浮かぶことができた
その代わり、リーフと自分は身を寄せて更にきつく縛られる格好になった
背中に、シルクのような柔らかい何かを感じた
指揮官……私の羽が……潰れそうです
リーフは途切れとぎれに、か細い声を全力で絞り出した。頭から足先まで、全身をほぼ隙間なくきつく縛られて動けないので、彼女の表情を見ることはできない
なんとなく笛吹ケトルのような、沸騰した蒸気の音が聞こえるような気が……
だ……大丈夫です。でも、このやり方が正しい峡谷の越え方だと思います
リーフの言う通り、クラゲは仲間と協力して、ふたりを峡谷の向こう側に運んでくれている
ふたりとも黙り込んだまま、クラゲに縛られた状態でゆっくりと向こう側へ連れられていく
ええ、どうやら今のやり方が正しい峡谷の越え方のようですね
眺めていると一番最初に踏んだクラゲは、触手に苔を巻きつけて傘の部分を露で洗うようにして、体についた土と汚れを拭きとっていた
するとすぐに汚れが綺麗に落ちて、また艶やかに光り出した
クラゲたちは橋を作るために集まったのではなく、互いに寄りかかって休んでいたのかもしれませんね
よく見ると、橋だと思われたクラゲたちが放つ光は、他のクラゲたちより少し暗い。体も微かに上下していて、どうやら睡眠をしているようだ
た……多分「寝起き」が悪かったんじゃないでしょうか……?
危険が感じられず、リーフの口調も楽しそうだった。同時に、視界の高度が下がってきた。しばらくすると、足下にしっかりした感触があり、体の束縛が解かれた
振り返ると、クラゲたちはまだ側にいて、リーフのしわくちゃになった羽を伸ばそうとしてくれている
助けてくれてありがとうございます。どうか気にしないでください
だが、クラゲたちはその行為をやめようとしなかった。しかしその柔らかい触手は、どうもこの作業には向いていないようだ
え……!?どうして指揮官が……
顔を上げて、無駄な作業をし続けているクラゲたちを見た
じゃあ……お願いします
クラゲが放つ柔らかい光の中で、薄いベールのような羽を少しずつ綺麗に伸ばしていく
まだ空中に浮かんでいるクラゲと、ちょっとずつ形が整ってきた羽を見ていると、思わず言葉が出た
ここは現実とは違いますから、色々自由なんです
重力の束縛から解放されて、雲を突き破ったり、距離の制限を超えて通信できる装置があったり、自然の偉大な力を把握し、雷を自分の力に転換したり……
指揮官は……この光景も実現できるとお思いですか?
顔を上げると、クラゲの七色の光に照らされて、彼女とふたりまるで幻想の中にいる気分だった
「この幻の夢は遥か遠いものに感じるが、この光景を追い求める人がいる限り、いつか必ず実現できるよ」
「現実が邪魔をして、すぐにはこの夢が実現される日がこなくても、同じビジョンを持つ次の追求者に託すことができる」
「とはいえ、この憧れと夢を心から消す必要はない。完璧な結果に到達できなくても、努力すれば、その完璧な結果に近付くことができる」
リーフの羽の最後のしわを伸ばした。依然として飛ぶことはできないようだが、薄く傷が残ったものの、ようやく元の広がった姿に戻せた
微かな風が枝先を揺らし、軽い音を立てた。森も同じようにささやいているようだ