人間にとっても、構造体にとっても、空中庭園はこの世界に残った唯一の浄土である
いかに地上にパニシングと侵蝕体が蔓延しようとも、地球近くの低軌道で周回する巨大な砦を脅かすことはできない。しかし、ここさえも安全でなくなれば――
恐怖
絶望
生き延びようと足搔く空中庭園の人々を、飲み込むだろう……
なあ……本当にここなのかよ……
ナナミは頷き、目の前の部屋を見た。そこは空中庭園に無数にある用品倉庫のひとつらしい。倉庫のほとんどは長年使われておらず、その用途は謎となっている
この中だよ……
部屋の自動ドアは故障し、ずっと開いたままだ。しかし部屋の中は真っ暗で、灯りがなくては何も確認できない
本当だろうな……侵蝕体が空中庭園に侵入できるわけねーだろ!
もう、信じてよぅ……ナナミはさっき……うっ……
ナナミの左足から火花が散っていることにカレニーナは気づいた。どうやら演技ではなく、本当に重症のようだ
おい、大丈夫かよ!?とにかく助けを呼んでこねぇと……
確かにナナミは普段いい加減だが、こんな場面で嘘をついたりしないことをカレニーナはよく知っていた
もしあいつらが、みんなのところへ行ったら……ダメ……間に合わないよ……
床に座り込んでいたナナミは立ち上がろうともがく。しかし足の怪我が酷いようで、明らかに辛そうだった
お前は応援を呼びに行って、ついでに治療してこい。ここはオレに任せろ!
さっすが空中庭園で一番強くて信頼できるカレニーナ!頼りになるぅ!
ま、まあな……やっぱオレの方が……ルシアより強いよな?
ナナミは答えに迷うそぶりを見せたが、慌ててすぐに頷いた
えっと……うん!ナナミは、カレニーナが一番強いと思う!
ふ、ふん……当然だろ!
カレニーナは冷静を装っているが、唇の端に浮かべたかすかな笑いから、どうやら相当喜んでいるようだ
誰に頼まれなくとも……侵蝕体が空中庭園を脅かすことは、オレが断じて許さねえ……
責任感と虚栄心の相乗効果を受け、カレニーナはロケット砲を担ぎ、真っ暗な部屋に敢然と入って行った
倉庫部屋は長らく人の出入りがなかったことをうかがわせ、もうもうと埃が立ちこめており、その匂いはカレニーナの嗅覚センサーを刺激した
カレニーナは慎重に前進した。用心深くあたりを見回し、敵の出現を警戒している
ホントになんにも見えねえな……こんなに暗いとわかってたら、暗視スコープを持って来たのに……
突如、部屋の灯りがついた――パッと明るくなった途端、カレニーナの目に映ったのはひとつの巨大な黒影だった
……
カレニーナの研ぎ澄まされた神経が即座に「それ」を敵だと判断し、瞬時に砲弾を発射させた
死ねぇッッッ!!!!!
爆発による衝撃波が部屋中の全ての物を吹き飛ばす。そこら中に瓦礫や埃が散乱し、カレニーナはやや狼狽しているようだった
ゴホッ、ゴホッ……この爆発じゃ、何だって木っ端みじんだろ
しかし、カレニーナが埃の向こうに見たものは、段ボールとパイプをくくって作り上げた「侵蝕体」――巨大で稚拙な人形だった
一体どうなってんだ……
やったぁ、大成功~!カレニーナ、ひっかかっちゃったね!
カレニーナはしばし状況を理解できないでいた。足に重症を負っているはずのナナミが、元気に走っている姿をただただ不思議そうに見ている
ナナミ、バレるかもって心配しちゃった……でも、結果は大!成!功!
はあ!?侵蝕体とか、全部嘘なのかよ!!?
だって、空中庭園に侵蝕体なんているわけないでしょ?カレニーナってば、ホントに騙されやすいんだから!
ナ~~~ナ~~~ミィィッッッ!!!!!
おおっと?もしかしてカレニーナ、すんご~く怒ってる?
【規制音】!!誰だって怒るぞこんなの!!!
ナナミね、世界政府芸術協会の資料で見たの。今日は「エイプリルフール」っていって、嘘ついてもいい日なんだって!だから、騙されても怒っちゃダメなんだよ~!
カレニーナは笑いながら逃げ回るナナミをようやく捕まえたが、騙されて本気で怒っているのを子供っぽいと思われそうで、ナナミに説教するのはやめた
【規制音】!てめぇ……!
なにかななにかな……?
ちっ……
こみ上げる怒りを制御し、カレニーナは、力を緩めてナナミを解放した
砲撃で段ボールが燃えたことにより、スプリンクラーが作動した。全身ずぶ濡れになったカレニーナの怒りはとうとう頂点に達し――
空っぽの倉庫から、怒声と爆発音が轟きわたった……
よーし、カレニーナドッキリ任務完了!ふふ、次は誰かなぁ?このナナミ様を騙せる人なんていないもんね。どんな嘘でもかかってこい!
ナナミが取り出したノートには、名前がぎっしりと並んでいる。おもむろにペンを持ち、「カレニーナ」の名前に横線を引いた――いたずら成功という意味だろう
でもみんな、あんまり楽しそうじゃないなぁ……もしかして、ナナミの嘘がつまらなかったとか!?
その時、ナナミの脳裏に、とある意志の声が聞こえた
ナナミという個体、その行動パターンは極めて怪奇的であり、理解しがたく、参考となる前例すら見当たらないわね
うっわぁ!びっくりした……ん?おばあちゃんロボットかぁ……
ナナミは頭の中に響いてきた声に驚いたようで、トレードマークの長いポニーテールがピョンと跳ね上がる
嘘、ごまかし、偽り……人を欺き、それを楽しむ行為は、上位なる意志を持つあなたがすべきことではないですよ
でも……今日はエイプリルフールなんだよ。これって、人類文化のひとつなんでしょ?
人類の文化にも善し悪しがあります。虚偽と嘘を捨て去り、人類意識の真髄をつかまなくてはいけない。決して人を騙して楽しむことが文化ではないのです
ちぇ、せっかくのイベントなのに~……ナナミだってお友達と遊びたくて……あっ!通信が切れちゃった
ナナミが説明しようとした時、何の予兆もなく現れた声は、また何の予兆もなく消えていった
脳内の声が消え、ナナミはすでに興味を失った風情でノートをポケットに突っ込んだ
さぁて、今からどうしようかな……そうだ!せっかくだし、グレイレイヴンの指揮官に遊んでもらおっと!