それはファウンスの紋章が刻まれた小さな勲章で、さして高価な物ではなく、特殊な素材で作られた物でもなかった
他人には価値のないものだが、自分にとっては大切で意義のある物だ。あの日々の記念品でもあり、また自分の誓いを思い起こさせる警告でもある
物語の中でよくあるように、今まで間一髪の時に、心臓を射抜かんとした弾を防ぐなんてことはなかった
しかし、難しい選択を迫られた際に、それを見て、自身の本心を問うのだ
プレッシャーに耐えられず逃げ出したい時、あの勲章が常に――立場や責任を自覚させ、そして今まで支えてくれた全ての人を思い出させてくれた
無数の戦いをともにした戦友だ。時の経過で傷がついたり、ガラス箱の中にただ静かに置かれることは受け入れられる。だが、理由もなく消えることは断じて受け入れられない
それは大切なものじゃないんですか?どうして平然としていられるのです?
自分の言葉を聞いた蒲牢の方が焦り始め、慌てて地面を探し始めた
丁寧に探しましょう、手がかりが残っているかもしれませんし。指揮官、安心してください、蒲牢が絶対に見つけ出しますから
蒲牢が悪いんです、興奮していたから盗られてしまったんです。もっと周りに注意していたら、こんなことにならなかったのに……
自責、罪悪感、後悔が少しずつ目の前の少女を蝕んでいく。この件に関して蒲牢には何の落ち度もないが、責任感ゆえに彼女は自身に少しの油断も許せないのだった
指揮官、慰めてくれなくていいです。蒲牢の頭脳はシャンとしてますから、絶対犯人を逃しませんよ
大切な物をなくした時の感覚はよく知っています。それは……自分の過去、現在と未来の一部が欠けているあの感覚と同じ……
蒲牢はその感覚をどうやって説明すればいいのかわからないけど、きっととても辛いはず
普通の子供なら、慰められた時は逆に泣きわめいて抱きしめてと求めるものだ。しかし蒲牢はただ自分の頬をペチペチと叩いて、強がっているような笑顔を見せた
一緒にいた時間は短くても、彼女のことはわかっていた。ちょっと会わない内に、ぐっと大人びたようだ。だから、先ほどの言葉は慰めではなく、ただ事実を述べただけだった
かつてファウンスの教官に言われた――起こりうる全ての最悪な事態に備えよ
勲章をなくすこと自体は不可抗力でも、失ったあとにいかに早く見つけ出すかについては、予め保険をかけることができる
大局を考えて全力を尽くす。この考え方で何度も危険を乗り越えてきたのだ
指揮官……もしかして、よく物をなくすのですか?
普通は卒業勲章に位置特定装置なんかつけないです。そうそう狙われる物じゃないですし。通りを渡るだけなのに、わざわざGPSに案内してもらうみたいな……
あっ……さすが指揮官、蒲牢が思いつかないことまで気を配っているのですね。じゃあ早速、位置特定装置の信号を追跡しましょう!今度こそ、一網打尽です!
追跡作戦は思ったほど簡単ではなかった。位置特定装置は端末に信号を送り続けているが、空中庭園の端末が九龍夜航船の詳細な地図を搭載しているはずもない
そして、蒲牢も同じく、夜航船の地図を端末にインストールすることを思いつかなかった
そのため位置特定装置は大まかな方向と直線距離しか示さない。それにこの地域は複雑で、四方八方へ向かう通りが多く存在する。蒲牢がいなければ道に迷っていただろう
しかしここをよく知る蒲牢も長時間の追跡中に間違えてしまい、突如目の前に10mほどの高い壁が現れた。構造体の跳躍力でも超えるのが難しい。つまり、行き止まりだ
指揮官、目標はまだ移動していますか?
端末上のマークを確認して、肯定の答えを返した
おかしい……蒲牢の推測では、あの盗人はここで立ち往生しているはずなんです。この壁の後ろに道はないはずなのに
蒲牢はずっとそれに気を配っています。屋根の上を移動しているなら、見逃すはずがないんです
うん……理解できないけど、回り道するしかないかな
指揮官、こっちに来てください!しっかり後についてきてくださいね
しばらくののち……
指揮官、目標は確かにこの近くですか?
蒲牢がこのような疑問を持つのも不思議はない。端末の表示によると、勲章は確かにここから10m先の位置にある
しかし見渡す限り何もなかった。端末を丁寧に確認しながら、信号に近づいたが、やはりあの見慣れた金属加工品はどこにもない
ここには何もありません。指揮官の位置特定装置が故障している訳じゃないなら、残る可能性はひとつ
蒲牢は足下の地面を、突き破るような眼差しで見つめた
犯人は配管を利用して移動した……!
船の住民の生活を維持するために、夜航船は地中にたくさんの配管を設置しています
配管を利用して移動すれば、地上の地形なんて関係ありません
こんな状況が起こるのは、犯人が私たちの足下にいるからです!
でも、ほとんどの配管は人が通ることはできません。通れるのは小型のメンテナンスロボットだけです
たぶん、蒲牢の最初の推測が間違っていたんですね。真の犯人はあの黒い影だけで、盗みを行うのは影が操るロボットなんでしょう
そういうことなら、追跡する時は配管の位置に注意しないといけません。そうか、地面を貫通すれば……だ、ダメです!住民と贔屓に迷惑をかけちゃう
蒲牢はもう配管のルートを考えました。今回こそ逃がしません、行きましょう!
少女は目に激しい闘志を燃やして、街の突き当たりに向かって全速力で走った
うん、ここは拠点に適した場所です。そして地図では、ある排水溝が配管の出口になることを示しています
目の前に聳えるのは黄金時代のホラー映画に出てきそうな古い建物だ。長く放置され、過去の繁栄は見る影もない。時折、風が紙の提灯を揺らし、紙くずと埃が地面に落ちた
よし、今から突入しましょう。え……あれれれれ!指揮官、何をするんですか!早く降ろしてください!
周囲を観察している間に、蒲牢は突入することに決めたようだ
さっさと阻止しないと、あの重い木の扉が構造体の脚力でボロボロにされてしまうと判断した
蒲牢を高く持ち上げて、地面から引きはがした。力が使えない彼女は、空中で両足をバタバタしている。古典的な技だが、勝てない彼女は身をよじって抗議している
蒲牢の耳元で声を低くしてささやいた。蒲牢はすぐにその意味を理解し、両手で口を塞いだ。彼女が抵抗しなくなったので、そっと地面に降ろした
どうしましょう?
改めて、端末でマークが停止していることを確認してから、横の壁を指差した。壁は少し高いが、構造体の跳躍力なら、問題なく越えられる
蒲牢が壁を飛びこえてから彼女の手を借りれば、一緒に壁を越えることができる。蒲牢もすぐにこちらの計画を理解したようで、彼女は頷いて壁に向かって歩いた
身を屈めて、ジャンプして壁の上に飛び上がった。猫のように軽やかで、物音ひとつ立たない。蒲牢はまず屋敷の中を見渡してから、こちらに向かって手を振った
それを見て歩み寄り、高いところにいる蒲牢に手を伸ばした。予想外に、蒲牢は手を握ってこず、なんと兎を持ち上げるようにして、こちらの後ろ襟を掴んだ――
視界が回り体が宙を舞って、ようやく両足が庭の地面に着いた。その後、蒲牢が壁から飛び降りてきた。顔には仕返しができてしてやったりという表情が浮かんでいた
指揮官、蒲牢はレディなんですよ、もう子供扱いしないでくださいね。わかりましたか?
ふんっ!
蒲牢は答えに納得がいかないようだが、それ以上、執着もせずに視線をボロボロの部屋に向けた。そこは信号が停止しているまさにその場所だった
蒲牢はつま先立ちで、慎重に部屋に向かって移動する。彼女の後ろを忍び足でついていった
部屋の扉はすでにない。階段から少しだけ中を覗くことができた。しかし外の光が十分に部屋の中に届いていないので、物陰になっている部分がある
その時、目の前に真っ赤な姿が現れた――
ドォンッ!
注意する前に、蒲牢はすでに畳石を踏み割り突進すると、手を伸ばして相手の肩を掴み、一撃を与えようとしていた
驚いたことに、相手は軽々と蒲牢の攻撃を回避した。それと同時に聞き慣れた声がその物陰から聞こえてきた
蒲……牢?
その声には訝しさと驚きが入り混じっている
が、睚眦?なんでここに?
相手はその物陰から出てきた。常に持ち歩いているあの赤い傘を手にしている
たまたま巡回でここに来ました。そしてこれを捕まえたんです
睚眦は機能停止したバイオニックマウスを差し出した
これは本来、間者を監視するための機械です。でもプログラムに問題があるようで、本物の鼠のように行動しています
えっ、私たちの船にこんなものがいるの?
ずいぶん前に一掃されましたが、これは多分、プログラムミスで見逃したのでしょう。そうだ、これは指揮官の持ち物ですか?
睚眦は丸い金属製品を投げてよこした。それは探していたあの勲章だった
このバイオニックマウスのしっぽに巻かれていました。結構汚れていたので、勝手に洗浄と消毒をしています。怒らないでいただけると……
睚眦は最近ずっとこの鼠を追っていたの?
そうです。とても狡猾で、私も数回、盗みを働いている場面を目撃しました
臼のような頭……赤色……彼らが言っていた幽霊は睚眦のことだったのね……
幽霊?
蒲牢は睚眦に飲茶の店で客から言われた忠告、調査での訊きこみ、そしてふたりでここに訪れた理由を簡単に説明した
どうやら私の不注意でご迷惑をかけたみたいですね、以後、気をつけます
でも、まだひとつ疑問があります
睚眦は確認するように何度も蒲牢を見直した
今日の仕事は空中庭園の一行を保護することでは?なぜ指揮官ひとりしかいないのです?そして、その服とでんでん太鼓は……?
あっ!
蒲牢は小さく叫んで、自分の後ろに隠れた。彼女は小さな頭を出して、あえて睚眦の目を避けている
こ……これは長い話なんです。正当な理由があるんです。あと……あと、あ、そう、指揮官がこれを着せたんです。とにかく、私はサボってなんかいませんよ!
……グレイレイヴン指揮官、やはり噂通り……
睚眦はしばらく黙って、言葉を選んだ
天下無双な方ですね
はい、蒲牢も指揮官はすごい方だと思っています
指揮官の案は本当に妙案でしたね
お陰で蒲牢がいままで知らなかったことをたくさん知ることができました……そうだ!
蒲牢は突然何かを思いついたように、睚眦の手を取った
睚眦が驚かせてしまった住民に謝りましょう。自分の不注意で皆さんに迷惑をかけたと言いましたよね?それなら、ちゃんと謝罪をしないといけません
でも……彼らは私に会うのは嫌でしょう
大丈夫、皆さん、実はそれほど龍の子を嫌っていません。そして私が一緒にいきますから!
きっと、幽霊の正体がわかったら、睚眦とも仲良くなるかもしれませんよ
わかりました……
指揮官も一緒に来てくれませんか?本音をいうと、少し怖いんです……
話は蒲牢と睚眦でしますが、指揮官が側にいてくれたら安心ですから
そう言い終えると、蒲牢は真っすぐにこちらを見つめてきた。まるで、プレンゼントを期待する子供のように
蒲牢は少し怖いと言った。睚眦を握っている手が微かに震えていることから、彼女の不安がうかがえる
蒲牢を子供扱いしないでと言ったでしょ!!
イタい……
やったぁ!