……もう一度だけ考えてみて、ホワイト博士。レノア博士のかつての同僚であり、友人だったあなたの証言は、真実へ至る鍵なの
何度でも言う。俺は、彼女が事件に巻き込まれる前に別のチームに異動してる。その件については一切知らない。協力義務はもう果たした
そして、個人的な感情の上では……レノアの話をしたくない。科学理事会の安全総監なんかとは、特にな
疲れの滲む男はドアノブを固く握り、視線を自分とネイティアに交互に走らせ、眉をひそめて目を閉じた
話せることは、以上だ
拒絶を突きつけるように、扉はバタンと音を立てて閉ざされた
日が傾き、街灯が灯り始める。数々の訪問を重ねるうちに、昼の帳は静かに幕を下ろしていた
少しばかり疲れた顔でネイティアを見やると、構造体の女性は静かに微笑みを返してきた。その気配に翳りはなかった
渋い顔をして。どうしたの?カラスさん、もしかしてお疲れ?
訊き込みとは謎解きなのよ。人々の心の鍵穴の形を調べ、それに合う鍵を探す作業
構造体の指先がそっと胸元に触れ、鍵穴の形を描き、その中心を軽く押した
すぐに見つからなくても、鍵はきっとある。少しだけ、視点と手段を変えてみればいい
彼女は無言のまま半歩前に出て、囁くようにこちらの耳元へと身を寄せた
尾けられている
後ろの角、襟を立てたベージュのコートの男。モリガンによれば、3ブロックにわたって尾行してきてるわ。彼の前にも別の影がいた
ネイティアの逆元装置を利用して、自分もそっと視線を向けた。確かに、その男性には見覚えがあった
私は、影に隠れてコソコソされるのが昔から嫌いなの。相手が誰であれ、トラブルを起こして注意を別に逸らしてやりましょう
大丈夫、考えがあるわ
彼女は意味深な笑みを浮かべながら、唇の端を上げた
さあ、私の腰に手を回して
あら、ずいぶん手慣れているのね。もしかして、これをずっと狙ってた?
突然、耳にふっと息がかかった。くすぐったさが瞬時に背筋を駆け抜けていく
ふふ……ぼーっとしてる顔も美味しそうだけど、今じゃないわ。言う通りにして
そう、よくできました
黒い羽のスカートを揺らして満足そうに目を細めた彼女は、視線である方向を示してきた
ついてきて。もっとふさわしい場所で話をしましょう
スターダストブリュー
空中庭園
空中庭園 スターダストブリュー
光は青紫に滲み、まるで暮色と蛍光の海が溶け合ったようだ。ゆったりとした旋律が会話の隙間を縫い、氷がグラスに触れる音がそれに花を添える
ネイティアはこちらの腕に手を絡め、人々の間を遊魚のようにすり抜け、バーカウンターへと向かっていく
カウンターに軽く寄りかかったネイティアに、すぐさまバーテンダーが寄ってきた
連れがいるなんて珍しいじゃない、ネイティア。お連れさんは特別な誰か?
グレイレイヴン指揮官だから当然、「特別」ね
アハハ、いや、そうじゃなくてもっと別の意味だったんだけど
ネイティアと親しげなバーテンダーは、ふたりの距離の近さを示すような仕草をしてこちらにウィンクしつつ、2枚のメニューを差し出した
まずは当店自慢の特製カクテルでも?人間用と構造体用、それぞれ用意してありますよ。つまみも自慢なんで、晩飯がまだならぜひ
同じものにする。あなたのセンスに賭けてみるわ
何より……あなたの情報を集めることは、私の数少ない楽しみのひとつだし
来て早々、私の好みを探るつもりね?
カラスさんの勇気は称賛に値するわ。じゃあ、私がひとりの夜に選ぶお気に入りをふたりでいただきましょう
立てたメニューに隠れるようにして、ネイティアは小さく「まだいる」と唇の動きだけで伝えてきた。そのまま、バーテンダーに声をかける
個室を使える?後の注文は全てそこに運んで
了解
華麗なシェイクの後、バーテンダーがふたつのカクテルグラスをこちらへと滑らせた
ネイティアは片方のグラスを取り上げ、にっこりと笑いながら、その縁をこちらの唇の前に差し出してきた
長い睫毛がゆっくりと瞬く。目が語る言葉は明快で、挑発と期待に満ちていた
味見する?
先ほどの「トラブルを起こす」という提案を思い出した。ここでためらうのは得策ではないだろう
まさにその瞬間、ネイティアがこちらに体を寄せ、唇をそっと同じグラスに重ねた。ともに、一瞬の泡沫を味わう
その味とともに届いたのは、ふたりにしか聞こえない甘い囁きだ
飲み込みが早いわね、カラスさん
じゃあ、あの目障りな尾行者に最後のパンくずを投げておくわ
ダークゴールドのネイルがこちらの腕をゆっくりとなぞり、そのまま手首をなでて通過すると、そっと掌を包み込んだ
個室がそろそろ準備できた頃ね。夜は短く、夢は長い……一刻も無駄にはできないわ
スターダストブリューの個室
空中庭園
空中庭園 スターダストブリューの個室
背後で静かに防音ドアが閉まった。感知式の照明が、ネイティアの足取りに合わせて柔らかく灯る。仄かな光だが、眠気を誘うほど暗くはない
ネイティアはゆったりとソファに身を沈め、髪を軽く整えると、蒼白の毛先を指に絡めて弄んだ
さすがだな、ネイティア。あんたらが中に入った途端、尾行者は監視を止めたぞ
外は引き続きワシが見張るから、何かあったら合図しろ。できれば呼ばないで欲しいけどな……なんとなく、これ以上見ちゃいけない気がするし――
ワタリガラスの主はその言葉が終わる前に通信を切り、指先で隣のクッションをぽんぽんと叩いた
ここに座って少し休みましょう。ここには私が直々に設置した妨害装置が仕込んであるの。これからが、本当の「ふたりきりの時間」よ
安全総監としての仕事の1日。指揮官の感想は、どうだった?
さすが、幾多の試練を乗り越えてきた精鋭指揮官ね。カヘティ事件でも、今回の件でも……
不穏な訪問者には望むものを差し出すべし。その方が、逆手に取るよりもずっと楽なのよ
「調査に行き詰まったネイティアが遊び歩く」……そんな話なら、彼らは喜んで信じてくれる。私たちが手を下すまでもなくね
一方的な幻想に浸れば浸るほど、それが崩された時の怒りは激しい。でも私はその怒りを、私に力があった証だと受け取る
ネイティアは少し驚いたような表情を見せた。それを見たあとにメニューを開き、じっくりと料理を選び始める
ふふ、付き合えば付き合うほど、あなたって物事の見方がユニークね
すぐに、小さな配膳ロボットがドアをノックして入ってきた。塩味と甘味のペストリー、チーズとフルーツがひと口サイズで整然と並ぶ
美味が疲労を溶かして緊張がほどけていく。ネイティアはこちらが食事をする様子を眺めながら、満足げに微笑んでいた。皿を置いたタイミングを見計らって、ようやく本題に入る
もっと私を驚かせて、カラスさん。事件の情報を羅列して交互に質問し合いながら、整理していきましょう
人証、物証、当事者双方……この情報パズル、まずは私から始めるわね
黒衣の構造体は端末を操作すると日中の聞き取りの録画を投影し、立ち上がって、こちらの正面へと歩を進めた
彼女は録画を順に再生していく。語られた言葉たちが再び室内に響いた。時に婉曲に、時に露骨に
見ての通り、今回の共同プロジェクトの実験結果をすぐに提出しないといけないんです。とても手が足りないんです
ネイティアも覚えてるでしょ。ヴァルデン教授がレノアに注いだリソースは、当時私たちの間でも羨望の的だった……もちろん、その分プレッシャーもあったはず
正直、もうずいぶん前の話だし、しかも教授の指名で彼女が担当した研究よ。私なんかが口を挟む余地も情報もなかった
そして、個人的な感情の上では……レノアの話をしたくない。科学理事会の安全総監なんかとは、特にな
あなたは執行部隊の指揮官。私とは異なる立場、異なる視点から多くの場所で、多くの人々に接してきた
多くの場合、真実は「板挟み」の奥に隠れている。あなたの目に、証言者たちが黙していた理由はどう映った?
彼は今、ヴァルデン教授が持ってきた共同プロジェクトの責任者なの。そのヴァルデンに何かあったら、彼にとっても明暗が分かれる
暗い方はプロジェクトは中止されて努力は水の泡。明るい方は無実を示し、ヴァルデンの後釜に収まれるかも。彼と同じ立場の者は他にもいたわね
その通りね。彼女の反応が示すのは、私たちが提示した証拠がまだ足りないということ
彼は、私が進めた調査がレノアを自殺へ追い込んだと思ってる。私がひとりで会いに行ったら、口を開くことさえなかったでしょうね
利益、情報、感情……
では、目先の損得を超えて、傷を再び見つめ直す勇気を与えるものって何?
とても示唆に富んだ答えね。心に留めておくわ
さあ、次はあなたが質問する番よ
構造体の女性は少し首を傾け、真っすぐ見つめてきた。その眼差しは、光るものを見つけた鳥のように鋭く、無垢だった
彼女の側にいる補機――モリガンと、どこか通じるものを感じた。その時、ひとつの大きな疑問が脳裏を掠めた
赤い瞳の奥に数々の過去が浮かび上がってくる。ネイティアは長い睫毛を伏せ、再びそっと持ち上げた
聞き取れぬほど小さな吐息が漏れ、その唇には淡い弧が浮かぶ。それが微笑なのか、憂いなのかはわからない
これまで1度も、あの頃のことをあなたに話したことはなかったわね
1羽の無垢な鳥は、苦しみで鍛えられた声なら裏切られた者の代わりに叫べると思っていた。でも怒りは彼女の翼を焼き落とし、別の世界と別のルールに墜落させた
私が、壊れた携帯ゲーム機を抱えて科学理事会に足を踏み入れた日、私を実験室へ連れていったのはアシモフではなく、レノアだったの
モリガンの改造技術を教えてくれたのもね
