……よし、これでもう大丈夫だよ
バンジが研究員の手当てを終えた頃には夕日もすっかり沈み、今年の雨花祭は無事に終了した
自分も落ちてしまったが、この雨花祭で史上最速の「戦績」を収めたらしい
優勝賞品――黄酒が入ったいくつかの大樽と大量の飴は、全て病院に運ばれた
飴は小婉が子供たちに配り、今この部屋には病院に残された黄酒の香りが漂っている
その香りに引き寄せられた研究員たちが涎を垂らしている。病院のスタッフに酒好きがいなかったため、外で町民や研究員たちに飲んでもらうことにした
――それが、今ここが酔い潰れた屍で溢れ返っている原因である
戻ってきたバンジは屍をひょいと跨ぎ、昨日持ち帰った薬草を煎じ始めた
君が飲む分じゃないよ
さっき、酔った勢いで「キノコ狩り」に行った人がいたんだ。一応忠告はしておいたんだけど
雨花祭も終わったし、もう空中庭園に戻らないとね
そこまで長くはいられなかったけど……すごくいい町だった。ここでのことは忘れないと思う
また来れるといいね
バンジとの会話は、部屋の外から聞こえた慌ただしい足音によって遮られた
バンジさん!指揮官!思い出した、思い出したんじゃ!
雨花祭……間違いない、雨花祭だ!なぜ今まで忘れておったんだ!
急いだ様子の仲景が、小婉に支えられながら部屋に入ってくる。その手には古びたノートを持っていた
道理で見覚えがあったわけじゃ……もっと早く気付くべきじゃった
仲景は少し興奮気味にバンジを見つめる。その体は興奮のあまり、僅かに震えていた
バンジさん……そなたのご両親は九龍人じゃな?
……?どうして突然それを……
そなたの母親――名は万緒(バンシュイ)か?
……
バンジは何も答えなかったが、彼の表情が全てを物語っていた
あれはパニシングの爆発前……雨花祭の前に、とある九龍の研究員たちが山で迷子になっておってな。儂の娘がここへ連れ帰ったんじゃ
彼らは南蕴に多くの機械補助装置を作り、この病院も修繕してくれた。中にはパニシングの侵蝕を免れたものもあり、今でも使っておる
彼らの中に九龍城の医者がおっての。腕がよく、多くの資料を残してくれたんじゃ
それって……
ああ。バンジさんのご両親じゃ
これ、機械なんですか?まるで人間みたいだ……すごすぎる……
この分野の技術に少し興味があるだけなので、最先端とはいえません。でも、十分に使えると思いますよ
病院も直していただきましたが……町民は減り続ける一方なので、この先進的な機械もいずれ使わなくなると思います。私と娘だけでは病院も長く続かないでしょうし……
たとえ離れたとしても忘れられることはありません。そのくらい南蕴はいい町ですから。誰かがいる限り病院はもちろん、機械による補助も必要になります
普段治療に使う薬草は裏山から採取したものでしょう?薬草に詳しい研究員が珍しい種類だと言っていたので、それを活かしてみるのもいいと思いますよ
「葉は落ちて根に帰る」といいますし……いつか人々で賑わい、町が活気付く日が必ず訪れます
……ええ、そうだといいですね
清潔感のある凛とした女性は珍しく微笑んだ
10年後も、30年後も、50年後も……この町に戻ってきた時に、皆さんが元気に暮らしている姿が見られることを願っています
そう言うと、彼女はお腹を優しくなでた
子供の成長した姿を見たいように、町の未来を見たいと誰もが思うはずです
全ては受け継がれていくものですから
あの年の雨花祭を手伝ってくれて以来、万緒さんは戻ってこなかった……
パニシングが爆発したのは、その直後じゃ。南蕴は離れておるから、状況を知った時にはもう……手遅れじゃった
儂は娘といくつかの機械体を連れて、町の者と裏山へ避難した。ここに戻ってきたのは、それからかなりの月日が経ってからじゃ
……その途中じゃ。パニシングに侵蝕された小婉を残して、娘は死んだ。そして儂は小婉を手術したんじゃ
バンジは俯いていた。しかし、仲景の表情は悲しみをはらんでいなかった
何人も死に、いくつもの景色が奪われたが……
おふたりも見たじゃろう?今では全てがすぎ去り、全てが戻ってきた
雨花祭はかつての姿を取り戻した
仲景はバンジの肩をポンと叩いた
これはそなたが持っていくといい
バンジは少し古びたノートを受け取ると、そっとページをめくった。角ばった力強い文字が、長い時間を経て今ここにたどり着いた
そこには万緒や他の研究員の記録、南蕴に到着してから現れた症例――そして隅には個人的なメモがいくつか書かれていた
その中に書かれていたのは、ここにいる全員が知っている名前だった
……決めた。この子の名前は「バンジ」
バンジ?
研究員たちは作業の手を止め、デスクの前にいる女性を見つめた。油にまみれたパーツが廊下に転がり出たが、誰も気に留めていなかった
そう、バンジ。いろんな願いを込められそうだなと思って
とても縁起のいい名前ですね
でしょう?
こんなに願いを込めるのは貪欲すぎるかしら……
万緒はデスクの端で眠る仲景の娘の頭をなでた
でも、人間という生き物である以上は仕方のないこと。子供が幸せになるのなら、どれだけでも貪欲になる
自分の子供には素晴らしいものを全て与えたいと誰もが思うはずよ
この子はどんな風に成長して、何と出会い、どんな選択をするのかしら……
万緒は「バンジ」の未来の姿を想像するかのように目を閉じた
どれだけ苦難に遭ったとしても、どれだけ岐路に立たされたとしても……
最後には望むものを手に入れ、全てが叶うことを願うわ
南蕴古町を離れるその日、天気は快晴――太陽が容赦なく照りつけ、数歩も進まないうちに額から大粒の汗が止めどなく流れ落ちてくる
「梅雨がすぎれば暑くなる」とはよく言ったものだ
なんか……来た時より強烈な日差しだな……
ちょっと木陰で休憩しない……?
うん……
バンジが目を擦りながら答える。途中で寝ないように気合を入れたのか、背筋を伸ばすと少し足早に歩きだした
あの日の夜――あのノートを手に入れて以来、バンジから何か語られることはなかったが、彼の気分が沈んでいるのは明らかだった
うん?
バンジは頭を上げ、こちらを見る
ノート?……ああ、あれのこと?
何を訊きたいのかはわかるけど、僕の答えは変わらないよ。「心配ない」
自分が何を望んでいるのかはハッキリとわかってる。だからもうためらうことはない――そう約束したでしょ
そこまで話すと、バンジは足を止めた
それと、前に言ったことだけど
「人間の運命のために戦うことに興味はない。大切な人を癒したいだけ」ってやつ
今はその「大切な人」の範囲が、かなり広がってるんだ
カムイ、カム、隊長、グレイレイヴン、南蕴の人々……多くの人に出会ってきたし、助けた人も数えきれないくらいに増えた
その命の重みを、本当に背負うことができるのか考えたこともある
……でも、もう考える必要はない
そんな迷いを吹き飛ばすほどの新しいものを、君たちからもらったから
バンジの返事を聞き、頷いた
ん?何?
以前話した言葉に、伝えたかったひと言を付け加えた
バンジは静かに耳を傾けていた。吹き抜ける風が突如強くなり、周りの木の葉がざわめいたが、真剣に伝えたこの言葉がかき消されることはなかった
それを聞き終えたバンジは、微笑むことを選んだようだ
……うん
でも、それは君も同じ。今までずっと頑張ってきたし、頑張ってるでしょ
バンジは地面から生えた木の根に足を乗せ、こちらに手を差し伸べる
行こう。振り返らずに、前へ