皆と別れ、空中庭園を出発してから3日が経った
この2日間、研究員たちは原生林での植物サンプル採取に勤しんだ。今日はスケジュール通り、この原生林を抜けた先にある南蕴古町へ向かう予定だ
一行が荷物をまとめ、いざ出発といったその時――とある問題に気がついた
皆を先導するために列の先頭にいたが、振り返って手に持っていたナビを研究員に渡す
そんな馬鹿な!科学で解決できない問題があるはずがない……!
研究員は手渡されたナビを勢いよく叩いたが奇跡は起こらず、そのポインターは狂ったままだった
はぁ……もう限界だ!先に雨宿りできる場所を探さないか?もう迷ってしまっているのなら、慌てて道を探す必要もない
賛成。まさか、雨が降るだけでこんなに冷えるなんて……南蕴は今の季節が一番暖かいって聞いていたのに……
この数十年、九龍の端にある南蕴古町に部外者が立ち入ることはほとんどなかったという。町の周辺は空が覆うほどに古木が多く、ナビがあっても迷いやすいからだとか
道に迷ったかもと疑った当初、雨上がりに急成長したキノコのサンプル採取に夢中だった研究員たちも、日が沈むにつれて一日中散策した疲れが出てきたようだ
仲間たちの号哭を聞きながら、自分も疲れていることに気がついた
食料のことを口にすると研究員は泣き叫ぶのをやめ、項垂れながら素直に洞窟へと入っていった。昨日、食料をなくしてしまったことを悔いているのだろうか
全員が少し湿った地面に座り、互いに顔を見合わせる
グゥゥ~……
ハ、ハハハ!な、何の音だろうな?いやぁ、それにしても綺麗なところだ。迷いやすいことを除けば、休暇にぴったりな……
ところ……だと……
研究員は注目の的となっていることに気がついたのか、気まずい空気が2秒ほど流れたあと、ついに開き直った
……ああ、そうだよ!私の腹の音だ!腹が減って耐えられない!
研究員はしっかりと包装された四角い物体をしばらく見つめた。そしてその好意は受け取られず、そっと押し返された
それはそうと、何か別のものを食べてみないか?
まさか選り好みしてるの?元はといえば、食料をなくしたのはあなたの不注意でしょう?乾パンがあるだけありがたいと思いなさいよ!
君たちにはこだわりがないのか?ここは九龍だぞ、きゅ·う·りゅ·う!私たちには「美食の都」が何たるかを証明する義務がある!
逆に訊くが、君は少しも腹が減っていないのか?
ッ……
よし、決めた!今日は現地調達だ!
腹を空かせた研究員はリュックを地面に置くと、サンプルのキノコを全て取り出して綺麗な岩の上に並べた
まさか、これを食べる気!?
せっかくここまで来たんだ。九龍人が毒に冒されるリスクを負ってでも食べるというキノコを、食べてみないわけにはいかないだろ?雨のお陰でキノコも育ったことだし……
彼は色とりどりのキノコを嬉しそうに見つめている
空腹のあまり、おかしくなったとしか思えないわ。どれが毒キノコなのかもわからないのに……
そこは心配ない。食用キノコの識別図鑑を持ってきた
研究員は分厚い図鑑を取り出し、手際よく全てのキノコを「危険」「安全」「不明」の3つに分けた
これは完全に駄目だ。こっちは安全だと図鑑に書いてある……残りはわからないから、念のため絶対に安全なものだけを食べよう
あなた、最初からここに来たら食べるつもりだったのね!?
そこまで心配しなくても大丈夫だ。ここへ来る前に「南蕴の人に図鑑は必要ない。赤い傘と白い柄のキノコを避ければ大体食べられる」とも聞いたしな
それに、少し前によそから南蕴に医者が来てるらしい。キノコ毒の治療に長けているらしいから、万が一のことがあっても問題ない。そこの指揮官さんはどう思う?
頭のカタいやつだな!もう勝手に食わせてもらう!
あなたまで命を賭ける必要はありません!
私は得体の知れないキノコなんて食べないわよ!今すぐやめなさい!
激昂した女性研究員は全力で抗議したが、今にも器を食べてしまいそうなほどに腹を空かせた他の研究員に阻止された。その傍らでは、すでに調理が始められている
煮えたキノコのスープから、グルタミン酸ナトリウムと食塩の相乗効果で食欲をそそる香りが漂い始めた。かき混ぜられるスープを見つめる皆の目が次第に奇妙に輝き始める
キノコの調理を最初に提唱した研究員は、すぐにでも掻っ食らわんと生唾を飲み込んだ
ハァ……ハァ……じゃあ、遠慮なく……
彼はスープを器によそうと、一気に飲み干した
どうだ?
周囲にいる研究員たちは、彼が苦痛の表情を浮かべていないかどうか注意深く観察した
…………
しばらく味わったあと、彼は力強く親指を立てた
美味い!
よっしゃあ!!食べるぞ!!
彼の反応を見て安心した皆は、次々とスープをよそい始めた。そんな慌ただしい中でも、隅に座っていた自分の分もしっかりとよそわれていた
あれ……結構美味しい?
だから言っただろ?この『冒険者の食用キノコガイド』があれば大丈夫だって!自分だって食うのに、危険なものを鍋に入れるものか。まだ信用できないのか?
何にせよ、あの構造体の医師の世話になることはないだろう
構造体の医師?
女性研究員は歯触りのいい柔らかなキノコを齧りながらしばらく考え、突如ハッと理解したような表情を浮かべた
キノコ毒を治した医者のこと?構造体なの?
ここに来る前に聞いたことがあるわ。見た目は若いのに腕がよくて、ノンストップで8件の手術をもこなすとかって……確か「九龍の名医」だって言われていたはず
研究員はキノコを食べながら話し始めた
そうそう、そいつのことだ。九龍人も「雪のような白衣を纏い、報酬を求めない名医」と言っていたぞ!
……ところで、あなた、なんれ頭がふたつある、るるる……
それはこっちのセリフら。どうして、周りで小人が、躍って……キラキラ……
そそそ、そんなわけけ、けけけ……
※$@「¥&%……
言語もままならない数人の研究員たちはしばらく顔を見合わせたあと、スープの器を持ちながらバタバタと倒れていった
視界が徐々にぐにゃりと歪んでいく
絶対……安全らって……言………………
……
…………
意識が水底に沈んだようだった。眠っている間、誰かにこめかみを何度か優しく押されたような気がする
毒キノコの誤食による頭痛や腹痛が和らぎ、眉間に寄せられたシワも緩んでいった
ねぇ起きて、もう朝だよ。お薬飲まなきゃ
再び目を開けた時、目の前の光景を理解するまでに時間がかかった
わかることといえば――ここが古風な部屋で、柔らかなマットレスのベッドで寝ていたということ。すぐ手の届くところに抱き枕が置かれており、薬草のいい香りが鼻をくすぐる
鈍い胃の痛みで毒キノコを食べた事実さえ思い出さなければ、寝返りを打ってもうひと眠りしたいところだ
わ、本当に起きた!あの人の言う通りだ……
ゆっくりと首を捻って声のする方を見ると、ベッドの横で黒髪の少女が目をまん丸にしてこちらを見つめていた
私は小婉(シャオワン)。お爺ちゃんの孫で、この病院の跡取り
辺りを見渡し、ようやく自分がどこにいるのかを理解した――ここは九龍の病院だ
今はまだ勉強中だけど……
少女は舌を出して、部屋を出る素振りを見せる
ちょっと待っててね。あの人を呼んでくるから
あなたを担いで帰ってきた時、本当に慌ててたんだよ。あんなに心配そうな顔、初めて――
小婉
入口の向こうから聞こえた男性の声が、少女の話をピシャリと遮った
ふわぁぁ……起きた?
白い構造体はあくびをしながらカーテンを分けて中に入ると、まだ状況を把握できていないこちらをじっと見つめてきた
彼から視線を逸らし、「ボフッ」と音を立てて再びベッドに倒れ込んで目を瞑る
何万回起きたって僕は僕だよ。ほら起きて
バンジにベッドから抱き起こされてもなお、まだぼんやりとして考えがうまくまとまらない
それはこっちのセリフ
でも、君と一緒にいた研究員から聞いたよ。こんな偶然あるんだね
昨夜、寝ようとしたら突然グレイレイヴンの信号をキャッチしたんだ。信じられなくて何度も確認したよ
あの状況で何も起こってないと思う方が難しいし。信号源があの場所なら尚更ね
それを聞いて、先ほどの小婉の話を思い出さずにはいられなかった――「慌てていた」という表現は大袈裟ではないのかもしれない
タイミングを伺いながら、小婉が付け加えた
本当にひどい状態だったんだよ。ずっとうわ言を言ってたし……
「パニシングを消滅させる」「これが首席の実力だ」「退職手当」とか……あとは聞き取れなかったけど
でもバンジさんは、あなたが何を言い出すのか気が気じゃなかったみたい。だから特別にここで治療することにしたの
小婉の話を聞いていると、ふとベッドの端に見覚えのある白い枕を見つけた
バンジさん、もう丸一日寝てないの。さっきまで外出していたし
……こら、小婉
気にしなくていいよ。うわ言も言わなくなったし
患者の中で一番回復が早いから、もう少ししたらベッドから起き上がれると思う
「患者」――その言葉を聞いた瞬間、大量に食べていた彼らが心配になる
それを察したのか、バンジは問われる前に答えた
他の研究員は別の部屋にいるよ。一番摂取量が多かった彼だけはもう少し時間が必要だけど、他の人はもう目を覚ましてる
バンジはこちらをじっと見つめながら、とある質問を口にした――その表情は笑いをこらえているようにも見える
……で、どうして野生のキノコを食べたのか教えてくれる?
この行動を説明する理由が見つからず、ただ口を噤むしかなかった
ふぅん……状況が状況で、ね
バンジは理解したようだ
彼らの好意を断りきれず、少しだけ口にしたって感じかな?
……え、まさか食べたくて食べたの?
キノコなら地元の人が採ってきた安全なやつが町にあるから。食べたかったら僕か小婉に言って
自然の中で育ってるものは、そのままにしておいた方がいい
じゃあ、脈拍測るから手出して
バンジはそっと手首に指を置き、静かに何かを考えているようだった
……うん、正常だね
もうベッドから降りて動いても問題ないよ
ここに来てから学んだんだ。構造体だから少し習得が早いだけ……といっても付け焼き刃だけどね
地元の人はキノコを見分けられるけど、それでも毎年かなりの中毒者が出るから、九龍の医者たちが中医学に基づいた診断と治療法をまとめてるんだ。僕はそれに倣っただけ
バンジは先ほどまで脈拍を測っていた手首を指差す
その方法で確認した方が、より安心でしょ
ふわぁぁ……話はここまで。とりあえず行こう、南蕴を案内するよ
徹夜で看病をしてくれていたせいか、バンジはあくびをしながら外へ向かった
古い木造の廊下を歩いていると、子供の笑い声や走る音が絶えず聞こえてくる。古い病院だが、今でも町の人々がよく訪れる場所のようだ
しばらく歩いたあと、たどり着いたのは古代の医学書が保管されている場所だった
……厄介だな
バンジが古書を読み進めるにつれて、その眉間のシワも深くなっていく
君たちが食べたキノコには、幻覚作用のある成分が多く含まれているみたいだ。症状が緩和されるまでには少なくとも7、8日かかる
「幻覚を見る、支離滅裂な発言、現実との区別がつかない等の副作用が考えられるが、これに限らない」……なるほどね
こういうのは信じておいた方がいいんだよ
バンジは古書を閉じ、肩についていた埃を払った
というわけで、南蕴古町にいる間はずっと君の側にいた方がよさそうだ
君の安全が最優先だ
毒キノコを食べた人は皆そう言うんだよ
パニシングの爆発後、九龍医学に関する多くの記録が失われた。つまり、今の僕たちはこの毒キノコに含まれる幻覚成分についてほとんどわかっていないってこと
たとえ検査で異常がなくても、完全に回復したとは断言できない
だから僕が君の側にいるのも大袈裟なことじゃない。わかるよね?
バンジの口調は決して厳しいものではなかったが、なぜかこの時の彼の言葉は反論の余地がないものに聞こえた
こういう時は、素直に医者の言うことを聞くのが一番だ
数日後には雨花祭もあるしね
一緒に参加してみる?
バンジの額にかかるくせっ毛が廊下を吹き抜ける風に揺れ、笑みを含んだ透き通るような琥珀色の瞳が見えた
きっと気に入ると思うよ