人類史には数筆のみの奇跡がいくつか記載されている。それが真実かどうか検証はできないが、人々はその存在を信じたがり、奇跡を常に待ちわびていた
奇跡が人類に与えるのは未来だけではない。歩き続ける希望――あるいは、一種の慰め
運命の微笑みをただ待ち望み続ければ、いつか奇跡が起こるとでもいうかのように
そして時に、奇跡は、何の前触れもなく起こる
<color=#ff4e4eff>それを持って帰って</color>
世界は静寂に包まれ、蘭の花が咲き誇っていた
地上
反転異重合塔
全ての設備の設置が終わりました
了解。各小隊同行の科学理事会メンバーはパラメータの記録を始めてください
了解
了解
……
通信チャンネル内では探査小隊のメンバー同士が頻繁にやり取りしている
少し前に起こった代行者との戦闘は終わったとはいえ、その後の余波は依然として多くの人々に影響を与えていた
反転異重合塔と清浄地も先の戦闘で変化があった。これまでの清浄地が清浄ではなくなったことは、人々に衝撃を与えた。かつての人類のアヴァロンが蜃気楼と化したのだ
その土地の住民たちが迅速に避難できたお陰で、大きな被害が出なかったことは、不幸中の幸いである
空中庭園は反転異重合塔の探査と研究に更に多くの資源を投入し、人類の力によって人類の「清浄地」の構築を目指した
そのため、さまざまなメンバーで構成された探査小隊が結成された
グレイレイヴンも探査に協力し、突発的な事態に備えて任務に同行していた
前日
本来ならば君には数日の休暇を与えてから、任務命令を下すのが理想的なのだが……
私から説明する。簡単に言えば、昇格者ルナの一味と協力したことを口実に、悪知恵を働かす一部の者がいる。議長と私で、そういった連中からは遠ざけておくべきだと判断した
それは理由ではあるが、まあ、本題ではない。今回の任務はこれまでよりも単純なものだ。気楽に、リフレッシュするつもりで行けばいい
背を向けて会議室を出ようとしたところ、ニコラ司令に呼び止められた
待て、[player name]
彼は椅子から背中を離して、背筋をピンと伸ばして座っていた。角度のせいで顔は影に隠れてしまい、表情は見えない
この間のルナとの協力は、特殊な状況下での特殊な手段にすぎない。お前はきちんと自分の立場は理解している、そうだな?
その口調は、まるで今の時刻を訊ねるように淡々としている
[player name]、[player name]……
工兵部隊のメンバーに呼びかけられて、意識が現実に引き戻された
いえ、いいんです。今日はそろそろ仕事上がりでしょ、この後、皆で食事に行こうって話になって。何を食べるか相談していたところでして
清浄地はもう絶対的な清浄ではなくなっていたが、戦いの後、一部の人々がここへ戻ってきていた。多くの人々は、終わりのない放浪にうんざりしているのだ
中華饅頭一択よ。ここには美味しい中華饅頭のお店があったはずだけど、店主はまだ残ってるかしら
ええ~……晩飯に中華饅頭ですか……せめて麺類にしませんか
太陽は徐々に西へ沈み、空はじきに金色に染まる。探査小隊メンバーたちの談笑を聞きながら、短くも平凡な安寧を感じていた。たとえ見せかけでも、この瞬間は現実なのだ
ふと、ひと筋の白色に視線を引きつけられた
それは瓦礫の間に根を張っていた。完成した油絵に白い絵の具が一滴落ちたように、周囲の環境とは明らかに違和感がある。あれは……
[player name]はどうです?夕食のメニューには何がいいと思いますか?
えっ?蘭って……あの花、食べられるんですか?
足早にその白い花の側へと歩み寄ると、咲いていたのは確かに蘭の花だった
こんな廃墟の瓦礫の隙間でも花が咲くのだから、生命の逞しさにはいつも驚かされる
5枚の花弁を持つ真っ白なその花は、近付くと微かな香りがした
こんな場所に蘭の花が咲いているなんて。うーん……この品種は確か、けっこう珍しいものだったはずですよ。なんていったかなぁ……
ああ、雪影蘭だ!
……約……束……
一瞬、何かの映像が頭に浮かんだ
ええ、うちの子供がこういうのが好きで、私もちょっと見たことがあったんですよ
この蘭は人工品種なんですよ、通常は5枚の花弁があって、開花時期は1月から3月頃だったかな。五葉雪とも呼ばれて、とても稀少な種です。今じゃほとんど見られないはず
ですが、この花はもう枯れてしまうでしょうね
ええ、育てるのがすごく難しい花なんです。こんなところで咲いているだけでも奇跡ですよ
奇跡か……
この蘭をこのまま枯れさせたくないという思いに駆られ、手を尽くしてなんとか植物プランターを借りた。蘭をプランターに植え替えてから、駐屯地へと戻った
透明なガラスカバー越しに蘭の花を眺めながら、自らの行動を振り返ると、少し滑稽に思えた
ただこの花を枯れさせたくなかった、それだけだろうか?それとも、これを見ると何かを思い出すから……
その時、目眩に襲われた
身体がどんどん重くなり、視界が暗くなり始めた。最初は仕事の疲れかと思ったが、明らかにおかしい
ドサッ
湖底にいるかのように、体が押しつぶされて変形している。無数の映像が四方に現れては消えていった。耳元では、微かな音が遠くで近くで響いている
悲鳴、銃声、走る音
泣き叫ぶ少女の声、遠くの爆発音、パラパラと降る雨音
そして、誰かの囁き
「またね」
風の音に目を開けた。朽ちたような茶色の空が見える。遠くには、舞い上がる砂粒。周りの岩には風蝕の跡。間違いない。今、自分は荒野の中にいるのだ
やっと目が覚めたのね
背後から人の声が聞こえ、すぐに振り返った。目に映ったのは、予想外の人物だった
即座に両手で自分の装備を確認した――銃もナイフも見当たらず、端末もない――完全に丸腰だ
反転異重合塔付近のキャンプ地にいたはずなのに、謎の目眩に襲われ、目を覚ますと見知らぬ荒野にいた。そして、すぐ側には目的不明の代行者。この状況は非常にまずい
私はあなたを拉致していないし、あなたがなぜここにいるのかも知らない
私は私のやるべきことをしているだけ。でも、まさかその途中で、野外に倒れているあなたを見つけるなんて
ルナは手に持っている小さな箱を示すように持ち上げた。彼女の言う「やるべきこと」とは、その箱に関係しているのだろうか?
それに……彼女の言葉は本当なのだろうか? もし彼女が拉致したのではないとすれば、他にも潜在的な敵がいるということだろうか?
ええ
代行者は微笑んで答えた
その笑顔は、からかいや嘲笑ではない本心の笑みであり、むしろ……優しさすら感じられる気がした
どこかおかしい。違和感が拭いきれない
ルナの言葉の信憑性はともかく、少なくとも目の前のルナに悪意がないことは確かだ。そうでなければ、自分がここで目を覚ますこともなかっただろう
久しぶりに……いえ、あなたの口からお礼を聞くなんて珍しいわね
目の前の代行者はそれには何も答えず、ただ真意のわからない微笑みを浮かべていた
ゆっくりと数歩後ずさってみる
嵐がくる
文字通りの意味よ
最近、この辺りの荒野は気候がとても不安定なの
もうすぐ嵐になる。ここから出ないと危険だわ
ついてきなさい、私が連れ出してあげる
ルナの言葉が嘘ではないことを裏付けるように、そのタイミングで荒々しい風が吹いた
もしここで別れたら……その先に待ち受けているのは迫りくる嵐と正体不明の誘拐犯だ。とりあえず喫緊の問題は、ルナの誘いを断れるかどうかだが
あなたはどう思うの?
やはり拒否はできないだろう……あまりにも実力差がありすぎる
そうだとして……捜索隊のメンバーが私を倒せるとは思わないけれど
ルナは楽しげな表情を浮かべ、からかうようにそう言った
――仕方ない、そう腹をくくった