ゆりかごのような揺れで目が覚めた。少ししょっぱい海風が鼻先をくすぐる。目を開けると、空まで一面に広がる鮮やかな青色が目に飛び込んできた
こんな言葉を聞いたことがある。地球上の生命は皆、海から生まれた。空、陸がまだ生命にとって危険地帯だった頃、海によって致命的な光線から守られ、生命が繁栄したのだと
生命は、海の中で数十億年の進化を続けたあとに、波に流され、岸辺に打ち上げられ、陸上生物の祖先となった
陸に上がった生物は厳しい試練を乗り越え、環境に適応して発展を遂げた
その後、彼らの子孫の中で秀でた者が文明を立ち上げた。しかし文明など、海で長い時間をかけて育まれた命からすれば、生まれたての赤ん坊同然だ
海は今、ナナミと一緒に乗っている船を優しく包み込んでいる
その船の縁に、釣竿が2本置かれていた
うん、ナナミ、今回はスキップしないから
ナナミは左側の釣竿を手に持ちながら、興奮した様子で言った
指揮官、どっちが多く釣るか、勝負だっ!よーいドン!
そんなことしないもん!ナナミはスポーツマンシップを大切にしてるからね
フフンッ、指揮官、ナナミを舐めてもらっちゃ困るなぁ
ナナミは針に餌をつけ、海に投げ入れて、背を向けて座った
海風が少女の髪をなびかせている。反射した太陽の光が彼女の顔を照らし、まるでベールをまとったようにその顔が輝いてみえる
ナナミは真剣な表情をしている。今までに見たことのない顔だ。その瞬間、心の奥からある声が聞こえた――
――ナナミがもっと大きくなったら、そんな顔になるはず
指揮官、やらないの?
急いで餌を針につけ、釣竿を力いっぱい振った――
着水した瞬間、水面に小さな波の花が咲いた。波とともに浮きが揺れる。ゆっくりと船に腰を下ろした
浮きに集中して、わずかな動きも見逃さないように――
視線を1カ所に集中させると、時間の流れを察知できなくなる。更に、目の前にあるものが何ひとつ変わらないと、人間の意識は他の感覚に移っていく
まずは嗅覚だ。鼻を突くしょっぱい香りが、するすると繭の糸をほどくようにして、さまざまな想像を掻き立てる
手入れした芝生の匂い、天日干しした布団、酒の肴、さまざまなイメージが脳裏に浮かんだ
次は聴覚だ。波の音が緩やかなメロディを奏でている
水が優しくささやいている。過去からの忠告にも、未来からのねぎらいにも聞こえる
近くにあるように思えるのに、実際は天と地ほど距離が離れているような感覚に陥って、距離感が曖昧になった。穏やかな呼吸の音が海風に乗って、空へと消える――
現実に戻してくれたのは触覚だった。船の上はあまりにも狭く、ナナミとは横並びではなく、背中合わせに座っている
今、最もはっきりと感じられるのは、彼女の体温ではなく、結んでいるその髪だ
1本1本がシルクのような細い髪が肌に触れて、血肉を通して背骨にまで、その感触が伝わってくる。少しこそばゆい――
頭を振り、再び目の前の浮きに注意を戻そうとすると、後ろから衝突音が聞こえた
後ろにいる人間に大口を叩いたものの、集中するのは思っていたよりずっと難しい
何か物を作る時なら話は別なのに、波間に浮かぶ浮きを見るだけでは、いつもより精神がすり減ってしまう
いつもと違って、苛立ちがすぐに訪れ、スキップボタンを押したい衝動に駆られる
でも、後ろの人間の言葉を思い出した――
「すごした時間と想いの強さはイコールじゃない」
欲しいのは思い出。メモリーに保存される冷たいデータじゃない
相手を完全に意識の中に刻みつけて、心の中で「生きて」もらいたい
焦る気持ちがようやく少し抑えられた
海風は変わらずしょっぱい。これは好きな香りじゃない
波の音は単調で退屈だ。激しい嵐の方が変化があって、性に合っている
でも、背中の感触は――
背中に軽く当たる人間の筋肉。人工皮膚よりずっと柔らかい。どうやら後ろの人はリラックスしているようだ
髪と服を通して、いつも曲がることなくしゃんと伸びた背骨を感じることができる
マーボーの優れた演算能力のお陰で、人間の体温が正確にシミュレーションされていた
機械と違って、人間の体温はパワー充電率によって変化することはない
一定の範囲に保たれている。センサーによると、今は36.567度
心地のいい温度だ。戦闘時の自分の機体より低いけど
よりその背中を感じたくて、自然と体の力が抜けていく……
突然、後ろの人間が少し体を動かしたので、予想外のことが起きた。そのまま後ろへ倒れてしまったのだ――
うわっ、指揮官、何が起こったの!
ナナミはびっくりしたように、急に飛び起きた
えっと……
ウトウトしていたのは、ナナミだけではない。ナナミを責められない
ううん、原因はそれじゃなくて……
何でもない!
もうすぐ日が沈むね。指揮官、収穫は?
ナナミも何も釣れなかった。まさか引き分け?
そうだね、釣りは根気だよ!
ダメだ……
理想は美しいが現実は残酷だった。陽が落ちるまでずっと粘ったが、釣果はなかった
ふたりのバケツは相変わらず空のままで、水に映った満月がバケツの中で揺れている
今までの経験からすると、今回の物語はここで終わるはずだ
えっと……
ナナミは目を閉じ、眉間にしわを寄せながら何かを考えていた
すると彼女は釣竿を放り投げ、自分の肩に頭を預け、大きなあくびをした
わからない。とりあえず、このままでいいや!
うん、ナナミ、もう満足だよ!
唯一残念なのは、何も釣れなかったことかな……
その言葉を聞いていたかのように、一度も動かなかった浮きが急にググっと沈んだ
あれ、指揮官、何かきてるっ!
実は魚がかかってないんじゃないかと疑うほど、竿は軽かった
かかったとしても、小さい魚だろう――
しかし、それは大きな勘違いだとすぐ思い知らされた
水面が割れ、ひとつの「島」が生まれようとしている……
かかってないどころか、魚が自ら浮かび上がろうとしていたのだ
グオォォォォォ
クジラが現れた!
あ、ナナミ、思い出した。この海に放った魚はみんなこのサイズなんだよね
いや、もしかしたら構造体の腕力なら……まさか、それがナナミが自信満々だった理由なのか?
グオォォォォォ
船が一瞬で転覆し、マストに捕まろうとしたが、ナナミとともに海中へと放り投げられた