3月10日の午後。乗馬で帰る途中、まだ小雪がちらついていた。雲の隙間から細く差し込む光が、風景をいっそう陰鬱に見せていた
馬から降りて手綱をしっかりと結び、足早に教会に入った
午後5時の鐘の音が響いた。ビアンカとの約束に、1時間も遅れている
ビアンカお姉ちゃん、それで、それで?続きはどうなるの?
あら……書き取りはもう終わりましたか?
奥の部屋から、ビアンカが子供たちに読み聞かせをしている声が聞こえる。歩みを速めようとした時、小隊長が後ろから自分を呼び止めた
指揮官、そちらの状況はどうでした?
彼は小走りで追いついてきた。こちらも歩調を緩めて、並んで歩きながら会話を続けた
…………
無理ですね……前に指揮官が視察した時よりも、状況は悪化しています。怪物たちがどんどん増えてるんです
ここ数日、あなたの指示通りに、西の雪かき班と東の監視班に分かれて対応していますが
現状は……撤退ルートに想定していた西側の天候が荒れていて、雪の除去作業が難航しています。逆に東側の雪は暖気でどんどん溶けています
我々を追ってきた怪物たちも東から再び現れました。やつらは雪が溶けるのを待ってたんです……
話の最中、ふたりの横を担架が通りすぎた。その上に横たわっているのは、苦しげな表情を浮かべた病人――数日前に病状が悪化したトビーだった
あいつ、どうせ自分は不治の病だからせめて死ぬ前に役に立ちたいって、無理矢理、東の偵察に同行したんです
ここ数日ずっと血を吐いてて、意識がない時は激しく暴れて……でも、起きると何も覚えてない。そんな状態で教会に残しておくのも危なっかしいから、連れて行ってたんです
聖女様に診てもらいました。でも、彼の病気は医者でないと治せないって……はぁ……
それに、スノー神父もトビーと同じ症状で倒れました。高齢ですから、動くのも辛そうで……聖女様に心配をかけたくないから、内緒にしておくようにと言われましたけど……
ふたりは話しながら庭に隣接する廊下までやってきた
ちょっと悲しいね……それからどうなったの、ビアンカお姉ちゃん?
その後は……
ふたりとも大至急、医者に診せるべきですが、西側の道の雪は深いから、少なくとも数日はかかるかと。それだと間に合わない恐れが……
小隊長にジェスチャーで声を抑えるように合図した
聖女様があの力を使ってくれれば……
じゃあ、先にトビーの様子を見に行ってきます
小隊長が去ったあと、自分はそっと後列の席に座った。顔を上げた瞬間、あの優しい瞳と目が合った……
数年が経ち、大英雄は黒い森の中で、世間から恐れられていた毒蛇と出会いました……
彼女は優しい声で物語を読み聞かせていた。その言葉には心を癒す不思議な力があった
物語を最後まで聞いていた子供たちは、名残惜しそうにその場を離れた。ビアンカは絵本を閉じて、自分のもとへ歩み寄ってきた
指揮官殿、子供たちにちゃんとお手本を示さないといけませんよ
彼女は、こちらの軍服についた雪を優しく払い、ハンカチを取り出して雪の雫を拭き取ってくれた
聞きましたよ。指揮官殿は兵士たちと一緒に、山道の雪かきをしに行ったって……何があったのか、教えていただけますか?
それは、事実の一部だ。東の雪が溶け始め、怪物が集まってきていることは、あえて彼女に告げなかった
その理由は極めて簡単だった
検査が終わりました。神への祈りを捧げるために聖女としての力を酷使したせいで、彼女の身体は、今にも壊れてしまいそうな状態です
彼女が教会にいる間は、これ以上あの力を使わせないでください。さもないと、次は1週間の昏睡だけで済まなくなります。いいですか?
あなたにはわかっていて欲しいのです。どんなことがあっても、あなたがひとりで背負う必要はないことを
たったふたりの温もりでも、この世界のどんな過酷な冬よりも、温かいのですから
聖女の力の効力は限定される。少なくとも雪かきのような力作業には向かない……だが東の怪物たちが動き出せば、彼女はあの不吉な聖剣を抜かざるを得ないだろう
だから、自分はただ彼女の気遣いに感謝するだけで、真実は告げなかった
指揮官……
遠くから、兵士の声が響いた
行ってください
ビアンカは自分の手を放し、両手で軍服の襟を優しく整えてくれる
お気をつけて
彼女はそう言って、優しく微笑んだ
3月15日。突如襲来した吹雪が、連日の平和を打ち破った
黒い雲が立ち込める空を見つめながら、ビアンカの胸には言いようのない不安が広がっていた。少し考えたあと、彼女も馬に跨った
まったく……なんでこんな日に出発なの。しかも、わざわざ西回りで行くなんて。あの子たちが風邪を引くかもって、考えないの?
隣にいるボニーは愚痴をこぼしながら、馬車の後ろで震えている子供たちを見た
……指揮官殿が、今日が南の町への移動に最適だと判断されたのには、理由があるはず。でなければ、わざわざこんな日を選ばないでしょう
じゃあ、なんで一緒に来てくれないんでしょうね?
軍馬と馬車は限られていますから。まずは子供たちを安全に避難させ、その後、援軍に馬車を持って行ってもらう予定です
ビアンカはそっと教会を振り返った。スノー神父が腰を押さえながら必死に立って見送る姿が見えた
神父様、あなたのお体は……
行きなさい。彼らにはお前の導きが必要だ
神父様、私にはまだわかりません……「人を愛し、敵を愛せ」と神は説きました。ですが、もし、「人を愛するがゆえに、敵を愛せない」のなら……
怪物のことか?
はい……彼らはパンデミックをもたらし、兵士の命を奪い、あなたを病に倒し、私たちを家から追い出した……
それを赦すことはできません……私は罪人です、神父様
人は誰しも罪を背負っている。もちろん……私も……自分の心に従い、選びなさい。我が子よ
……皆を連れて、ここを出ていこうと思います
そうだ、行きなさい、ビアンカ。君は勇敢な子だ
……神父様は……ここに残るおつもりですか?
私は……ここに残らなければならない……それが……私の選択であり、私の信仰なのだ、ビアンカよ
さぁ行きなさい、ビアンカ。光で在れ——
皆を神の目が届く場所へと導きなさい。私はここで君たちのために祈っている……そして、全ての人のために
神のご加護があらんことを、ビアンカ
その頃、教会の反対側
その頃、教会の反対側
……すでに2時間が経過。東へ派遣した3つの偵察隊のうち、戻ってきたのは我々だけです
それと……トビーもまだ戻ってきてない……
西側から撤退を始めました。他の兵士もあなたの指示通りに警戒態勢に入って……
その時、吹雪の中にぼんやりと赤い光がちらついた……
危ない!!!
小隊長が身を投げて庇うと、鮮血が噴き出した……
(獰猛極まる咆哮)
撤退の指示を出す間もなく、兵士たちが次々と倒れていく
その姿は、まさしく世界に死と災厄をもたらすパニシング。そして、その先頭に立っていたのは……
指揮……官……
指揮……官……
3月10日。ビアンカと過ごした穏やかな庭を離れ、自分は病に伏すトビー·デイヴィスを見舞った
かつてはたくましく笑っていた青年は、今や骨と化した体でベッドに横たわっている。それでも、あの快活な笑みはそのままだった
ははは、聖女様ですら治せない病なら、きっともう長くないんだろうって思って
こう見えても故郷では結構人気者だったんです。おばあちゃんの料理の手伝いもしたし、鍛冶屋の手伝いもしたし、船長の帆上げも、小さい子たちと鬼ごっこ……何でもやった
いつも楽しかったけど、それだけじゃ満足できなかった。だから、いつか皆の英雄になりたいって、ずっとそう思ってた
今も同じ……こんな風に何もできないまま、病気で、あるいは自分で死んでいくなんて、惨めすぎる……
戦死でもいい、仲間に討たれてもいい、お願いだから、僕を……
英雄に……して……ほし……
くそっ、お前、仲間を忘れたのか!
重傷を負った小隊長の身体を引き寄せるや否や、小隊長がいた場所にトビーの刃が突き刺さった
ドン——ナイフが「トビー」の体に弾かれ、手に痺れるような衝撃が走った
この世界には、近代兵器も構造体も存在しない。人間の体術だけでは、侵蝕体に勝てるわけもなかった
他の場所は全滅だ、庭へ撤退するしかない!
廊下に散らばる仲間の無惨な亡骸を踏み越え、小隊長とともに庭へと撤退した
全員、あなたの指示通りに集まっています。庭を通れば裏口から脱出でき……
ぐあっ!!
庭を……守る……
この老人とおしゃべりする時間はあるかな?
聖祈の儀の後、花を植えたばかりの庭を、神父とともに歩いた
ビアンカに百合の球根を持ち帰るためにね。あれは、この雪原にはない花だから
冬は荒れ果てているけれど、春になれば、この庭には色とりどりの花が咲く……
私は、あの子がこの庭を走り回りながら育つ姿を見てきた。雑草を抜き、百合を植える姿を、ずっとずっと見てきた……
彼女が大きくなったら、花屋になるのもいいと思っていた。それに、彼女は本を読むのが好きだから、作家になるのもいい
でも、それは全て叶わなかった。彼女は「聖女」として、神に選ばれてしまった。私は神父である以上、神の意思に従う他ない
しかし、ひとりの父としては、ただ、我が子が平凡で幸せな人生を歩んでくれることを願っていた
だから、こうして……あの子と一緒に花を植えてくれる人が現れたことが、本当に嬉しい……ゲホッ……ゲホッ……
少しばかり、病を患ってね……春までもたないかもしれない……
指揮官、約束してはくれるだろうか?彼女と一緒に、花が咲くその日を迎えてくれることを、この庭を守ってくれることを
庭を……守る……
ぐあっ!!
小隊長が庭に足を踏み入れた瞬間、突然現れた刃に貫かれた。庭の回廊には、駆けつけた兵士たちの亡骸が無惨に転がっていた
庭を……守る……
小隊長を貫いた鋭い刃が、こちらに向かって振り下ろされる
道中の激しい揺れに耐え、子供たちを無事に南の町の教会へと避難させた。春が近いはずのその町も、まだ雪に覆われていた
現地の軍が、すぐに雪原へ迎えに行くって言っています……
そんなに心配しないでください、最近またちょっと寒さが戻っているから、指揮官が来たらここで1カ月くらい暮らして、暖かくなったら戻りましょう……
容赦なく吹きすさぶ北風が、胸に残った僅かな静けさまでも奪い去っていく。祈りを捧げること半時間、不安の予感はどうしても拭えなかった
ビアンカ、ちょっと待って!どこ行くんですか!?
雪原へ。どうしても気がかりで
親愛なる聖女様、まず座りましょう。お願いですから……あの人なら大丈夫、だから、ここにいてください
行っちゃダメ。お願いだから、戻らないで。心の声が彼女に向かって叫んでいた
みっともなくていい。平凡でもいい。ただ、普通の幸せな人生を生きて欲しかった。私と同じように普通の修道女として、朝に祈り、夜に祈る……
それが、スノー神父の願いだった。あの人の願いだった。あそこに残った全ての人が血を流してまで守ろうとしたのは、あなたの平和
だから、どうかここにいて。本来あなたが歩むはずだった人生を、生きてほしい
…………
<i>歩むはずだった人生。それは、どんな人生だったのだろう?</i>
<i>普通の女の子のように、雪の日には笑いながら雪合戦をし、雨の日には誰かと傘を分け合う……</i>
<i>あるいは教会で人々の誠心か偽りの祈りと</i>
<i>悲しみや偽りの懺悔に耳を傾け……庭で花を育て、子供たちの成長を見守る</i>
<i>帰る場所があるなら。あの人が、無事でいるのなら……</i>
ここに、雪原からの避難民はいますか?
私がそうです。どうされましたか?
北東で怪物の大群が確認されました。少なくとも100体以上いるようで……
…………
その瞬間、予感が現実へと変わった。雑音は消え去り、彼女は静かに剣を手にして立ち上がった
待って……援軍があと30分で到着するって……
……ボニー。あなたと子供たちに、神のご加護があらんことを
馬を駆り、教会の輪郭が雪の彼方に浮かび上がる。吹きすさぶ雪の中に佇む静かな白い建物が眼前に迫ってきた
刃が交わる音をたどって庭に向かうと、強烈な血の匂いが鼻をついた
ぐあっ!!
!!
庭に足を踏み入れた瞬間、指揮官の軍服を纏った人間が全身血にまみれ、地面に倒れた
英雄に……なりた……
庭を……守る……
地面に転がる無数の遺体の上に、ふたりの異形の怪物が立っていた
彼女は降りしきる雪の中、懸命にその顔を見極めようとした
スノー神父と……トビーさん……?
その声に反応して、怪物たちの虚ろな瞳が同時に彼女に向けられた
時間が止まったように感じられた。ビアンカは苦しみに耐えるように、目を閉じた
神よ……もし私の声をお聞き届けいただけるなら
全ての罪を……ビアンカが必ず……
ビアンカ……君は優しくて、強くて、勇敢な、とてもいい子だ
……ひとりで背負います
鞘から引き抜く刃が少し震えている。銀製の鍔から微かな蒼い火花が弾けた
その前に……
<size=50>ビアンカ、もし、もう一度選べるなら、何を選ぶ?</size>
私は再び罪を犯さねばなりません……
……自分の心に従い、選びなさい。我が子よ
裁きを……
刀の最後の一寸が鞘を抜けると、無数の雪が剣身に当たり砕け、無数の銀の砂粒となって、剣先へと転がり落ちていった
「これで、もう痛みを感じない」急所に迫るその瞬間、彼女ははっとした。これが初めてのことではない。まるで何度も何度も、こうして人を殺めてきたかのように
それでも剣先を目の前のスノーとトビーに向けると、まるで苦難の旅の始まりのように、果てしない悲しみと憤りで胸が締めつけられた
たす……か……た……
…………
雪は、しんしんと降り続けている
