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40-14 英雄は民なり

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臨時司令部

カヘティ中央河岸

2162年3月16日

侵蝕体の咆哮が響き、燃える都市の中をリン少佐は車で駆け抜け、ふたりの少女を河岸の臨時拠点に送り届けた。そして医療スタッフに彼女たちの手当てを任せた

船の渡し場は慌てふためく難民で溢れ、秩序などなかった。彼は人混みをかき分けてなんとか抜け出すと、警戒線で囲まれた指揮本部に行き、混乱した指揮業務を引き継いだ

概算ですが、現在河岸に到着した市民は約3万人、警戒線の外で滞在しています。しかし……

先ほど水兵たちから聞いたところによると、我々の最後の1艦となる巡洋艦「スパルタクス号」には……

最大でも1200名しか乗せられません

天よ……

……

パブロフ団長は疲れ切った様子で長いため息をつき、煙を吐き出した。外で難民と兵士たちが争う声を聞きながら額をこすると、汗がポタポタと机の上に滴った

彼は人生で最も重要な決断を迫られていた

団長、もう時間がありません……!

時間……?

俺の時間ならとっくに使い切っちまった

熱い灰が指に落ち、パブロフは腰に手を伸ばした

ついさっき、空中庭園とようやく通信が繋がった。やつらが何と言ったと思う?

彼らは長々と5分もかけて説明した。カヘティの第4リアクターの下には、核兵器よりも恐ろしい「爆弾」が隠されているんだそうだ

……爆弾?それと今回の爆発に関係が?

俺も同じ質問をした。でも上からの答えはただひと言だ

「申し訳ないが、君にはそれを知る権限はない」ってな

パブロフは言葉を荒らげ、吸い殻をテーブルに強く押しつけた

アディレ連盟がリアクターの建設を決定した時、科学者たちやメディアの間で飛び交い、最終的には「デマ」だと片付けられたあの噂を覚えているか?

結局、あの「噂」は、全て本当だったってことさ

彼は一語一語を絞り出すように言った。机の上に灰を落とす指先は血の気を失っている

第4リアクターの底から噴出する霧状のパニシングが止められない。止めなければ、パニシングはどんどん拡散し……2カ月もすれば、空中庭園から見る地球は血の色で真っ赤だ

地球を滅ぼす導火線が、今この瞬間、俺たちの足下で燃えているってこと、お前ら理解してんのか?

……パブロフ同志、私たちに救済措置はあるのでしょうか

相変わらずベルトの縁に右手を掛けたまま、パブロフは笑い出した

アリョーシャ、連盟の錦の御旗はカヘティを何と呼んでいる?

労働者と鋼鉄の城、です。パブロフ同志

それこそが「救済措置」だ。世界政府は、この都市に約束の履行を求めている

彼は首を振り、力なく乾いた嘲笑を漏らした

何ですと?理解できません……

まだ手はあります。私が再度、支援要請を……!

リン、これからはお前が軍団長だ。パニシングに、俺の名誉を汚させないでくれ

カチッ

何の前触れもなく、彼は突然銀色の銃を抜き、自分のこめかみに押し当てた

すまない、同志たち……

お前たちを失望させてしまった

その日になってようやく、リン少佐は悟った。権力とは、人を迷わせることもあるのだと

彼は足下を見渡した。爆撃された河岸は荒れ果て、血混じりの水が溜まった弾痕を垂れこめた霧が覆っている。負傷者の叫びと、遠方から響く轟音は途切れることなく続いている

胸の奥でドクドクと脈打つ不安を必死に抑え、深呼吸をして軍帽を正した。そして僅かに震える脚で一歩を踏み出し、3万人の生存者の前へ進み出た

少佐は拡声器を掲げた

……同胞たちよ

血だらけの瞳が次々と振り向き、身なりの整った少佐へと向けられた

先ほど第4リアクターの底部に、ある物質が保管されていると知らされた。それはパニシングの濃霧を絶えず生み、拡散し続け、やがて世界規模の危機を引き起こすという

今、我々の中で誰かがこの都市を抜けて、それを停止しに行かねばならない

人々はざわめき、灰色の波のような群衆は、無言のまま彼のために場所を空けた

少佐の背後の地平線は血色に染まり、まるで空全体が震えながら燃えているようだった

パニシングだと?俺はリアクターが稼働しているのを何十年も見てきた。そんなこと、ありえないだろ?

どこからか、疑問の声が上がった

彼らは説明しなかった。私の階級では、真実を知る権限がないからだ

君たちも同じだ

第3大隊の最終防衛線は突破されています。今さら戻るなんて……死にに行くようなものでは?

…………

少佐は一瞬俯き、唇を噛んだ。しかしすぐに顔を上げ、再び群衆をきっと見据えた

今、この渡し場には3万人いる。しかし、最後の船で運べるのは1200人だけだ

河岸は一気に静まり返った

寒々とした空気が張り詰めた。無言で見つめ合う人、子供の手を強く握り締める人……だがほとんどの人は呆然と顔を見合わせるだけだった

沈黙――リン少佐が最も心配し、恐れていた事態が起きた

今や、誰が生きて、誰が死ぬかという問題ではない……もし、今ここで立ち上がる者がいなければ、全人類が我々とともに破滅する

彼は静まり返った群衆を見渡し、死んだような、しかし確かに生きている瞳が自分を凝視していることに気付いた。喉が震え、声が無意識に低くなった

だが依然として、誰ひとり応えない

人間は本質的に利益を求め、危険を避ける生き物だ。リン少佐は、長年の経験からそれを痛いほど理解し、もちろんこの時の人々の心中も察していた

黄金時代の余光を享受してきた人々が、どうして自分の命を軽んじられようか?

約束しよう!今回の作戦に参加した者全員に、10万クレジットポイントの褒賞を与える!

彼は銀細工が施された軍刀を掲げた。軍団長の権威を象徴する金で縁取った紋章は埃を被り、薄暗い空の下で鈍い光を放っていた

参加者本人とその家族は、希望すればアジールあるいは空中庭園への移住を選ぶことができ、より豊かで安定した生活を送ることができる!

彼は、嘘をついた

とにかく戻れ!そして生き残れ!そうすれば、栄誉と富は全て君たちのものだ!

もちろん空中庭園からの許可など得ていない。しかし彼は、目の前にいる何万もの生きた人間を死地へ向かわせる他の方法など、もはや思いつかなかった

何も知らぬ者たちの勇気を奮い立たせるため、彼は全力を尽くしていた

…………

しかしなぜ、彼らはいまだに黙り込んだままなのか?

これは軍団の指揮刀だ、それに私の勲章も……一番に戻ってきた者にこれらをやろう。これだけあれば、何でも買え……

少佐、あなたはあれをどうやって止めるかをご存知ですか?

群衆の最後方から、聞き覚えのある声が響いた

人々が空けた道を、ひとりの痩せこけた人影がゆっくりと歩いてきた

私には……知る権限がない

……

わかりました

彼は自分のヘルメットをぐっと深くかぶり直した

俺たちは労働者だ。これほど壮大な機械を造り上げたんだ、同じように止めることだってできるはずだ

俺は戻ってくる

……!

リン少佐は目を見開いた。なんとか命綱を掴んだかのように、彼は慌てて胸元の色鮮やかな勲章を外し、群衆への約束を果たそうとした

待て、これを……これもだ!全部持っていってくれ!

少佐、それは子供たちに残してやってくれ

グレゴリーはリン少佐の気遣いを一蹴し、彼の横を通りすぎた

この程度の金で、命を捨てる者などいない

しかし、世界を救うために一か八かやってみるやつならいる

同志たち、行ってくる

彼は微笑み、振り返ることなく燃える街へ向かって歩き出した

吹き荒れる冷たい風がやんだ。グレゴリーの背中は次第に遠ざかり、廃墟の中の小さな点となった

しかし、この微かでおぼつかない光が、瞬く間に人々の瞳に輝かしい光を灯した

……グレゴリーのおっさん、ひとりでいい格好しやがって!

自動車整備班!全員ひとり残らず来い!俺たちが組立班に負けたことなんて、あったか!?

俺の名は!ヴィクター·プロレタリー!俺も戻ってくるぜ!

彼はリン少佐の前で立ち止まると、ポンポンと彼の肩を叩いてから歩き出した

俺はアナトリ!トップ技師だ!九龍でパニシングと戦ったこともある!俺も戻る!

ゲンナジーだ!研究所の清掃員だ!

ひとつ、またひとつと名乗りを上げる人の声が天にこだまし、小さな勇気が荒れ果てた大地を揺り動かしていく

ユーリィ·イヴァノヴィッチ、俺も戻るよ

パパ、どこに行くの?

仕事さ。ママが夕飯を作る頃には帰ってくるからな

彼は微笑み、ヘルメットをそっと外すと、娘の頭に優しくかぶせた

足を踏み出す者は次第に増え、集結した。やがてその集団は、薄暗い天地から湧きだした一条の渓流となり、人類の征服を企む敵に向かって、激しく押し寄せていった

君たち……

リン少佐はその場に立ち尽くし、目の前で起きたことを信じられない思いで見つめていた

カヘティ駐屯兵団!全員、前へ!

声も枯れよとばかりに大号令が下されると、瞬く間に無数の深緑色の影がザッと前へ踏み出し、整然と隊列を作った

第2大隊、第3大隊の同志たちは全滅した。残る兵団は我々だけだ!

カヘティの人民はすでに自ら選択を下した!我々が試される時がついに来たのだ!

全世界が我々を頼りにしている!カヘティ駐屯兵団!どうして彼らを失望させられようか!?

否!!!

明日の太陽が昇ったあと、世界は記憶するだろう。カヘティにおいて!後ずさる臆病者など、ひとりとしていないことを!

総員、注目!これはカヘティ駐屯兵団司令部の最後の命令である

カヘティの人民が向かう先へ――

前進!!

無数の人々の胸に押し込められていた感情が、この瞬間、決壊した大河のように解き放たれた。それは轟きうねる嵐となり、彼らが信じる道へとためらいなく突き進んでいった

君たち……

リン少佐は逆流する大河の真ん中に立ち尽くしていた。見慣れた顔、見知らぬ顔が、次々と横を通りすぎていく

彼らひとりひとりの視線は刃のようで、さっと掠める視線ですら、彼の胸から肉を抉り取った。その痛みで背中は汗に濡れ、呼吸すらままならなくなった

やめてくれ……そんな目で私を見ないでくれ

輝きを放つ勲章が手からこぼれ落ち、通りすぎる無数の軍靴がそれを踏みつけていく。泥に埋もれた勲章は、もはや鋭さも輝きも失っていた

ある種の壮大な使命感が、リン少佐の胸に湧き上がった。彼も戦友たちの列に加わり、「英雄」のように死へ向かって突撃する自分の姿を思い描く

しかし足を踏み出そうとした瞬間、遠い故郷の母の姿が脳裏をよぎった

更に、士官学校時代に銃の暴発で味わった引き裂かれるような痛みも思い出した

できない……

彼はどうしても手放せず、どうしても耐えられなかった

無理をするな、リン

誰かが少佐の隣に立ち、肩に手を置いた

以前は、私の話はくどいと嫌がってたよな。せめて今日は存分に話をさせてくれ

彼は笑い、相手の若々しい頬を軽く叩いた

我々は皆、輝かしい時代に生まれた。以前のあの黄金のような世界では、人々は臆病さを蔑んだりしなかったし、ましてや他人の生き方を疑うこともなかった

お天道様は、それが甘すぎると考えたのかもしれない。あえて冷酷で残酷な災厄を我々の頭上に浴びせかけ、更に権力と金を好む世界へと変えた

だがな、私は信じている。時間は常に前へと進み、この時代もいずれ、過去の歴史の一片の塵となるのだとね

カヘティの凍土は荒れ果てていたが、我々は最終的に鉄道とロケットを造り上げた。パニシングは文明を破壊したが、人間は歯を食いしばり、今日まで耐え抜いてきただろう?

明日がどんな姿なのか、私は想像できない。しかし断言できる。それは生き残った君たちが創り出すものだ

だから、生きろ。生き延びて、子供たちに今日の物語を語り継ぎ、ここで起きた全てを世界に伝えるんだ

生きろ。よりよい明日のために

「2162年3月16日、カヘティ第4リアクターにおいてパニシング漏洩事故が発生

合計2万8812名の労働者及び兵士が、赤霧の拡散を防ぐため、自ら死の放射区へと向かった

帰還を遂げた者はひとりもおらず、今日に至るまで、放射区の中で一体何が起きたのかを知る者はいない

しかし、確かな事実がひとつある。漏洩事故の発生から3時間14分後、カヘティ第4リアクターは稼働を停止し、 赤霧の拡散は最終的に食い止められた

数多の犠牲者たちが守り抜いたその庇護の下、合計1413名の生存者は無事に撤退し、対岸の衛星都市へと移送された

私たちは今、烈士たちがその血肉を捧げて築き上げた岸辺の上に立っている。ゆえに、これから訪れる全ての朝は、 彼らの命の重みを背負うのだ

彼らはその残り火を、私たちの手へと託した――命、それこそがカヘティの決して消えぬ火影となるだろう」

――『カヘティ名もなき英雄の碑』より抜粋

名もなき英雄の碑前

カヘティの衛星都市

黙祷が終わりました。皆様、秩序を保ってご退場ください……

司会者がゆっくりと口を開いた。低く、重みのあるその声が、悲しみに沈む人々を生者の世界へと呼び戻した

……

……

重苦しい空気に泥と花の匂いが混じり合い、人々の肩にずっしりとのしかかる。まるで時間そのものが息を詰まらせ、世界のあらゆる動きが鈍く、重くなったかのようだ

白々とした墓地に、俯く無数の人影が灰色の山脈を成している。林の間を吹き抜ける寒風は、名残惜しそうに佇む人々の顔に冷たい水気を叩きつけていた

白々とした世界の中央にそびえ立つ数柱の石碑。その先に目を向ければ、川の向こうにカヘティの廃墟が見える

かつての「労働者と鋼鉄の城」は、今や血色の濃霧に覆われている

少佐、難民キャンプの拡張が難航しています……また地元の者たちが騒ぎ出して、今回は負傷者まで出ました

群衆の最も外側で、コートを羽織ったひとりの軍官がゆっくりと顔を上げ、目を開いた

重機を出せ。古いビルは全て取り壊す。必要とあらば発砲を許可する

……少佐?

記念碑の長い影がちょうど彼の体を隠し、炎で焼けたせいで目鼻の判別がつきにくい顔の半分だけが、太陽の光に晒されていた

より多くの人間を生き残らせるためだ。行くんだ、全ての責任は私が取る

……はっ!

兵士は急いで駆け出した。その直後、別の兵士が墓地に入り、リン少佐に向かって真っ直ぐ走ってきた

報告します、少佐。空中庭園の事故調査団が、1時間後に出発します

どうなった?

……以前と同じです。通知を待つように、とのことでした

わかった、後で行く

どれほどの時間がすぎたのか、哀悼する人々は徐々に去り始め、リン少佐も肩の埃を払って前へと進んだ。逆流する人波の中を、ゆっくりと前へ

やがて、彼は記念碑の下にふたつの小さな影を見つけた

……

彼女たちは沈黙したまま立ち尽くし、石碑の下部に刻まれた名前をじっと見つめていた

リン少佐がふたりの視線を追うと、何千もの名前の中に、ひと際目を引く見慣れた名前が目に入った

……教官?

どうでした?私たちの手紙、彼らに見せました?

……渡した。君たちの3通目の手紙、それに衛星都市の1000人以上の連名による告訴状も、全て私自らが提出した

彼らは話す気になりましたか?あの爆発は一体どういうことなんです?

リン少佐は重々しく首を振った

……どうして?

政府には政府独自の考えがある。私に口を挟む権限はない

独自の考えって、どういうこと!?

アウリスは拳を握りしめ、大声で叫んだ

ニュースでなんて言ってるか見ました?カヘティはパニシングに侵入されたって……デタラメばっかり!そもそもパニシングは外から来たものじゃない!

調査団なんて名ばかりで、結局は何から何まで隠蔽して、世界中の誰もここで何が起きたかなんて気にも留めていない!

これじゃ、マルガリータ……それに大勢の人たち!皆、犬死にじゃない!?

私たちに真実を話すのは、そんなに難しいこと!?

彼女は怒りを抑えきれず、震える手で少佐の襟元を掴んだ。彼女の恨みのこもった嘆きが墓地の上空に響き渡る

だからこそだ、アウリス。わかってほしい――

彼は少し力を込め、アウリスの手を振り払った

カヘティの衛星都市は無数の命の上に築かれているんだ。今や我々は、誰もが消えることのない血の負債を背負っている

彼らの犠牲を無駄にしないためにも、私は皆を必ず生き延びさせなければならない。しかし今、衛星都市は衣食にもこと欠いている。世界政府こそが、我々が頼れる唯一の後ろ盾だ

……後ろ盾?爆発した時、あいつらはどこにいた!説明が必要な時に、あいつらはどこに消えたのよ!?

アウリス、落ち着いて!

ネイティアは近寄り、少佐に飛びかかろうとするアウリスを引き止めた

……宇宙から地球を見下ろせば、カヘティなど取るに足らない小さな点にすぎない。広大な宇宙の中で、我々の叫びに耳を澄ます者などいない

どこか目に見えない場所で、何者かが我々を黙らせ、ここで起きた全てを抹消しようとしている……我々は沈黙を守る以外、抗う術を持たない

死者へのけじめをつけるよう努力する。しかし、その前に……

私が優先すべきは、衛星都市の未来であり、生きている全ての人々なんだ

くたばれ!あんたは世界政府の犬だよ!ペッ!

リン少佐はそれでも冷徹な表情を崩さない。その昔、彼の顔に常に宿っていた傲慢さは、時とともにひっそりと色褪せていったようだった

……もうひとつ、伝えておくことがある

世界政府の青年育成センターが拡充され、各小型保全エリアから1名ずつの枠が設けられた

数日後に試験がある。1位になれば、空中庭園へ行く資格が得られる

……空中庭園へ?

近年の慣例では、地上出身の学生は通常、優遇され、世界中継の場で表彰を受けるチャンスさえある

ふん、それが何?施し?誰がそんなの欲しがるもんか!

衛星都市は前線の重要戦区に指定された。今後は人口の流動も厳しく制限されるだろう。私はもう、一生ここに残る覚悟を決めている

だが、アウリス、ネイティア。お前たちは違う。お前たちはもっと希望のある場所へ行くべきだ

……慎重に考えてくれ

彼は目の前の記念碑に目を走らせ、微かなため息を漏らすと、冷ややかに背を向けた。そして寂れた街路の方へと遠ざかっていった

ハッ、試験だって?しかも1カ所からひとりだけ?あいつら、本気で自分たちは天国で暮らしてると思ってんの?

生徒を動員して、この試験に反対してやる!白紙で提出だ!あのクソみたいな連合政府に教えてやる、カヘティの人間はそんなもので買収されないって!

……

ちょっと、ネイティア?どうしたの、心ここにあらずって感じだけど?

あっ……?うん

ネイティアは無意識に左手首のブレスレットをなで、瞳に一瞬だけためらいの色を浮かべた

私のさっきの話、聞いてたでしょ……

今すぐ皆に知らせに行こう。団結して、絶対にこの試験をボイコットしないと

彼女は突然、アウリスの手をぎゅっと握りしめた

世界政府が自分たちを特別な存在だと思い上がっているのなら、思い知らせてやろうよ。カヘティには、彼らの宇宙船のチケットを欲しがる者なんていないことを

それに、九龍や環大西洋、連絡がつくあらゆるルートを通じてカヘティの真実を伝え、世界政府に調査報告を公開させないと

それを聞いたアウリスは、ネイティアの手を握り返した。その目は再び興奮で輝いていた

それがいい!この試験を皮切りに、少しずつ世界政府の口を割らせ、ここで何が起きたかを世界中に見せつけてやる!

……ええ、今回の試験から始めよう

喜び勇む友人に向かって、ネイティアは無理やり笑顔を作った

しかしすぐに彼女の唇は僅かに引きつり、指先は細かく震え、視線は自然に下を向いた

幸いにも、アウリスは復讐の準備という高揚感に浸っており、友人の様子がおかしいことに気付かなかった

ネイティアはそっと手を伸ばし、マルガリータがアウリスに残したブレスレットに、もう1度触れた

……

ほぼ毎日、夕暮れ時にネイティアとアウリスは連れ立って記念碑を訪れ、別の世界にいるマルガリータへ、その日の出来事を語りかけていた

マルガリータ、明日はいよいよ「試験」だ。私たちは、カヘティの人間の尊厳と気概を世界に証明して見せる。絶対に!

……だから、これが私にできる唯一のことなの。ごめんね、マルガリータ……

沈みゆく夕陽の中をアウリスはざわめく人々を押しのけて、赤茶けた色の路地へと駆け込んだ。彼女はあそこにいると確信し、制御を失った獣のように走り出した

彼女は墓地の門を蹴り破り、怒り狂いながら叫んだ

――ネイティア!!!

――!

彼女は飛びかかるようにネイティアの襟元を掴み、右手で容赦なくその頬を張った

パァンッ!――乾いた音が空に響き、ネイティアの左頬はまるで血が滲んだように真っ赤に染まった

なんでだよ!?

アウリスが再び彼女の頬を張った。ネイティアはもちろん避けることはできたが、あえてその場に立ったまま、真正面からその一撃を受け止めた――

うっ!!

その時、後を追ってきた人々が続々と到着した。彼らは輪になって墓地の外側を取り囲み、目の前の光景を見てざわめき始めた

アウリスはネイティアの服を掴んで、地面から引きずり起こした。真っ赤な手の平をまた振り下ろそうとしたものの、その手はためらうかのように空中で静止し、動かなくなった

なんか言ったらどう!なんでッ!?

……私は空中庭園に行く

なぜ!?どうして、そんなところに行くの!?

彼女は怒鳴り散らし、鼻をヒクヒクさせて握り締めた右の拳を震わせた。その爪は手の平に食い込み、血が滴り落ちていく

何万もの人が一夜にして消え去ったのに、あいつらは真実ひとつすら話さない!マルガリータだって、あんな不可解な死に方をしたのに!?

……

ネイティアは目を閉じ、答えなかった

そういうことか……最初から気付くべきだった……!

あんたは最初からカヘティなんてどうでもよかった!最初からマルガリータなんてどうでもよかったんだ!

あんたは彼女を救い出しもせず、それどころか私を引き止め、彼女をあそこに置き去りにしてた!彼女をたったひとりにして死を迎えさせた!!

なんでなの、死ぬのが怖かったから!?

違う……

立て続けに浴びせられる非難に、ネイティアは鼻をすすり、何かを言おうと唇をわななかせた。しかし、その言葉は途中で止まった

初めから違った!あんたは、最初からカヘティの人間じゃなかったのね!!

彼女はネイティアを掴み、手首にあるブレスレットを乱暴に引きちぎろうとした――

駄目、触らないで……!

細い白糸が音を立てて切れ、紫色のビーズが地面にバラバラと落ちた

――!!

時間がまるで止まったかのように、ネイティアはがっくりと地面に跪き、目の前に落ちたビーズを呆然と見つめていた

彼女は震える手を伸ばし、まるで貴重な宝物のように慎重にそれらを拾い上げた。そして愛おしそうに手の平で包み込んだ

アウリスは彼女が地面に這いつくばっているのを見て、目に軽蔑の色を浮かべた

……

しばらくしてネイティアはのろのろと立ち上がると、荒い息をつきながら、背後の群衆をぼんやりと眺めていた

知らせを受けた数人の兵士が、こちらに向かって走ってきていた。更に遠くには、世界政府を代表する公務員たちの姿があった

ネイティアはぐっと唇を噛み、顔を横に向けてアウリスを見つめた

アウリスの瞳の奥には複雑な感情が渦巻いていた。ネイティアはそれが怒りなのか、言葉にできない深い悲しみなのか、もはや区別がつかなかった

ネイティアは手の中のビーズをぎゅっと握りしめ、深く息を吸い込んだ

……あなたの言う通りよ、アウリス

私たち、最初からわかり合えるような仲じゃなかった

彼女は目に溜まっていた涙を拭った

最初から、あなたたちのおままごとなんて興味なかった。毎日聞かされる退屈でご大層な綺麗事も、中身のない官僚的な口調も大嫌いだった

なんだって……!?

アウリスはカッと目を見開き、再び飛びかかろうとしたが、その寸前で駆けつけた兵士に体を押さえ込まれ、動きを止めた

カヘティにいた日々で、幸せだった日なんて1日もなかった。ここの全てが大嫌いだった。だってあなたたちは私の病気を治せないじゃない!

彼女は全員に自分の言葉を届けようと、声を枯らして必死に叫んだ

私は、もっといい生活を送る権利がある!もっと発展した、もっと希望のある場所で生きるべきなのよ!

彼女はゆっくりと目を上げ、群衆の中にいるスーツ姿の男へと視線を向けた

……

私は空中庭園で暮らしたい

ふっ

男は眼鏡を押し上げ、ゆっくりと群衆の中から歩み出ると、記念碑の下に立つ少女を、興味深そうに見つめた

君が例の「1位」か?

これまでも、そしてこれからもそうです

彼女は冷ややかに答えた

ふむ……気概はあるな

男は満足げな笑みを浮かべた

君を迎えに来る飛行機は、今夜到着する

すぐに荷物をまとめなさい。新生活への準備を始めるんだ

この裏切り者ッ!ネイティア――!!

押さえ込まれたままのアウリスは体を激しくよじらせ、遠ざかるネイティアの後ろ姿に向かって、ありったけの声で叫んだ

…………

ネティアはふと足を止め、背後から浴びせられる罵声を黙って聞いていた

彼女は僅かに振り返り、口を開きかけ、何かを言いたそうだった

しかし次の瞬間、彼女は唇をキッと引き結び、再び前を向いた。目の前にある無数の、驚きと軽蔑の入り混じった視線をはね返すように

この歴史的な名が刻まれた墓地を1歩踏み出せば、彼女は夢にまで見た「新生活」へと駆け出せる

しかし今後、彼女は永遠にカヘティ人からの非難と批判を背負い、最初に妥協した「裏切り者」と蔑まれるだろう

……さようなら

彼女はその未知の世界に向かって、重く、果てしなく長い第一歩を踏み出した