時間はここでは意味のない白紙のようなものだった。どれほど時間がすぎたのかわからない。脳はすでに自我の概念を失った
骨は溶解し、血肉は腐食され引き裂かれた。体は粉々に砕かれ、再び形作られる。激痛が極限に達し、思考は空白となる
か細い輪郭が、水が水に溶け込むように赤潮の泥の中を漂う
混乱した五感は寄せ集まり、そしてまた散ってゆく。耳元で誰かの呼び声が聞こえた……
違う……まだ……
喉の奥から漏れる掠れた声に応えたのは、果てしなく続く潮騒だけだった
風が冷たい
いつの間にか、徐々に感覚が戻り始めていた。吹き抜ける凍てつく風が露出した皮膚を掠める度に、微かな痛みを感じた
……皮膚?
なぜその感覚がまだあるのだろう?いや……なぜ「皮膚」という概念がまだ存在しているのだろう……?
疑問はある種の信号となり、知っているようで知らない感覚が次々と流れ込む
鋭い痛みが意識の中から伝わり、燃えるような熱が空白の脳を焼き焦がしていった
……
微かなため息と不思議な香りの感覚が流れ込んできた
……焦らないで
誰かの手が、優しく、しかし抗えない力で自分の目を覆う
指の隙間から雪明かりが目に刺さった。その手の動きは非常に優しげだったが、それでも鋭い痛みを感じずにはいられない
人類は……本当に脆弱な生命体ですね。ありのままの自然の景色を直視しただけで、治癒が困難なほどのダメージを受けるなんて
あなたの体はまだ回復していません。また雪目になって体を傷つけてしまいますよ
相手の言葉通りにあまり動かさず、痛みが回復するのを待つ内に、視覚が壊れた体に戻り始めた
ここは恐らく天航都市周辺の山だろうと思われた。簡素なテントが数枚の布で組み立てられている
テントの外から、温かい空気とともに冷たい風が一緒に吹き込んできた。ピンク色の髪の女性が手に陶器の壺を抱えて座っている
目が覚めましたか
軽い雪目のせいで網膜に残っていたモヤが段々と薄れていき、目の前にいる女性の顔が次第にはっきりとしてきた
目の前に座っていたのは、かつて空中庭園監察院にいたイシュマエルだった……
でもなぜ……彼女が自分を赤潮の中から救い出せたのだろう?
まあ……こんなに長い時間が経っても、私のことを覚えていてくれてたんですね。光栄というべきかしら、グレイレイヴン……指揮官
無数の憶測が頭の中を渦巻き、筋肉がサッと緊張した。無意識に体が警戒態勢を取っている
……ずいぶん緊張しているようですね
イシュマエルが顔を上げると、その不思議な瞳が星のような輝きを放った
ふいに何かの力を感じ、半ば強制的に体の力が抜けた
シッ……
言葉もまた一種の情報です。軽々しく使ってはいけません
あなたが何を考えているか、私にはわかります。でも残念ですが、私はただの「門番」。「規則を定める」存在ではありません
門番という言葉をつぶやいた時、思いがけずその言葉が無数の記憶を呼び覚ました
異重合塔の「扉」はもうひとつの「扉」への近道だからです
ある女性から聞いた話では、もうひとつの「扉」の向こうには生命のない文明が存在しているらしいのです
その文明は真空零点エネルギーを獲得した文明を回収し、試練を与えます。バランスを崩して不適切に発展した文明データを収穫し、「扉」を持ち帰り、自身で進化させるのだと
あなたたちの認識なら、ここは……「扉」の向こう側
異重合塔と繋がる「扉」だよ。ここは回収されたあとの空間なの
ここは文明の墓場で、同時に文明が芽生える場所でもあるの。新生と消滅が常に繰り返されてる
記憶がフラッシュバックし、思わず額を押さえてふらりと後ずさった
そう、その門番が私
イシュマエルは軽く頷くと、再びフードを深く被った
もしかしたら……こちらの姿の方が、馴染み深いかもしれませんね
再びフードを取ってマントを翻すと、イシュマエルの姿が一変した。その顔には不思議な表情が浮かんでいる
鈍い波の音が脳内に押し寄せる。かつて、何度も「自分を殺した」あのピンク色の髪をした謎の人物は……イシュマエルだった
名前はご存知でしょう?イシュマエルですよ
そっと笑ったのか、彼女の髪が微かに揺れた
そうですね……時々「慈悲者」と呼ばれることはあります
情報は伝わる過程で捻じ曲がるものです
「敵味方、善悪問わず平等に、適した者に再機会を与える」……
それは捻じ曲げられた情報です。私はたまに気が向いた時に、未完の願いを抱える者に機会を与えるだけ
その表現はちょっと違いますね。何か勘違いをしているようですが、パニシングは、私が人類文明に課した試練ではありません
私はただの「門番」。より高みからの視点であり、ひとつの……
イシュマエルが指先を振ると、光と影が集まり、散った
投影です
光を背に、見知らぬ階段を上っていくと聞こえる、夢の亀裂からきれぎれに呟かれるあの言葉
教えてください、グレイレイヴン指揮官。あなたは誰?
私と同じように、異なる世界が見えるかしら?
あなたも私と同じように……ここに残るただの投影?
変異赤潮に侵蝕された街の周囲に、彼女はひっそりと現れた
もしかすると、あなたが期待した「変数」は、すでにあなたの願いを見つめているかもしれません
そうでしょう?
彼女は、時間と空間の外に封じられた「自分」をそっと見ていた
そう思い至って、ふと顔を上げた
イシュマエルは微笑むだけで、否定はしなかった
その微笑みが、更に記憶の奥底に埋もれていた光景を呼び覚ました
あら……叫んでいるのは、あなたでしたか……
私が、お手伝いしましょうか?
まだ自分を取り戻せるうちに目を覚まして、前進して、自分で選択ができるように
では……【指揮官】、あなたにとって……悔いのない「旅」ができますように
エコーが耳元に重なり、過去の記憶の細部が徐々に鮮明になっていく。寒気が神経の末端まで這い上がった
全てを理解したあとに残るのは、驚きや喜びではなく、警戒と不安だった
イシュマエルは穏やかに笑い、陶器のカップをこちらに差し出した。カップの中のエメラルド色のハーブが揺れ、不思議な香りを漂わせた
どうぞ召し上がってください。そんなに身構える必要はありません、私はあなたを助けたはずです。覚えているかはわかりませんが
そうとも限りませんよ。この世界がそのどちらに到達するにしても……まだもう少し時間があります
条件が整ったことですし、あなたに隠す必要はなくなりました。ですが、全てを詳しく説明はできません。なぜなら……
カップを持ったイシュマエルは、曖昧な笑みを浮かべた
飲み込みが早いですね、いいことです
彼女の曖昧な謎めいた言葉は、どれも血と涙で築いた境界線のようだ。恐らく彼女も何らかの「規則」に縛られ、その境界線を踏み越えて話すことはできないのかもしれない
なぜだかそれに気付いた時、少しだけ心が安らいだ。短い沈黙の後、イシュマエルが再び口を開いた
この、あなただけの「結末」を選んだ時、何を考えていたのですか?
苦痛は言わずもがな、赤潮に足を踏み入れる前にカイウスの「果実」がまだ有効なのか、新たな0号代行者から権限を奪える保証もないということを理解しておくべきでした
自分の意識で赤潮を阻止するなどという発想は、あまりにも無邪気すぎます。成功したとしても、その成果は満足できるものにはならないでしょう
ましてや、その試みの代償が自身の命だというのに、それでもあなたはそれを選択した
イシュマエルは少し姿勢を正し、人間をじっと見つめた
そうしたのは、確かな見込みがあったから?それとも、避けられない「結末」を前に、望みがないまま最善を尽くそうとしたのですか?
イシュマエルの問いには直接答えず、何度も出てくるこの言葉に話題を変えようとした
異なる視界で見れるあなたなら、いくつかの「結末」を見たことがあるはずです
以前、ナナミとの演算の中で……いくつか経験したのでは?
私は全知全能の神ではありません。ただ、異なる次元にいるため、見える視点が異なるだけです
今は……
彼女が軽く手を伸ばすと、分厚い本がふっと現れた
ページは勝手にめくられ、その上に金色の文字がゆっくりと書かれていく
人類の文明は、すでに終わりに向かっています
これまでに多くの……本当に多くの「結末」を見てきましたが、その中で人類がパニシングの「試練」を無傷で乗り越えたものはひとつとしてありませんでした
けれども……今回の「試練」の降臨は、実はあまり合理的とはいえません
彼女は少し困ったように眉をひそめた
簡単に言うと……
以前、あなたが目にした「ニモ」の夢を覚えていますか?
かつての「ニモ」と「ドミニク」は同じ世界に属し……ああ、この「世界」は、別の「宇宙」や「空間」とか、あるいは……他の適当な概念だと理解していただいて構いません
その「世界」で、彼らは時間旅行キャビンを発明し、そのキャビンから「異重合体結晶」と呼ばれる物質を発見しました
その後、出所不明の結晶が時間旅行キャビン全体を覆い尽くしてしまった……
その理解で結構です
あれは、彼らの「世界」の「試練」。彼らはそれを「カイウス汚染」と名付けました
残念ながら、彼らの世界はその「試練」を乗り越えられなかった。異重合体結晶は時間旅行キャビンを完全に覆い、やがて天を突く塔となり、その後……「先遣隊」が出発した
彼女は、驚くべき「偉業」を淡々と語った
その後の「物語」については省略します。あなたも夢の中で垣間見たことですし
奥深くに埋もれていた記憶が次々と蘇る。かつて荒れた部屋での、フォン·ネガットとの会話も
……彼らが不注意で残してしまった抜け穴によって、汚染模倣因子が彼らの跡を追い、この「世界」に入り込んだのです
そうでなければ……たとえ零点エネルギーがパニシングをもたらしたとしても、異重合塔がこれほど早く降臨することはなかったはずです
何かを確認できたというように、イシュマエルは本を閉じた
その後のことについては、あなたも知っているでしょう
ニモ――いえ、フォン·ネガットと呼びましょうか――とドミニクは、自分たちが「汚染」してしまったこの文明を救うため、それぞれの方法を試みましたが……
残念ながら、どちらも成功しませんでした
「継承者」を探し出し、自分を封じ込める方法も、パニシングと共存するという試みも……どれもあなたたちが望む「結末」には到達できなかった
彼女は小さくため息をついた
「赤潮」……「パニシング」が満足することはない
その使命はただひとつ、「回収」です。たとえ、制御可能な意識が0号代行者の権限を持ったとしても、その「意識」は次第に赤潮が育む新たな意識に取って代わられます
そうです
イシュマエルはカップのハーブティを少し飲むと、山の麓を見下ろした
変異赤潮は、いまだそう遠くはない天航都市の外を蛇行しながら蠢いている
新たに生まれた0号代行者は徐々に「カイウス」の意識と権限を奪い取り、0号代行者が真に「孵化」した時、カイウスの存在は完全に消失するでしょう
これはもはや、ほぼ解決策のない状況です。ですから……最初に訊ねた質問に答えていただけますか?
この「結末」を選んだ時、何を考えていたのですか?
その答えを聞いて、イシュマエルは僅かに眉をひそめ、口調もどこか冷淡になった
……これまで起きた全ての出来事があったから、あなたはこの方法を選んだと?
全ての変数はあなたに起因しています。赤潮に入る選択も、こうした妄念によるものなのですか?更に私が現れたことで、その認識が確かなものに変わったと?
頭の中であれこれ考え、その考えがさっと脳裏をよぎった時、思わず笑いが漏れた
ただ……まだ力が残っているのなら、使わないわけにはいかない
これは選択ではなく、責任だ
他の人たちが生き延びる可能性を、少しでも多く勝ち取る。赤潮の中の「癌」になろうとも、自分が餌になろうとも、他の存在をおびき出す
イシュマエルは一瞬言葉を失い、そして静かにため息をつきながら首を振った
イシュマエルの表情が、答えを物語っていた
危険な決断ですね
しばしの沈黙の後、イシュマエルは静かに口を開いた
ある意味では、あなたの推測は正しかった
私は、赤潮に入る以外の選択肢を提示できます――
あなたは、異重合塔に「入る」ことを選択できる
異重合塔の周囲はすでに変異赤潮に包囲され、誰も近付けない
普通の人には確かに無理でしょう。ですが、私は「門番」です。当然、再びあなたを異重合塔に入れることもできます
もう「鍵」が失われてしまった
「出口」は制御不能で、「鍵」もすでにない。この状況で異重合塔に戻ったところで、一体自分に何ができる?
いいえ、あなたは自分が思うより遥かに超えることができるんですよ
イシュマエルの穏やかな声が耳に届いた
「扉をくぐる」ことと「異重合塔に入る」ことは、概念が異なります
「異重合塔に入って」見えるのは、混乱した時空と制御不能な断片だけ
ですが、「扉をくぐる」ことは、新たな力を意味します
異重合塔が降臨したばかりの頃に、ある構造体が「構造体」として異重合塔に入りました
彼は塔の頂上に到達し、全ての「試練」を乗り越えて「<phonetic=扉>終点</phonetic>」にたどり着きました
私は彼を招待するため、扉をくぐるためのチケットを差し出しましたが、彼は迷うことなくそれを拒絶しました
カップを手にし、イシュマエルは困惑したように首を振った
……「自分を待つ人がいる」と言って
僕を待つ人がいるので
未来なら、僕が彼らと一緒に探します
もちろん、あの予期せぬ災害と凄惨な戦いを忘れることはない
「塔」を離れたあと、彼は見たもの全てを忘れ、得た力も失いました
私には「人類」の考えがあまり理解できません……恐らく漂い続ける内に、かつてはあった感情を忘れてしまったからでしょうね
イシュマエルは俯いていたが、別にそのことを気にしている様子はなかった
それで、あなたの選択は?
この扉をくぐる試練に挑むか、天航都市へ戻るか……
グレイレイヴンの……警戒心の強さといったら……
彼女は微笑んだ。その問いに苛立っている様子はない
私が何か得られるとすれば、そうですね……新たな可能性、でしょうか
ハーブティのほのかな湯気が彼女の目の前で揺らめく。イシュマエルは立ち上る湯気の中に、過去の都市を見ているようだった
あなたが本当に扉をくぐるまで、伝えられないこともあります
ですが……私でさえ、本当に別の「物語」が存在するかどうかを確認することはできません……
本当に……別の「<phonetic=結末>可能性</phonetic>」があるのだろうか?
全員が……「生き延びる」可能性が?
この自称「イシュマエル」という高次元の存在は、新たな「人形劇」を見たいのか。あるいは自分を利用して何かを検証したいのか
いずれにせよ……可能性がひとつ増えることは、決して悪いことではない
彼女は絶対的な力を持っている。わざわざ自分を欺く必要などない
ですが、覚えておいてください。異重合塔の崩壊はもう……非常に深刻だ……
私と……カイウスは……何があろうともこの異重合塔を封鎖するつもりです……
そちらが成果をもたらさないのなら……私は絶対にあなたをこの塔に入らせない……
彼がまだ異重合塔内部にいたとしても、「試練」の開始を阻む権利はありません
彼はすでにカイウスと一体化していますが、私には彼らの動向を探るつもりもありません
どうぞ
彼女は友好的な態度で答えた
リーは、扉をくぐるという招待を迷いなく拒否した。つまり、「扉をくぐる」ことが必ずしも最良の選択であるとは限らないのだ
「扉をくぐる」ことは、新たな「力」を意味します
別の言い方をすれば、新しい「力の段階」です。前にあなたが宇宙船で見た「ナナミ」のようにね
宇宙船で見たナナミの力を思い返した。彼女は明確に語りはしなかったが、異なる時間線の地球に対して、異なる情報を伝達できるようだった……
もし自分にもそんな力があれば……
それに、あなたにはもう他に選択肢が残されていません。あるのは……
先ほどあなたがやろうとしたように、赤潮に入り、ほとんど成功する確率のない賭けに出て、0号代行者と権限を争うことだけ
今の地上に、0号代行者に対抗できる者は誰もいません。もしカイウスが「完全な状態」であれば、まだ抵抗する力を持っていたかもしれませんが……
だがカイウスの残された力は、すでに新たな0号代行者に呑み込まれてしまった
今の異重合塔は<phonetic=0号代行者>コレドール</phonetic>がこの「世界」に持ち込んだもの。コレドールが消滅し、異重合塔は、異なる「文明」のデータフローを重ね、新たな0号代行者を孵化させました
阻止する者がいなければ、0号代行者が異重合塔を完全に掌握した時、人類文明は徹底的に「収穫」されてしまうでしょう
もし……あなたが試練を突破できれば、異重合塔の掌握権を奪い取れるかもしれません
正直に言うなら……それはわかりません
異重合塔を完全掌握できるのは、0号代行者だけです。これまでの規則通りなら、0号代行者が完全に死して初めて、全ての権限が引き継がれます
「扉をくぐる」のは、私があなたに与えられる「チャンス」にすぎません
このチャンスを得られたのは、あなたの意識が十分に強くなり、この試練に臨む権利を手にしたからです
解釈はお好きに
とにかく私がここに現れたのは、あなたが試練を始める確かな力を持っているからです
あるいは
彼女ははっきりとは答えなかった
「門番」として私があなたに開ける唯一の「裏口」は、0号代行者の封鎖に悩むことなく、塔の内部に直接入れるようにすることだけ
その他の一切は、全てあなた自身で進まなければなりません
この「チャンス」を受け入れるかどうかは……
彼女は小さく微笑み再びハーブティをひと口すすった
あなた次第です