通信の向こうでセリカは眉をひそめた
罠ですって?
ああ……俺たちは、この保全エリア内で生命反応を検知した。エリアの危険度も低いように見えたため、救援に入ることを決めた
だが、奥へ進んでも、偵察担当のギズリーは「人がいる」痕跡を一切発見できなかった
そして、俺たちが保全エリアの最深部まで進んだ時……
赤潮の結晶の中に、血肉が融合した異様な造形物があった。まるで生きているかのように、一定のリズムで脈動していた
その血肉の中央には鳥や小型の獣がへばりついて、悲鳴を上げていた
その光景を見て、俺たちはすぐさま撤退を決めた。だが次の瞬間、パニシング濃度が一気に急上昇したんだ
……
モニターの向こうのセリカが、目に見えてわかるほど大きく息を吸い込んだ
わかりました
ひとまず……そこで少し休んでいてください。すぐに迎えを派遣します
それから、通信をナナミ……あなたたちを連れてきた「構造体」に代わっていただけますか
ピッ――わあ!セリカ!久しぶりだね~
ナナミはネヴィルのマジック工房に座り、のほほんとした顔で自分の機体の傷口にゲルを塗っていた
ナナミ、お久しぶりですね
空中庭園は戦略モードに切り替え、人類文明の力の保存と、更なる損失の回避を目標に動いています
私たちは、地上の保全エリアの住民や難民を一カ所に集め、保全エリアに配置された巡回小隊やスタッフを回収する予定で……
……んもう、本題だけを言ってよセリカ。ナナミ、あんまり時間がないの――
空中庭園は機械……機械教会と良好な協力関係を維持したいと考えています。ですから、これは空中庭園が戦略モードに変更する、という説明でしかありません……
空中庭園は地球を離れるつもりなんだね
……
平穏を装った言葉の裏に隠れていたのは、血が滲むような残酷な事実だった
ナナミの率直な問いにどう向き合えばいいのかわからず、セリカは黙り込んだ
<color=#ff4e4eff>3648日</color>……10年です。空中庭園は半分以上の兵力を失いましたが、成果はほとんど出なかった
異重合塔周辺の赤潮は、すでにどんな構造体兵士であっても太刀打ちできない状態に進化しています――
しかし、精鋭小隊の構造体がまだ……
精鋭小隊、そう、あなたもご存知の精鋭小隊!
地上へ投入できる精鋭小隊が、あとどれほど空中庭園にいるんです!?それに、特化機体に改造できる構造体兵士が、どれだけいるのです!?
グレイレイヴン指揮官は、もう戻ってこないんだ!
……
……すみません、少し取り乱しました
ただ、我々は……本当にこれ以上の消耗に耐えられません
遠隔感知画像上で、未知の白い成分が混ざった変異赤潮が、ゆっくりと大地を流れていた。それはまるで血管のように、かつて人類が生存の頼りにしていた土地に絡みついている
……確かに、これ以上消耗することはできません
作戦として35の構造体小隊を順次投入しましたが、生還した構造体は僅か4名。得られたのは、異重合塔に最も近い変異赤潮のサンプル1本だけです
大勢の兵士を犠牲にし、最終的に得た成果はたったそれだけ……
しかし、そのサンプルで変異赤潮の中の物質を検証したのでしょう?少なくとも、我々が何と戦っているかは知ることができます!
科学理事会の分析結果は出たのか?
……ええ
アシモフは変異赤潮の「成分」を分析することは不可能と結論づけました。地球の過去、現在、そして未来の如何なる物質にも属していないとのことです
……
会議室はシンと静まり返った
我々は……一体何と戦っているんだ……
……
白髪交じりの総司令は背後を振り返った。その目はひどく充血し、疲労が隠せない様子だった
……決断の時です、議長
……
最初の内は、彼らはこれも食い止められる災害のひとつにすぎないと考えていた――
赤潮が広がり始めた時や、人型の異合の双子が初めて姿を現した時……
突如、異重合塔がそびえ立った時や、黒い雷鳴が空中庭園を揺るがした時も……
これまでの彼らは、生き延びることなど到底不可能に見えた災厄を何度も乗り越え、無敵のように思えた敵を次々と退けてきた――
今回も、彼らはきっと成功する
空中庭園の人々は、皆そう信じていた。この勝利を祝うための準備すら進めていたほどだ――
もうすぐあなたたちが凱旋するって聞いて、皆大急ぎで取りかかったの――デザインだっていくつも考えたのよ
この塗装に換える日が本当に楽しみね!
ルシアのだけじゃなくて、指揮官の分もあるのよ!グレイレイヴンの皆が揃って会場に立つ姿、楽しみでたまらないわ――
空中庭園は大量の構造体を地上に派遣し、地上の保全エリアを引き上げようと試みたが、大半は成果を上げることなく帰還した
変異赤潮の詳しい情報を得るため、複数の小隊を異重合塔付近へ次々と派遣したものの……
例外なく、彼ら全員が失敗に終わった
諸君
以前は私も、まだ成功の見込みがあると思っていた。これまで、人類文明が数々の奇跡を生み出してきたように
しかし、今回ばかりは……申し訳ない
議長、我々にはまだ兵士がいます。まだ戦えるはずです――
たとえ保全エリアを奪還できたとしても……
今の浄化塔では、変異したパニシングを浄化できない。科学理事会が急遽製造した新型血清も、辛うじて使える程度のものだ
アシモフは病を押して連日働き詰めだ。科学理事会のベテラン教授陣は、もう何人もが過労で倒れて限界にきている
精鋭小隊の者たちにも、死傷者が出始めている
そ、そんな……
マンティス小隊は護送中に全滅、ワイルドアウル小隊の生存者は隊長ひとりのみです
ストライクホークのカムイは変異赤潮の深部を調査中に行方不明となり、彼を探しに行ったカムも戻ってきていません
その地域はもうすでに変異赤潮に呑み込まれています。機体が持ちこたえられるバンジが何とか外周で長時間待機しましたが、中へと進む方法は見つかりませんでした
すまない。だが……現在の損失は、すでに多くの指標において警戒ラインギリギリだ
私は……人類の文明をここで途絶えさせるわけにはいかない
地球へ戻るため、彼らは全てをなげうった
地球の各地に火を灯し、人類文明の再構築を試みてきた
無数の命がここで葬られ……
無数の命がここで目覚めた
だが、今回は――
人類の子供たちは、もう二度と故郷へ戻れないかもしれない
彼らはまもなく、追われるようにして未知の深い宇宙へ旅立つ
緊急警報が鳴り響いた。新たな事態が発生した知らせを受け、議会の出席者たちは一瞬静まり返ったあと、次々と席を立った
がらんとした議会のホールで、ハセンは中央に浮かぶ青い星をじっと見つめていた
我々の努力は……
これまでの全ての努力は、本当に意味があったのだろうか?
その問いに答える者はいなかった
……はい、空中庭園は地球軌道を離れる準備をしています
……
ナナミは、空中庭園がこのような決定を下したことに驚かなかった
地球軌道を離れる……その時までに何をするの?
可能な限り多くの人と連絡を取ります。地球上で生存する全ての人間と構造体に、空中庭園に移住し地球を離れる権利があります……
今回の作戦コードは……「出航」です
もし、機械教会が望むなら……
ナナミ、空中庭園と一緒に地球を離れるつもりはないよ。ナナミには、まだやらなきゃならないことがあるの
でも、あなたたちとの取引ならできるよ。別に、空中庭園のこと、嫌いじゃないから~
……取引、ですか?
ふたつの勢力間の話し合いになると察したセリカは、姿勢を正し、気を引き締めた
機械教会の望みは何ですか?そして、何を差し出せますか?
宇宙船の設計図と実験データが欲しいんだ
でも、宇宙船をもう持っているのでは?
機械教会の地上での動向は空中庭園に隠せるものではない。彼らの宇宙船が洞窟から飛び立った時、空中庭園はすでにその動きを捉えていた
しかし、今の空中庭園にはその新興勢力と腰を据えて話し合う余力も、必要性もなかった
うん、あるよ。でも、機械教会の宇宙船はまだ完全じゃないの。今は地球の表層を航行するので精一杯なんだ
だから、もっと多くのデータと設計図で宇宙船の完全性を検証したいの。宇宙へ出た時に何かトラブルが起きたら困るじゃん
宇宙に別の生存可能な星があるかどうかなど、誰にもわからない。機械体であっても、この長い旅に向けて十分な準備を整える必要があった
差し出せるものは、ナナミと機械教会の機械体たちが、空中庭園の任務を手伝うよ
変異赤潮は人類にとってはすごく危険だけど、機械体にとっては直接接触しない限り、命を脅かすものじゃないから
それに、機械教会には歯車って軍隊がいるんだ。機械体の同胞を探すついでに、人間たちも探せるよ
……
少し、相談する時間をください
通信は一時中断した。ナナミはテーブルの前に座り、心ここにあらずといった様子で、向こうで構造体を修理するネヴィルを眺めていた
……えっ、これ、何年前のパーツ!?なんでまだこんなの使ってんだ?
ああ……もう他に交換用のパーツがないからな
空中庭園の工場はほとんど連日連夜生産を続けているが、消耗量がそれを大きく上回っているんだよ
俺なんか、まだマシな方だ。似たような部品を見つけて少し加工すれば使えるが、他の人はもう……
彼はため息をついた
ああ!その「他の人」なら、もう見たぜ
この摩耗具合、もう一発撃ったら、反動で肘がブッ壊れるぞ
俺の型番の交換パーツ、もう工場にないんだよな、ハハ
隊長も一緒に探してくれたんだが、半日探して、何とか使えそうなパーツふたつしか見つけられなかった。しかも隊長自ら磨いてくれたんだぜ!
隊長……
ふたりの構造体は黙りこくった
彼らの隊長が、変異赤潮から出てくることは二度となかった
ナナミが無言で彼らの会話を聞いていると、端末からビデオ通話の呼び出し音が鳴った
お待たせしました
彼女は会議テーブルの後ろから立ち上がり、ナナミに軽く頭を下げた
機械教会リーダー、ナナミ、私は空中庭園臨時議長として今回の「取引」に同意します
飛行座標を送信してください。取引協定の署名のため、すぐに機械教会の宇宙船へ人を派遣します
オッケー、座標を同期するね
臨時議長って……前にいたあのおじさんは?
……ハセン議長は休養中です。連日の勤務のせいで過労に
議長が倒れる前の指示に従い、今は私が臨時議長を務めていますが、ご安心ください。事案は、全てハセン議長も確認した上で進められます
すぐに空中庭園の者がやってきた
取引協定に署名後、約束通り、機械教会が必要とする宇宙船の設計図と試験資料が届いた
空中庭園の輸送艇も、機械教会の宇宙船と空中庭園の間を慌ただしく行き来し始めた
ふう、助かったわ。ありがとう、負傷者の処置が間に合ってよかった
気にしないで、これも「取引」の条件だから
エマ、彼らを私たちの輸送艇まで送ってくれる?
青い鳥2号はもうスペースがありません。大型輸送機を使わないと……
あれっ?あなた、初めて見る構造体だ……こんにちは!
エマと呼ばれた構造体はナナミに小さく会釈をし、端末を操作して大型輸送機の使用を申請した
エマはお嬢様だったのよ。理由はわからないけど、どうしても構造体になりたかったんだって。数年前はずっと訓練キャンプにいたわ
今は本当に人手が足りなくて。訓練キャンプの全員が予定より早く卒業しちゃったし、キャンプの教官たちですら、また戦場に戻ってるの
それにファウンスの学生たち……あの子たちはまだ子供だしね
彼女は不安そうに、担架で運ばれていく負傷者を見つめた
あなたたちと協力できてよかったわ。そうじゃなきゃ……
どれだけの子供が生き延びられたかどうか
他の人たちの情報は何か知ってる?
それって……
九龍とか、ワタナベおじさんとか
変異赤潮が広がり始めてから、誰とも連絡が取れなくなってるの
セリカが九龍商会に連絡したけど、空中庭園に来ることを選んだ九龍の人はほんの一部だけだったわ
彼らを迎えに行った輸送機が去って、九龍の首領はまたすぐにパニシングを防ぐシールドを展開した。それ以降、私たちも中の状況を探ることができなくなったの
オブリビオンは……
多くの犠牲が出たわ。ワタナベの副官が最後の座標を私たちに送ってきて、私が救援に向かったの
急いで!早く輸送機に乗って!
あと3時間もすれば、変異赤潮がこのオアシス拠点に到達する
輸送機が砂埃を巻き上げる中、そこに立っていたのは数十人の疲れ切った人間と構造体だった
どうしてこれだけしか残っていないの……?数百人はいるって聞いてたのに……
別の車両2台が……変異赤潮に呑まれました
ワタナベさんが人を連れて向かいましたが、その後どうなったかはわかりません……
……そんな!
あなたたちは1号機に乗って、すぐに離陸準備を。私はここに残る!
危険すぎます、ブリギット
時間がない、早く行って!
ブリギットに急かされ、1号輸送機はゆっくりと離陸した。残ったブリギットは2号輸送機のコックピットにひとり座り、じりじりしながら待機していた
空気中のパニシング濃度が徐々に上昇している
変異赤潮がオアシス拠点に到達するまで、あと1時間
地平線の向こうに砂塵が巻き上がり、赤潮の泥で汚れた1台の車両が、ふらつきながらこちらへ向かって走ってくる
ブリギットは輸送機を即座に起動し、その巨大な機体をレーシングカーのように急加速させた
早く!乗って!
車両の扉がガタンと外れて落ち、運転席に座っていたのは……見たところ10代と思しき子供だった
……ワタナベは?
リーダーは赤潮の中だよ。リーダーが、この車を赤潮の中から押し出してくれたんだ
この車に28人乗ってる。その内10人は負傷者で、あとの18人は子供だ
彼は赤潮から逃げてきたばかりとは思えないほど、冷静に見えた
リーダーはこう言ってた、空中庭園がみんなを連れていってくれることを望むって……
みんなを……オアシス最後の住民たちを
彼らはオブリビオンではなく、オアシスの住民たちだった
彼らが再び忘れられることはなかった
ブリギットとともにオアシスの住民が輸送機に乗り込むのを手伝っていた子供は、作業を終えた瞬間、力尽きて気を失った
輸送機が上昇する中、変異赤潮が津波のように押し寄せ、荒れ狂いながらオアシス最後の拠点を覆った
ワタナベに奇跡が起きて、いきなり赤潮から這い出てくるのを願うしかないか……ハハ
ブリギットは乾いた声で笑ったが、目の奥はまったく笑っていなかった
……
いいニュースがひとつもないの……
ナナミ、こんなニュース聞きたくなかった……
はぁ、誰だってこんなの知りたくないわよね……
ブリギット、大型輸送機の申請が許可されました。もうすぐ到着します
わかった、負傷者の移送準備を始めて
ナナミ、今回は本当に助かったわ
グレイレイヴン指揮官がよく話していた「ナナミ」と会うのが、こんな状況下だとは思わなかったけど……楽しい協力任務だったと思えたわ
彼女は軽やかに手を振ると、エマと一緒に負傷者を移送を始めた
空中庭園と機械教会の初めての連携は、こうした状況下で始まった