代行者の手はゆっくりと垂れ下がった
彼が戦闘続行が不可能になっても、鋭い棘は執拗に彼を追い続けた。まるで長年にわたり自分たちを阻んできた宿敵を、どこまでも永遠に追い詰めるかのように
人の形をほとんど失いかけた彼は、体を貫く棘の間で少しだけ身をよじらせ、途切れ途切れに声を絞り出した
……それでも私は警告します……カイウスと融合することが、唯一絶対の解決策だと……
とはいえ……あなたたちは聞き入れないでしょう……
もし……頑なに自分が正しいと言うのなら、塔を離れて去りなさい
異重合塔内の裂け目と崩壊は……私とカイウスが引き受けます
コアは……あなたたちが持っていってください……
カイウスは出口を維持するため尽力するでしょう……
フォン·ネガットは崩壊する塔の中で、数秒沈黙していた。最後の言葉を口にする気力も尽きたようだ
ですが、覚えておいてください。異重合塔の崩壊はもう……非常に深刻だ……
私と……カイウスは……何があろうともこの異重合塔を封鎖するつもりです……
そちらが成果をもたらさないのなら……私は絶対にあなたをこの塔に入らせない……
フォン·ネガットは微塵も期待していない様子で冷笑した。それより先に自分は死ぬと決めつけているかのようだ
……さようなら……次に会う時は、多分、本当の敵同士だ
カイウスは異重合塔コアを宿した「鍵」を手渡し、フォン·ネガットの側に戻ると、手を振って別れの挨拶をした
行って。塔の崩壊で全ての道が塞がる前に
はい
カイウスはふたりが手を取り合い、険しい近道へと駆け出す様子を見送った
希望に向かって駆け出すふたりの背中が完全に見えなくなると、カイウスはようやく視線を戻し、すぐ側にいる瀕死の代行者に向き直った
……もしルシアを異重合塔から連れ出して戦いを始めていれば、戦わずして勝っていたはず……
どうしてそうしなかったの?
それでは塔を守る者がいなくなり、更に危険になるだけでしょう
……それだけの理由?
あるいは、疲れたのかも
あのふたりが自分たちの正しさを証明し、私をこのループから解放してくれるなら、願ってもないことですよ
あなたが解放されることはない……もう少しの間自我を保つために、私にはあなたの助けが必要
カイウスは高濃度のパニシングを使ってフォン·ネガットの前に浮かび上がり、次の動きを示すように両手を広げた
…………
異重合塔内で戦うと決めた瞬間に、異合生物になる覚悟はできていたはず
……ええ……もちろん
フォン·ネガットは喘ぎながらも嘲けるように笑った
どうせ、ここに残された身だ……
一緒に地獄へ
……もう、地獄にいるのでは?
…………
消えることのない憎しみを抱えたまま、彼女は代行者のボロボロになった無残な体を抱きしめた
壊れた自分とともに、長く続くことになるであろう極刑を、そうやって彼に贈った
異重合塔は危険な状態にあり、激しく震動していた。壁が次々と崩れ落ち、長きにわたる苦難が崩壊とともに消え去っていくようだ
前方に立ちはだかる障害はことごとく砕け散り、果てしない苦痛の果てから希望へと続くひと筋の道が、真っ直ぐに伸びている
帰ろう……帰ろう……!慣れ親しんだ全てのもとに。平和だった暮らしに戻ろう
ルシアの足取りは驚くほど自分とシンクロし、大地を踏みしめる音はまるでふたつの心臓が共鳴しているようだ
彼女とともに長い道を駆け抜ける。まるで死など一度も経験したことがないように。そして再び塔の出口へと近付いた
終わりの見えない旅路が、ついに終点にたどり着いた。光はすぐそこだ
敵はすでに制圧し、体には僅かな軽傷しかない。入ってきた時のようにふたりともいつも通りだ
異重合塔のコア、そしてこれまでに得た全ての情報、未来への道を切り拓く全てが、ポケットの中にしっかりとしまわれている
そしてルシアが隣で、自分の手を握りしめている。この先、一生離すまいとでもいうように、しっかりと
この時、この瞬間、長い闇夜がようやく明け、黎明を迎えた――
はい、行きましょう。指揮官
背後の数えきれない苦難が崩れて落ちていく
前方には全てがある
異重合塔の恐怖が体から去っていった。逃げ延びて力が抜けたのか、疲れも押し寄せてきた
――ついに終わった
久しぶりの風の感触はどこか知らないもののように感じられたが、幸いすぐ傍らに、いつもの彼女の温もりがある
振り返ってその名前を呼ぼうとした。これまで、どの任務の終わりにもそうしてきたように、心からの喜びを込めて
しかし、その呼びかけは途中で止まった
…………
その手は突然自分の手を離れた。ルシアの体はまるで風化した旗竿のように突然崩れ落ち、彼女は片膝を突いた
彼女の温もりはあっという間に消え去り、無数の亀裂と腐蝕の跡が機体全体に広がっていく
異重合塔の中であれほど頑丈だった体が、今、塔内の構造と同じように瞬く間に崩れ去っていく
私……
あわてて彼女に手を差し出したが、ルシアはそのほとんどの力を振り絞って、ひび割れていく腕を僅かに持ち上げるのがやっとのようだ
それ見て、迷わず彼女の手を引き寄せ、彼女の体を支えようとした
その時、露出したΩコアがみるみるうちに暗くなり、ひび割れ始めた
瞬時に手を伸ばして剥がれ落ちていく破片を掴もうとしたが、その破片は指先でもろくも崩れ去ってしまった
動けないルシアを抱き上げて彼女を助ける方法を探そうと、焦りながら視線を四方に走らせ、ふと周囲の異変に気付いた
見渡せばそこは廃墟ばかりの荒野だった。灰色の空気中には、幕を焼き焦がす火の粉のような深紅の光が漂い、両目に焼きつかんばかりの現実が広がっていた
かつて見た塔の外の風景とはまるで違う。携帯していたパニシング検知器が激しく数値を変動させ、最終的には驚異的な高さで静止した
どこ……だろう……と……
彼女は溺れる者が流木を掴むようにこちらに掴まりながら、なんとか立ち上がった
幾多の戦いをくぐり抜けてきた光紋刀はもはやボロボロだったが、それでも地面にしっかりと突き刺さっている。ルシアは刀を杖代わりに、ひとりでよろめきながら進む
溺れる者が死の深淵から這い上がろうと必死にもがく姿は、かつて自分が死の淵にいた時や、彼女が赤潮の中から立ち上がった光景と同じだった
すぐにここを離れないと……パニシング濃度が高すぎます。それに、Ωコアがもう……
はい……わかりました……
ルシアはこちらを振り返り、虚ろに笑った。しかしこの励ましの視線がかえって胸に突き刺さる
不安が恐怖に変わり、心の中がざわつき始めた
――本当に救援を見つけられるのか?
万が一荒廃した時間や世界にたどり着き、異重合塔も崩壊し続けて戻れなくなった場合、あなたはどうするのですか?
かつて聞いた警告が再び頭の中に響き渡る
どこか感じていた違和感が、心を引き裂き始めた
――なぜこんなことになった?異重合塔のせいか?誓焔機体の負荷のせいだろうか?
…………
――こんなことにはならないはずだった
こちらの動揺を察してか、ルシアは震える手でそっと肩を叩いた
指揮官……
ここを……離れなければ……
彼女は再び数歩進んだが、やはり歩くことができず、武器を杖にして必死に体を支えた
ルシアは小さく頷き、支えられながらも自分の力で前進し続ける。彼女はどんな代償を払おうとも、決して危険な場所に留まらせるようなことはしない……
胸が締めつけられるような痛みに襲われ、口の中には生臭い鉄錆の味が広がった
あの時ルシアが霧域に迷い込まないよう、コアを彼女に託した。そしてフォン·ネガットを脅し、「夢渡る橋」を使わせてルシアを救い出した
限られた選択肢の中で、最も希望のある道を選んだはずだった。それなのに、なぜこうなってしまったのだろう?
反転異重合塔内の時間の流れは、外と一致していません
――輝いていた希望は、蜃気楼のように崩れ去った
…………
誓焔機体がどれほど完璧でも、果てしない戦闘やこれまでのΩコアの消耗には耐えられない
霧域を出たあとの彼女に本当に異常がなかった訳ではない。異重合塔とコアによって出現が遅れていただけだ
もし異重合塔を離れたら――これまで一度も塔を離れていない――もし、塔を離れてしまえば……
いつの間にかルシアは次第にこちらより遅れ始めた。彼女は後方を守ろうと、手で体を押し出すようにしながら、一歩ずつ前進していた
背中に伝わる力が消えた。だがもともとその力は微々たるものだった
ルシアは手を下げた。彼女の指先が背中から腰元へ滑り落ち、掴まる場所を見つけた
――彼女は再び自分の手を持ち上げ、力一杯しっかりと握りしめた
傷ついた機体で一歩を踏み出し、彼女はなんとか距離を埋めようと必死に足を進め、自分の傍らへ戻ってきた
わかりました……
行きましょう……支援を見つけ、あなたが安全な場所にたどり着くまで……
ルシアと支え合いながら、人影ひとつない廃墟の中、長い旅路へと歩み出した
ひとりは瀕死の構造体、ひとりは軽傷ながらも侵蝕された人間だ
呼びかけ、探し求めながら荒野をあちこち彷徨ったが、人の気配は一向にない
正午から夜更けまで歩き続け、身を寄せ合って浅い眠りを取った。そして明るい月の光の下で再び出発し、夜明けの光が降り注ぐまで歩き続けた
幸い、自分の傍には彼女がいて、彼女の側には自分がいる。そうでなければただひとりの孤独な生だ。それは往々にしていずれ死を迎えることになる
ルシアを支えるエネルギーも、終わりのない絶望の道中で尽きかけている。彼女は次第に口数が少なくなり、ただ静かに前方や、自分を見つめたりするだけだった
彼女に残された果てしない苦しみと破損の傷痕――そして治まることのない痛み。感覚がまだ残っている限り、その全てが彼女にとって苦難となる
ルシアに痛覚モジュールをオフにするつもりはないのかと何度も訊ねた
彼女は一貫して拒否した。彼女は、痛みを感じることで自我を保ち、意識リンクしているこちらへの負担も軽減できる、と言っていた
機体の損傷はもはや取り返しがつかないほどで、この状態で意識海に再び問題が発生すれば、事態が悪化するのは明白だ
ルシアは足手まといになるまいと必死だった。こちらができることは、僅かな希望を胸に抱き、ひたすら前進し続けることだけだ
欠けて散らばっている道標を頼りに、ふたりは空っぽの小さな街へと足を踏み入れた
ルシアは無言で頷き、新たに探索を始めるのだった
傷ついた身体は極度の疲労に追い込まれ、寒風の中で両脚はほとんど感覚を失っている。それでもなお胸の収まらない激痛が、自分を前へ前へと駆り立てた
無人の住宅をいくつも探索し、近くを徘徊する異合生物を撃退し、不気味な影が彷徨う中で身を潜めながら進んだ
見つかるのは使い物にならないものばかりだ。賞味期限切れの缶詰、老朽化した電子パーツ、そして空の血清
街の中心部を通り抜け、病院に足を踏み入れたところで、ようやく1台の通信装置を見つけた
ジジ――ジジ――
ジジ――――この通信を聞いている全ての生存者へ。パニシングは地表で徐々に拡大中です。あなた方のいる場所は安全ではありません
速やかに最寄りの基地または支援部隊に連絡を。通信装置を短3回、長3回、短3回の順でスイッチを切り替えれば、信号を検知した者があなた方の位置を特定します
繰り返します、この通信を聞いている全ての――
信号を送り続けて10回目で、放送が途絶えた
ジジ――ジジ――
ジジ――――こちらは北極航路連合所属の支援部隊メンバー、エマ·カッパーフィールドです。あなたの位置を特定しました。生存者は安全に注意し、体力を温存してください
繰り返します。こちらはエマ·カッパーフィールド――
エマ……
ルシアは逃れられない運命のループを嘆くように、弱々しく笑った
ええ……でも、ともかく救援は見つかりました
空気中の塵を通り抜けた陽光が、彼女の輪郭を柔らかく包み込んだ
浮遊する塵を見つめながら、ルシアはふと穏やかな微笑みを浮かべ、振り返って自分を見た
指揮官……
あなたと一緒にいられて、本当によかった……
――そんな遺言みたいなことを言わないで
支援部隊の救援車が小さな街の近くに停車した
夢の中で見た女性が約束通り現れ、最初にルシアの状態をチェックし、応急整備を施した
よくないです。Ωコアの過負荷は不可逆的なもので、すぐに機体交換の必要があります。彼女の旧機体は残っていますか?新たに適応させていては間に合いません
アシモフ……
…………
彼は、もういません
エマは俯き、この数年で起きた出来事を語り始めた
あなたとルシアが戻ってきたことも、私には信じられないくらいです。ですが……事実です
あなたが異重合塔に入った時から、すでに30年が経過しています
これを……
彼女は手に持っていた収納箱をくるんでいたチラシを剥がすと、差し出してきた
その黄ばんだ紙には見覚えのある文字が並んでいたが、その情報は理解できても到底受け入れがたい内容だった
おふたりが出発してから最初の3年はまだ、状況は悪くありませんでした。でも5年目には異災区の問題がやはり爆発してしまったんです
この30年で人類の防衛線はどんどん後退し、今では北極航路連合が地上最後の砦です
彼女は悲しげに首を振った
空中庭園はすでに地球軌道を離れ、新たな居住地を求めて宇宙へ旅立ちました
グレイレイヴンは……リーとリーフは、未来を探すという願いを叶えるため……宇宙船に乗り込み、宇宙の深部へ向かいました
――それはグレイレイヴン共通の願いだ
その他の問題については、バネッサに訊いてください
……ええ、数少ない生存者です
エマが端末を数回タップすると、端末から人影が浮かび上がった
…………
互いの視線が交錯し、沈黙が漂った
目の前の人物は記憶にある姿と大きく異なっている。しかしその馴染み深い面影は、まさに彼女当人である事実を明確に示していた
その挨拶に30年もかけたのか、[player name]
今回こそ、君は死んだと思っていたんだがな
なぜか、彼女は微かに声を詰まらせた
ルナは、君は必ず戻ると言っていた
そうだ。今の状況では彼女がいなければ、北極航路連合も持ちこたえられなかっただろう
……鴉羽機体?
……目の前にひとりいるぞ、エマだ
…………
静かにしろ。その質問に答えられる人物を探している
バネッサはそう言いながら、すっと手を上げた。ぼんやりとした映像越しに、機械構造がうっすらと見える
……もうかなり前になる。ホワイトスワンが再編成され……最後に生き残ったのは私ひとりだ。その後、私は構造体に
今はスカラベ小隊の隊長だ
犠牲になった。そのことはまた後で話す
バネッサは腰を下ろし、イライラしたように耳元の髪をかきあげた
よく聞け。希望は薄いが、今ふたつの方法がある
ひとつめは、エマの物資輸送車で北極航路連合に来ることだ。構造体整備ができる者も設備も、全部そこにある
今の地上の状況では、そこへ着くのに最短でも14日はかかる。それまでルシアが持ちこたえられるか?
エマに問いかけるような視線を向けたが、彼女は首は振った
…………
バネッサの言葉が、フックのように刺さり全身の力を奪い去った
思わず椅子の背にもたれかかる。言葉を絞り出すのがこれほど困難になる日が来るとは、思いもしなかった
鴉羽機体を探すことだ
その言葉の直後、通信装置が突然音を立てた
見つけた。エマ、東へ2614km走れば、旧駐屯地にたどり着けるよ
アシモフ先生は行く前に鴉羽機体をここに残していってる。ただ……
ロサの話を最後まで聞け
映像越しの少女は、すでに構造体の体になっていた。記憶の中にある無邪気でそそっかしい姿に比べ、今の彼女はうんと冷静で、いささか冷酷にも感じる
鴉羽機体を保管する倉庫は、一度駐屯地ごと赤潮に呑み込まれてる。赤潮が引いたあとに資材回収に行ったけど、鴉羽機体についての情報はなかったわ
運を試してみる?
……どうする?
もちろん
その言葉を聞いて、エマは頷いた
乗ってください、急ぎましょう
藁をも掴む思いで、ルシアを支えながらエマの物資輸送車に乗り込んだ
幸運を祈る
[player name]
のろのろと顔を上げると、ぼやけた視線のバネッサと目が合った
ともあれ、よく戻った
バネッサはそう言って通信を切り、通信チャンネルにはロサだけが残された
はい、指揮官
わかりました
窓の外では車の速度に合わせ、荒野が後ろへ後ろへと流れていく
旧駐屯地の情報や過去の情報が、ロサの澄んだ声とともに次々と頭に流れ込んできた
リーは異重合塔がもたらした裂け目を修復し、自分とルシアが同じ時間に塔へ入るのを見届けて、リーフと再び塔への進入を試みた。だが全てが徒労に終わった
コアを失ってもなお塔内で苦刑を受け続ける代行者は、何人たりとも塔への進入を許さなかったのだ
ストライクホークはクロムとバンジだけが残り、カムイは調査任務中に行方不明になった。カムイを探しに行ったカムも二度と戻らなかった
ケルベロスは避難したが、マーレイは病没していた。バロメッツは避難任務の際に後方を志願してそのまま全滅。現在、基地にはスカラベと支援部隊の隊員が残るだけ
…………
次第に意識がぼんやりし、まぶたが重くなり、車窓の外の景色がぼやけ始めた
はい
彼女の手はすでに少し冷たくなっていた
祈るように囁く内に、久しぶりに暗闇の抱擁に包まれた