コツ――コツ――
ルナは反転異重合塔を出て、柔らかな陽光の輝きに目を細めた。その細い視野の中にぼんやりとした影が浮かんでいる
ふたりは無言で見つめ合った。ルナは考えを整理しながら話そうとしたが、相手が人差し指を立てて静かに、と示し、もう片方の手でイヤホンを軽く叩いた
[player name]、そちらはどうですか?代行者は出てきましたか?
こちらは情報の乱れを検知しました。各データに激しい変動が見られます
以前の予備プランについてはどうお考えに?
……
ルナは思わず笑ってしまった。ある言葉が口元まで出かかっていたが、結局それは言わずに別の内容に変えた
その提案、気に入ったわ
その言葉に、場の雰囲気が一気に和らいだ。相手はよく見えるようにしてイヤホンを外し、作動中のランプが消えるまで高く掲げたままにしている
塔のコアの悪化は止められたけど、これはセレネと0号代行者のふたりが引き起こしたものよ。私には清浄地を元通りにすることはできない
ルナは答えたあと、しばらく考え込んでから顔を上げ、真剣な眼差しで目の前の人物を見ながら話しかけた
もうひとつ……0号代行者が今置かれている状況について、私にはまだよくわかっていない
ただの返礼よ
ルナはふと思い出したかのように、意味深な表情で相手のイヤホンを指差した
今回の協力関係には満足してる。あなたたちの清浄地はもう安全だし、私も欲しいものが手に入ったから
立場が違っても、厄介な事態の際には、協力して対処しなければならないこともあるという前例になったわ
今回の出来事は今後、協力関係の参考になるでしょう。利害が一致するならば、また私に助けを求めても構わない
ただし
ルナは一瞬黙り込み、語気を強めた
私、そして配下の昇格者たちが信じるのは[player name]ただひとりよ
どうしたの?私の態度に驚いた?
単にあなたに、あってもなくてもいい保険を追加しただけよ。もしあなたに何かあれば、空中庭園が昇格者に対する方針を変えないとも限らない
私が有利になる方法だから選んだだけ。深読みする必要はないわ
ただ?
……さっきのセリフを修正した方がいい?この協力関係は実に不愉快なもので、2名の死者まで出た、って
グレイレイヴン指揮官とロラン、その2名がね
ふたりはしばらく目を合わせていたが、やがてそれぞれ顔をそむけ、思わず笑顔になった
お互いの利益が一致しただけ。それに……私がそんなことを気にしないって、知ってるでしょう
ルナは無表情だったが、背中の羽根が僅かに動いていた
次に会った時、私をがっかりさせないで
バサッ――
ルナの言葉と風の音が重なり、突風が吹いた
風がやんで目を開けると、目の前にはもう誰もいなかった
数日後
清浄地
数日後、清浄地
数値は安定、外見上も正常だ。清浄地のパニシング濃度の増加もなく、比較的安全な低濃度範囲に留まっている。昇格者はこちらを欺いてはいないと結論づけていいだろう
ここからは俺の範疇外だ。住民を落ち着かせ、清浄地を再建するのは担当じゃない。技術関連の支援が必要になったら、また連絡してくれ
今のゲシュタルトの状況を抽象的かつ不正確な「大変」という表現ではくくれない。必要なら、書き終えたばかりのレポートがある。容量は100MBほどだ、読むか?
なんだ、せめて受け取ってから困惑するのかと……まあ、そんなことはいい
……そうだな。昇格者が反転異重合塔に入ったことで、多くの者が不安がっている
準備中や再開中の計画はたくさんあるが、俺はどの計画にも目を配り、それぞれにエネルギーを割く必要がある
彼らの考えや目的には価値を見出せないことも多いが……ひとつだけ正しいと思えることがある
俺たちには反転異重合塔を自由に出入りできる機体が必要なんだ。例えば……ルシア
わかっているからこそ……いやいい、忘れてくれ
映像に映るアシモフが珍しくため息をついた
まあとりあえずそういうことだ、また連絡する
一瞬でアシモフの姿はスクリーンから消えたが、彼の言葉の余韻が消えることはなかった
遠くにそびえる高い塔を見上げ、ポケットからチップを取り出した。反転異重合塔に関する答えが得られる場所があるとすれば、間違いなくこの中だ
チップを端末に挿入したとたん眩暈に襲われ、視界が再び滝のようなデータに包まれた
今日の日付は?
聞き慣れた声が響く。初めて聞いた時とは異なり、感情が減り、冷淡さが増している
これはあの「招待状」の遺留物だった。「ドミニク」の招待を拒否したあと、データ空間に漂う幽霊は完全に消えていた
残されたのは固定化された質疑応答システムと、その最奥に隠された情報のブラックボックスだけ
異重合塔の状態は?
実際には答える必要はない。プロセスは勝手に進行するが、これらのパラメータのような質問によって、問題のロジックに沿った思考を余儀なくされる
汚染模倣因子の状況は?
空中庭園の形勢は?
…………
次々と繰り出される質問が終わり、新しい画面が浮かび上がった
設定したパスワードの入力を
パスワード不一致
画面がリセットされる。その冷え冷えとした入力ボックスはまるで砦のように、秘密と真実を深淵の中に隠している
もし「関係者」がこの時代に何かを残そうと思ったのなら、選ばれるのは、おおかたあなたでしょう
一体何をしようとしている?
よく考えて御覧なさい。手がかりはあなたの近くにあるはずですよ
フォン·ネガットいわく、アシモフは秘密裏に数人の暗号解読の専門家を招き、情報源を分けて機密を保持しつつ、可能性のあるオブジェクトやデータを分析させたらしい
SNSアカウント、端末のパスワード、学籍番号、ファイル情報……暗号解読の専門家はそれらを基に多くの可能性を挙げたが、 どの推測も全て間違っていた
各種の内容が頭をよぎり、最終的に残ったのは非常に馴染みのある一連の数字だった
パスワード不一致
予想通りだ。この数字は自分だけの秘密で、ドミニクとは無関係のはず。たとえファイルに記載されていても誰かに知られる可能性が高く、パスワードとしては使えない
チップのプログラムを終了すると、視界が正常に戻った
端末を再操作し、清浄地の数値の統計をまとめてバックアップした。そのまま後続の処理部門への送信準備をしていた時、意外な通知が表示された
パスワードが短期間に複数回、確認及び変更されたため、アカウント乗っ取りの可能性があります。パスワードをリセットしてください
いわずもがな、暗号解読専門家たちの新たな作業が再び始まったのだ。彼らに協力して自らの各種パスワードを提供する度に、情報の安全性のためリセットの必要があった
パスワード設定の要件を満たすために、新しいパスワードは大文字、小文字、数字、特殊記号のうち3つを含める必要があります
ぶつぶつ言いながらパスワードをリセットしていた指がふと止まり、奇妙な考えが浮かんだ
もしフォン·ネガットのほのめかしが本当なら、やはり自分に関係があるのでは……
心の中に猛然と衝動が湧き上がり、ある予感が胸をドキリとさせた。もう一度チップを挿入し、冒頭の質問をスキップする
パスワード一致、ようこそ
今までと違う応答が響くとともに、視界が光に埋め尽くされた
同時刻
ルナは暗く荒廃した道をたどり、再び空っぽの我が家に戻っていた
……もうすぐ夜が明けるわね
埃が積もった床を見つめながら、ルナはそっと目を閉じた
あの日、ルナは反転異重合塔の扉の向こう、星空が敷き詰められた不思議なトンネルに足を踏み入れた
セレネの計画では、ルナが「鍵」となり、彼女を過去に完全に戻すはずだった
しかし今ではルナが勝者であり、当然ながら適切な「鍵」は存在しない
セレネの全てを受け継いだあと、ルナはトンネルに踏み込むことの意味をよりクリアに理解した
彼女は人類のような特殊な機体を持っていないため、過去の自分に情報を送ることはできない
……それでも解消できない感情に誘われ、一歩踏み出してしまった
それは自分の悲惨な過去を変えるため?
……違う
長い探索の旅の中、ルナはすでにセレネが示した無限の推演の中で、時間を意図的に改変した結果を見ていた
たとえ越冬するための物資を渡さなかったとしても、ルナと姉はその冬に襲撃されていた
ましてや、ルシアの代わりに構造体にならなければ、彼女はルシアの足手まといになり続け、雪が降りしきる冬に命を落としていただろう
もし彼女がトンネルを「深く」進み、パニシング爆発直後に戻って家族を救えたとしても……彼女たちはグレート·エスケープの資格を持たない。何をしようが結果は変わらない
セレネが何度も成果のない結末を見せ、過去を変えさせようとした目的は、ただひとつ――結果が得られないという絶望に、ルナを突き落とすことだった
そして、憎しみに満ちた過去の道を再び歩ませるためだ
2161/1/5
2161/1/5
淡い月の光が誰もいない街道を照らしていた
彼女は「今」と同じ場所に戻り、全てを奪われた体で、パニシング爆発後の16日目にやってきた
この短い旅は過去を変えるためではなく、久しぶりにあの人に会いに行くためだ
この小さな町には、遠くで起きたニュースを聞いて避難した人も多くいた
不安を抱え、家の扉をしっかりと閉めた人も少なくない
好都合だった。月の光以外、彼女の来訪に気付く者はいない
遠く暗い窓を見つめ、ルナはどんな表情をすればいいのかわからなかった。喜び?それとも悲しみ?
夜も更け、母親は家の中にいる。彼女がルールを破って扉を通った代償を払うまで、彼女は母親に会えず、こうして遠くから眺めることしかできないのかもしれない
それでも遠くから、ひと目見るだけでもいい。自分を慰めるためだけでよかった。長い別れの中で、もうぼやけた記憶になってしまったあの姿を見たい、そう思った
突然、家の中の灯りがひとつ静かに灯り、ルナは窓の向こうに立ち上がる人影を見た
すぐに廊下の灯りも点き、その人影はルナの、あるいはかつてルナが過ごしていた部屋の前で立ち止まった
人影は手を上げ、そして下ろし、それを数回繰り返したあと、静かにドアに触れた
…………
彼女は思わずハッと息を呑んだ。感情はデータではない、スイッチなどない。遮断することは不可能だ
行かなくちゃ
ルナは自分に言い聞かせた。だが彼女が立ち上がった時、電話ボックスが微かに揺れ、掛かっていた受話器がゴトっと落ちた
プーッ――プーッ――プーッ――
繰り返す低い音は、催促するようでもあり、問いかけているようでもあった――
すぐにそれを拾い上げたが、受話器を戻すことはしなかった。ルナは電話ボックスで何度もためらって、本来なら誰も出るはずのない番号を押した
はい、もしもし?
…………
もしもし?
……こんばんは
ルナは、言葉を学び始めたばかりの幼子のように、やっとのことでその言葉を口にした。受話器の向こうが一瞬静かになる
整理しきれない思いが脳裏に浮かび、ルナは受話器を戻しかけたが、受話器から聞こえてくる声にその動作を止められた
どちらさま……?
ルナはゆっくりと受話器を耳に当てた
……私は……
……ルナの……友達です
ルナの?あら、ルナはもう寝ているの。起こした方がいい?それとも何か伝えておきましょうか?
電話の向こうの声は少し疲れていたが、それ以上に不安がっていた
外は混乱していて、通信も何日も止まっていたでしょう。あなたが電話をくれて、復旧したことがたった今わかったわ。あなたとご家族は大丈夫だったの?
……家族……家族は、今は大丈夫。私も……大丈夫です
彼女は電話ボックスのガラス越しに、夜の中で娘を見守っている人影を見つめた
……こんなに遅いのに……まだ寝ていなかったんですね
ええ、ルシアと父親がまだ帰ってきていないから、待っているの。あなたは?こんなに遅いのにまだ休まないの?
――「待たないで、すぐに逃げて。もうすぐここも陥落する」
彼女はそう言いたかったが、過去に干渉することの結果を嫌というほど知っている。そのため、黙っていることしかできなかった
私の家族も帰ってきていなくて、待っているの……少し話してもいいですか?……おばさん
家の中の人影は立ち上がり、窓辺に近付いた
……ええ、あなた、なんだかルナに感じが似ているわね。あの子も眠れない時は、私にお話してって言うの
……そうですか
ひとたび話し始めれば、続けるのは案外簡単だった。ふたりは近くて遠い距離を隔てて話し、次第にぎこちない会話から普通の雑談へと変わっていった
ルナは自分の身元や時間といった敏感な内容を避け、まるで普通の世間話のように話した。しかし……彼女の声は次第に小さくなっていった
――これが「鍵」を持たない代償なのだ
……どうかしたの?
……何でもありません、少し……眠くなって
それなら、もう休みなさい。規則正しい生活をすれば、元気でいられるものよ
あの……
どうしたの?
……おばさんの家にある雪影蘭、まだ咲いてますか?
雪影蘭……ああ、そう言われて鉢を入れるのを忘れていたことを思い出したわ。ここ数日、外の出来事で何もかも混乱していたから
そう……
彼女は名残惜しそうな声を出した。視界が次第に暗くなっていく
じゃあ……お休みなさい
ええ、お休みなさい
電話の向こうの声が途絶え、ルナは目を閉じた
周囲の全てがあっという間に消えていく
ルナ
ルナがぼんやりとした記憶をたどりながら顔を上げると、αが隣に立っていた。すでに夜が明けている
大丈夫?
…………
彼女は答えず、αの近くへと歩いた
あの扉の向こうのことはまだ思い出せない?
ずっとぼんやりしているの。夢か、あるいはパニシングから読み取った映像みたいに
でも、それは実際に起こったことだと確信している
少女が微笑みながら見ている場所を、αも眺めた。廃墟の中でひとつ、雪影蘭の若芽が揺れていた
雪影蘭……
前にあれほど探したのに、家の中にあったのね
ええ
だから、ずっと考えていたの
きっとパニシングに侵蝕されていない場所や、昇格ネットワークの推演では観測されない変数が、まだあるはずよ
鏡がどれほど壮大な星空を映し出すことができたって、鏡の枠という限界がある
私はあなたを離さないし、昇格ネットワークの推演を現実にはさせない
……私たち、まだ変えられる何かを、きっと見つけられるわ