子供の頃、ルシアはルナに「星を捕まえる」話を聞かせたことがあった
――ずっとずっと昔、人がまだ星空を歩く方法を知らなかった時のこと
――広大な星空は神秘に満ち、流れ星は人間への天からの慈しみとされていました。流れ星が消える前に願いをかければ、それは叶うと信じられていました
――ですが、流れ星はいつもあっという間に消えてしまいます。手が届かない星を、神像のように手に入れるにはどうすればいいのでしょうか?
――そこで、ある老人は鏡を手に取り、その鏡を空に向けました
――すると、星空は鏡の形に沿って「切り取られ」、鏡の中にきちんと収まりました
――「素晴らしい!これで星空を触ることができる!」人々は鏡を持って歓声を上げました
――ちょうど流れ星が鏡を横切った瞬間、老人はサッと鏡を手で覆いました
――「どうじゃ、流れ星を鏡に閉じ込めたぞ!」
――「さあ、願い事をしよう!」
なぜだろうか、ルナはこの言葉にゾクッと身震いした
ゲシュタルトのデータウォールが開かれた瞬間、ホールは漆黒の闇に包まれ、スクリーンには真っ赤な警告だけが狂ったように点滅していた
空中庭園の床が、ゲシュタルトとともに揺れ始めた
合金外殻の下では深紅の稲妻が激しく暴れまわり、パニシングが溢れ出してくる
パニシングは内側へと収縮し、人間の眼球ほどの大きさの真っ黒な球状コアへと凝縮した
それはまるで光を呑み込む黒い星のようでもあった
……やはりこの道にたどり着いた
暗闇の中に佇む女性は、そう言って大混乱が起きている方向を見つめた――人類は今まさに、爆発の危険とせめぎ合っていた
緊急電源が作動しねえッ、【規制音】!オレについてこい!
これは一体……
電力復旧には時間を要する。俺たちはゲシュタルトに向かうぞ!少なくともどちらかを対策せねばならん!
向かいながら話す!
グレイレイヴンとアシモフは警報が響く中、暗闇へと突入していった
厳重に封鎖されたゲシュタルトのメインゲートの背後で、黒い星のような球体は、自分が閉じ込められていた時間を「見つめて」いた
「今回」は2160年12月20日から始まる……今年の12月20日まで、あと5日しかない
パニシングが地球に降り立った瞬間、それは地球文明の礎であるもの―—情報に照準を合わせた
そのため、パニシングは当時最大の情報媒体であり出力ポートでもあったゲシュタルトに、優先的に侵入した
もしゲシュタルトによって阻止されなければ、模倣因子での汚染特性を持つパニシングなら、電磁波を介して伝播することも可能だった
十分な時間さえあれば、その汚染は文字や言語にまで浸透し、いずれ地球文明の未来は完全に断たれていただろう
しかし12月20日に爆発が起きた瞬間、パニシングは本来持つべき特性を奪われ、「抜け殻」だけが残された――それが現在のパニシングだ
「抜け殻」となったパニシングは長い時間の中で多くの構造体や、機械、人間を侵蝕し、次第に地球の情報を自身に埋め込んでいった
そうして少しずつ地球の「特産」としてのネットワーク――昇格ネットワークが形成された
…………
このような「特例」が生まれ、新たな存続の可能性が垣間見えたからこそ、「彼女」はここに現れた
長い時間の中で人々を見つめながら、何度も家を再建し、何度も新たな災害に直面しながら、少しずつパニシングの中に潜む「ネットワーク」を探っていた
最初に、侵蝕された機械は見た目ほど無秩序ではないことに気付いたのは、ある構造体小隊だった
つまり、侵蝕体の間に連携があると推測しているのね?
はい。後から来る侵蝕体はどうも、我々が仕掛けた罠を避けているようなんです
罠の位置を変えたり戦術を改善しても、結果はほぼ同じ――どんなに完璧に罠を設置しても、後続の侵蝕体がそれに気付いているフシがあります
ネットワークに接続された作業機器のように、侵蝕体たちが相互に情報を伝達しているのは間違いないでしょう
でも、ネットワークはとっくに切断されているはずよ。本来なら、侵蝕された機械体には攻撃性しか残らない……
まさか……
女性指揮官の顔色がサッと一変した
この件は上に報告しなければ
パニシング間のネットワークの存在に気付いたことで、人々は再び昇格ネットワークに入る方法を探し始めていた
本当に残念でならん。あの奇跡をもう二度と再現できないとはな
グリースは悲しげな表情でため息をつき、もう長らく更新されていない資料を見つめた――そこには一度きりの奇跡が記録されている
当時の技術では、構造体への逆元装置の装備は大きなリスクを伴った。一瞬の油断で対象が「潜在侵蝕体」になってしまえば、数十時間で完全に制御不能となった
だがグリースの部下はルナの出現前にひとりだけ、特殊な子供を見た。彼女と彼女の母親はともに改造手術を受け、結局はふたりとも最後まで持ちこたえられなかった
作戦部隊がふたりを処分しようとしたまさにその時、完全に侵蝕されたはずの母親が突然娘を庇った。その子供が唯一、改造失敗後に侵蝕を免れた構造体となった
本当に残念だよ
彼はもう一度繰り返した
あの子がもう数日生き延びてくれりゃ、人類はあれが単なる偶然なのか、本物の奇跡だったのかを解明できたかもしれねえんだ
今となっちゃ……死の恐怖とか愛とかが関係する何かだったのかと、そう推測することしかできん
今でも彼らはまだその奇跡を探し求めている
この計画をまだ続けるのですか?
もちろんだ。構造体を増やすことはもともと必要事項なんだよ。それにもう一度あの奇跡が起きるかもしれないだろ……
彼らはずっと、その奇跡を掴み取ろうとしていた
テストの結果、君たちの身体はTa-193コポリマーとの相性が非常に良いことがわかった
つまり、君たちには構造体になる素質がある
構造……体?
そのために、彼らは多くの命を費やした
では子供たちは預かろう
成功すれば、この子たちはこのエリアの防衛任務に当たる。皆の安全を守ってくれるんだ
人類は、たとえ鏡に映った影であっても、昇格ネットワークの姿を捉えなければならない
今度はルナが、お姉ちゃんを守る番
バイバイ……ルシアお姉ちゃん……
――彼女は昇格ネットワークを見つけた
ゲシュタルトの中に深く埋もれている「黒い星」に代わり、パニシングに命令を下す役割を引き継ぎ、侵蝕に影響を与える権利も手中にした
たとえそれが万人が期待を寄せる偶然から始まったとしても、たとえその人物がルナではなかったとしても
……この死体の海の中で、誰かは必ず昇格ネットワークを見つけ出す
この主なき災害も、リード越しに主人に引っ張られるのを待っているかのように、秩序ある命令を欲していた
主なきパニシングは、それを制御できる者によって更新を繰り返し、当初の訪問時に得ていた任務を再び実行するはずだった
だが、たったひとりの少女が文明間の駆け引きをうかがい知ることなど、どうすればできるのだろう?
当時の彼女にあったのは、憎しみと後悔、そしてまだ取り戻せていない心だけだった
しかし彼女が望もうが望むまいが、パニシングは無数のしがらみと暗がりに潜む干渉の中で、少しずつ変化していった
……この時までは
「黒い星」がイシュマエルを見つめているように、彼女もまた30年以上囚われている「黒い星」を見つめていた
時が経ち、当初の特性を失った「抜け殻」のパニシングは地球独自の情報で満たされ、すでに模倣因子汚染特性を放出する場所を失っていた
しかし、代行者の権限を持つ個体が情報の場所を手放し、それを昇格ネットワークと融合させてしまえば、この世界に残された結末はひとつだけになる
……
再選別を受けていないルナに抵抗する術はない。なぜなら昇格ネットワークで彼女は偶然、ある者に取って代わっただけなのだ……
……0号代行者
現在の空中庭園の技術レベルでは、「それ」がひとたび解放され地上に落ちてしまえば、その後に起こる全てを誰も止められないだろう
昇格ネットワークと融合した「それ」は再び自身の伝播ルートを探し、文明の伝播方法を汚染して、未来を滅ぼす
もっとも理想的な処理方法は、解放される前にそれを閉じ込めている牢獄――ゲシュタルトの対応セクターもろとも破壊することだ
だが、そのような所業の代償を、惜しみなく払える者など存在するだろうか?
間に合わない
これから起こるであろう爆破と墜落への対処も、完全な破滅という結末を避けることも、もう間に合わない
このままでは、「カイウス」の体内に深く埋まっている可能性さえも消えてしまい、「復路の切符」としての機能だけが残ることになる
…………
周囲の振動はますます激しさを増した。未来から借りた檻はすでに尽き、やがてその球体は上空の空中庭園を揺るがすだろう
より近い場所でフィナーレの始まりを見届けるために群衆が集まる方へと歩いて、彼女はふと誰かが壁の隅に落とした絵本に気付いた
物語の中で星を捕らえるのに使われた鏡は、走り回る群衆に踏みつけられ、ひびが入っていた
イシュマエルは、「鏡」のひび割れの向こうに訪れようとする影を見た
あれは、最後の変数だろうか?
封鎖されていたゲシュタルトのゲートが開いた瞬間、パシニングの異重合球体がこちらへ向かって突っ込んできた
アシモフの襟首を引っ掴んで、自分の体ごと後ろへ倒れ込むことで、彼をゲシュタルトの前から素早く引き離した
ほぼ同時にその球状のコアはアシモフが立っていた場所を突き抜け、不意に引っ張られた弾みで彼の手から離れていった機器が、赤い電流の中で砕け散った
危ない!
ゲートに最も近かったルシアが真っ先に反応し、体を盾にして前方へ飛び出した
リーフは少し離れた場所にいたが、球状異重合コアが出現した瞬間に感応モジュールが鋭い警報を発したため、ルシアにも劣らない反応を見せた
彼女は駆け寄ると同時にフロート銃で攻撃体勢をとったが、球状異重合コアの速度は非常に凄まじく、即座に狙いを定められなかった
……
高エネルギー狙撃ライフルを構えたリーは冷静に照準を合わせ、機体のアルゴリズムを限界まで稼働させた。この瞬間、彼は時間がゆっくりと流れているように感じた
直径約2.4cmの異重合コアは横溢する不安定なエネルギーによって放電している。直接攻撃では爆発の可能性があるため、精確な射撃で軌道を変え、皆から遠ざけなければ……
分析、照準、発射
バンッ!
放たれた弾丸は赤い電流の隙間を精確にすり抜け、内側の球状異重合コアに命中した
撃たれた異重合コアは衝撃で方向を変えたが、次の瞬間には急速に元の運動軌道へと戻った
自ら調整しているのか?
バン!バン!バン!
リーは間髪入れず連射したが、命中する度に球状異重合コアは運動方向を変えるものの、すぐに元の軌道へと立て直してくる
自己適応して調整する様子は、まるで異重合コアが自意識を持っているかのようだった
?!
球状異重合コアの進行方向に、ひとりの監察院のメンバーが立っていた
人間の反応速度は構造体には及ばない。監察院のメンバーがその危険を察知した時には、すでに赤い電流を帯びた球状異重合コアが目前に迫り、避けるには遅すぎた
危ない!
その隊員は瞬時に彼女を突き飛ばした
バチッ――
全速力で回避しようとした隊員の手と腕に、赤い電流の衝撃が走った
アルゴリズムセンターの合金製のメインゲートは退路を塞がないよう、わざと開けてあった。ゲシュタルトから出現した球状異重合コアは、真っ直ぐそのゲートへと突進していく
リーフ!負傷者の救助を。私は指揮官を守ります。リー!
了解
リーは高所から飛び降り、異重合コアの後を追った
ルシアは自分の傍らで周囲を警戒し、リーフは隊員のところへと駆けつけた
リーフが到着するより先に、隊員は破れた防護服を自分で引き裂いた。高温とパニシングによる侵蝕で焼け爛れ、侵蝕は瞬く間に腕に沿って肩口にまで達している
隊員は拳銃を取り出し、肩に銃口を向けた。改造された大口径の弾丸が瞬時に肩の肉と骨を貫く
その一連の動作には一切の迷いがなかった
すぐに血清を打ちます!
Ω武器は!
球状異重合コアが纏う大量のパニシングは、赤い電流とともに室内に広がるはずだった。なんとかΩ武器がパニシングを吸収し拡散を防いでいるが、赤い電流の直撃を受けている
傷口からドクドクと溢れる血を気にもせず、隊員は室内に設置されたΩ武器が正常に稼動しているかを、構造体小隊に確認させた
室内のパニシング濃度は?
すでに安全範囲内で、減少し続けています
動かないでください、包帯を巻きます
ゲシュタルトは?
ゲシュタルトはどうなった?侵蝕されていないか?
ゲシュタルトに絡みつく赤い電流は見られない。しかし本体はボロボロで、かなり損傷しているようだ。深紅の光は再び淡い青色に戻ったがその光は弱々しく、時に暗く翳っている
その様は、今際の際の老人が途切れ途切れに呼吸しているかのようだった
引っ張られて倒れたアシモフは跳ね起きると二次災害の危険も顧みず、ゲシュタルトに駆け寄った
接続されていた装置は電流が走った際に損傷して使えなくなっていたため、彼は予備の機器をポートに接続した
接続した瞬間、機器のスクリーンが理解不能な内容を映し出した
データが乱れているな……パニシング?いや……違う。これはパニシングの侵蝕症状じゃない……
詳細は不明だが、何らかの有害データに侵されているようだ。パニシングではないが、厄介なことに変わりはない
俺がゲシュタルト内のデータを区域ごとに分割し、プログラムを利用して、影響を受けていないコアデータをバックアップする
だが今はデータよりも、ゲシュタルトのハードをメンテナンスすべきだ。誰が行くか……
アシモフが言い終わる前に足下の床が揺れ始め、彼はまた倒れそうになった
揺れが次第に激しくなり、次第に全員が気付いた。揺れているのは足下の床ではない、これは部屋全体――
空中庭園そのものが揺れている!