九龍
11月10日、17:05
六橋港南区居住地廃墟
「異合生物が完全に九龍から撤退してから、すでに9時間が経った」
「夜航船の指揮の下、正式に登録された64万3729名の九龍住民のうち、全2451名の九龍衆が万世銘地下古都へ避難する前の戦闘で戦死」
「光壁再起動の任務における犠牲者248名」
「低温核融合炉の過負荷操作任務での犠牲者14名」
「万世銘地下古都への避難前に死亡、または行方不明となった者は2万3227名」
「空中庭園の支援と曲様の許可を得て、九龍住民は万世銘地下古都へ避難した」
「その後、万世銘地下古都で、九龍衆の1265名が死傷し、26名が行方不明となった」
「万世銘地下古都に避難した61万人余りのうち、1万7986名が死亡、または行方不明となった」
「事態が収束して異合生物と侵蝕体が撤退した際、九龍には59万8512名の生存者がいた」
「この戦いで、九龍は合計で4万5217名の犠牲者を出した」
「九龍六橋港の南北両区で建物の約75%が破壊、北港区と万世銘地下古都への避難で、核融合炉を除く主要な民間と工業設備の損壊率は約10%、生産活動はすぐに回復した」
「九龍夜航船は内港の峡湾に停泊したため、深刻なパニシングの被害は出なかった」
「のみならず九龍は数時間に渡ってアディレ商業連盟やオブリビオンからの支援を受け、まず最初に浄化塔を修復した」
「市内にほとんどパニシングの残留はなく、戦場と残された少数の機械体を除いて、パニシングの含有量は非常に低かった」
「虚実を問わず、生死を問わず、どれだけの代価を払うことも厭わない。どんな戦争も物事も九龍の生き残る意志は打ち崩せない。この曲様の言葉を私も固く信じる」
「我々を助けてくれる人がいる――」
お父さん!あっち!
澄んだ子供の声が、文字を書く彼の手を止めた。彼は仕方なくペンを置き、分厚くて重いノートを閉じると、焼け落ちて廃墟となった部屋から出た
こら、暁晨!走るんじゃない!
胡は子供を連れて、今にも焼け野原のような庭へと戻った。どんなありさまでも、ここは彼の家だ
戦争が終わっても、于は一日中医療センターで負傷者の治療にあたらなければならなかった
高社長は万世銘古都で救助され、最後は工場設備保管庫の前で亡くなっていた。九龍衆による救助は間に合わなかったが、設備は幸い無事だった
蘇夫人はあれから一度も姿を見せず、胡も彼女を見ていない。九龍衆公式の統計データでは、蘇夫人の名は行方不明者一覧に記載されている
年老いた贔屓衆の文澈は、万世銘古都で物資の監督中に転倒し、現在も医療センターで治療中だ。昏迷状態で毎日「文瀾」という名をつぶやくが、誰もその人物を知らない
工場の四爺は、戦争に志願して負傷したが、彼が引き取った子供たちは全員無事だった。彼は九龍衆からの補助金を拒否し、今も工場で黙々と働き続けながら息子を偲んでいる
何夫妻の素朴な情の深さは以前と変わらず、食品店の許とともに家々を回って食べ物を配達し、粥の炊き出しにも精を出している
そして、馬老人は――
……知ってる?あなたの性格は父親にそっくりなのよ。容姿は母親似ね
杜衡は廃墟の頂上に座り、側の瓦を手に取って向こうへ放り投げた
彼女の手には、いまだに洗い落とせないほど血と埃の跡が残っている
あなたの両親は公務が忙しくて、あなたの世話を祖父に任せるしかなかったのを覚えてる。でもふたりともすごくあなたを愛していたのよ、本当にすごくね
あなたのお爺さんもね
お爺ちゃんは……私に両親の話をあまりしてくれないの
お父さんは有能な軍人で、お母さんは優秀な作業員だったとしか教えてくれなかった
それで十分じゃない、枳実
枳実は光壁を奇跡的に免れた紙片を握りしめた。その紙片の上に大粒の涙がポタポタと落ちていく
お爺さん自身も有能な軍人だったのよ、枳実
そして、あなたも
杜衡の声は僅かに震えていた
唯一、違うところがあるとすれば……
最期の瞬間、彼は……有能な父であり祖父だった――
……枳実、お前がこれを読む頃、私はもうこの世にいないかもしれない
お前には生きていてほしい。お前はまだ若く、使い切れないほどの力があるのだから
若くして戦場で死ぬべきじゃない。死ぬのなら、私たち老いぼれが先だ
私が若かった頃、一戦一戦を懸命に戦い抜いたが、結局お前によりよい世界を残すことはできなかった
私にはできなかった
だから、お前にはこの酷い時代をできる限り楽しく生き抜いてほしい
若者は若者らしいエネルギーを持つべきだ。お前の年の頃、私は一撃で4枚のレンガを砕いたもんだ!
枳実、お前なら必ず生き抜ける
絶対にできる、絶対だ。私は凡人だ。他の方法は思いつかない
ああ、光壁が光り始めた。熱くなってきたな
さようなら、枳実……
世代を超えた、唯一の血族であるふたりは――
――九龍の廃墟で抱き合いながら泣いた
空中庭園
11月12日、14:35
世界連合政府議会ホール
議会ホールの中心で、彼女は木製の演説台の縁をそっとなでた。ここで演説や発言を行った誰もが、そこに手を置いてきたことだろう
この小さな演説台には10数年に渡って、ここに立った人々の後悔、憎しみ、迷い、戦い、陰謀、そして壮大な志や野心の痕跡がまだらに刻まれている
ここには人類がどのように繁栄し、団結し、星々の中へ足を踏み入れたのかが記録されている
また、人類がどのように衰退や分裂へと進み、パニシングによって戦争と災害の泥沼に陥ったかも記録されている
彼女の手が再びここに触れるまで、目の前のこの文明は、いまだ彼女の産着にくるまれているのだ
そしてその全てを、彼女はあまりにも多く見すぎた――
……数十年前、私はここに立ち、「エデン計画」に最初の一票を投じました
エデン-II型、つまりあなた方が日々の住まいとするこの場所、空中庭園です
そう話しながら曲は1本の螺旋釘を取り出し、演説台の上に置いた
もし他の議員がこんな行為をすれば、すぐに議論や嘲笑の波が起きただろう
しかし彼女が醸し出す威厳の前では、誰も余計なことを言う勇気はなかった
これはエデン-II型で最も一般的に使用されていたIK9000型高強度螺旋釘です
この極めて強度の高い部品を製造できるのは、九龍の工場だけ
月面基地で、当時の人々がこの移民艦のために最初の螺旋釘を締めたその時代を、あなたたちは黄金時代と呼んでいます
その時代、人々は共通の壮大な理想のために、全てを犠牲にすることを厭いませんでした。自分自身さえもです
曲がそう話した時、ハセンは彼女の視線が無意識に自分をかすめたように感じた
その時代、権力者たちが考えることは常に文明の未来であり、個人の明日ではなかった。それは未来が、未来を見据える人々のためのものだからです
その時の人類はまだ、共通の壮大な理想を成し遂げるために、全てを賭し、全てを捨て去る勇気を持っていました
その時代、人類文明の過去の歴史、現在の闘争、そして明日の栄光は、我々の見識と勇気に包まれていました
しかし今、偽りの平和と団結によって、この空中庭園が前進するための原動力はすでに失われています
それはあなたたち大多数が、文明存続のための権力を行使しないからです。我々は文明を礎石として未来を設計しましたが、あなたたちの多くは私利のために明日を画策する
それが私とあなたたちの、最も根本的な違いです
ここはもはや、トリルドと彼の後継者たちが望んだ、人類をひとつに結ぶ絆の場ではなくなっています
しかし九龍は空中庭園との協力を続けます。清浄地であれ、九龍であれ、他の如何なる場所であれ、我々は協約に則り、九龍の広大な地域を徐々に清浄地と一体化させます
私はかつてこの演説台で世界連合政府を認めました、そして今でも認めています
ただ九龍と私、そして私の民は、我々が持つべきどんな権利も放棄しません
以前トリルドの前で言ったように、私は自分の言葉を撤回はしません
もし空中庭園や世界連合政府がどのような形であれ、私の民や万世銘の安全を脅かすなら、私はどんな代償を払ってでも、空中庭園の全てを破壊します
曲の冷たい言葉が、静まり返った議会ホールに響き渡る
誰も彼女の言葉に異議を唱える者はいなかった。彼女は本当にそうするだろうし、本当にそれを成し遂げられるからだ
私の民はこの世界に、人類の決意と勇気を証明しました。全てを犠牲にしてパニシングの困難を乗り越え、時空を超え、生死の境界を越えることができる、と
それが九龍が頑強に生き残る根なのです。九龍は生存のためではなく文明のために存在し、生きている。私の民も、生きる意志を私に示してくれました。私はそれに応えます
また、歴史に文明の下地を塗ることができるのは、そうした偉大な決意と勇気だけ。文明の終章で、哀れにもがくことではありません
「我々」はあなたたちの中に、素晴らしい例をいくつも見ています。勇気と胆力を持つ人々、理想と信念を超えて現実を見据える人々を
曲はその親しんだ姿のある方向に視線を向けた。議員ではないが、この会議に特別招待された「首席」へと
九龍はかつてこの螺旋釘のように、この世界と文明を結びつける存在でした
私はそのような人と協力します。九龍もそのような人々と手を取り合う
そしてどうやら今、話したいことがある人がいるようですね
彼女はこちらに頷いた。自分の隣に座るアシモフがちらっとこちらを見て、自分と一緒に立ち上がる
曲さん本人から口頭での確認を得ている、我々はこの文書を議会に提出する
『科学理事会、黒野グループ及び世界連合政府等組織による、複数の非合法科学研究と規定違反者の調査報告書』
アシモフはその長々としたタイトルを一息で読んだ
アシモフがこの報告書名を大声で読み上げた時、すでに針のむしろに座らされたかのような顔つきだった多くの議員が、いきなり立ち上がった
黒野を含め世界連合政府、そして科学理事会、そのほとんどの秘密の研究内容が含まれている
これは黄金時代から多くの人々が関わってきた、巨大な偽りだ
反対する!
科学理事会の首席技術者アシモフは、世界連合政府議会議員として……
我々は世界連合政府議会、そして全人類に、この偽りを公開する!
あの、曲様……
さっきの発言は、彼らにはかなりショックだったんじゃないでしょうか……
船の廊下で蒲牢は恐る恐る訊ねてみた
世界連合政府議会はトリルドがいなくなって以来、内部は腐敗するばかりです
彼らを叩き起こす人が必要なのです。トリルドの後継者だけではまだ足りません
そして私にはそれを言う権利も、そうする権利もあります。あのグレイレイヴン指揮官も同じこと
後ろ暗いことは為しやすく、明るいことは為しがたい。明るい場所で貢献する者がいるなら、暗い場所は私が引き受けましょう
そっか、そうなんですね……
新しいリーダーに慣れていないのか、蒲牢は気まずそうに俯くしかなかった
蒲牢
はっ、はい
そんなに畏まる必要はありませんよ
九龍の民がいなければ、私もここに立てていません
それにもしあなたがいなければ……私は万世銘から生きて戻ることもできなかった
えっ?
曲様……それは、どういう意味ですか……?
ふふ、私にもわかりません
蒲牢、あなたには多くの人の感情が繋がっています
あなたはそれを理解できる、でも私にはまだできない。恐らく、それが理由でしょうか
とんでもない、曲様
九龍の首領の言葉に反論するには、どんな場合でも相当な勇気が必要だった
曲様もすでに感じ取られたはずです。私はそう信じてますから
蒲牢は穏やかに、しかしきっぱりと言い切った
曲は、蒲牢が身につけている小さなメモリーをじっと見つめていた。万世銘と華胥が稼働停止した今でも、曲にはまだうっすらと、曲の側にいるふたつの影が見えている
以前なら他の人々にも見えたのかもしれないが、これからは曲にしか見えないのだろう。曲だけが、彼らを見ることができる
私たちはあなたとともに
そして、九龍とともにいる
彼女はその視線を再び荒廃した九龍環城に戻した
異合生物たちは撤退したが、街には依然として大きな被害が残っている
彼女は九龍よりも更に遠くを見つめていた。その視界には、廃墟から力強く立ち昇る炊き出しの煙が映っていた
私にはこの街と私の民に、多くの借りがあります
この街は必ずや昔の繁栄を取り戻し、世界の中心となって、永遠に文明を伝えていくでしょう
私は必ずやり遂げる
九龍も必ずやり遂げます
空中庭園
11月12日、19:37
監察院オフィス
アシモフとグレイレイヴン指揮官が、曲の補足説明を含む2000ページ以上の報告書を公開後、空中庭園は火がついたような騒ぎになり、世界政府議会の信頼性は地に落ちた
そして以前から科学理事会に対する調査を進めていた監査院もただちに動き始めた
彼女たちは世界政府が記者会見で話す言葉を考える必要はない。それは外交院と行政院の仕事だ
ねえ……先輩
多すぎません?本当に……
科学理事会が設立されてからの歴史がここに要約されているわ。私たちがするべきなのは、ここから目当ての情報を見つけ出すことです
あなたたちに一任します
それで結局……何を探すんでしたっけ?
ゲシュタルトよ
ラスティ、九龍の部分の報告を私に
曲のですか?えっと……ちょっとごめんなさい~
ラスティは隣にいる構造体が持っていたファイルを抜き取ると、イシュマエルの前に押し出した
「……科学理事会は、この構造体はすでに授格者ではないと判断した」
本当に授格者の体内からパニシングを取り除く技術なんて、あるんですか?
もしかしたらあるのかもね
ねえ、パニシングって何だと思う?
えっ……どうして急にそんな、そもそも論みたいな質問を?
そんなのわかりません
じゃあ、私たちの体内を満たしているものは何だと思う?
循環液かな?それにTa-193コポリマーに、回路パーツ……
もっと小さいものよ
それなら、いろいろな化学元素や分子、原子、素粒子?
もっと抽象的に
抽象的、ですか?検索してみます……
それって、情報だと思わない?
えっ?
ちょっと言ってみただけ
だって考えてもみて、人間のDNAから原子構造、更には人の意識にいたるまで、実際は全て情報の一種でしょう
その情報の異なる表れ方が、私たちが今見ているものの違いを決定している
確かに抽象的な言い方ですけど……
エネルギーは保存される。情報も同じ
パニシングが消えたら、パニシングの情報が消えた部分を満たす、他のエネルギーや情報が必要になるわ
そして十分な情報量があれば、時空の中のパニシングを「押し出す」ことも不可能じゃない
問題は、そんな過剰な情報を供給できる場所があるのかどうか、そして実際にパニシングを「押し出せる」ほどの情報が存在するかどうかってことね
それって……
言ってみただけよ。ラスティ、グレート·エスケープの報告をちょうだい
イシュマエルは落ち着き払った笑顔を浮かべていた
先輩って本当に、科学理事会一部の典型的なイメージにピッタリのキャラですね……
グレート·エスケープ……うーん
もし遡れば……
イシュマエルの目にためらうような、しかし真剣な色が浮かんだ
……ドミニク?
どうしたんですか?
まだはっきりわからないことがいくつかあるわ
えっ?私、イシュマエル先輩なら何でも知ってると思ってましたけど?
ラスティは目をパチクリさせた
ドミニクに関する記録は本当に少ないの
この「人類の英雄」には、一体どんな秘密が隠されているのかしら
「某地」
■■■■■、■■■■■
■■■■■■■■■
ある山の奥深くで、ある機械体がショートの火花を飛び散らせながら、ゆっくりと起き上がった
彼は欺くことが最も得意だった
彼は自分の父親を欺き、自分の神を欺き、同胞を欺き、そして自分のリーダーをも欺いた
同じ手口で、彼は死も欺くことができた
フン……パーテーションにシェルを……
いくつかコードは失ったが……致命傷ではない
忌々しい華胥、忌々しい人間め……死ぬに死ねぬわ……
ここにいた
灰色の髪の少女が、地面の新鮮な松の枝をサクサクと踏みながら、静かに彼の前に立った
だがその少女の顔には、以前のような輝くような温かな笑顔はなく、冷え冷えとした厳しい表情だった
ああ、我らの救世主、我らの……セージ様
シュルツは、本来自分のものではない左のふくらはぎを折ってしまうほど、大仰でわざとらしい礼をしてみせた
セージ様、私がしたことの一切があなたの啓示に合わないと、わざわざ仰せに来られたのですか?
言ったはずだよ。機械体は、これ以上人類も同胞も傷つけるべきじゃないって
私はあなたの機械意志の使徒であり、あなたの機械意志の道を歩み、あなたの機械意志の福音を――
……また嘘をつくんだ、シュルツ
全部知ってるよ
ええもちろん。あなたは全能の主、我らのセージ様ですから
まさか……あの異合生物たちとグルだったなんて
あなたもご存じのはずでしょう?セージ様
人類のDNA、我々の魂、そしてパニシング……この宇宙の全ての本質は情報なのです。違いはその情報をどのように表現するかだけです
情報の誘惑から逃れられる者はおりません。我々の魂も、パニシングも、それを渇望しています
しかし、パニシングが我々の真の目的に影響を及ぼすことはない、違いますか?
まさか……死者たちが同量の情報を使って、時空に宿るパニシングの情報を押し出すとは思いもよりませんでした、ハハ……
あの死者たちがいなければ、私が殺したあの偽りの王も……チッチッチッ……「復活」はできなかったでしょう
ネヴィルがぜーんぶ、話してくれたんだからね
おやおや……そうでしたか
結論からいえば、確かに彼は私のことをそれなりに知っている。だが、彼があの冷たく汚ならしいゴミ山に送られた時、メモリーは全て消去されたはずです
彼は「ヴィリアー」という人からそれを聞いたって
ヴィリアー、ああ……ヴィリアー
なんて素晴らしい響きの名前なんだ。自分の同胞を裏切ったやつですがね
憎しみは私たちの道にはない
それだけじゃない。あなたはみんなを、同胞も裏切った
ああ……あの人間の皮を被った偽善者のことを仰っておられるのですか?
ネヴィルがもう、含英の体からあなたのロジックロックを剥がしてる。彼女はもう教会にいて、無事だからね
それはおおいに残念
しかし、もっと残念なのはあなたです。セージ様
あなたもご覧になりませんでしたか?
あの……赤く巨大な波、静まり返る極寒、鋼鉄の洪水を
我々が実現すべき未来、機械体によって築かれるべき世界を、ご覧になったでしょう?
まさか……セージ様は永遠に虚無の中、凍りつくほど冷たい宇宙の果てに留まり、人々から永遠に忘れ去られたいと願っておられるのですか?
それはナナミにとって、ちっとも代償じゃないの
では同胞の未来も、あなたにいわせれば代償ではないと?
……もうウンザリだよ
ナナミはこれ以上彼の話を聞きたくはなかった。繰り返し他人の体を乗っ取り他人の精神を呑み込み、彼自身の精神と魂はとっくに分裂し、奇妙なせん妄状態に陥っている
同胞を傷つけ、人類を傷つけ、パニシングや異合生物と手を組む
これはナナミには決して受け入れられないことだ
あなたはここにいちゃダメ。教会に連れて帰るから
ナナミがどんな未来を見ようと、人類がどんな未来に歩もうと……
愛と希望のない憎しみへ進むことはないの。ナナミはこの星を愛してるもん
何があろうと、堕落と闇に向かっていくのを、絶対に放っておけない
見ましたか
ああ、彼らは推測するだろう
彼らがパニシングの本質が多次元情報であることを発見するのに、30年以上かかりました
人類に頼って「模倣因子」の汚染を制御するのは、更に難しくなります
だが言っただろう。この街には「汚染模倣因子」を完全に解決するプランがあり、そしてそれは人類文明の情報を永続的に保持し継承する、この「模倣因子」の中にこそある、と
万世銘のことですか
そうだ
万世銘計画が始動する前、あなたは九龍に似たような可能性を解放していました
さまざまな準備が必要だ。それはその準備のひとつにすぎない。そしてこのような計画を完遂する決意と根気を持つのは九龍だけだ
では今すでに、プランがあるのですね
万世銘を例に挙げれば、地球の文明を全て記録し終えたあと、その時に万世銘の情報から構築された「模倣因子」が汚染に対抗し、成功しうるのは明らかです
この情報の記録を完成させるには最低でも272地球年が必要です。現在の状況を鑑みるに、この時間は更に延びるでしょう
それにこの宇宙では、全てがエネルギー保存の法則に従わなければなりません
いつでも時間や空間を超え、光速を超え、重力を超えて、情報を伝え続けられる何かがいるはずだ
……彼女ですか
そうだ
遠すぎます。遠水渇を救わず、といいますよ
完全体の魂を持つ機械として成長し、ひとつの個体群を形成してこそ、「汚染模倣因子」への対抗が可能になる
少なくとも数万年が必要でしょう
言う通りだな。確かに我々に残された時間は少ない
今、私が唯一優勢な点は、時間や次元をいじる連中……「それら」が、まだ私を見つけていないことだ
それも時間の問題です
だが、抗うことができないより高位の神々に挑むことは、一種のロマンだと思わないか?
いえ、まったく
恐らくこれが、私が人であり、君が機械である理由だな
だからこそ、私たちにはもう時間を無駄にしている暇はありません。少なくとも数万年の時間が必要なのですから
いいや、まだ方法はある
何か考えが?
解決策を思いついたが、ここでは狭くて書けないな
……九龍であれ、オブリビオンであれ
いつの時代も、必ず誰かが立ち上がる
あなたの言い訳は無意味です
今日に至るまで、私にはふたつの最高指令が下されています
人類文明を次の時代へと導くこと、決して人類を裏切らないこと、だろ
その通りです
そのために、君は自分を犠牲にするのか?
いいえ
私が失われた未来では、人類は誰ひとり救えません
むしろ、私が存在する全ての未来において、私が極めて重要な役割と完全な勝利を果たすことが記録されています
なぜそうまで人類を信頼しないんだ?
いえ、私は人類を信じています
では、我々を信じていないのか?
部分的には、そうです
どう誤解すればそんな考えになるんだ……
ドミニク、「我々」は過去の歴史の中にしか存在しないというのか?
歴史……物語……
すなわち、文明
ありがとう、親切な機械体さん
私たちは互いに裏切り合い、それぞれが何かを求めている。これは私が文明の物語から学んだこと
私たちの歴史、私たちの物語も、私たちの歩みとともに絶えず広がっていくでしょう
新しい物語はここにある
赤い風、緑の雨、紫の土、重い首……
全てを始めましょう