Story Reader / 本編シナリオ / 28 星灯宿す氷帝 / Story

All of the stories in Punishing: Gray Raven, for your reading pleasure. Will contain all the stories that can be found in the archive in-game, together with all affection stories.
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28-31 楽園

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アンドロメダ星系の辺端

地球西暦3177年、3月19日、15:07

NGC185星系外側、リーボヴィッツ号、ブリッジ

シュルツは懐中時計を握りしめ、ブリッジの最も遠い船窓の前に座っている。彼は12光年先の光点を眺めながら、艦船裁判所の尋問結果を待っていた

懐中時計は230年前、ある流浪隊商から買い取ったものだ。その隊商は人類が銀河系を離れる以前の品々を多数集めていた

どこで入手したのかは誰にもわからないが、古代のシーケンス制御を行うための特殊な設備さえ所有しているらしい……

シュルツは記憶を掘り返していた。船の精神科医のシュヴァルツシルトは、彼は何かの強迫観念に囚われていると考えていた。しかし彼はこの克服しがたい思考に従うことを選んだ

こうしてシュルツは記憶の中から、以前に見た特別な装置「算盤」と呼ばれる収蔵品を見つけ出した

うーん……

彼も年代物の収集が好きだった。1321年前、リーボヴィッツ号がグールド·ベルトの端にあるW40母港から放り出された時、彼は祖父の懐中時計を持って出発するはずだった

しかしある理由で、その環世界で彼は祖父に会うことができなかった

カント

シュルツさん、科学連議会の尋問は終了しました。尋問の録音もすでにお送りしました

シュルツの側に小さな光点が浮かび上がり、穏やかな男性の声が聞こえた。その声はリーボヴィッツ号の中枢人工知能のものだ

リーボヴィッツ号の全情報は、この巨大な船の正面中央にある縦横3kmにも及ぶスーパーコンピューターに流れ込み、そしてまた多彩な色に光る冷たい機械から流れ出ていた

わかった

シュルツが側に浮かぶ光点にそっと触れると、すぐに録画された監視画面が目の前に表示された――

墨子(ボクシ)

こんにちは……ルヴィさん。私は墨子と申します。連議会を代表して、あなたにいくつか質問をいたします

空っぽの部屋にしわがれ気味の声が響いた。部屋には1台のテーブルと1脚の椅子があるだけで、その椅子にはやや乱れた服装の、少し神経質そうな男性が座っていた

ああ

墨子(ボクシ)

私の前任者とはあまり楽しい会話はできなかったようですね。私も軍人の身ですが、科学そのものは尊重すべきだと考えております

フン、よく言ったもんだ。科学を尊重したところで……何の役に立つというんだ?

墨子(ボクシ)

グノー氏の死は残念なことでした。ですが原則的な理由からいくつか質問をすることをお許しください……まずあなたとグスタフ·グノー氏はどのようなご関係でしたか?

私は……グノー先生の部下だった。彼亡き後、先進次元観測所の所長を代行していた

墨子(ボクシ)

ええ。記録によれば先週、グノー氏が自死されたあとに、あなたはすぐに彼のポジションを引き継いでいますね

観測所は誰かが組織を率いなければならないことは、科学連議会も承知の上だろう

墨子(ボクシ)

それはもちろん

ではなぜあなたは、おととい先進次元観測所所長の職を辞任したのですか?

職を辞するのは個人の自由だろう

墨子(ボクシ)

そしてその同日に、あなたは張大尉に銃の使用許可を申請された

ルヴィの前にあるテーブルの上に、銃器使用権の記録情報がホログラムで映し出された途端、ルヴィの落ち着いていた声が震え始めた

な……何か問題でも?

墨子(ボクシ)

なぜ銃器の使用申請をする必要が?

……リーボヴィッツ号の全員に権利があるはずだが

墨子(ボクシ)

それは不正確です。リーボヴィッツ号は移民科学艦ですし、ご存じの通り、一般的に科学者が銃器の使用申請をすることは許可されておりません

とはいうものの……彼のご冥福を心からお祈りいたします。グノー氏は銃で自らの命を絶たれたということですから

…………

墨子(ボクシ)

申し訳ございませんが――

私は……

墨子(ボクシ)

何か?

自殺は私の権利だ

墨子(ボクシ)

だとしても我々は優秀な科学者をこれ以上、失う訳にはいきません。その点をご理解いただく必要があります

もし何か心理的な問題なら、船の精神科医に相談することもできます。あるいは現在の状況を緩和するために、必要に応じてコールドスリープすることもできます

それに自らの命を銃で絶つことが、命の終着点ではないことをおわかりになるべきです……科学連議会はまもなく、グノー氏に対する敬意を公表するでしょう

いや……ダメだ

無駄だ

そんなことをしても無駄だ……我々は……全てが破滅に向かうのをただ見ていることなんてできない

私には……到底受け入れられないんだ

墨子(ボクシ)

破滅?どういうことでしょうか?

君たちはまったく見ていないのか?我々が提出した報告を……

シュルツはカントに一時停止するよう手を挙げてから訊ねた

報告というのは?

カント

先進次元観測所から最近提出された42件の報告のことです

1件目は……グスタフ·グノー氏が提出した『2753年11月20日‐先進次元観測所、観測報告書』

シュルツの側に浮かぶ光点が何かを考えるかのように明滅した。そしてすぐに報告書のデータをシュルツの間近に投影した

……再生を続けてくれ

君たちはまったく見ていないのか?我々が提出した報告を……

墨子(ボクシ)

報告というのは?

ほら、思った通りだ。やはり君たちはまったく興味がないんだな……

墨子(ボクシ)

……あの……グノー氏とあなたが最近提出した、観測報告のことでしょうか?

そうだ

墨子(ボクシ)

ですが、あの観測報告の内容はすでに科学連議会によって、理屈に合わないと断定されましたが

いや……絶対にありえない

ルヴィはゴクリと唾を飲み込み、更に緊張した様子を見せた

11月18日にグノー先生の指示で、我々は艦首の巡天探査器のチェックを4回行った

艦尾の観測所で得たデータに……明らかに問題があったからだ

私と4人の学士が直接調査に向かったが、巡天探査器の設定には何も問題はなかった

墨子(ボクシ)

では発生した問題とは、何だったのでしょう?

12光年先にある、我々の……目標位置にあるパルサーの……

マイクロスケールの磁極電磁放射束に問題が発生した

墨子(ボクシ)

電磁放射束に問題が?

これを……見てくれ

ルヴィが手を挙げると、空中にデータが投影された

これは11月17日に受け取ったPSR-Z1975+2253のパルス信号だ

緑の線で区切った記録表の上の細く赤い線が、時には暴風雨のように跳ね、時には死のように静まり、メヌエットとタンゴを交互に踊るダンサーのような不規則な線を描いていた

墨子(ボクシ)

……この報告書でしょうか?

中性子星が発する放射光がこんなに不規則なはずがない。たとえ宇宙で最も極端な天体のひとつだったとしても……基本的な物理法則に従うべきなのに

ここまで話すと、その神経質そうな男性は苦々し気に笑った

死の舞踏だ……

墨子(ボクシ)

何ですって?

その後、グノー先生はすぐに巡天探査器の向きを変え、我々が母港を出発した時に観測した他のいくつかのパルサーを調べた

典型的な白色矮星も中性子星もあったが、どれも問題はなかった。それらのスペクトル周期は依然として正常だった

つまり我々の装置に異常はないということだ

問題があるのはあの星かもしれない……あの狂った星に

墨子(ボクシ)

ですがグノー氏が自殺を図る理由としては不可解です。あなたが自殺する理由にもなりません

まだわからないのか?

我々の知識体系では、星が完全に不規則なパルス信号を放つなどありえない

まるで……この星は本物のカオスシステムのようなものだ。絶えず崩壊し、絶えず超新星爆発を起こしている。可視光線の頻度も……

さっきまで1個のミートボールだったものが、次の瞬間には収縮してブラックホールに変わる

これはプランク時間内に4つの自然力をまったく異なるものへと書き換えるようなものだ。光速さえもゴムバンドのように伸び縮みさせてしまう

墨子(ボクシ)

そんなことは不可能です

更に我々の理解では、恒星が高密度に縮小していく時、角運動量は保存されるはず

つまりその自転速度はかなり速く、円錐放射区がひとつの領域をゆっくり通過することはなく、また磁極が他の領域へ急激に変わるような状況も存在しないはずだ

もちろん可能性はひとつしかないと、信じたいのだが……

墨子(ボクシ)

それは……どのような?

……12光年先にあるPSR-Z1975+2253は、恐らくパルサーではない

シュルツはまた手を挙げ、カントに一時停止させた

その星とは一体なんだ?

カント

出発時に指定されたルートによれば、我々が観測すべき中性子星がPSR-Z1975+2253です

それはわかっている

その中性子星に何の問題があるんだ?

カント

私が提供できるのは巡天観測器から得られたデータのみです

昨日の観測データを見せてほしい

カント

少々お待ちください……

シュルツのすぐ側の光点が再び点滅し始めた。今回は先ほどよりもやや時間がかかっている

カント

昨日の観測報告では……PSR-Z1975+2253の各種定数指標は全て正常で、任務予測時の観測目標に合致しています

こちらが詳細なデータです

シュルツの周りに、観測指標や電波観測の画像で埋め尽くされた巨大スクリーンが展開した。そのスクリーンに描かれた青白い星が、音もなく彼を見つめ返す

データに問題はないのか?

カント

はい。我々の観測目標と合致しています

ふむ……妙だな

カント

ひとつ、お伝えしておくことがあります

PSR-Z1975+2253は、このフライバイ観測任務の中で潜在的な目標のひとつにすぎず、我々はこれにそれほど多くの精力を傾けるべきではないかもしれません

確かにな

シュルツが手をさっと振ると、彼を見つめていた星や展開していたデータや折れ線グラフは消え去り、ブリッジにいるのはただ彼ひとりとなった

今はもういい

カント

ルヴィ氏の尋問を引き続き確認されますか?

……今はやめておこう

連議会は確か、ルヴィ氏をコールドスリープさせたんだったな?

カント

はい、3日後に「グノー氏」が先進次元観測所所長としてルヴィ氏の職務を臨時で代行します。適切な時期が来れば、ルヴィ氏を再び目覚めさせることになります

それもいいだろう

カント

ルヴィ氏がコールドスリープしたため、連議会は彼のパートナーに意見を求めました。本地球年内に、バーネル女史はルヴィ氏とのパートナー関係を終わらせることになります

キャサリンは再婚するのか?

シュルツは無意識に、古代の文献で見た言葉を使った。ただしその時代においては、結婚、家族、出産、子孫などというものは、ごく単純でありふれたパートナー関係だった

カント

それはバーネル女史の意向によります

そうか。それと、連邦に連絡を頼む。グノー氏が自殺したのは任期中だ。彼の家族に遺族年金を支払うよう、連邦に依頼しておいてほしい

観測所の者たちはきっと……毎日、自分たちが敬愛していた人物の「脳」に指示されることを嫌がるだろうな

だが、やむを得まい

カント

承知しました

他には何かあるか?

カント

現在、対応が必要なことはありません

では、この後の計画を立てよう

シュルツがカントに軽く触れると、一瞬で彼の目の前に巨大な星図が表示された

現在彼らはNGC185からM33方向への滑走航路上にいる。彼らは定められた地球時間内にこの地域の科学探査を終わらせるため、ろ座矮小銀河からワープしてきたばかりだ

昔気質の学者たちを率いて探査を完了させるのは容易ではない。そのため、連邦は各科学探査艦の意思決定者として、一様に軍人を配置していた

我々は最速でいつワープ状態に入れる?

カント

リーボヴィッツ号が射出された際の偏移の乱れを計算したところ、目標航空経路から2.87%の偏移指数があります

そのため、船全体の時空の連続性を維持するために、ワープエンジンは少なくともあと5.7地球日の冷却が必要です

彼らのスリングショットの精度もたいしたことないな……

カント

この程度の偏移は許容範囲内です

次のワープ目的地をPSR-Z1975+2253付近に設定する。座標は私が決める

カント

PSR-Z1975+2253で科学探査任務を行うと理解してよろしいでしょうか?

ああ

カント

このパルサーに、あまり多くの時間を費やす必要はないはずですが……

もともとこれも目標のひとつだったんだ。実行してくれ

カント

承知しました

ああ、それから、5日後にルヴィ氏のコールドスリープを解除する

その時の彼の顔は見物だろうな……

カント

承知しました

では、それまでの5日間はお休みになりますか?

うーん……

シュルツは少し迷った

やるべきことは全て終わり、ワープエンジンの冷却が完了するまで、彼が艦長としてすることはもう何もなかった

では少し休むとするか

カント

承知しました。準備いたします

シュルツが手をひと振りすると目の前の星図は消え、続いてカントに触れると周りに浮かんでいた光点もゆっくりと消えていった

彼は手に持っていた懐中時計をなでながら、まもなく訪れることになる12光年先の星をじっと見つめていた

今また彼は眠りにつこうとしていた。この何百年もの旅の間、断続的に眠ってきた。だが彼にとってはほんの一瞬だった、今回も同じだろう

?????

地球西暦■■■、■月22日、19:36

?????、リーボヴィッツ号、生命維持ホール

?????、地球歴西暦■■■、■月22日、19:36、?????、リーボヴィッツ号、生命維持ホール

???

警告!警告!船の速度異常!対称性異常!動力システム異常!

重力波異常を検出!光子数異常を検出!

警告!警告……

休眠状態のシュルツは警報音で強制的に起こされた。手探りで気密ポッド内のバルブを引くと油臭い空気が肺に流れ込み、本来ゆっくり排出されるはずの休眠液に思わず咳き込む

ゲホゲホッ……ゲホッ……

何が起きたんだ……

常に灯りがついている生命維持ホールが、今は真っ暗だ。絶えず点滅する警告灯だけが彼の体を照らしていた

カント

彼は休眠ポッドの制御パネルを叩いたが、いつもすぐに現れるあの見慣れた光が出現しなかった

休眠から覚めて筋肉組織の受容体が回復するまで最低でも10分以上かかるが、シュルツは訓練された軍人だ。両手で休眠ポッドを力強く押し上げると、立ち上がった

裸足の彼は床のガラスの破片を踏むことを警戒していたが、予想とは違い、何かぬるりとした液体を踏んだことに気付いた

シュルツは警報灯を頼りに足下を確認しようとした。だがその赤い光では、生命維持ホールもシャツだけを着たシュルツの体も、全てが鮮血に染まっているようなものだった

警告音

警告!警告!船の速度異常!対称性異常!動力システム異常!

重力波異常を検出!光子数異常を検出!

警報はひっきりなしに鳴り響いている

(状況を把握せねば。まずはブリッジへ行こう)

(動力システムにも問題があるようだ……)

シュルツは手探りで生命維持ホールの気密バルブまでたどり着き、以前の訓練を思い出しながら、扉の手動バルブを探り当てた――

普通の者なら休眠から目覚めたばかり、しかも直径が1mほどもある鉄製のバルブを回すなど不可能だろうが、さすがシュルツは軍人だった

???

誰か!助けてくれ!

おーい!誰かいないか!?

生命維持ホールの外の通路も同様に真っ暗で、血のような赤い警報灯だけが点滅している

いきなり、通路にうごめくような人影が見えた

シュルツは念のため非常用手動バルブの側にあったレンチを手に取り、警戒しながら声をかけた

誰だ?

ルヴィ

私だ!ルヴィ、ルヴィだ!

シュルツ艦長!君も生きていたんだな!

ルヴィは通路をこけつ転びつしながら駆け、シュルツの足下に倒れ込んだ

ルヴィさん!

これは一体どういうことです?

く……狂ったんだ……

何もかもがだ!

神経質そうな男は歯をガチガチと鳴らし、取り乱した声で支離滅裂につぶやき続けた

何が狂ったんです!?

ひ……人が……

それに船も!何もかもだ!全てが狂ったんだ――

パンッ!

ルヴィを落ち着かせようと、シュルツは仕方なく彼に平手打ちをした

落ち着いて、ルヴィさん!

他の船員は?なぜ皆が狂ったと?

しかし、ルヴィは何かが喉に詰まったように黙りこんだまま、ひたすら狂ったように首を振り続けた

くそっ……

こんな状況でもしリーボヴィッツ号が本当に動力を失い、カントも呼び出せないのであれば、艦長である彼はなんとしてもブリッジに行かなければならない

カントのコンピュータコアとエンジンルームはどちらもブリッジの真下にある。コアルームとエンジンルームに行くためには、ブリッジで認証カードを入手しなければ

ルヴィさん、歩けますか?

ルヴィは頷いた

よし、さあ立って。ブリッジへ

船で何が起ころうとも、私はブリッジにいなければ

今はカントも呼び出せない。ブリッジの下に行けばカントの状況も自ずとわかるでしょう

ルヴィはガタガタと震えながら立ち上がり、シュルツも手に持っていたレンチを腰のベルトに挟んだ

私の後ろを歩いて。視界が悪すぎる

真っ暗な通路の奥へと、ふたりは注意深くそろそろと歩いていった

警告音

警告!警告!船の速度異常!対称性異常!動力システム異常!

重力波異常を検出!光子数異常を検出!

シュルツはルヴィの襟元を掴み、もう片方の手でレンチを握りしめながら、生命維持ホールからブリッジまでの通路を手探りで進んだ

彼が生命維持ホールを出たのは夜の7時すぎだったが、ブリッジに到着した時にはすでに夜の10時になっていた

実際、この時点で地球の24時間制で時間を計ることは不可能だった

彼らがブリッジに到着すると周囲は真っ暗で、窓の外も真っ暗闇だったからだ。ブリッジ中央のコントロールパネルに、微かな光が灯っているだけだった

リーボヴィッツ号全体がポケットに入れられたようで、昼夜の区別がつかない

畜生……

ブリッジにいた指令員は?皆、どこへ行ったんだ!?

わ……私に訊かれたってわかるもんか……

シュルツはルヴィを引っ掴んでコントロールパネルの側に行き、リーボヴィッツ号全体の状態を調べ、認証カードを手に入れた

通常動力室……ワープエンジン……

測定エラーばかりだ。一体何が起こっている?

動力室が……今も出力しているのか?

いや、そんなはずはない……動力は失われたのでは?

出力ってどこへ?どこも全部真っ暗じゃないか

しかし、このデータはああああああッ――

ルヴィは突然声を張り上げ、コントロールパネルの向かい側を指差した

彼らの正面にあるコントロールパネルの側に、どうとも呼びようがない緋色の影が現れたのだ

ドク……ドク……ドク……

た……!助けてくれ!

ドク……ドク……ドク……

緋色の影は何かに縛られているように動くこともなく、じっとそこに佇んでいる

そのドクドクという音は、その影の内部から聞こえていた

何だこれは!?

シュルツが腰のレンチに手を伸ばしかけた時、その影は突然シュルツの傍らにさっと現れ、そこを通り抜けようとして何かに阻まれたように、また一瞬で元の場所へと戻った

しかし奇妙だったのは、その影の下半身は本来あるべき場所にはなく、上半身から5mほど離れた場所に出現したことだ

ドク……ドク……ドク……

瞬きをするほどの一瞬の間に、反対側に現れた「もうひとつの下半身」がそれに「組み合わせ」られた

やめろ、殺さないでくれ……やめろ……うわあああっ!!!!

シュルツがルヴィをしっかり掴んでいなければ、彼は今頃ブリッジから狂ったように走り去っていただろう

ルヴィの絶叫に「驚いた」のか、その影は一瞬だけ淡くなったが、すぐにまた奇妙な素振りを見せた――

それは「人」だった

より正確にいえば、「皮膚を裏返し、全ての内臓と骨格を外側に反転させて、ぶらさげている状態の人」だった

淡いピンク色の胃、濃い色の肝臓と肺、乳白色の大脳、そして絶え間なく鼓動する心臓と、全てが隔膜と靭帯で内側の見えない皮膚に繋がっている

それはまるでポケットの底をつまんで引き出し、内側を外側に、外側を内側にしたようなものだ

健全な人間が持つ全ての臓器がその方法で裏返され、露出されながらも正常に機能している

ドク……ドク……ドク……

その時になってようやくシュルツは、その音は外に露出した心臓が血液を送り出す音だと気付いた

オエッ……

ドク……ドク……ドク……

血管と筋肉の繊維で編まれた「手」が、温かく柔らかい「大脳」を掴み、もう片方の「手」は、今はただの黒い穴でしかない口でを覆った

この恐ろしい光景にルヴィは気絶しそうになったが、シュルツにがっちりと掴まれて倒れることもできず、ひたすら吐き気を催しているだけだ

……目の前に山があれば、我々はその頂上を目指し……

その黒々とした穴から突然、ねっとりとした声が発せられ、ピンク色の気管が上下に蠕動した

目の前に大海があれば、征服する……

得られないものはどうでもいい……しかしそこに山や海があれば、我々は成し遂げる……

シュルツはなんとか自身を落ち着かせ、そっとコントロールパネルから認証カードを抜き取ってポケットに入れ、この言葉と声に聞き覚えがないか、頭の中で記憶を探った

しかし、何も心当たりがなかった

だが今、我々の目の前にあるのは宇宙だけ……

今こそ剣と鋤で、星々の中に我々の道を拓く時だ……

我々は……全てを捧げ……地球連邦と人類の権利を守り抜く……

我々の銀河を……宇宙を照らす灯台にして……

人類が……果てしない頂点へ……登れるように……

それが……たった……ひとりだけだとしても……

震える緋色の「人」はやがて「話す」のをやめ、気管や臓器の蠕動も止まり、煙塵のように薄暗くなった。再び鮮やかな緋色の状態に戻った時にはもう「人間」の声は出さなかった

それは幽霊のように彼らの正面に立ったまま、じっと動かない

シュルツはルヴィを強く掴みながら、もう片方の手は腰元のレンチを握りしめたまま、コントロールパネルからブリッジの扉までゆっくりと後退した

げえッ……

ルヴィの胃はすでに空っぽで、彼の吐く胃液が地面に散らばる生臭い液体と混じり合った

さあ立って

ブリッジにはもう誰もいない。下のエンジンルームへ行こう

リーボヴィッツ号のエンジンルームとコンピュータコアルームはどちらもブリッジの真下のほぼ同じ位置にある

「カント」という名の自律艦船スーパーコンピューターは一辺3kmのキューブ状の機械構造で、巨大スーパーブレインのようなものだ。エンジンルームはその中央に浮かぶ脳幹だ

ブリッジからエンジンルームへの道のりは意外にも問題はなく、シュルツとルヴィは何にも邪魔されることなく進んだ

扉も問題なく開いたが、下へ行くほど足下のぬめる液体は増えていった。ブリッジではねちゃねちゃと音がする程度だったが、エンジンルームでは膝の高さまで達している

微かな青い光を放つ量子ワープエンジンはゆっくりと回転しており、特に問題はなさそうだ

エンジン台の上には、同じ質点を中心に異なる速度で回転する多数のリングが浮かんでいる。このリングは船がワープを準備している時のみ、同じ回転周期で動く

エンジンに問題はなさそうだ。だがなぜエネルギー供給がうまくできていない?

シュルツ艦長、頼むから……

ルヴィは懇願せんばかりにシュルツの袖をぐっと掴んだ

こ……ここを離れよう……

たくさんの話し声が……聞こえる

何だって?

頭の中にたくさん……何かが入って……やめろ!出ていけ!

やめろ……しゃべるな!

知りたくない!聞きたくないんだ!

突然、ルヴィはその痩せた体に似合わない爆発的な力で、近くにあったバールを手にシュルツに襲いかかった。頑強なシュルツは瞬時に体を捻り、その狂乱した攻撃を躱した

何をする!

嫌だ!やめろ!知りたくない!

彼は狂ったようにバールを振り回し、エンジンルームに溜まっている色すらよくわからない液体を叩きまくっている

アイソレーションシステム……違う!違う!!エネルギーは保存されている……ありえない!!

光速……光速は不可能だ!光速が負の値になるはずがない!

嫌だ……嫌だ……それ以上言うな!!知りたくない!!!

ルヴィは突然静かになり、がっくりとうなだれた

ルヴィさん?

もう遅い

えっ?

我々はもう、人類が到達できるこの宇宙の最果てに来てしまった

これ以上先へは進めない

光とエネルギーも情報の一種だ。だが、宇宙はただの黒板だ

ルールを変更し、確立、あるい消去することは、「彼ら」にとっては黒板上のチョークの文字を消すようなものだ

「彼ら」はこんな凡俗の世界にはいない。もっと高い次元にいる

もう、遅すぎた

量子ワープエンジンが突然回転を始め、激しく青い光を点滅させ始めた

その瞬間、シュルツの目の前にいたルヴィがどろどろと溶け始めた

ルヴィさん!

最初は出血。そして頭から手足、内臓、骨と、内部か外部かも識別できない液体へと変わり、砂漠に投げ込んだ氷塊のようにシュルツの足下の粘液に溶け込んだ

ルヴィはシュルツの目の前で消え去った。その間、僅か5秒ほどもない

クソッタレめ

シュルツは再び腰のレンチに手を伸ばしたが、彼の周囲にはもう、彼にこの最後の護身用武器を引き抜かせるほどのものは何もなかった

一瞬でいくつかのリングが同じ平面上に再配置され、まるで命中を待つダーツの的のように、エンジン台の上にまっすぐ立っていた

ドク……ドク……ドク……

先ほどルヴィが溶けた場所にブリッジで見たのと似た影が現れ、一瞬光をきらめかせたあと、ふっと消えた

【規制音】!

シュルツは唾を吐き、動かない量子ワープエンジンの光量子制御環を振り返った

その大小さまざまの円環は同一平面に静止しており、中央にある丸い穴は、微かに青く光る瞳孔のない目を思わせた

シュルツは、実際に時空の連続性を発揮する場所、その円環の中央にある小さな質量中心の存在を知っていた。理論上、リーボヴィッツ号はそこを通り他の場所へとワープする

その無限の情報を伝達する質量中心は、目のようにじっと彼を見つめていた

来て……

シュルツの脳である声が響く

その神託のような声は、量子ワープエンジンの内部の小さな一点から聞こえてきた

来て……

その瞬間、何かに導かれるようにして、彼の足は祭壇のようなエンジン台へと向かった

自分がこうすべきではないことを、彼はよくわかっていた。それは船の管理方法と規則に反する行為だ

しかし彼はそれを拒めない

来て……

彼はすでに光量子制御環が形成する平面の前に立っていた。目の前の真ん中に、肉眼では見えないほど極小の質量中心がある

彼の思考は神託に引き寄せられ、その手は神の手に登ろうと――

【規制音】!ダメだ!

自らの行動の異常に気付いたが、時すでに遅かった――彼はその環を通り抜けようとしていた。全身に温かい何かが流れる

来て!

カント?

彼はその環の中に飛び込んだ――

この宇宙で最後の人類が、底なしの虚空の深淵に浮かんでいた

彼は目を開けたが、そこは一切の暗闇だった

そして彼は側にあったスイッチを入れた――

目の前には巨大なブラックホールがあり、星の海が彼の周囲を取り囲んでいる

彼は、その星々はもう衰え、言葉にできないほど巨大なブラックホールの降着円盤は次第に大きさを増し、更にはいくつかの降着円盤に向かって伸びているのに気付いた

彼は星の海の中の銀河を見回した。かつて燃え盛っていた赤い巨星はすでに輝きを失い、ほとんどの恒星は白色矮星や中性子星となっている

シュルツ

PSR-Z1975+2253……

彼は星の海でその星を探していた

彼はそうする必要があるからではなく、そうできるから探していた。なぜ自分が何億もの恒星の中からそれを見つけられるのかは、彼自身にもわからなかった

しかし、結論はたったひとつだ――

シュルツ

このブラックホールが……あのパルサーか?

???

はい

柔らかく中性的な声が、底なしの深淵の上にいる彼に答えた

シュルツ

お前は誰だ?

???

私は「彼ら」のひとりで、この宇宙バブル構造の観察を担当しています

この宇宙はもう寒冷化が近付いています

シュルツ

だが、私がここに来て1分ほどしか経っていない

???

あなたたちは時間を分単位で測るのですね?

あの船がここに到着してから、すでに137もの時間結晶が過ぎ去りました

目には見えない優しい手が、整然と並べた線分を彼の前に置いた。それぞれの線分は、十数個の銀河の誕生と消滅を説明するのに十分なものだった

???

あなたたちにここの光速は遅すぎる。私が少し速めました

シュルツ

私の船は?

???

あの死にかけた星の中です

その声は彼の視線をその巨大なブラックホールの中へと導いた

シュルツ

ブラックホールの中に落ちて消滅してしまったのか

???

私はまだあの小さな紙の船の情報膜を見ることができます。船はまだ存在している。なぜ消滅したと思うのですか?

あの機械の頭脳も同じで、まだ存在しています……速度を落としたことで少し頭の回転が鈍くなりましたが

シュルツの目の前で、PSR-Z1975+2253の降着円盤が突然ピカッと光った

シュルツ

PSR-Z1975+2253は本来パルサーだったはずだ

???

さっきまで退屈だったので、少し塗り変えてみたのです

シュルツ

気にしている者は他にもいる

???

他の人など誰も見かけませんでしたが

シュルツ

船の乗組員は?

???

彼らは私が時の針を速めた結果を受け入れられなかったようです

私が気付いた時には彼らはもう、不可逆的な素粒子構造になってしまっていました

ですが、彼らの情報膜は残っています。あなたの船と同じように

その声には一切の憐れみや同情はない

シュルツ

ということは、この宇宙は……もう終わってしまうのか?

???

ええ。ただ、あなたは面白いと思ったので残しておきました

シュルツ

あんたらがそんなに親切とはな

???

お気になさらず

シュルツ

ここが宇宙の果てなのか?

???

この星は、この宇宙バブルが凝縮された中心。あなたは今、終点に立っています。始点が少しずつあなたの方へ近付くでしょう

そのブラックホールの降着円盤が再び光った

彼の前にぼんやりとした人影が浮かんでいる

シュルツ

人だ!人がいる!

あそこに人がいる!

???

彼女のことですか?彼女はエントロピーの終点、特殊な存在です

シュルツ

おーい!君!

シュルツはその人影に向かって大声で呼びかけ、必死に手を振った

しかし宇宙ではその声は届かず、彼の声はその死の青い光を放つブラックホールに呑み込まれただけだった

???

無駄ですよ

彼女はこの宇宙バブルの中における最後の答えなのです。でも彼女の問題が何なのかは私にはわかりません

シュルツ

エントロピーの終点……彼女は全てを逆転させられるのか?

???

いえ、できません。この宇宙バブルの崩壊はまさにここ、この時間結晶の中でまもなく始まります

もしかして……次の宇宙バブルでも、彼女はまた存在しているかもしれません

シュルツ

私が最後に生き残った人間なのか?

???

はい。さっきも言いましたが、私はあなたが面白いと思ったので

でも、あなたにずっとこうして質問を続けられたら、私もうんざりするでしょうね

この時間結晶が終わる前に、あなたは最後の質問をするか、最後の要求ができます

宇宙バブルを処理する際に、星間航行ができる生命体は、通常、自分たちの母星を見たいと要求するのですが

しかし、130の時間結晶を数える前に、あなたの母星はすでに素粒子になっていました

私はそれが残した情報膜を使って再形成し、あなたに見せることができます

シュルツ

その必要はない

シュルツは、目の前で宇宙に漂う「人」をじっと見つめていた

ここが宇宙の果てだ

全てはすでに終わり、ここでのあらゆる問題に答えることには意味がない

最後には自分自身までも呑み込む魔物の中で、この宇宙の全ての情報がたゆたっている

精神と意識、物質とエネルギーが消滅し、時間と空間もその終わりを迎えるまで

???

この宇宙バブルはもうすぐ終わりますが、あなたは最後の質問をすることができます

これ以上の情報はなく、これ以上の問題もなく、これ以上の答えもない

シュルツ

私は……誰だ?

激烈な白い光の中で、シュルツは再びあの暖かい流れを感じた

彼は時間も空間も意義も存在しない深淵の底に横たわっている

何もない。音も光もない。自分自身さえも存在していないのかもしれない

ごめんなさい、我が子よ

それが、彼が最後に聞いた言葉だった