顔をなでるそよ風が、青草の香りを運んできた
さあ、お前も母さんに花を
……はい
小さな手が、持っていた花束を墓石の前に置いた
これからはお前は自分自身を頼るんだ。怖いか?
彼は首を振った
ただ……みんなが恋しいだけです
それなら、もう少し一緒にいよう
シンはその小さな手を引き、墓地の外へと歩き始めた
ふたりは子供時代の家を通りすぎ、よく歩いた通りを歩き、訪れたことのある場所全てを歩いた
少年は次第に成長し、幼さを脱ぎ捨てて青年になった
ここまでだ
彼は手を上げて昔のように頭をなでようとして、相手の肩と自分の肩が同じ高さになっていることに気付き、結局は肩を軽く叩いた
行きなさい。未来を恐れず、期待と希望を持って
彼は我が子を砂漠へとそっと押し出した
ワタナベ、久しぶりだな
ブルース、あの時私も行っていれば……
地上に残る人々がリーダーをひとり失うことになるだろ
それは惜しい……
若造、来るにはまだ早いと言っただろう!
ワタナベ、俺たちが言ったことを覚えてるか?
死にに行くんじゃなくて、死なせないために行くんだよ
もう過去を悔やむな。お前はただ単に人々を守っただけじゃない。多くの人に、自分を守ると同時に他人を守るやり方を教えたんだ
お前が追い求めているのはもう水面に映る月じゃない。本物の輝く月だよ
お前は自分の約束を果たし、闇夜を切り裂く刃となった
さあ、胸を張って進み続けろ!
過去の幻影は次第に薄くなり、雪となって降り注いだ
彼は進み続ける……
空を仰ぐ時も、決して足下の大地を忘れるな
私がお前に負けた理由はそれだ
……
教えてくれ。まだ我々の戦いを覚えている者はいるか?
皆、覚えています。私だけじゃない、未来のために戦う人全てが
そうか……それならもう十分だ……
彼は進み続ける……
リーダー、僕と兄はあなたについてきて後悔したことはありません
彼は進み続ける……
救えなかった人々のことばかり後悔するのではなく、生きている者たちに目を向けてください
多くの場所を歩き……
最後に彼が立っていたのは、「死」という名の砂嵐の前だった
頑張りなさい……
母上……?
ワタナベはほとんど記憶から色褪せていたその声を聞いた
彼に命を与えたその人が、新しい命が誕生した最初の瞬間に贈った励ましの声
頑張りなさい。私の子だもの、自分の道をしっかり歩けると信じてるわ
……
彼はためらうことなく、砂嵐の中へと進んでいった……
新たな生を受けるために
Video: Sワタナベバージョン_テキストカットシーン
うっ……
人工心臓が再び鼓動した。激しい戦いにまた戻ることを覚悟したワタナベは、信じられない光景を目の当たりにした
目覚めたか?
バラードが崩れた廃墟の瓦礫を持ち上げ、辛くも隙間を作っていた
鉄筋が彼の体を貫き、循環液と火花がワタナベの顔に飛び散っている
バラード……あなたは……?
ハッ、今回ばかりはお前の方が運が少しよかったんだよ……いや、私への報いか?
どうしてこんなことを……
どちらかは生き残らねばならんだろう……
誰かが死ぬなら、同じように誰かは生き続けなければならない
宇宙兵器が落ちなかった瞬間にわかっていた。我々のどちらかが生き残らなければならないことと、生き残るのはひとりだということを
ふたりとも死ねばオブリビオンは方向を見失い、憎むべき対象さえ失って、真の混乱に陥る
そうなれば戦士たちの痛みや後悔、沈黙、流した血が無駄になる
……
フン、なぜふたりとも生き残れないのかと訊きたいのか?
とめどなく流れ出す命とともに、心の底に押し込められていた鬱憤も消えていく
バラードはまるであの頃に戻ったように感じていた。あの少年から「バラードおじさん」と呼ばれていた頃に
今、彼は最後の講義を始めようとしている
お前の死を憎悪を燃やすための導火線にせざるを得なかった時点で、私はすでに状況の制御権を失っていた
それはつまり、私にはお前のようにひと声で大勢を従える統率力がなかった証であり、オブリビオンと空中庭園の軋轢は戦争を避けられない段階に至っていなかったということだ
我々が優勢だと示しても、真実の歴史を伝えても、彼らは私には従わなかった。ましてや戦火を燃やすこともなかった
彼は自嘲するように笑った
お前が戻ってきたという知らせはすでに広まっている。私はお前に破れた
雨に打たれてしまえば、憎しみの火種は燃え続けられない
破れたのがお前なら私はその死を事実にすることで、計画を進められたんだがな
理解できたか?
これはひとりだけが生き残る戦いなんだ。勝者が未来を決め、敗者は歴史のごみ箱に投げ入れられ、人に噂されるだけの存在になる
どうして……昔のように戻れない?
私はもう表舞台に立ってしまったからだ。立場が知られたという意味ではなく、私の目的が
私は己の考えを改めることはない。空中庭園が大地から離れている限り、やつらが安穏と暮らす限り……人類が団結することなど永遠にない
パニシングが我々を滅ぼしたんじゃない。この時代の背骨を折ったのは、グレート·エスケープだった
繋がっていた者をバラバラに分断し、一方を宇宙へ飛ばし、一方を地上に落とした
地上と宇宙の距離はなんと遠いことか……ぼろぼろに砕けた背骨で、どうやって時代の重さを支えられる?
「世界政府」を自称する脱走兵なぞ、もはや我々と進退をともにする同胞ではない
以前は栄誉ある職業だとみなされていた構造体を抑圧するのが、その最たる証拠だ。やつらは戦士を必要としながら、戦士を恐れている
……隠れることもできたはずだ……
やつらと同じように逃げろと言うのか!
怒鳴り声とともに、貫かれた胸の火花が更に激しく散った
覚えておけ、敵に同情などするな。お前とその敵にどんな過去があれ、どんな交流があろうとも
もし逆の立場なら、私はためらうことなくお前を最後の旅路へ送り出す
もし全てを捨ててでも守り抜く何かがあるというのなら……
それは立場だ。お前が最低限守り抜くべきなのはそれだ
お前の立場、お前の信念への戦いは、一体誰のためのものだ!
それは……志を同じくする同胞と、諦めたくないこの地上だ
ならばお前はそのために全ての脅威を排除し、全ての感情を犠牲にできるか?
……
できる!
ふ……
まだ私が生き延びていてもいいと思えるのか?
……
私の死によって発射される弾道ミサイルのことなら、心配はいらない。お前が来る前にすでに連携を解除しておいた……
旧時代の遺産だ、しっかり受け取っておけ
その声が次第に低く、弱くなっていく
まさか、最初の脱走の時と同じ死に方とはな……これは罰なのだろう
胸の光が次第に消えていった
新しい背骨を支えられるか?
まだ少し不安そうにしながら、彼の目はゆっくりと閉じていった
彼の耳にはロケットが雲を突き破る音と人々の歓声、少し耳障りな広告宣伝の声、更に篠つく雨音までもが聞こえるようだった
おいおい、来るのが遅すぎるんじゃないのか?
バックハウスか
こんなに長く生きて、疲れるだろ?
……
ああ、疲れた。それでも、生きた価値はあった……
まだ諦めきれないものがあるか?
……
雨音が彼の沈黙に代わって響いた
お前がやらかしたからな、会いたくないってやつもいるらしいぞ。だから、俺が仕方なく迎えに来てやったんだ
ほら、行くぞ
ああ……
彼は友と雨の向こうへ進む準備ができていた
そうだ、これを
相手の手にあったのは、上等な葉巻だった
前回、俺は賭けに負けてたからな
何の賭けだ?
葉巻を受け取ろうとした瞬間、バラードは自分が放った最後の質問に答える声が聞こえた気がした
新たな背骨を支えるのは私ではない……
我々全員だ!
ハハ……
な、任せられるだろう?
バラードは葉巻を受け取った
ああ、そのようだ
彼は葉巻に火を点け、よく見知ったあの姿が後ろについてきてはいないことを再度確認し……
もう未練はないというように、自分の墓へと歩いていった
雲は消え、雨上がりの空に晴れ間が広がった