何を選び、どこに行くべきか?
どの時代においても人々が熱心に議論するテーマだ
例えば、生命の起源はどこにあるのか?意識はどのように誕生したのか?宇宙の果てには何があるのだろうか?
そして……人類の文明はどこに向かって拡大すべきなのか?
我々人類は文明の持続と伝承に注力し、人類という種族の優位性を高めるべきなのだろう
ある者は生物的な本能に従い、個体の意志と生命を引き延ばし続けることを考えた
それは遺伝子だ……遺伝子の中の僅かな違いこそが個体を構成する鍵だ
分子レベルを操作することで、我々はまったく同じ比率で完璧な肉体の複製を作ることができる
更に意識信号を100%複製することに資金とゲシュタルトのアルゴリズムを注ぎ込めば、何度でも人を再生できるようになる
想像してほしい――人類が永遠に老いや病気の悩みから解放され、事故や寿命でリーダーを失うこともなく、知恵や経験を長きにわたって積み重ねられることを……
ある者は自分自身を改造し、肉体の枷を取り払うことを考えた
地球は生命を育むゆりかごだ。生命はそのゆりかごから生まれ、大気圏は我々を有害な宇宙線から守り、豊富な有機物は我々の細胞を飢えから遠ざける
だが、ゆりかごの外の世界はどうだ?
我々は宇宙の致命的な放射線や真空の環境、超低温に直面した時、何に頼るべきだろうか?
生態系のゆりかごをまるごと空に移す?それはあまりに困難だ
自身を改造しなければ、人類は永遠に自身と母星をつなぐ臍の緒を断ち切ることができない
人類が宇宙艦隊を発展させても無駄だと言っているわけじゃない。ただ我々はまず、自身を完全に改造してから、未来について話し合うべきだと思う
机上の空論が現実に変わろうとする瞬間、その選択をした者たちは、自分たちが大きなプレッシャーに直面したことに気付く
低温核融合実用化の難題を解決し、ゲシュタルトの構築が完成したあと、次の10年計画は何をすべきなのか?と
ゲノム編集?人体改造?デジタルテクノロジーライフ?
母星の資源が限られる中で、全ての計画を同時に進行するのは夢物語だ
人類は、自らの次の一歩を慎重に選ばなければならない
さまざまな思想の衝突、道徳的な決断、そして利害のもつれ。それらがこの世紀の論争が明確な結末にたどり着くことを困難にしていた
ある人物の副官が、理論報告書と建設案を携えて世界政府の会議に現れるまでは……
真空零点エネルギーリアクター?
カシミール効果……量子ゆらぎ……あぁ……またこの公式か……
複雑な公式を見たトリルドは眼鏡をはずし、ピクピクと痙攣するこめかみを揉んだ
計画書というよりむしろ論文のような書類だった。トリルドは理論部分に目を通すのを断念し、最後のページだけに目を通した
空間の任意の点からエネルギーを抽出し、必要なエネルギー形態に変換することができる……
それを読んだトリルドの瞳孔が僅かに広がった。その言葉の持つ可能性が、彼の脳内を猛スピードで駆け巡る
しかし政治家として、特に世界政府の初代議長として、彼はいずれかの立場に偏る態度を表には出せない
彼は眼鏡をかけ直すと、内なる興奮をいつもの穏やかな表情の下に隠した
真空零点エネルギーの運用か……夢物語のようだが、首席技術者――ドミニクの発案なら疑いなく真実なのだろう
しかし、我々はエネルギー革命を達成し、低温核融合を掌握したばかりだ。エネルギー産業のアップグレードは人類にとってはそれほど重要なことではないだろう
では、このプロジェクトの必要性について説明していただけるかな?
ニタ研究員
議員たちの視線が演壇中央の女性に集まった。彼女はそこにいる老獪な面子よりもはるかに若く、あどけなささえ感じるほどだった
ニタという名前は彼らには初耳だったが、彼女の後ろに立つ人物は人類史上類を見ない輝ける星だった
ドミニク――当初バラバラだった科学者らをまとめあげ、科学理事会を設立し、人類を「大停滞」から救った伝説の人物だ
これまで公の場に姿を現さなかった首席技術者が、なぜ重要な会議にまだ未熟な副官を送り込んできたのか?
これには何か深い意味があるのか、それとも後継者としてニタを育てるつもりなのだろうか?
沈黙の中で彼らの推測が渦巻いていた。トリルドはこの研究員が計画書を提出してからずっと無言で、先ほどの質問にも答えていないことに気がついた
ニタ研究員?
やむを得ず、トリルドはまた彼女に声をかけた
えっ?
ニタは顔を上げ、睡眠不足のせいか焦点のあってない目を向けてきた
もう計画書に目を通したんですか?少なくとも、あと30分はかかると思っていたのに
……
ハンスは、彼女がこっそり手首の端末のアラームをオフにしたのを見逃さなかった。彼女が黙っていたのは、議員たちが計画書を読む間に仮眠をとっていたためらしい
理論研究の部分は割愛させてもらった。私は政治家であって科学者ではないんでね
ではもう一度、世界政府からの質問を言おう
エネルギー革命を成し遂げ、低温核融合を掌握した今、この計画書に記された中核となる利益――零点エネルギーの意義とは何だ?
新しい10年計画は人類の次の一歩がどこに向かうかを決定づけるものだ。もしこの計画書が人類に具体的な突破口や飛躍をもたらさず、ただ華を添えるだけのものなら……
残念ながら、世界政府が財政支援をする理由はない
(危うく彼女に我々を説得する方法を教えてしまうところだった……)
旧友の話術をよく知るハンスは首を振った。だがトリルドが実は何に関心を持っているのかは見抜いていた
10年?
最後のページだけ読んだんですね……計画書に記載した予定期間は20年……10年では検証を終わらせるのがやっとってところです
ニタさん、冗談はお控えください!
いえ、真剣に必要な検証です。この結果次第で、人類が現在の技術レベルで超光速植民艦を製造できるかどうかが決定します
もし検証が失敗すれば、計画の中で実施可能なのは、先ほどあなたが話していた「零点エネルギー計画」だけでしょうね
私たちは人類に年間7000兆kmワット時以上の電力に相当するクリーンエネルギーを追加供給できます……でもこれは零点エネルギー計画の中で最も些細な利益にすぎませんけどね
真の意義は、第二次工業革命以来の遅れたエネルギーの使い方を徹底的に壊すことにあるんです
ニタはまだ眠そうだが、自分が精通する分野について話す時は、明快な説明をしてみせた
現在、どのような形でエネルギーを生産しようが、それを利用するためには再変換が必要です
熱を得るために化石燃料を燃やし、動力を得るためにガスを膨張させる……
私たちのエネルギー取得方法は常に変化している。でもこの非効率で無駄な変換プロセスには新たな突破口がありませんでした
低温核融合エンジンを搭載した「曙光-Ⅲ」は十分な負荷を備えているのに、長く複雑な加速を経てすら光速の1%にしか達しないのも、それが原因です
オールト雲を通過するだけで何世代もの時間が必要なのに、更に遠い宇宙空間の探索についてはいうまでもないでしょう?
でも零点エネルギーならその特性によって空間の任意の点でエネルギーを集め、あらゆるエネルギー形態に変換できる……これ、36ページの57行目に書いてたんですが
収集と変換を同時に行うことでエネルギーの消耗と変換時間は過去の問題になり、我々は必要なエネルギーを直接出力できる……詳細は41ページの65番、変換公式の下です
もし第一段階の理論検証が完了すれば、新しい植民艦への零点エネルギー搭載が可能になります
我々の宇宙船も、光速の10%という速度制限の壁を突破できる……
将来的には光速を超えることさえも……具体的な詳細は79ページから92ページです
大体こんな感じでしょうか。他にご質問は?
まあ、計画書はかなり詳細に書いてあるので、質問されても回答に該当するページをお伝えするだけなんだけど……
先ほどのプレゼンでニタは僅かに残っていた気力も使い果たしたのか、頬杖をついた。今にも眠り込んで演壇から転げ落ちそうだ
しかし厳粛な場にふさわしくない彼女のそんな行動を気にする者など、もはやいない
「光速を超える」という言葉が、全員の心を掴んだ。皆は態度を改め、ニタが指摘した内容を一字一句真剣に読み、画面をタップする音だけが会場に響いた
ニタさん、つまり我々はたったひとつの可能性を検証するために、10年かけて労力と物資を費やさなければならないと?
その上、計画書には月面基地の改装についての記載もある。もともと月面基地は宇宙船の生産と組み立てのための基地だったはずだ
もし零点エネルギー計画が失敗すれば、心血を注いだ10年という時間をドブに捨てるだけでなく、宇宙船戦闘部隊の規模も大幅に縮小されるでしょう
軌道上にあるスペースポートの生産力だけでは、予定期日までに30艦の宇宙船しか投入できません。計画当初は100艦の予定だったのに
なるほどいかにも壮大なプロジェクトのようですが、リスクを集中させるのは得策とはいえない
皆さん、どうかお忘れなく。誰もが世界を享受する、それが世界政府設立の目的です
科学理事会は確かに時代を変える偉業を数多く成し遂げたが、彼ら自身も確証の持てない理論なのに、人類の発展すべき時間を10年も委ねるなどありえない
その議員は明確に反対を表明した。周囲の人々も「光速を超える」という興奮から冷め、損益の問題について議論し始めた
俯いて口を閉ざしたままのニタを見て、その新人議員は追い打ちをかけるように発言を続けた
それに比べて、ゴドウィン教授の全面改造計画の方がより安定しているかと……
見つけた……
ニタさん、私の話はまだ終わっていないのだが
第一に、私は研究員としてここに立っています。議長と同じように、ニタ研究員と呼んでください
第二に、多くの科学理事会メンバーは研究に忙しく、このサミットに出席できません。そのためこの書類を持って彼らの意向を伝えるよう、首席に言われています
これは……請願書と呼ぶべきでしょうね
ニタは端末を開き、短いテキストをスクリーンに投影した
それは世界政府に零点リアクターとそれに関連する研究の支援を求めるシンプルなテキストだった
重要なのは、その下に書き連ねられたサインだ
コンスタンティン·アレクサンドロヴィチ·コロリョフ
星間遠征「東方計画」の発案者、近代宇宙船設計基準創始者
ウィリアム·リーボヴィッツ
量子コンピュータープロセス基準とゲシュタルト物理基準創設者
イゴール·ネヴィリエヴィチ·ランダウ
全分野的科学者、第1号低温核融合炉設計者、汎用性超伝導体結晶構造発見者
ゲシュタルト首席エンジニア、海水魚の淡水養殖技術提唱者、食用キノコ総合辞典著者……
……
その100名以上に及ぶ署名の最後の人物名は……
ドミニク
科学理事会創設者兼首席技術者、ゲシュタルト設計理論確立者
低温核融合理論及びその実用化発案者、初の人工知能機械製作者……
人類を「大停滞」から救った科学の精鋭たちが再び集結していた
彼らの中には老齢で、集中治療室で残り少ない余生を過ごしている者もいる。しかし死の瀬戸際のその言葉の重みは、無視できるものではなかった
彼らはかつて、そして今なお人類の灯台であり、人類の希望の光となる存在だからだ
その彼らがひとつの目的のために、ともに請願するのは……
(請願というより、むしろ……)
これは脅迫だ!
科学理事会はこんなやり方で世界政府に圧力をかけ、自分たちに有利な決定をさせるつもりか!
上品で礼儀正しかった議員は机をバンと叩いて立ち上がり、ニタに指をつきつけて声を荒げた。だが、厳粛な雰囲気と彼の自制心がかろうじて罵倒の言葉を押しとどめていた
有利?私たち、何かを勝ち取ろうとするつもりなんてないんですけど。この研究は全て人類のためですし
この請願書もこの場へ来られず、声を上げられない研究者たちの願いを代弁するためのものです
世界政府会議は、未来の方向性を決める会議と聞きましたが?
それなら、できるだけ多くの意見を聞くべきでは
ほとんどの議員の顔は青ざめていた。彼らの背後に、ややこしい懐事情や複雑な利益集団、あるいはベンチャー企業がいるのかもしれないからだろう
彼らはようやく勝ち取った議席で会議に出席し、時代の波に乗ろうと考えていた
だが本文よりも署名の肩書が長くなるような請願書の前では、密かな企みや皮算用も水泡に帰すしかない
だが――それを笑う者もいた
もちろん、世界政府会議は全ての人の意見を聞く場だ。あなたが持ってきた貴重な「提案」もここにいる議員全員が聞いた
他に質問がなければ、今から投票に移るとしよう
文明の運命の転換点となる会議で、人類は自ら火を灯すことを選んだ
ではここに宣言する。第13回世界政府会議の決議に基づき、次の10年……いや20年計画は、科学理事会の「エデン計画」を中心に進める。人類の文明が再び輝かんことを
人類の次なる目標は、宇宙だ!
その時はまだ誰も災害が迫りつつあることを知らず、偉大な計画が描く未来に彼らは歓声を上げた
1年目、「エデン計画」のあるプロジェクト――「零点エネルギープロジェクト」が正式始動。リアクターの信頼性検証のため、5基の実験用零点エネルギーリアクターを建設予定
2年目、トリルドを筆頭とする支持者たちの支援で「エデン計画」の進捗が大幅に向上
同年、零点エネルギーリアクターの建設地を選定。零点エネルギーエンジン理論の検証がスタート
3年目、零点エネルギーエンジンの理論検証が完了。零点エネルギーリアクターを利用したエンジンの製造が理論上可能となる
同年、零点エネルギーエンジンが搭載可能な原型艦――「エデンⅠ型植民艦」の製造をツィオルコフスキー天航都市にて開始
4年目、エデンⅠ型植民艦の艦体が完成。1年にわたる各種検証を開始
5年目、「エデン計画」が大きく前進。星間植民艦――エデンⅠ型の第32代KM(宇宙環境シミュレータ)の検証を完了。人類の永久的滞在や超光速旅行の可能性を手にする
同年、以前の星間遠征プロジェクト――「東方計画」を「エデン計画」に統合。人類の世紀目標を星間遠征から星間植民へと正式に変更
同年、零点エネルギーエンジン搭載可能な2代目星間植民艦――エデンⅡ型の研究と建造を効率化するための月面基地改造プロジェクトを開始
同年、各国がスペースポートと星間艦の使用権を世界政府に譲渡し、世界政府は陸、海、空、宇宙の全軍事力の調整権を掌握。宇宙船戦闘部隊が結成され、宇宙軍の徴集が始まる
6年目、月面改造プロジェクトの基礎が完了。零点エネルギーエンジンの試験場を追加増設
7年目、トリルドが世界政府常任会議で陸軍最適化改革案を提出。一部の兵士と装備を雇用可能項目とした「陸軍雇用法案」が僅差で可決
同年末、「陸軍雇用法案」により世界政府が大量の資金を集め、各方面の支持を得たことで「エデン計画」が再び加速
これにより全ての初期作業が完成。「エデン計画」と基幹プロジェクト「零点エネルギー計画」が正式に長期的な建設期間に突入
10年目、医療連合体改革やゲシュタルト民用化、教育普及、陸軍改革などで顕著な貢献を見せたトリルドが、各方面からの支持で世界政府議長の再任を果たす
14年目、「エデン計画」が再び画期的に進展
2代目星間植民艦――エデンⅡ型が一時的に組まれた低温核融合エンジンを搭載し、打ち上げに成功。月と同じ軌道上に停泊し、零点エネルギーエンジンの完成を待つ状態に
同年、科学理事会は一年後に零点エネルギーリアクターの初点火を宣言
政治家、実業家、軍人、科学者、エンジニア……「エデン計画」は全ての人の話題となり、子供でさえもニュースで見た内容を話すほどだった
そして全ての人の期待の下、「エデン計画」は14年目を迎えた
ある青年も18歳の誕生日を迎えていた……
うーん……
覇気がないように見えるのは、髪型の問題だな
髪の長さは3mm以下、それが新兵のあるべき姿だ
ありえませんって!その規定は2年も前に廃止されたんですよ!
雇用制度を導入してから、新兵らしからぬ新兵が増えてきたな
前回、訓練基地に旧友を訪ねた時は訓練中にヘアスプレーを使う馬鹿者まで見かけた。士気が下がる一方だ
今は機能装甲が大規模に投入されています。以前の画一的な髪型を作戦AIに見せろってことですか?
それに、なぜこんなに早く私に軍服をくれたんです?
私が出発前に見たかったからだよ
父上
戻ったんですね
宇宙軍に入隊し、指揮官となったシンは家に帰ることが少なくなった
新設部隊である宇宙軍は、日常訓練のみならず休みなく戦闘シミュレーションを行い、宇宙という新たな戦場での戦術方針を練る必要がある
そのため半年、一年と地上へ戻れないことも珍しくなかった
親子のコミュニケーションは衛星電話での短い交流だけになった
半日だけとはいえ……バラード、手伝ってくれて感謝するよ
たいした手間じゃない。彼が行くオアシス小隊にちょうど知り合いがいるんだ
彼が軍人になると決めたことは予想外だったがな
お前ならテストには受かるだろうが……
バラードの鋭い目つきが心配そうに曇った
血液恐怖症はまだ完全に治っていないんだろう?
隣にいるシンは何も言わなかったが、その目はバラードと同じで心配そうだった
ええまあ……今年もまた新兵の募集条件が緩和されたお陰で、選抜に残れましたけど
テロリストの残党や麻薬密売人を相手にする地上防衛軍への入隊者は減り続けています。雇用制度はそう高い要求もされないし、実態よりも象徴的な意味合いのものですよ
ゲシュタルトの職業推薦によれば、これが自分には一番適しているようですし
……
バラードはもう何も言わなかった。シンに頼まれてワタナベの世話をし、訓練した経験から、ワタナベに尖兵としての才能があることを見抜いていた
ゲシュタルトの職業推薦もそれを見抜いて判断したのだろう
しかし黄金時代の人々は、以前のように天賦の才に頼って自分の価値を証明する必要はない
好奇心や探求心こそが、未来を選択する時に重要視されるのだった
そしてそれは、損益比を計算するゲシュタルトが関与できる分野ではない
着任前なんだ、まだ戻るチャンスはある
背が同じほどの高さになった息子を見て、シンは沈黙を破った
必ずしも私や母さんと同じ道を歩まなくてもいいんだ
バラードはお前に優れた才能があると言うが、だからといってそれで未来を決めなくてもいい
時に、あり余る才能は高すぎる期待を背負うことになる
その期待が自分の能力を超えた時、破滅的な失敗やどうしようもない痛みをもたらすことだってある
私はお前が自分の才能を呪う姿を見たくないんだ
……父上、それは母上のこと?
シンは答えなかった
父上、心配かけてごめん
でも、ゲシュタルトの職業推薦を何も考えずに受け入れた訳じゃない
ワタナベと同じ淡く青い目が静かに彼を見つめ、次の言葉を待っていた
昔、父上が言ってた。戦争の傷を癒せるのは平和だけだって
俺は戦争を経験してないし、もちろん、経験者じゃなくてよかったとも思う
だけどそれはつまり、父上やバラードおじさんのようには戦乱と平和の違いを実感できないってことでもあるんだ
それじゃ、母さんがなぜ責任を選び、命を捨てたのかも永遠に理解できないままだ
母さんが残した信念は一体何なのか、世界にはこんなにも多くの人がいるのに、なぜ母さんがそうしなければいけなかったのか
父上ならきっと母上を理解して、説明できるんだろう
……
だけど言葉でどれほど伝えられても、その間にはいつまでも、経験という壁が立ちはだかっている
もし軍人になれば、それが傭兵だとしても、今よりは母さんに近付けるだろ。そうすればもっと母さんを理解できるかもしれない
母さんの選択を完全に理解できた時、本当に暗闇から抜け出せる気がするんだ
自分の力で心の傷から抜け出したいんだ。見ないふりをしたり、忘れることで心に蓋をするんじゃなくて
これが俺の選択なんだ、父上
彼はぐっと胸を張り、全ての善意からの心配を跳ね返そうとしていた
どうやら、我が子を甘く見ていたようだな
お前が諦めてくれれば……別のプレゼントを渡すつもりだったが、その必要はなさそうだ
シンは古風なデザインのレバーアクション方式の散弾銃を取り出した。白樺の木材と金メッキが組み合わされ、まるで芸術品のようだ
何か文字が……
銃を受け取ったワタナベは、小さく書かれた文字を見つけた
過去を刻み、未来を忘れず
そうと決めたんならいい。だがかつて傷があったこと、未来へ向かうために行動するのだということを決して忘れるな
その言葉、心に刻んでおくよ
ずいぶん大口を叩くじゃないか
お前の覚悟なんてまだ生半可なものだ
本当の危機を目の前にしても自分の信念を守り通せるようになったら、もう一度言うんだな
バラードはワタナベの肩をポンポンと叩いた。言い返したそうに不満げな様子の息子を見て、シンはホッとしたような笑みを浮かべた
この時の彼らはまだ知らない。その危機がまもなく訪れることを
パニシング爆発まであと350日――