卵<//ハイジ>の意識が急速に失われつつある
もうすぐ「彼女」は完全に砕け、混乱するデータの一部となり、普通の異合生物と同じように「価値」のないものになる
人魚は暗くなっていく赤い卵を抱えて、幻境からの出口へと歩き出した。そこには片翼の少女の薄く淡い影が立っていた
どうやらこの幻は、彼女が卵に隠していた最後の執念のようだ
……私は長い間、準備をしていました……
少女は幻の地平線を眺めながら、星に向かって独り言をつぶやいた
カナの父さんに、クティーラ計画には価値があるから見放さないでと……焦らなくても成功すると伝えたかったんです
そのため私は準備を重ねた……
でも彼はもういない。新しい道の途中で、自分の命を絶った……なぜなの?
…………
私のしたことに、どんな意味があった?
やっと残高がいっぱい貯まったのに、買いたかった物がもうないの
ハイジはつま先立ちになり、手を空へ伸ばして何かを掴もうとした。しかし片方しか残っていない翼では、空を飛べるはずもない
もしカナが言うようにあのビルから逃げていたら、こんな結末にはならなかったのに
しかし彼女が選択するまで、誰も外の世界を見せてくれなかった。彼女にとって世界で唯一の光はママとカナだけだった、彼女たちを選ぶのも仕方ないことだ
とにかくこれは酷くくだらなく、退屈な悲劇だった。当初は「奇想天外」と評されたクティーラ計画と同じく、いい加減な形で幕を下ろした
人々ががっかりして帰ったあと、ひとりの観客だけが舞台に上がり、逝ってしまった役者たちのために叫んでいた
……クティーラ計画には価値があります、見放さないで……
……だから、せめて彼女たちが生きた痕跡を残してください……
……うん……
数十年後、ようやくもうひとりの観客が舞台に現れ、空に届かなかったあの手を握りしめた
……どうか私を……
これでいいの?クティーラがいなければ、もう一度やり直すのは大変よ
うん、それもフォン·ネガットさんのご意志だ。まずはあの指揮官の意識を保存することが最優先だよ
あの人は自分の命を犠牲にしてまでクティーラの束縛を解き放った……その決意に敬意を示すべきだ
わかったわ。でも今回は大負け、大損したわよね
計画の多くが方向性を変えなきゃならなくなったし、あの方も、裏で安穏と研究ばかりしてられなくなりそうじゃない?
……そうだね
理由は話してくれなかったけど、あの方は異災区が拡大するって言ってたわ
クティーラがいなくなった今、どうするつもり?拡大も止められないし、異合生物を従えることもできやしないのに
……うん……ボクは目覚めてすぐあの方に呼ばれたから、具体的な計画をまだ知らないんだ
とりあえず戻ろうか。もうすぐ空中庭園の人たちが来る。クティーラがいないなら、早くこの子を孵化させないとね
少年は抱えている卵をやさしくなでた
わかった、わかったわよ
そうだ、正式な挨拶がまだだった
初めまして、本物の惑砂
……うん、初めまして、リリスさん
激しく降り注ぐ雨は、まるで空が嘔吐しているようでもあり、まだ流れていない死者の涙のようでもあった
ふたりの昇格者が去ったあと、ラミアは雨の中に立ち尽くして長い間待っていた。ようやく空中庭園の軍隊がやってきた
全てがあの指揮官の予測通りだった。もし指揮官がクティーラと意識融合していなかったら、「彼女」は待ち伏せる昇格者たちに連れていかれたに違いない
人魚は最後にもう一度胸に抱えた卵を抱きしめて、海に潜ると、人々の方に向かって泳いだ
高濃度のパニシング反応を検知!昇格者だ!
昇格者が急接近中!精鋭小隊を!!
昇格者……そうだ、彼らが「ラミア」という名で呼ぶはずがない
彼らにとって、ラミアはただの昇格者だから
……大丈夫……
彼女はとっくに覚悟していた
あの船出の日と同じ雨、同じ寒さの中でラミアは顔を上げた
無数のレーザーポインターが敵意とともに体に向けられ、彼女の次の動きを警戒していた
人々の心中の罵倒を表すように、暴雨がうるさく水面を叩き続けている
今は精鋭小隊の到着を待って誰もが押し黙り、不明な物体を抱えた昇格者に手を出そうとはしてこない
だから、彼女が先に口を開くしかなかった
あ、あの……これを、返したいと思って……
彼女は2枚の認識票を取り出すと、砂浜に置いた
認識票……お前が殺したのか?
……ち、違う……
これはシュトロールと、グレイレイヴン指揮官の認識票なの……
何だって?それはありえない
シュトロールはともかく、グレイレイヴンは全員生きてるじゃないか!
……そうなのね……
包囲網に細い隙間ができた。そこからまったく無傷の人間が現れ、冷静にラミアを見つめている
……うん
似ているが、届かない、触れられない星のようだ
目の前のこの人間はコートと皮膚の下にちゃんと血も肉も収まっていて、少しも漏れ出していない
あの人間も、ずっとそうだったらよかったのに
相手はラミアの感情など少しも察しない様子で、2枚の認識票を手に取って真偽を確かめた
…………
昇格者の陰謀や嘘だと思われないようにするには、どう説明すればいい?
ラミアはしばらく考えていたが、やはり秘密を話すことにした
グレイレイヴン指揮官……931206という数字に、聞き覚えは?
その人の顔色が少し変わった
もうひとりのあなたが……教えてくれたの
「自分は見捨てられた」と言って……私の目の前で亡くなった
一斉に武器を持った人々が近付いた。ラミアはまるで敵意につまびかれた弦のように、怯えて震え続けた
ち、ちゃんと話すから、少し時間を、ください
殺気立った人々はその言葉で半歩下がった。ラミアは勇気を奮い起こして、今までの出来事を話した
どうやってゆりかごの屠殺場で満身創痍の幽霊たちと出会ったのか、そして脱出計画の経過や、彼らの死について
彼らの無念、彼らの記憶、彼らの遺言……「グレイレイヴン指揮官」に託されたことを全て話した
……私たちは外部との通信装置を見つけて、空中庭園に繋いだけど、返事はなかった
目の前の人間は黙ったままで、何も訊こうとはしない
あなたはこのことを知ってたのね。そうなのね?
あなたが無事だから、あの通信はいたずらだと思われたの?
…………
ひとつ、訊いていい?
質問の答えはとっくに知っているのに、全てを渡す前に……彼女はどうしてももう一度訊きたかった
もしある日、あなたも同じ状況に直面したら……数十時間後に生きていけることと、自己を犠牲にして他人を救うこと……
あなたは……自分と関係のない他人の未来のために、自分の命を諦める?
……どうして?
ラミアは目の前の人間、そしてすでに去っていった「あの人」に問いかけた
あなたたちが命を捨てても追いかけるその星火は一体何なんだろう?なぜそこまでするの?
……教えて……
その人は自分の名前を呼んでくれた
……これは……
群れから離れた人魚はすでに死んだ卵を掲げ、自らを危険に晒した
私の願いを、最善の形でかなえるため
ラミアはゆるぎない決意を感じさせる声で言った
昇格者として卵を手放せば、人の群れから隔離されることはよくわかっている。それでも、彼女は自分を見下すような視線にも臆さずに立っていた
そう
だから、「彼女」を連れていってほしい
これは「彼女」の願いであり、私と「あなた」の願いでもあるの
ただ、気をつけて……「彼女」はあなたたちにとってまだ異合生物だから。直接触れることはしないで
彼女は異合生物に侵蝕された結末を散々見てきた。だから、同じ悲劇は二度と起きて欲しくない
すぐに後ろから隔離容器が指揮官の手に渡された
…………
指揮官が隔離容器を持って近付いてくる。彼女は周りの人が目配せで確認し合っていることに気付き、警戒した
――ここまでしても昇格者の人魚は、対等な立場で人間の国に招き入れられないんだ
彼女の本能が精一杯、警告していた
そして卵を容器に入れた瞬間――
……!!
いなくなった!探せ!!
ラミアは姿を消し、海へと潜った
…………
物語はこれで終わり。「悪役」は、実現できない未来のために、世界を破壊できるほどの力を手放した
彼女の全ての願望は泡のような「貪欲」とともに、陸の人々へと渡された
「正義」の主人公たちはさぞ喜んでいるだろう
でもなぜ「悪役」であるべきラミアも喜んでいるのだろう?
…………
答えがわからない人魚は海流にのって漂いながら、陸にいる人々から遠ざかったことを確認すると、水面に浮かび上がった
いつのまにか空は晴れていた
晴れた星空と空に浮かぶ月が、遠くにある灯火のように輝いている
彼女は海に浮かびながら、陸の方を見た
自分を探していた人たちはすでに遠くへ去っていった。グレイレイヴンと彼らの指揮官も
光の中、彼らの後ろ姿は輝いているようだった。彼女の瞳に、あの触れられない星空のように映った
その時だった――あの人間の指揮官が立ち止まり、自分の方に振り向いたのが見えたような気がした
…………
あの人間が口を開き、自分に何か話しかけたような気がする
――それは「感謝」の言葉だろうか?
たったひと言、感謝の言葉を聞き、たった一度、敵意なく受け入れてくれたら、どんなにいいだろう
――これも貪欲ってことなのかな?
でも悪役って、貪欲なのは当たり前じゃない?
返事はない。ただ風と波の音だけが聞こえる
人魚はそのまま長い間、じっと陸上を眺めていた。全ての光が遠くへ消えてしまうまで
彼女は空を見上げ、満天の星々から更に永遠の光を掴もうとした
……遠すぎ……
彼らの後ろ姿も、星々も、遠すぎてとても触れられない
星……
彼女は星に触れる機会を手にしていたが、それを喜びとともに手放した
だってラミアはあの言葉を覚えているから
星空を見上げた時の憧れを忘れないで。前進する気持ちを捨てないで
うん、これからも絶対に忘れない
その言葉を覚えていたから、彼女は彼女なりのやり方でその約束を守れた
――卵の力でたったひとりで進むのではなく、前へ進もうとする多くの人を守れた
後悔なんてしていない……
それを何度も自分の心に問いかけたが、その度に同じ結論になっていた
でも……
後悔はない。しかし彼女は人々と星空への憧れを捨てられず、深海に追放された無念さと孤独からは逃れられない
でも、ラミアは諦めない
いつの日か、彼女は誰も見捨てることなく、あの遠い星空へたどり着くだろう
――その日はいつ来るのだろう?
……まだずっと先よね……
人魚には無限の時間がある
彼女はがっかりしたような顔つきで、波に揺れる尾を見た
水面上に映る星々の影は、まるで人々の後ろ姿のようだ
……星は瞬き、海は帆を抱く……
彼女は海に映る星を見ながら、覚えたての歌を歌い始めた――彼女の歌ではなかったが
群れからはぐれた自分への憐憫だと彼女は思った
人々に追放された悪役は、英雄の国にいる自分を妄想するだけだ
…………
――ポタッ
海水ではない涙が海面にポタポタと落ちると、広がった波紋が海の瞳を描き、彼女が恋焦がれる無数の星を映して煌めいた
そして――
星には渡せないラブレターを、彼女はその歌声で、頬を濡らす涙で、星影にそっと届けた