プラトンは、教育を受けた人と受けていない人の本質を、生まれながらにして洞窟で鎖に縛られた囚人にたとえた
囚人の顔は暗い洞窟の壁に向けられている。体も拘束され、振り返ることすらできない
洞窟の外にいた人が松明で、器具や通行人、あるいはダミーの人形を照らしながら、囚人の後ろを通っていく
常に洞窟の壁と向き合う囚人には、その壁に映し出された影しか見えない
囚人は本当の物や人をひとつとして見たことがない。だから影こそが唯一の本物だと思うのは当然だ
だがもし突然、彼を洞窟から解放して松明を見せ、これまで見てきた影はまったくの偽りだったと教えたらどうなるのだろう
彼は納得するまでの過程で、想像を絶する苦痛を味わうだろう
……そして、迷うだろう
初めて海面へと浮かび上がった人魚姫が、岩礁の後ろに広がる人間の国を見た時に感じた迷いのように
初めてマッチを擦り、炎の中に自分の願うものを全て見た少女のように
初めてフェアリーゴッドマザーに舞踏会に行きたいと願ったシンデレラのように
この時、ラミアも「機会」と「真実」を前に、自分に問いかけ続けていた
私は、一体何が欲しいんだろう……
こうなる以前、もし誰かにあなたの願いは何かと訊かれたら、彼女は迷わず即答していたはずだ
しかし全ての願いが簡単に叶ってしまうと、願いはもはや貴重でもなんでもなくなる
よりどりみどりの未来を目の前に並べられて、彼女は逆に迷いを感じていた
もう一歩踏み出し、もう少し貪欲になって、自分の願いを叶えてもらえばいい
ラミアが抱えている卵<//制御者>は、囁き声で彼女を欲望の世界へと誘う
それはラミアが自らの欲望に支配され、現状に満足できなくなることを望んでいた
万能な卵<//マッチ>を手に入れるために、卵を殺そうとする指揮官を見捨てればいい。そうすれば指揮官に最後の注射を打って、母胎へと還せる
もう一度マッチを擦ってみて?
不思議な光の中で片翼の少女の姿が低く囁く
そうすれば幸せが手に入る……
ラミアは……ママが欲しい
「彼女が全ての願いを実現し、幸せになって欲しいと願っている」
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「私は……彼女に『全て私のせいだったの?』と直接訊きたいの」
私をもう責めないで……
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視界におかしな光景が映った。あれは……何かの裂け目?
ラミアはそれを無視することにした
知識が欲しい
「私を本来の姿に戻し、全部の質問に答えられるようにして」
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裂け目は更に広がった
友達が欲しい……
「見せ物の猿は嫌だ、皆と同じようになりたい」
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でもこれはただの平和時代のありきたりな生活。願いとしてはつまらない
私、歌手になりたい
――ビックスターラミアのニューシングル『深海レクイエム』!ワオ!美しいジャケ写!
ラミア!!ラミア!!ラミア!!
…………
回廊の観測者は、願うことによるリスクも理解していた
私、学識のある先生になりたい。どんなに優秀な学生でも、謙虚に教えを請うてくるような
観測者はこれが時間干渉による影響だと知っていた。このままでは、彼女は世界を引きちぎってしまうだろう
なんでもできる慈善家になりたい
「保全エリアを必要とする全ての人が、あなたの無償の善意に感謝しています!」
「その美しい人魚の姿をモデルに、ゲームを作らせてください!あなたの名前を歴史に残しましょう!」
αより強くなりたい
これが極浄僧院から授かった力よ。ガブリエル
死体の頭蓋骨に人魚の姿がぼんやりと映った
師匠、いらしたんですね
パニシングが眠りから目覚め、大地がものすごい勢いで毒されていく
いや、それだけでは足りないでしょう?
クティーラと彼女のゆりかごがこの世界に降臨することを許せば、世界は赤一色に染まる
プリア森林公園跡の惨劇がまた繰り返される
これは彼女が願った未来?それとも無知による破滅?
願いを叶えることに無我夢中の人魚は、まだ危険に気付いていなかった
私は昇格ネットワークを凌駕する存在となり、全ての代行者をひれ伏させたい
……この星が、まもなく孵化する
純真無垢な願望と、白昼夢のような幻想が交錯する
しかし観測者は知っていた。世界はこれほど多くのポイント変更に耐えられないことを
願いを告げ続ける人魚は、安全な四次元回廊をウキウキと渡り歩き、卵<//マッチ>が灯す未来を楽しんでいる
ラミアはリアルな未来演算で、無数の人生を体験した。やがて彼女の全ての願いが実現すると、満足から一転して無欲の境地に入った
……私、まだ他に願いってあったっけ?
次第に光を失いつつある卵<//マッチ>と消えそうなマインドビーコン……彼女は最後のチャンスをどう活かすかを考え始めた
回廊の先の鏡の中に、彼女はアトランティスの影を見た
鏡……
かつてラミアは通信の投影を通して、生から死を、現実から理想を覗き見ていた
彼女は手を伸ばし、去っていった人々に触れようとした。だがそれはただ水面に映った星の影だった
……星……
海の娘は水面に映る「星」の影を見ながら、最後の願いを告げていた
ラミアは星の海に行きたい。あなたたちが憧れていた星空を見てみたい
ラミアは……あなたたちが命を捨てても前へ「進む」意義を知りたい
ラミアは星空へと跳び上がり、軽々と太陽系を離れた。だがその顔には迷いがあった
彼女は人間がまだ解明できていないブラックホールを自由に通り抜けられることに驚喜した。どんな遠くの星にも触れることができ、人間も知らない宇宙の輪郭にも触れた
彼女は虚無となり、永遠に星の海をたゆたう旅人となった
彼女は全ての哲学の答えを見つけた――
しかし彼女はその問題にどんな意味があるのかを知らない。答えの意味がわからない。理解できない文字は知らない外国語と同じだ
彼女は全ての未知と科学の答えを目にした――
しかし見ただけで、何もできなかった。洞窟の外には未知がある。だが彼女は理解することもできず、この種の現象の存在もよくわかっていなかった
彼女は果てしない旅の途中で全ての星々を細かく調べた
長い時間をかけて、彼女はようやく目に見える全てを理解し、前進する意味、この全てを見た意味を理解した
そして宇宙の「縁」に触れた時、ヴェールのような覆いをかけられていた認知の暗闇が、少しずつ明るくなっていった
星々と踊っていた人魚は振り返り、自分の願いがいかに小さかったかを嘲笑った
歌手になりたい?尊敬されたい?広い宇宙の中で、それらの願いはあまりに卑小で馬鹿げている
彼女は尾を振って地球の側へ戻ると、片手で月を転がして遊び始めた
すると地球では大きな洪水が起き、彼女が大切にしていたアトランティスが永遠に海の底へと沈められてしまった
命は突然の洪水で全て消えた。溺れ死ぬ間際の悲鳴は彼女には届かず、全ての命は「母親」の胎内に戻された
彼女は真理をじっと見つめ、破滅を冷めた目で眺めて、星の海に身を漂わせていた
彼女が見守る中で、157万通りの宇宙文明が誕生しては破滅することを何度も繰り返した
宇宙戦争と不可避の法則により、彼女が持っている「鍵」は月と同じ、ただのオモチャになってしまった
加速された時間が流れ、ラミアは星屑のように、ひと言も発さない存在になっていた
目の前の星の海が崩壊してゼロになった時、現実のマインドビーコンも消えそうになった――
――タイムアップだ
退屈で無力な現実に戻りたくないと思いながら、彼女は演算された宇宙がリセットされるのを名残り惜しく眺めていた
……現実……
現実のラミアは、生き残ることに全力を費やす小悪人だ。そして生き残ること以外の願いは、実現できないただの妄想だった
…………
ここにいたってようやくラミアは卵の使い道をはっきりと理解した
自分の目的を話せば、卵が自動的に目的達成のために変更を施し、更に成功後の景色を見せてくれる
でも変更できるポイントは、全部過去のことばかり……
まさかフォン·ネガットは、過去に戻る術を持っているの?
閃くように、ラミアはフォン·ネガットが「鍵」を探していたとルナが言っていたことを思い出した
鍵……
もしこの卵が鍵なら、どんな扉を開けてくれるんだろう?
そう呟いた時、マインドビーコンの微かな光の中の影がすぐに答えを映し出した
あの不思議な塔が……
また赤色になる時?
清浄地にはどう行けば?「塔」を赤くするにはどうすれば?
違う、これは別の塔のこと?
それなら、どうやって塔を使って過去に戻ればいいの?
それにどうやって演算で提示されたポイントを変更すればいいの?
フォン·ネガットはこの方法で、どこへ行こうとしているの?
それらの答えはラミアにはまだわからない。だが彼女は卵の重要性をよくわかっていた
ルナ様とフォン·ネガットが欲しいのはまさにこの卵だ。この卵が再選別の問題を解決してくれるはず
……再選別
――今のラミアなら理解できる
代行者の意識海も侵蝕体と同じように、長い時間を侵蝕されている。ただ代行者の意識海は安定性しているがゆえに、「自我」が残っていた
もしかしたら人間にとっては、代行者も昇格者も同じ侵蝕体であり、すでに死者に区分されるのかもしれない
代行者と昇格者は昇格ネットワークを離れてしまえばたちまち自我を失う。だからそこを離れるのが難しい
授格者はそれとは少し違って、代行者や昇格者に制限を受けている
パニシングの中には大量の「主を持たない」意識データが保存されている。それらのデータが融合し、昇格ネットワークを強化しているのだ
……もしかしたら、似てるかも
一方は昇格者が昇格ネットワークに残した意識、情報が――彼らの自我。もう一方は主を持たない数多の意識、情報が――融合して自我となる
再選別の本質は、融合した自我<//情報>が進化して、代行者の権限を上書きすることなのだ
これはパニシングの反抗ともいえた。パニシングの中にいる意識が自主性を誇示しようとしている
彼らは代行者の管理下から解放され、自由に集まり、独立した個体を形作ろうとしている
このまま放置すればいずれパニシングは群体となり、融合することで無敵に、理解不能になり、名状しがたい怪物へと生まれ変わるだろう
――そして人間と昇格者に破滅をもたらすのだ
代行者は再選別を通して、自分の管理権限を取り戻す必要があるんだ……
それは生き残るためだけでなく、未来のためでもある
だからフォン·ネガットは「卵<//鍵>」を作ったのね……
「卵」自身は濃度の高いパニシング異重合体で、昇格者に絶対的な服従心を持つ意識が入っている可能性が高い
この卵は、昇格者に再選別を乗り越えるためのサポートをして、パニシングに保存されたデータで演算することもできる……
データ……パニシングのデータは……四次元の存在なんだ
ラミアの視線は星の海を越えて、過去を見ていた
あの時の巨大な異合生物も……大きな「信号塔」を作るためだった
あの時は確かに未来の情報を受信したけど、人間に先を越されちゃって……
でも、あの時フォン·ネガットが未来の情報を手にしていたら、そもそもクティーラ計画自体がなかった
……そういうことなんだ
情報とは宝、未知であることを知るための松明。それこそフォン·ネガットの狙いだった
同時に、ラミアは気付いた
卵を誕生させたクティーラ自身が、さまざまな「扉」と繋がっていること
異重合母体が赤潮の類人と繋がっているように、クティーラは女王蜂のような中央制御機器なのだ
クティーラを手に入れれば、その特性を利用してクティーラが産み落とす全ての異合生物をコントロールできるってことか
卵は塔に向かうための鍵、クティーラは異合生物を操る女王蜂……これがフォン·ネガットがクティーラ計画から得ようとしていたものなんだ
私にとってもこれ、すごく役に立つ……
すでに卵の使い道は理解したが、なぜクティーラが「女王蜂」になれるのかがまだわからない
クティーラのことが知りたいな
――ラミアのとどまるところを知らない知識欲とは反対に、マインドビーコンは次第に弱まっていく
あの人間がリンクを切ったのか、あるいは意識を失いかけている?
……タイミングが悪いなあ、今はないでしょ
ラミアはリンクが切れかけなのに気付いていたことを思うと、仕方ないかとため息をついた
後はここから逃げるだけね。卵を持って塔に行けば、私の願いが実現する……少なくとも、実現の可能性がある
でも、どうやってここから逃げる?
もし再びリンクできなければ、卵を使っても意識海がめちゃくちゃに混乱して自滅するだけだ
ならばもう一度あの人間に懇願する?欺いて利用することは、全ての悪役がやっていることだ
……グレイレイヴン指揮官……
だが、彼女はそうしたくなかった。なぜだろう?
ラミアは宇宙でのとりとめのない思考をやめて、指揮官の姿を思い描いた
あの人間は自分をリリアンだと思っていた。でもリリアンが離反者だと疑いつつも、彼女を信じてくれた
他の選択肢がないだけだったのか、それとも本当に善意からだったのか?
私、まだこんなことを気にするんだ……
ラミアは自分が先ほど口にし続けた願いを思い返し、それらの願いにひとつの共通点があることに気付いた
アトランティスの人々が宇宙と星の海を追い求めているように、ラミアも彼らを、「洞窟」を出て真実の世界を見た人を追い求めている
彼らのようにすごい人になりたい。彼らと同じ高みに立ち、彼らが見た風景を見て、彼らが命を捨てても触れようとした星空を見てみたい、そうラミアは思った
……私……
ラミアはもう、無知の「洞窟」にいるのは嫌
虚影の中で全ての夢を実現したラミアは、ようやく自分の心からの願いがなんなのかを理解した
彼女はそっと卵<//鍵>を持ち上げ、沈黙する星々に向かって、現実では決して訊けない質問を問いかけた
教えて……私の正体を知っても……
あの人は許してくれる……?