約1時間半後
全ての準備が整い、3人は安全地帯へと退避し、起爆装置のスイッチを押した
轟音が響き渡り、巨大な木とクティーラの近くに置かれた全ての意識複製体が火の海に包まれた
振動が続く中で空間は闇に閉ざされた。ラミアは痛みで気絶した時の暗闇をなぜか思い出していた
あの卵に触れてから、ひとつの漠然とした考えが彼女の頭をよぎっていた――この空間全体が生き物なのではないだろうか
こんなクソみたいな場所に配電しているとは思えないが
シュトロールは端末の照明で、暗いトンネルの中を照らした。その瞬間、無数の牙を剥いた巨大な口が見えた
【規制音】!クソが、ついてねえ!
しかしその指示は出遅れた。鋸状の歯を持つイソギンチャクの群れが光をたどり、リリアンへ突進してきている
リリアンは慌てて錆びた2本の短剣を取り出したが、反撃体勢を取る間もなく、空から降ってきたアビスエンジェルに噛みつかれた
わあァッ!
人工皮膚が鋭い歯で噛み裂かれ、彼女の背中に血の花が咲いた
弾はリリアンの背中に噛みついた敵性体を精確に撃ち落とし、敵性体は音もなくずるずると滑り落ちた
シュトロールはリリアンを押しのけ、剣を振り上げると襲ってきたイソギンチャクのような敵を真っぷたつにした
最後のひとつだ!
命令を聞いた瞬間、シュトロールはすぐさまグレネードを投げつけ、背後のふたりを援護した
グレネードが轟然と火を噴いた
3人は暗闇の中で背中を互いに預けながら、周りを警戒していた
…………
……
――タン
階段の上から音が聞こえた
タン、タン、タン……
のろのろとした奇妙な足音だ
のろまな足音がゆっくり近付いてくるにつれ、パニシングの赤色の粒子が暗闇から湧き上り、奔流のように流れ出す
赤色の光がひとつ点滅すると、消えていた光もそれと呼応するように点滅し始めた
そしてその光すら飲み込もうとする漆黒の自身の影を踏みしだき、彼女が近付いてきた
その女性が優しく頭を動かすと、光が彼女の顔を一瞬だけ照らし出した
…………
に……逃げて……
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もう退路はない。後ろはさっきみたいなバケモノだらけだ!
指揮官、あいつを倒すしかない!あいつがここを出て惑砂と合流したら、俺らは挟撃される!
ぐずぐずしてりゃ、後ろの異合生物にやられちまう。攻撃方法はこっちから攻撃すりゃおのずとわかるだろ!
やめろってなんだよ。他に方法があるのかよ!
後ろは任せた
シュトロール武器を握りしめ、ふたりの前に立ちはだかった
ちっ、また光が消えやがった!
自分は銃を構えて、暗闇に潜む影に狙いを定めた
クティーラが爪を振り上げて襲いかかってきた刹那、放たれた弾丸がクティーラの爪を精確に射抜いた。クティーラは悲鳴を上げながら数歩後ずさった
気をつけて!彼女が持っていた卵がない!
後ろだ!
赤い閃光が迸り、避ける間もなく卵が凄まじい勢いで衝突し、肋骨が折れた感覚があった
卵が触れた部分が急速に爛れ始めていく。流れ出す血が異合生物の赤い液体と混ざりあい、コートを湿らせた
次の瞬間、赤い卵に2本の短剣が突き刺さった。リリアンは跳ね上がると自らの全体重をかけ、こちらの体から異合生物を引き剥がしてくれた
数秒でも遅ければ、皮膚組織だけでなくその下の脂肪まで侵蝕されていただろう
異合生物に直接触れたのか!?侵蝕状況は?
私は大丈夫!
なぜか、彼女の声に強い意志が込められているのを感じる
指揮官は??
答えようとしたその時、クティーラがまた悲鳴のような叫び声をあげた
頭が……痛い……意識海が……
影響を受けたラミアの意識海では、かつて出会った人々の姿が走馬灯のようによぎっていく
空虚な孤独感に包まれながらラミアは海の底へと引きずり込まれていく。その苦痛はいつもの、よく馴染んだもの――
でも……
正体を知られては駄目。羊の皮を被った狼なんて、どうせ誰も受け入れてくれない。でも、私だってそんなこと、望んでなかったのに
混乱する記憶に囚われたラミアは動けなくなり、卵はその隙に逃げて母親の懐へと戻った
焦りながらも仲間の名前を呼び、影に危険が潜んでいることを知らせた
一体どうすれば……
情報源として、君は生きる価値がある
ラミアは必死に正気を保とうとしたが、意識海には混乱した走馬灯が流れ続け、何もできそうにない
情報源……そうだ!あの卵……絶対に……気をつけて!
お前、さっきから卵のことばっかだな!
だって……うぅ……頭、痛い……!
卵がまたもや弱った人間に狙いを定め、突進してきた
卵がぶつかる寸前に伸ばしてきた7本のパニシングの棘が、こちらの腕を刺し貫いた
至近距離で卵めがけて何度か弾を撃ち込むと、卵は悲鳴を上げ、血をまき散らしながら棘をひっこめた
……逃げて……殺される!
クティーラを発見した以上、このまま野放しにできないよ。我々の退路もない。逃げても仕方ないんだ。ここで誰かが災難を食い止めなければ
激痛で意識が失われかける。だが絶望はまだ追い打ちをかけてきた
指揮官!!!俺の後ろだッ!!!
生きたくないという方がおかしい!みんな頭がおかしいの!?
再び視界に光が戻った時、シュトロールの体が――
彼は悲鳴を上げることも、たったひと言の遺言すら口にできなかった。逞しかった背中は切り裂かれ、ふたりの目の前で崩れ落ちた
シュ……
魂という持ち主を失った体から噴き出す循環液と、彼の砕け散った意識海が混ざり合い、クティーラに降りかかっている
みるみる内にその液体は「彼女」の体に吸収されていった
そんな……っ!
シュトロールの体は、蠢く床にまたたく間に呑み込まれていった
過去や未来、ヴァレリア、もうひとりの自分の存在を悩んでいた彼は、いまや飛び散り、母と大地の子宮に還ったのだ
……少しの跡形もなく
待って、上!
リリアンに全力で突き飛ばされ、ふたりはゴロゴロと壁際まで転がって逃げた
あの卵……なんて速さなの……
少女はふらつきながら立ち上がりかけたが、バランスを崩して倒れ込み、震えながら壁にもたれかかった
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うっ……!干渉が……酷い!
卵は音波のようなものを発し、一度「自分」に触れたことのあるラミアの意識海に干渉してきた
え、ええ!?
卵のガサついたノイズが近付いてくる
ああああ……
――途方にくれた人魚はついに、その人間の傷だらけの手を握った
リンクした瞬間にマインドビーコンから異様な感覚が伝わった。目の前の「少女」が頑なにリンクを拒んでいたのは、これのせいなのか?
その異様な感覚の正体を確認する余裕もなく、卵が再び襲いかかってきた。リリアンを狙っている
リリアンの謎は多いままだが、惑砂の意識複製体を見つけたことや、つい先ほど身を挺して自分を守ってくれたことは、本心からの行動に違いなかった
……!
彼女はその場で震えながら立ちすくんでいた
銃声が聞こえた瞬間「卵」はぐるっと身をかわし、弾は空しくトンネルの向こうに吸い込まれた
突然、トンネルが崩壊するかのように激しく揺れ始めた
ラミアの走馬灯のように混乱していた意識海は、リンクを行ったことでなんとか正常に戻った。理性を取り戻したラミアは、まだバレてないことを願っていた
逃げましょう!
ここから逃げられればまだチャンスがある。彼女がリリアンではないことだって、バレずに済むかもしれない
えっ……
リリアンはパニックになりながらも、逃げられそうな道を必死で探した
周囲に蠢く赤潮は襲いもせず後退もせず、行き場をなくしたふたりをまるでコロシアムの観客のように見つめていた
暗闇の中で正面に鎮座するハンターが「ペット」を放った。そしてペットの後ろから獲物を観察するようにゆっくりと、周囲を徘徊し始める
私なら……いえ……
私は……ひとりじゃない。私たちは、私たちはもう……
私……
リリアンは震えながら、指揮官がただひとりで漆黒の夢魔の中へ突進する姿を見た
爛れた傷口から激痛が走る。目の前にちらつく奇妙な光は、マインドビーコンが汚染されたことを知らせている。だがそれでも人類は抗うのだ、決して屈してはならない
腕にはもう力が入らない。だが、それなら慣性を利用して剣を振ればいい!
暗闇から卵が襲ってくるタイミングを見定めて――
シュトロールの循環液にまみれた剣を投げつけると、慣性の力で卵の外殻にざっくりと突き刺さった
深く傷ついた卵はそのまま地面に落ち、醜くもがき続けていた
口からは血があふれ、頭もますます重くなっていく。目尻から生暖かい液体が流れているが、それは涙ではなく血なのもわかっていた
そうだ、たとえ視界が暗黒に転じても、自分は涙など流さない
闇の空間がまた揺れ始めた。周りの敵性体は何かを察知し、警戒して後ろへ下がり始めた。クティーラもしばし動きを止めている
再び剣を振り上げ、最後の力を振り絞って、もがき続ける卵に全力の一撃を与えた――
――剣は卵を貫き、そのまま床に串刺しにした。赤子のような甲高く鋭い卵の泣き声が、鼓膜を刺激する
その泣き声を聞いた「母親」クティーラは、ためらうことなくこちらに急接近してきた
鉛のように重い両手を持ち上げて銃を構え、卵を救おうとするクティーラに照準を合わせ……
パニシングに蝕まれた体が銃撃の反動にすら耐えられず、バランスを崩して後ろの壁へと倒れ込んだ
空間を揺るがす轟音と揺れがますます激しくなり、取り囲んでいた敵が逃げ始めている。今ならリリアンがひとりでも逃げられるはずだ
……彼女に逃げろと言うべきだろうか?あのリンクだけで、彼女の正体を……昇格者だと判断していいのだろうか?
確認できないことが多すぎる。だが激痛と迫りくるクティーラは、考える余裕を与えてくれない
あ……ああ……
少女は震えながら自分を見て、卵を助けようとしているクティーラを見た
まだ、挽回の余地はある
リリアンの偽装を解き昇格者の姿で戦えば、逃げられるはず
でも指揮官がまだ自分をリリアンだと思っているなら、偽装を解いた自分を殺そうとするだろう。それでは藪蛇だ
だがこれ以上猶予はない。指揮官は瀕死の状態だ。彼女はまた、自分を信じてくれた人を失ってしまうのだろうか
運命のいたずらでほんの少しの間、協力関係を結んだだけ……
そうよね……
パニシングの被害とは無縁の昇格者の彼女にとって、人はただの「コーヒーカップ」や「コネクター」「ボード」といった、幼い時のオモチャと同じようなものだった……
でも、ラミアはこのカップが好き。これしかないの
コーヒーカップすら守れない自分なんて嫌い
正体をバラしても、指揮官を見殺しにしても……考え得る最悪の結果はラミアがたったひとりでクティーラと戦うこと
わ……私……
でもビクビクして毎日を過ごすのは、とても辛い
……もうどうでもいい!私、もう考えたくない!!!
彼女は狂ったように叫びながら、勝てるはずもない黒影に向かって走り出した
次の瞬間――
クティーラの長い鞭をグレイブではね返すと、その飛び散る火花の中でリリアンは人魚の姿へと変わった
諦めなきゃいけないのは、もううんざり!ビクビクして生きることにも、もううんざりなの!!!
高濃度のパニシングがラミアの側で凝結し、無数の刃となってクティーラに襲いかかった
どっちを選んでも後悔するなら!!1歩だけでも前へ進んでやるッ!!
クティーラのすぐ側の赤潮や、クティーラ自身と卵すらも昇格者にコントロールされ、明らかに動きが鈍くなっている
襲いくる激しい頭痛が驚愕をかき消した。視界はビー玉をばらまいたような光と色の混沌状態だ
ラミアの決死の覚悟に反して、マインドビーコンは彼女の影響で更に汚染され、闇へと流れ落ちていく
ラミアが自身の力を発揮すればするほど、こちらへの負担が重くなるのだ
これが、昇格者とリンクする代償だ。たとえ「天才」でもその代償を軽くするのが精一杯であり、完全に消し去ることなどできない
ましてやパニシングが高濃度のエリアで、こんな軽装備で昇格者とリンクしたのだ。当然の事態だといえた
いつもの仲間がもたらす光を失っている今、マインドビーコンの中の僅かな光は、人魚の方へと流れ込んでいく
大量の血が気管に流れ込み、呼吸はますます苦しくなった
もはや体を支えきれず、壁によりかかってずるずると横たわった
周囲の揺れは更に激しさを増している。数十秒もすれば、ここが倒壊しそうな勢いだ
目の前にクティーラと戦う後ろ姿があった。最後の気力を使い果たしながら彼女に向かって手を差し伸ばした
意識が遠のいていく。視界の全てがグニャリと歪み、崩壊し、堕ちていく
最後に見たのは……人魚が地面に串刺しにされた卵を、抱きしめる光景だった