日が沈み、淡い霧が立ち込める海が暗くなり始めた。視界が暗くなるにつれ、形のない恐怖が蠢き出す
……
濃霧の中からひとりの粛清部隊の隊員の姿が現れ、ゆっくりと赤黒く染まった海の方へ向かった。彼はその穏やかな海の方へ両手を伸ばし、ぼんやりとしていた
突然、彼の周りに実体のない緋色の触手が現れ、ゆっくりと彼を包み込んだ。濃霧が覆う海面に出現した無数の赤い点が、まだ防衛態勢をとっていない構造体に素早く忍び寄った
隊員のパニシング濃度計測器が激しく警告音を鳴らす。赤い点の背後に潜む異形生物は極めて高濃度のパニシングを有する――いや、この生物自体がパニシングで構成されている
……
命を奪い取る生物を前に、粛清部隊の隊員は臆することなく、逆に一歩前へ踏み出し、手にしていた松明のようなライトを掲げた
異合生物たちはその灯りで相手を一瞬でロックオンし、攻撃を仕掛けてきた。だがその行為が、彼ら自身のその姿を濃霧の中から晒すことになった
四方八方から弾丸の雨が降り注いだ。岩の後ろ、浅瀬から……弾丸は最初に海に近付いたあの粛清部隊の隊員の耳をかすめ、彼の側にいた異合生物に命中した
撃たれた異合生物が立ち上がろうとあがいていた時、霧の中から現れた槍がその頭……頭らしき部分を見事に貫いた
異合生物が完全に動きを止めたことを確認すると、素早く槍が引き抜かれ、隊員は霧の中に姿を消した。彼らは隙を見つけ、効率よく一撃で敵を仕留めていく
また巨大な異合生物がゆっくりと海から現れた。大量の赤潮を吸収していることがわかる巨大さだ。次の瞬間、身の毛がよだつような低いうなり声が聞こえた
怪物は大波のような腕を振り上げ、目の前の異合生物を一掃した。更にライトを掲げた粛清部隊の隊員に狙いを定めている。粛清部隊の装備ではこれほど巨大な敵とは戦えない
はい!
異合生物の刺すような赤色と対照的な青い閃光が走った――鴉羽のシールド型噴射装置が回転し、吸い込んだ霧が全てを凍らせる空気へと変わる
ルシアはうなずき、全速力で異合生物に接近した。噴射装置の推進力を借りて空へ高々と飛び上がると、圧縮した冷凍空気の噴射装置を大型異合生物の足にぶつけた
その一撃では異合生物を仕留められなかったが、足が凍ってバランスを崩した巨体の異合生物は、砂浜に地響きを立てながら倒れた
立ち上がろうとする異合生物の周りに数本の槍が現れ、地面に異合生物を釘づけにした。痛みのせいか、その異合生物から人間のような叫び声が上がる
うるさいんだよ……
粛清部隊の隊員は炎が噴き出す発炎筒を、異合生物の喉に突っ込んだ。歪み切った異合生物の顔を炎が包む
燃え盛る炎の中で傷を修復しようと赤潮がうごめく様子を無表情に眺めていた隊員だったが、ふと何かを見つけたような顔になった
自分の名前を呼ばれ、彼は一瞬ひるんだ。しかし次の瞬間、彼は対侵蝕体用大口径拳銃をつきつけ、頭部らしき部分が跡形もなくなるまで連射した
霧が晴れ、他の異合生物はゆっくりと海の中へ戻り、波も静かになった。粛清部隊の隊員たちも物陰から現れ、まだ敵が隠れていないかどうか警戒している
粛清部隊の慎重な行動によって侵蝕や怪我人は出なかった。連日の戦闘で皆の神経は張りつめきっていたが、なんとか今夜の異合生物の進攻を耐え抜いた
戦闘終了後、ルシアは凍った海から噴射装置を取り戻し、粛清部隊の隊員と何かを話そうとしたようだが、結局は黙ったまま部隊の後方に戻ってきた
指揮官、お怪我はありませんか?
よかった……今は私だけですし、指揮官に何かあったら私は……自分を許せません。博識なリーも補助型のリーフもいないんですから、体調に異常があればすぐ教えてください
寒い……ですか。私のコートをお貸ししましょうか?
その時ようやくルシアは手にした噴射装置に気づき、冷気が自分から発生しているのを理解した。今のは冗談でルシアをリラックスさせようとしただけだ
ルシアもようやく笑った。彼女はうなずきながら真剣な面持ちで答えた
指揮官ご自身の作戦命令ですから、これくらい我慢してくださいよ――リーならそう言ったでしょうね
ルシアは空を見上げながら、刀を鞘に戻した。空中庭園ではリーとリーフが、皆が無事に戻るのを待っているだろう
やはりそうですか……確かにあの作戦はあまりにも危険で、指揮官のお手によるものとは思えないと感じていました
あの粛清部隊の隊員はあやうくこの漆黒の海で命を落としかけたはずだ。しかし彼は一切動じることなく、黙々と自分の装備を点検している
この数日の攻防戦で、毎晩多くの異合生物が海岸沿いを突破し、内陸へと侵入した
粛清部隊とともに必死に殲滅しようとしましたが……多くの異合生物が内陸に侵入しました。もし人間がいるシェルターや保全エリアに現れれば、多くの死傷者が出ます
「粛清部隊とともに」というより、各自の単独作戦というべきだろう……粛清部隊はもともと協同作戦は不得意だ。ましてやこんな大規模な防衛戦はいうまでもない
空中庭園はΩ武器を使い、海に流れ込んだ赤潮を包囲駆除することに同意した。だが大量のΩ兵器と部隊を調達するには、数日の時間が必要だった
「私は……イサリュスと言います。今夜、私が囮になるので……手伝ってください」
今朝、グレイレイヴンの休憩所を訪ねてきたひとりの粛清部隊の隊員が、そのひと言だけを発して自らの待機場所に戻っていった
通常なら極めて無礼な行動だが、ここ数日で、これは彼の……ビアンカが粛清部隊からいなくなってからの、彼なりの最大限のコミュニケーション方法だとわかった
こちらの視線に気づき、イサリュスは軽くうなずいた
極めてシンプルな囮作戦だったが、非常に有効だった。人手不足の今、大規模に敵を殲滅するにはこれが一番の方法だ……だが、確実に囮の身を守れるとは限らない
こんな危険な作戦は到底納得できなかったが、基本的な布陣を敷き、ルシアを参加させる状況下でなら、勝算は高かった
幸い、海岸線に現れる異合生物は日に日に減り、彼らの勢力拡大も抑えられている。しかし直感が、この後には更なる大きな危険が潜んでいると訴えかけてきていた
私たちはビアンカ以外の……粛清部隊の皆さんをよく知らないですよね
名前も知らぬまま、多くの粛清部隊の隊員が、短い数日でこの砂浜の上で命を散らした。しかし彼らは露ほどにも恐れず、一切ためらわなかった
――過去の無数の粛清任務で、彼らはとっくに恐怖を忘れたのだろう
ルシアと戦場を確認しようとした時、海の方から一陣の風が吹いた。風の中の腐敗臭が鼻腔を刺す。遠くにいたイサリュスも猛然と立ち上がり、遠くを見つめた
あそこに……!
彼の声と同時に足下が激しく揺れた。言葉にできないほど巨大な、真っ白な影が海の中からゆっくりと姿を現し、そのせいで赤い大波が猛烈なスピードで岸辺に押し寄せた
巨大な波の至るところで、高濃度のパニシングが結晶した鋭い突起が突き出している
ルシアはイサリュスの言葉ですぐに飛び出した。彼女は鴉羽の凍結機能で海水を広範囲に凍らせ、粛清部隊が撤退する時間を稼ごうとしている
全員が比較的高い場所に撤退して、ようやくその巨大な影を確認する余裕ができた
まさか……異合生物?でもあんなサイズになるなんて……
イサリュスもうなずいて、目を細めて遠くを眺めた。彼もこれほどの怪物を見たのは初めてだったようだ
見たことない……厄介そうです
この怪物の情報はまだないが、海に流れ込んだ赤潮と関係しているのは間違いない
過去の戦いで、全てを飲み込む赤潮に人間の抵抗がいかに無力かは、悲惨な戦果が証明している。しかしこの場にいる全員が逃げない理由は、唯一の可能性を信じているからだ
はい!わかりました……
ルシアは頷き、携帯端末で空中庭園に連絡した。通信開始までの数秒間が、まるで数世紀の長さのように感じられる
はい、どうぞ……
こちらグレイレイヴン小隊のルシアです。現在、指揮官及び粛清部隊の30名の隊員と、カッパーフィールド海洋博物館の所在海域と陸地との海岸部に駐留中です
ルシアは振り返って巨大なその姿を見た。怪物はゆっくりと海岸線に近付きつつある
赤潮が集中する場所に……恐らく新型の異合生物が出現しました。目標の体型は異常に巨大です。上陸されればその破壊規模は予測できません
ふうん、嫌だと言ったら……?
その声には聞き覚えがあった。あの、地獄の番犬を引き連れた赤髪の隊長――
正解、こちらケルベロス隊のヴィラよ。久しぶりなのに、よく私の声を覚えていたわね……っと!
ヴィラの通信が一瞬、途絶えた。恐らく敵に攻撃されたのだろう
次の瞬間、通信端末からヴィラの怒号が聞こえた
ノクティス……あなた、船の操縦の仕方を忘れたの?
はぁ??俺のせいじゃねえだろ。ここの波がヤバすぎるんだよ!
ノクティスにはムリ、21号やる
ハハッ、それなら俺は海に飛び込んで泳ぐぜ。そっちの方が生き延びる確率が高いってもんだ
21号、了解
端末からノクティスの口を無理やり押えたような、くぐもった怒鳴り声が響く
うぐっ!!おい、このアホ機械、顔を挟むな、前が見えない!!!
ノクティス、海に飛び込みたい?ちびっこがサポート……
こいつに皮肉は通じねぇな……隊長、21号をどかしてくれよ!
21号の相手は私の仕事じゃない。あなたの仕事よ。自分で何とかしなさいな
【規制音――】俺の仕事な訳ないだろ!
じゃ、今からその仕事をお任せするわ。これ、隊長命令だから
通信端末からはまだ喧嘩する声が響いているが、ヴィラはまったく与り知らぬとばかりに髪の毛を掻き上げ、会話に戻った
ゴホン……こちらケルベロス隊、隊長ヴィラ。司令部の要請で、グレイレイヴン小隊とともにカッパーフィールド海洋博物館の包囲作戦に参加する
ヴィラ、Ω武器は?
何とか用意はできてるわ。でもアシモフの予測だと、Ω武器で広範囲の赤潮を消滅させるには、なるべくΩ武器を分散させて使用する必要があるそうよ
カレニーナと工兵部隊の努力で、月面基地でΩ武器を量産化でき、それなりの数になった。だが月面基地が大きく損なわれた今、限られたΩ武器を最大限、有効に使う必要がある
工兵部隊のやつらが徹夜で一部のΩ武器に自動航行エンジンをつけてくれた。海中でも自動で正確な位置に向かって効果を発揮する。でも海岸線は無理なの。人力でやるしかない
我々は全てのΩ兵器を海上に配置したら、上陸してあなたたちと合流する……じゃ、通信を切るわよ
粛清部隊隊員の減少はそれほど激しくないが、連日の戦闘で、彼らはすでに満身創痍だ。もともと補助型構造体も少なく、一部の隊員は修理不能で行動能力も失っている
おっ!指揮官、めっちゃ困ってる感じじゃん?ジャーン、こういう時は俺たちの出番だって!よしっ!!
少し離れた丘から、背の高い男性が高速で滑り降りてきた。目を凝らすと、彼は大人ほどもある大剣の上に乗っている
そんなことをする者は、広い空中庭園でひとりしか思いつかない
カムイはスタートだけはキマっていた。しかしブレーキが上手くいかず、砂の上をゴロゴロと転がったあと、大剣を砂に突き刺し、ようやく転がる体を止めることができた
カムイが来ました……指揮官、これで人手が増えたんですね!
俺だけじゃないぜ。隊長たちも来てるけど、俺は足が速いじゃん?一番乗りしたってワケだ!
気軽な口調でそう言ったが、体に残った戦闘の痕跡に、ストライクホーク隊も内陸に侵入した異合生物と遭遇し、散々戦ってきたと見て取れた
カムイは笑いながらゴシゴシ鼻をこすってうなずいた。そしてピョンピョン飛び跳ねながら丘の方へ手を振った
おーい!隊長!!!こっちこっち!!!
カムイ……先にグレイレイヴン隊と合流しろとは言ったが、通信に返事すらないとは何を考えてるんだ……!
砂の丘から降りて来たクロムはため息をつき、カムイの肩をコツンと小突くとこちらに向かって簡単な敬礼をした
指揮官、ストライクホーク隊4名、支援に参りました。どんな任務でもお任せください
はい、彼は今、外周で防衛にあたっています
あちらにいます
丘の上にあくびをしながらこちらに手を振っている人影が見えた
僕はここでいい。ここは狙撃するのにいいポジションだ……ここで援護する
大丈夫だって。アイツ、この時間が一番元気なんだから
クロムの端末からはストライクホークに所属する最後のひとりの声が聞こえた
海岸線外周の防衛拠点に到着した
了解、Ω武器を配置し、敵からの攻撃を回避できる場所にあるか確認を
好きなだけ来させればいい、叩き潰してやる。楽な任務でラッキーだ……後は任せたぞ
遠くの海上からは空中庭園の水上バイクが猛スピードで接近してきている。恐らくヴィラとケルベロスの面々だろう