ルナという代行者は、膝を抱えて真っ暗な夢の中で漂っていた――もしかしたら、ここは夢ではなく、とっくにぼやけている意識海の境目なのかもしれない
自分以外、ここは何も聞こえない。昇格ネットワークのノイズすら聞こえなくなった
まだ生きている……意識はまだあるのね
なぜ昇格ネットワークが自分を拒絶したのか、どうして今の自分はまだ代行者なのか、ルナにはわからなかった。彼女の認識では、自分は屍のような侵蝕体になるはずだった
しかし昇格ネットワークのルナに対する処理は滞っているようだ。人間の感覚に例えるなら、「昇格ネットワーク」が何かを思案しているように思える
ルナはもうその理由については考えていない。どうでもよかった。あの無礼な者たちのように、この静寂の世界に土足で踏み込む者はもう存在しない
……
姉さん……
自分の幻覚だとわかっていても、ルナは記憶の中の自分の姉に思わず手を差し伸べた
助けを求めたい訳でもなく、怒りをぶつけたいのでもない――彼女はただ、もう一度姉の温もりを感じたかっただけだ
……!
幻のルシアはルナに何かを語りかけようとしている。だがその声は暗闇に吸い取られて消えてしまい、ルナの耳には届かない
ルナは必死に姉の口元を見て、彼女の言葉を理解しようとした
「ル……ルナ……」
「お……お……きて……」
ルナ……起きるのよ!!
ルシアの焦った声と同時に、漆黒の夢は引き潮のように遠ざかった。姉の姿も歪んで、ぼやけ始めている
ルナは得体の知れない力に引っ張られ、姉から離れていく。彼女は姉に手を伸ばし、なんとか距離を縮めようとしたが、ただの徒労に終わった
現実世界での彼女にもう存在意義はない。後ろに道はなく、行き先を教えてくれる者もいない。彼女は微かな温もりを求めて十字路の前でうろうろしていた
どうして……どうして夢の中でも死なせてくれないの……私の終着点は……ここでいいのに
崩れ去る夢の中で、ルナは再び目を閉じた。再び目を開けば、自分はあの青白く空虚な現実世界に戻っているのだろう
だがいつもと違い、彼女が目覚めを迎えたのはいつもの静寂と埃の匂いではなく、激しい痛みと耳をつんざく警報音だった
うぅ……!
肉を削がれたような痛みに、ルナは目を開いた。ここはあのよく知る構造体実験室だが、周囲は混沌としていた。どうやら何かが起きたようだ
彼女は拘束装置の隙間から腕をひねってみたが、自分の体から次々とパニシングが剥がれ落ちて、空気中に消えてゆくのに気づいた
あの人間たちが言っていたΩ兵器ね……
背後の巨大なΩ兵器はいつの間にか、緋色の光を放っている。あれは本来の色ではなく、ルナの身から滲み出たパニシングを吸収して赤くなっているのだ
ルナの戦闘形態を構成していたパニシングの異重合外装も、すでに消えてなくなっている。次に消えるのは、自分の体内にあるパニシングだろう
代行者の権限を失っても機体に劣化は起きていないらしい。ルナの体内には大量のパニシングが存在していたが、有限のパニシングは無限のエネルギーを持つΩ武器に対抗できない
私……こんなところで死ぬのね……
代行者になって以来、死にこれほど接近したことはなかった。集噛体に吞み込まれた時ですらこれほどに死を感じなかった。これが、人間が昇格者に対抗する最強の武器なのだ
これでいいのかもしれない……人間の敵として人間を殺すか、人間に殺されるか……それは昇格者の宿命だ
突然、扉の外から大きな衝撃音が聞こえた。構造体実験室の扉をひとりのか細い構造体がこじ開けている。彼女はもう鉄屑と化した侵蝕体を引き連れて、ここへ「入ってきた」
あなたは……
カレニーナは地面から身を起こすと、積もった埃をウサギのようにぶるっと体から振り払い、ルナに向き直った
もう月から出たんじゃなかったの……それとも、この状況はあなたの仕業?
な訳あるかよ!基地内がしっちゃかめっちゃかになったのは、原因不明なパニシングの侵蝕が起きて、零点エネルギーリアクターとあのエンジンが暴走したせいだ!
そうだったのね……
ルナは力を集めてみた。確かに「清浄」なはずの月でパニシングが吸収できた。だが今の彼女が吸収できるパニシングはあまりに少なく、すぐさまΩ武器に消されてしまった
お前のせいなら、全てを終わらせる前にとどめを刺してやろうと思ったけど……もうその必要もねえな
カレニーナはひと目見ただけで、Ω武器の影響か、ルナがかなり弱っていることに気づいた
フフ……そうね、確かにあと少しでこの体はパニシングが枯渇して滅んでしまう。あなたがわざわざ手を汚す必要はないわ
カレニーナは何かを考えながら部屋中を歩き回っていたが、ためらいつつルナにこう声をかけた
ここの状況はもう空中庭園に報告済みだ。あいつらはすぐ輸送機を救援に寄越すだろう。だがその前に零点エネルギーをぶっ壊して、重力波の被害を最小限にする必要がある
ぶっ壊しても、零点エネルギーがあふれて蓄積された重力波が放たれるかも……もしオレたちが逃げれても、重力波で吹っ飛んだ月の一部が地球にぶつかって大災害を引き起こす
カレニーナは大きく息を吸い込んで、ルナを見た
オレの計算上、お前が代行者の力を取り戻せば、パニシングを吸収してΩ武器に対抗できるはず。そうすりゃ大量の零点エネルギーが消費され、重力波の衝撃力もダウンする
ルナは信じられない思いでカレニーナを見た。彼女の言葉があまりにも荒唐無稽すぎたからだ
つまり……私に力を貸せと?
ああ、そうだ……何かおかしいかよ?お前だって、目的を達成するためなら、利用できるものは全部利用するだろ。たとえそれが敵の力でもな
ルナはうっすらと笑った。そうだった、姉さんの指揮官も、敵の力を借りるとか、バカなことを言っていたっけ
おい、お前だってまだ死にたくないだろ……もし助けてくれるんなら……
しかしルナは首を振り、カレニーナの話を中断した
私はもう昇格ネットワークに接続する資格を失って、代行者としての力が使えない。たとえ使えたとしても、生き残るためにあなたに協力する気はないわ
彼女にとって、ルナという存在はここで破滅するのが最高の選択なのだ。そうなればふたりの姉は自分にとらわれず、それぞれ自分の道を歩めるだろう
それと空中庭園から救援がくるなんて期待を抱かない方がいいわよ。ここの人たちは、もう見捨てられている……
彼らはおそらく、月と地上にいる少数の命を犠牲にしてでも、未来の希望である零点エネルギーエンジンだけは守るはず
彼女はエイハブという人間から聞いたことがある。黒野はこのエンジンとリアクターを空中庭園に搭載し、星間飛行を実現させたいのだと
零点エネルギーリアクター、構造体改造技術、Ω武器、新型特化機体……人類の希望となる創造物は未来を切り拓くと同時に、人類自身の首を絞めていた
それでも零点エネルギーを破壊するということなら、あなたは全人類の敵になるでしょうね……
皮肉でもなく、そこには怒りもない。ルナはただ、残酷な事実を淡々と述べているだけだ
あなた、人類がそれほど渇望している希望を、打ち砕く勇気があるの?