空中庭園に戻ってから、すでに15日が経過していた。それはつまり、リーフが新型特化機体の適応を開始してからもう15日目になることを示していた
空中庭園の状況だけを見ていると、全てが正常に戻ったと錯覚してしまう。しかし新型特化機体に適応することの困難と苦痛が、リーフを現実に引き戻した
リーフと一緒に空中庭園に戻ってきた構造体たちは、スターオブライフに運ばれて、治療を受けている。残念ながら、犠牲者名簿にそのまま名を連ねた構造体たちもいた
043号保全エリアと046号保全エリアにいた構造体のほとんどは生き残ったものの、重傷だ
リーフは決まりに従って、新機体の適応を行うため以外のほとんどの時間を、スターオブライフで他の医者を手伝ってすごしていた
彼女は患者を看護する傍ら、彼らのことを日記に記すようになった。それは地上で培った習慣だった
なぜなら、機体が完全に破損してしまった場合、重要情報が入っていない端末はリセットされてしまうので、彼女は紙とペンを使って記録することにしたのだ
――地上から一緒に連れてきたコゼットもスターオブライフで保護されている。今のところ、体に異常はないようだ
これからコゼットは青少年育成センターで里親を待つか、あるいはそこで成年になるまで育てられると、そうセリカから聞いていた
――[player name]がプリア森林公園跡で負傷してから、すでに2カ月以上が経っている
空中庭園に戻ったあと、指揮官にはすぐに最高かつ最新の治療が施された
しかし、その後は月日が経つばかり……重傷だったシーモンですら意識を取り戻し、看護師に支えられて[player name]の見舞いに来たが、指揮官は一向に目を覚ます気配がない
スターオブライフにいる医療スタッフは皆わかっている――[player name]が目を覚まさずに、このまま永遠の眠りにつく可能性もあることを
意識不明のまま3カ月がすぎてしまうと、人間の体に不可逆的な後遺症を残してしまう
たとえ3カ月後に奇跡が起きたとしても、首席指揮官であった人の末路は、構造体に改造されるしかなくなってしまうのだ
それに、奇跡はそう簡単には起きない。それをよく知る議会は事前に、この英雄に起き得る事態を見届けてから、「柔軟に変更」できる計画を練っていた
負傷者の多くと昼間を担当する医療スタッフが眠りにつく頃、スターオブライフでリーフが働いている姿がたびたび見られた
ただ、地上から定期任務の報告映像が送られてくる時だけは、彼女は少し休憩を取って、難民たちの無事を確かめていた
彼女はまるで砂時計に閉じ込められた小鳥のように、落ちてゆく砂に溺れながら、その中で必死に希望を探していた
ある日の昼、リーフはスターオブライフから離れ、科学理事会へと向かった
彼女は、今日の機体適応が終わったら、またスターオブライフに戻るつもりだった
ひとりでも多く手伝うことで、皆が少しでも休めるからだ。それに、患者により多くの治療を施すことができる
アシモフの研究室に入ると、そこに久しぶりに会う女性が立っていた
……具体的な状況はすでに把握しました。申請した特殊装置の許可が下りたので、明日にはここに届くはずです
…………
リーフが入ってきたのを見ても、ビアンカはただ黙って頷いただけで、特に挨拶らしいことはしなかった
他に何もないようでしたら、先に戻ります
ああ
ビアンカはリーフを見た。その瞳にはたくさんの感情が潜んでいるように見えたが、彼女は何も言わずに、もう一度頷いて別れの挨拶をしただけだった
ご無事で
……
彼女がアシモフの実験室から出ていくのを眺めていると、入り口近くから別の懐かしい声が聞こえてきた
こんにちは
……え?
どうしたの?私を見た瞬間、幽霊でも見たような顔をして
ごめんなさい、教授……ちょっとびっくりしただけです。スターオブライフから離れて学問に専念し、講義も救援活動も今はしていないと聞いていたので
ええ、私、早期退職したの。自分のやりたいことと研究だけをしたいと思ってね
でもこんな状況じゃ、ひとり悠々としていられないでしょう。だからここに来たんです
彼女は笑いながら、肩をすくめた
地上でのことは、アシモフから聞きました
……
私も、グレイレイヴンの指揮官のお見舞いに行ってきたの。頭蓋骨があんな状態の人を無事に連れ戻すなんて……大したものです
そんなに自分を責める必要はないわ。これはあの人の選択なのです。地上の状況については、私はよくわかっています。あなたはベストを尽くしたわ
その言葉は彼女が学生を慰める時によく使う言い回しだった。それを聞いてリーフは小さく苦笑いした
今、とんでもない機体を作っていると聞きました
それについて興味があるの、詳しく説明していただけませんか
……これは機密事項だ
正式な申請を提出済みですし、秘密保持契約にもサインしています。ほら、ご確認ください
彼女は端末を開いて、事前に入手していた許可証を見せてきた
何よりも、あなたを取り上げた医者を信用しないのですか?
彼女が言い終わると同時に、奥の部屋から食器が割れる音と少女が驚く声が聞こえた
この許可証は、参加を認めるだけのものだ。そして、まだ参加するという意志確認をしていないが
それは、具体的な内容を理解してからでなければ、とても決められません
アシモフは彼女と言い争うのをやめ、キーボードを叩いて、ある資料を開いて見せた
あっ……これですね……
代行者のデータを取り込んだ機体……?
黒野の人工的な昇格者を創り出すという案は不完全なものでした。戦闘能力がいかに高くても、機体自体が昇格者のパニシング「吸収」という「副作用」を帯びてしまう
使用者は侵蝕に対抗できず、実戦に投入された瞬間、死んでしまいます
それはΩ型武器が必要な何よりの理由だな。こうすれば、Ω型武器にパニシングを吸収させることができる
吸収……それは、一体どこへ?
……今はまだ説明できない。唯一言えるとしたら……Ω型武器の本質は、「通路」、あるいはパニシングの「ワームホール」に近いということだ
この機体が人類の希望になり得る理由は、パニシングを真の意味で抹消できるからだ
制御さえしっかり行えば、侵蝕体の回復だって見込める
本当にそれほど上手くいくのなら、そんな表情をしていないでしょう
……この特化機体は、パニシングを吸収する速度をコントロールできない
今の地上の濃度から考えて、Ω型武器の処理速度より、機体の吸収速度の方が速いと推測される
Ω型武器が吸収できなかったパニシングは、どうなるのです?まさか、リーフが侵蝕されてしまうのですか?
アシモフはその問いに、沈黙で答えた
……そうなると、私たちにとっては侵蝕体が1体増えることになりますね。それにことと次第によっては、昇格者がもうひとり増える可能性だってあります
ニコラ司令も、リーフが昇格者になる可能性があることはわかっている。だからすでに粛清部隊に支援を要請している
ついさっき、ビアンカがここに来て状況を確認していった。明日は……使用許可が必要な装置を持ってくる
粛清部隊の装置……意識海監視針ですか?
それと電磁パルス減衰リングだ
…………
それについても、もう知っているの?
はい、機体の適応を始める前に、アシモフさんとニコラ総司令に聞かされています
このふたつの装置が何をするものなのか、ちゃんとわかっているのね?
はい、前者は機体の意識海の活動詳細を監視するもの。もうひとつは直接的に意識海を減衰させ、死に至らしめるものです
……それをわかった上で、同意書にサインしたのね……?
ええ、そうです……私は、皆さんの敵にはなりたくないですから
いつも陽気な教授の顔が少し曇った。それでも、彼女の口からこの計画についての文句は発せられなかった
もし、侵蝕が臨界点を超える前にリーフを呼び戻したらどうなるのですか?
特化機体の力をもってしても、Ω型武器を長くは維持できない
全てが未完成の状態なんだ、更にテストしないと、具体的な改善を施せない
この問題は一度解決したのでは?スミス家の坊や……クロムといいましたか?
あの方法の肝は拘束装置をつけたことだ。昇格者のデータによって彼の限界を超えてしまわないように制御下においた
今回、拘束装置を取り入れなかった理由は2つある
パニシングを吸収すること自体が、すでに使用者の限界を超える行為だということ。それを制限してしまったら、この計画の意味がなくなる
ふうん……さすが、誰かの命を実験材料に使える者でなければできない研究ですね
でもこれは暖房のスイッチとは違う、電源のオンオフじゃないんです。制御するかしないかの二択とは、いささか乱暴なのではありません?
他のやり方で実現する方法もあったが、代行者のデータを使って制作した特化機体の本質とは、ずばり昇格者の模倣だ
こういう機体とリンクするだけで、多くの指揮官のマインドビーコンは汚染されてしまうだろう
クロムと異重合母体の戦闘データを入手してから、栄光機体の拘束装置に更なる強化を施した
今、彼の特化機体は弧光と同程度に安定している。予想外の事態が起きない限り、このふたつの機体の意識海偏移率は0.64%という低さを誇る
しかし、もし彼の意識海に偏移が起きた時、それを安定させられるのはグレイレイヴン指揮官の[player name]だけだ
今の[player name]はまだ意識不明のまま、我々は唯一の命綱を失った状態なんだ
黒野でよからぬことを企む人たちが、[player name]に対してあれほど執着していた理由は、これなんですね?
つまらん政治に興味はないが、彼らの狙いのひとつではあっただろうな
彼らも機体の侵蝕問題を解決できずに苦しんでいるらしい。意識海が非常に安定している構造体を見つけるのは至難の業だからな
特化機体とのリンクに耐えられる指揮官がいない限り、機体を作っても実戦に投入できない。使用者がただ死ぬだけの兵器に意味はない
…………
……どうして教授の立場で、黒野のことを知っているんだ?
ある優しい笑顔の青年が、私ならきっと[player name]のウィンター計画に興味にあるだろうと言って、教えてくれたんです
……?
彼はこの計画が順調に進むことを願っていたようです。早急に機体を改善し、使用者が犠牲にならないようにするためには、私の力が必要だと、そう言っていました
今の人たちは、本当に情熱的ですね。返事を迷っている間、10分ほどかしら、私を褒めちぎってくれました。私の昔の研究なんて、とっくに忘れ去られたと思っていたのに
私に会いに来る人は皆、若さを保つ秘訣ばかり聞いてきます。早寝早起き、適度な運動、喫煙や飲酒を控えて、健康的な食事を摂ることだと答えても、誰も聞こうともしない
…………
結局、開発に参加するのかしないのか、どうなんだ?
待ってください。最後の質問があります
どうして、リーフなんです?
それは、私自身が決めたんです
いいえ、あなたが申請する前から、そう予定されていたと聞きましたよ
リーフじゃなくても、誰がやっても結果は一緒だ
生死を達観したベテランの医者がそう言ったって、言葉に重みがないのと同じ。私はいつだって、自分の大切な人を優先して考えます
…………
主な理由は、意識海の安定とこれまでの負荷だ
特化機体ですでに意識海にダメージを負った者は除外される――彼らにはより安定した機体が必要だからな
そうやって洗い出した候補者のうち、リーフは2番目の適合者だった
えっ?1番目は誰なのです?
同じくグレイレイヴンの隊員、リーだ
しかし、この機体は初めての試みであり、不安定になる可能性が極めて高い。この計画を進めさせまいと必死になっている一派もいる
一派?ああなるほどね、大体見当がつきました。たぶん、私たちは同じ人のことを言っているわ。理由はそれだけですか?
後は、リーフが自らこの計画に申請してきたからだ
彼女はため息を漏らし、椅子の背にもたれて、ゆったりと座り直した
大体わかりました。では、この計画に参加します
適応するために、代行者のデータにシミュレーションリンクするだけでも、意識海にはさまざまな症状が引き起こされます
最も顕著なのは、幻痛かしら?
……そうですね
どうせあなたのことだから、訊かれないと痛いとは言わないでしょう?
機体の構造は私の専門外ですが、意識海の安定性に関してなら、お役に立てそうね
それと、私があなたの指揮官の主治医も務めます。まずは意識を取り戻すことが、意識海の問題についても、何か転機になるかもしれないわ
……教授、ありがとうございます
遠慮しなくていいのよ。何か要望があれば、今ここで言っておいて
彼女はアシモフのモニターを何回かタップし、機体の設計図を拡大してリーフに見せた
…………
機能改善は私の担当外だけど、あなたが機体と一体化すればするほど、戦闘に有利になるはず
…………
リーフは設計図にある純白の機体を見て、かつて手にしたノートの最後の1ページを思い出していた
……翼
[player name]、そして助けを求めていた人々
もしあの時、闇蝕機体が飛べたなら、幾千の山と海が道を阻もうとも、その困難をふわりと飛び越え、すぐさま行きたい場所に行って、人々を救うことができたはず――
――新しい機体には、空を飛ぶための翼をください