だめだ……だめだ、全っ然だめだ!
グリースは手にしていたぶ厚い報告書を放り投げ、書斎の黒クルミのテーブルの上に体を投げ出した
ルナのデータで作り出したこれは、ただの空虚だ
こんなのじゃ、まったく役に立たねえよ
そうでしょうか?報告のパラメータを見る限り、現行のどの機体よりも優秀なはずですが
完、全、に、ゴ、ミ、だ
グリースは気だるそうに言いながらテーブルに座り直し、ネクタイを緩ませると目の前の報告者を見やった
いいか、俺が欲しいのは強力な構造体なんかじゃないぞ
人類を昇格者に一歩でも近づける、そのステージだ
わかってるか?構造体が人類の肉体に対する改良なら、昇格者は更にその上位となる飛びぬけた存在なんだぜ
そして代行者は人類という種族に課せられた百万年の枷を解き、より高い次元に進化させる可能性がある存在だ
人類がこの星で、いや、宇宙に対しても手札を増やせるチャンスなんだ
今の私たちが知りうる存在ではないのは明らかだと思いますが
ふん、そうかもな
しかし、ルナという宝箱が我々の手にある限り、必ず開ける方法を見つけてやるさ
……あの、さきほどから言おうと思っていたのですが、もうその名前を隠す気すらないのですか?
アンタに隠す必要が?
結局は俺もアンタも、宝箱を開けるまでの「一時的な仲間」だろうが
はぁ……
どうしたよ。ちっともテンションが上がってないじゃないか
興奮している場合じゃないでしょう。議会の偵察報告では、状況は我々にかなり不利です。しばらくはあの指揮官に手が出せません
大丈夫だって。こういった体験も宝箱がもたらす富のひとつってもんだ
すでに宝箱を手にしているのに、どう頑張ってもビクともしねぇ。鍵穴すらどこにあるのかもわからないこの焦燥と高揚感……
全身を虫に噛まれるような、火に焼かれているような、あああ……
グリースの目の隅から涙がこぼれ、頬のしわに沿って流れ落ち、胸元をつかむ手の甲を滑り、最後にはスーツの染みとなった
なんともえがたい感情じゃないか。俺は知ってんだよ、待つことに価値があるってな。宝箱を開ければ世界をも覆せるほどの富を手にするんだからよ
ですが……その宝箱を開けられるキーパーソンは議会に守られ、我々は接触できません
なのにあなたは少しもそれを心配されていないご様子ですね
おおっと、そう言われるとは心外だ
俺はカワイイ羊を心配している優しい羊飼いのひとりなんだぜ?
まあ、解体してその肉を売り払うためですけどね
ハハハ、なんであれ、むやみに羊の群れに入っても、体が臭くなるだけだ
いずれ、我々のカワイイ[player name]はまた羊飼いの元へ戻ってくるさ
いずれ、必ずだ――
グリースは自分の言葉を味わうように、レベッカではなく遠くの虚空を見つめている
あなたのいわゆる……いずれという日が来るまで、もっと優雅な姿でお待ちになっては?
グフフ、言う通りだな
グリースはずるずるとテーブルから降り、わざとらしく優雅に一礼してから、隣の部屋へ入った
しばらくして、グリースは前とまったく同じ仕立てで、真新しいスーツに着替えてから出てきた
同じデザインのスーツしか買わないのですか?
服ってのはな、人類が伝統的な道徳観に基づいて、自分に課している枷だ
動物園の猿じゃなく、より文明的な存在である証明をしたいだけってことよ
枷の外見なんて、どうでもいいだろ?
その見方には賛同いたしかねますが
別に賛同する必要はない。俺は自分の観点を述べているだけで、他人サマの賛同なんざ求めていない
生きてりゃ人は誰だって目で、行動で、体で常に外部に自意識を見せつけるんだ。俺はただ、最もストレートな言葉で言っただけさ
で、アンタはどう考えているんだ?
……何の話ですか?
議会が隠している「海上のお宝」だよ
具体的な情報はまだ何も。あなたの無作為の「効果」で、議会は多くのものを回収しています
ほう、大漁とはめでたいな
グリースは両目を閉じ、指でこめかみをトントンと軽く叩いている
ニコたちも酷いねェ……
ここで大漁なんだったらまだどでかい宝がありそうだって、期待させられるじゃねえか
宝を回収するタイミングはそっちで判断してもらうとするかな、社交界のプリンセスさん
人員と手段は好き勝手に使え。朗報を待ってるぞ
……
グリースはレベッカを書斎に残して、笑いながら扉から出ていった
グリースがテーブルに残した端末を見ると、モニターで何かがスクロール中のままになっている。それは、科学理事会が議会に提出した機密記録だった
まったく……何年経っても相変わらずだわ
レベッカは首を振り、テーブルに置かれた端末を持ってこの豪華な書斎を出た
……
……
10分ほど前からハセンとニコラは黙り込んだまま、端末の内容を黙々と読んでいる
彼らはひとつもコメントを見逃さないように、ひとつも意味を曲解しないように、何度も何度も読み直しているのだった
機密レベルの関係上、私たちはΩファイル研究の全過程を監督しました
その過程の中で科学理事会はΩファイルに記された実験方法に従いました
ラストリアスたちが残した研究データと照らし合わせ、日夜問わず実験を続けたんです
そして……ついにアトランティスの研究者たちが観測した現象を再現できた
つまり……パニシングは、確かに「吸収」できると……
自分の声が震えていることが、ハセン自身にもわかった
この場にいる全員が、その言葉の意味が持つ重さを理解している
人間を地球から追い出した元凶、パニシングは除去できる存在になったという、その意味が――
――それは、長き戦争にやっと勝利の希望が現れ、人類は真に地球を奪還できるということに他ならない
更には過去に費やした全てが、無駄ではなかったという意味でもある。全ての犠牲は、報われるのだ
……アトランティスから希望の松明を受け取って、この星のパニシングを燃やし尽くせる炎を、我々が引き起こす
ふう……
ニコラは顔を一瞬緩め、ゆっくり目を閉じて思い出に耽っているようだ
そして彼は大きく息を吐き、よく響く声で議会ホールの静寂を打ち破った
すでに手段と向かうべき終点は明確です
なら、ここで時間を無駄にしてはなりません
ああ、Ωファイルは人類の宝だ。科学理事会への物資配給を最優先にし、全資源も優先させる
パニシングを吸収できるものを開発できれば、それは人類がこの長い戦争を終わらせるための最強の武器となるに違いない
ハセンが指令を下したあと、ニコラは瞬時の高揚を隠し、いつもの冷徹な表情に戻った
議長殿、我々が派手に動けば、水面下に潜む血に飢えた鮫たちも気づくことをお忘れなく
黒野はこちらの研究成果を喉から手が出るほど欲しているだろうが、我々もまた、あちらのデータが必要だ
守りつつうまく誘導すれば、これを機に黒野が我々に隠れて何を得たのかがわかるかもしれない
つまり次の手でこちらは……
――相手の計略に身を任せ、裏をかくのね
……以上が、大体の説明だ。詳細な資料も、すでに君の端末に送っている
こんな面倒ごとに巻き込んで、申し訳ない。余計な手間を増やしてしまうな
問題ないさ、暗号化されたコードをちょっといじってやれば、あんたらのオーダーを実現できるはずだ
Ωファイルのアドレスコードが1マイクロ秒ごとに変わり、中のデータは1分ごとに暗号化するように修正した
全ての暗号化方法を合わせれば、1日経過するごとにファイルを解読するために1万回試行する必要がある
それに黒野が解読成功した瞬間にトラップが発動し、黒野のネットワークにある資料を俺が指定したチップ群に転送する仕組みだ
アシモフはすさまじいスピードで話しつつ、キーボードを叩く彼の手は更に速い。目の前のモニターに一連のコードが浮かび上がると彼は強く一度エンターキーを叩いた
これで、あんたらの注文通りだ
通信中でもアシモフは終始手を止めない。今の彼には他にどんなことがあろうとも、Ωファイルへの研究こそが最優先だからだ
だが、Ωファイルの実用化を推進するためにはより多くのパニシングサンプルを研究する必要があるぜ
ああ、わかっている。己を知り、敵を知ってこそ万全だ
既知の侵蝕体、昇格者の他に、異合生物や異重合母体のデータも必要だ。集噛体の回収は無理だろうな。地下水路で回収した異重合母体の残骸だけでは全然足りない
地下水路で回収した母体の残骸は、全て科学理事会に渡した。これ以上のサンプルは、我々としても提供できないが
サンプルが足りないなら、探せばいいのでは?
ヒルダは手の中のマイクロ端末を掲げてみせた
これはアシモフから監察院に渡された端末です。これからは私が説明します
この端末には栄光機体の逆元装置でキャッチした異常データが記録されているんです
調査において、この異常なパニシングの過負荷はクロムとあの「母体」との戦闘が引き起こしたものだと、科学理事会は確認しました
戦闘中、あの「母体」は地下水路以外の何かと極めて弱いリンクを持っていた。そのリンクのせいでクロムの逆元装置が本来ありえないほどの過負荷状態になったようです
似たようなリンク現象は、カゲロウと集噛体でも表出していました
片方が損傷すればもう一方にも影響が出る。損傷した方は危機信号を生存側へ送り、生存側はそれで経験を蓄積する。まさに自らを守り、種を存続するために進化するかのように
その意識があるということは、異合生物がすでに高い知能レベルにまで進化しているという証拠です
クロムの逆元装置の異常は、データでも証明されています。異重合母体も、複数の個体が存在している可能性が……いえ、これは異合生物共通の特徴かもしれません
パニシングは、地球の生態系を模倣し、自ら生命の樹を構築しているんです
そして生命の樹の全ての枝葉は、進化の程度が異なる異合生物の種族ということ
……確かに執行部隊の地下水路作戦記録でも言及されている。フォン·ネガットによれば、地下水路の異重合母体はただの「実験品」にすぎないそうだ
ってことは、異重合母体には真の「完成品」、あるいは「進化が最も進んでいる個体」が存在すると推測するのが合理的だ。で、その個体は今も地上のどこかに隠れてやがると
……
よくわかった。では高度な突然変異を起こした個体に関するデータを全力で調べさせる
ハセンが手を前にかざすと、議会ホールの中央に空中庭園の駐機場の映像が現れた
多くの執行部隊がすでに駐機場に集結し、3人が会議が始める前からいつでも地上へ出発できるよう、そして人類の敵の息の根を止めようと備えていた
今の執行部隊はただ安全弁を外すボタンの押下を待っている状態だ。そのボタンは議会の手に委ねられている
これは議会がΩファイルを重視しているからだと、アシモフはそう理解している
彼は視線をホログラム投影から外そうとして、ホログラムに映し出されているピンクの髪の構造体にふと目を留めた
彼女は階段の上に立ち、駐機場に集結した構造体たちを見ながら、手に持っているリストと照らし合わせている
彼女の機体の監察院のマークでその身分や、現場でどんな仕事を担っているかがひと目でわかる
駐機場の映像が撮影され、議会ホールに映し出された瞬間、このピンクの髪の構造体がふと笑いながらカメラを見た
だがアシモフは彼女が見ているのはカメラではなく、無数のケーブルを飛び越えて映像が投影されている議会、そして議会よりも先の空間を見ているように感じた
そう思ったことにアシモフ自身も戸惑った。彼がその感覚の原因を突き止めようとした時、そのピンクの髪の構造体はすでに監察の仕事を終え、駐機場から離れていた
……
アシモフは首を振って目の前の端末に視線を戻した
話はもう終わったんなら、仕事に戻らせてもらうぞ
アシモフが通信を切ろうとした時、ヒルダの声が彼の手を止めた
待って、その前に……ひとつ正直に答えてほしいことがあるの
空中庭園の科学研究分野のリーダーとして、あなたの立場は他の科学者よりずっと重要だわ
科学は人類が未来へと進むための灯だ。無意味な内部抗争の道具じゃない
俺の立場は、ただそれだけさ