梯子を登ると、足下の地面からの僅かな振動が伝ってきた
振動は下方にいるカムが戦っている敵からだけではない
同時に上方から、クロムの後ろの梯子に向かって走る異合体の奔流だ
潮のように満ちていく異合生物に直面し、クロムは足を止めて、ぶら下がった梯子の前方に立っていた
機体の侵蝕値はまもなく臨界に達しようとしているが、彼は戦い続けることを選んだ
これは無謀な自己犠牲ではない。単に侵蝕値の上昇が止まっている異常から、あることを察したのだ
……計画を利用させてもらう
あと少し耐えて、彼に向かってくる敵をここで食い止める
この決心とともに心に浮上した考えがあった。しかしおそらく成功する見込みが低いため、いまはまだ心に留めておくのみにした
クロムが一歩前に出ると、大鎌が巻き起こした稲妻が異合生物の体を走り、一匹また一匹と切り裂いてゆく
勝利の暁が見える直前、暗闇からある種の異常な危険を知らせる足音が、彼に向かってゆっくりと響いてきた
逃げ切るまで持ちこたえるだけでも十分な奇跡だ。それ以上仲間のために自分を犠牲にするつもりですか?
クロムはそれに答えなかった。ただひたすら目の前の異合生物の奔流を抑え続けようとする
面白い
目の前の異合生物がまるである種の信号を受信したかのように、突然攻撃をやめた
リーダーというものはおおむね、背負う物が多い。彼らは成長が早いが、落ちる時も酷いものでね
あなたもそういうタイプの人のようだ
お前の想像通りにはならないさ
クロムの断固とした言葉を聞いて、フォン·ネガットはそれ以上話すのをやめ、彼に向かって歩き出した
無数の電流状のパニシングが渦巻いて彼の足下に響き、この狭い空間を切り裂かんばかりに暴れている
あなたの限界を見せてもらいますよ
数えきれないほどの緋色の光が地面から飛び出し、正確にクロムの逆元装置に襲いかかってくる
クロムは引くのではなく逆に前に進んで、攻撃をかわしながら、フォン·ネガットに突進していく
相手に接近する寸前、クロムは大鎌で隣にいたもう動かない異合生物を引っかけ盾にした。攻撃を防ぐと同時に身を翻し、金色の稲妻が大鎌から放たれた瞬間に鋭い音が鳴り響く
――キーン!
クロム全力の一撃がフォン·ネガットの防御フィールドと激突した
無駄なことを、それはもう試したでしょう
……いいや
クロムは大鎌を握って、稲妻を刃の先に集める。隕石が墜落する時のような高熱を帯びて、再びフォン·ネガットに振り下ろした
小さい亀裂音とともに、大鎌の刃がついに堅固な防御フィールドに突き刺さった
これほどの侵蝕レベルにいながら、自分の信念を固めたとは。あなたは確かに、非常に優秀な種子のようだ
彼は防御フィールドに突き刺さった武器を見て、少しだけ称賛をするような態度で頷いた
あなたに足りないのは勇気、知恵、スキル等ではありませんね、単純で野蛮な――力そのものだけ
前にも言ったように、人類の科学技術の進歩の速度ではあなたに確実な勝利を与えられない
しかし、あなたは私に自己進化の可能性を示してくれた。あなたにもうしばらく、成長する時間を差し上げましょう
…………
代行者は両手を自分の後ろにまわし、目の前の突き刺された防御フィールドを解除して、この時すでに力尽きていたクロムを見つめながら一歩後退した
「勇者」に表明する尊敬の意として、彼らにはこれ以上あなたの仲間を攻撃させませんよ
フォン·ネガットがこの言葉を発したあと、下水道にいた大量の異合生物は引き潮のように迅速にその場を離れていく
あと、もうひとつ
あなたたちがここに来るまでに乗ったあの輸送機ですが、絶えず小さな「目」であなたを探してますよ
その目は侵蝕には抵抗できませんが、記録を止めることはないようです。もし調査員に回収されたら、物事が非常に面倒なことになる
だから、ハイジにあなたたちの輸送機の処理を頼んでおきました
どうやらハイジの話では、それ以外に厄介なことがあるようです。だが、私たちには無関係な事象なので、そちらにはハイジは干渉していません
……!
それほどまでの忠誠、そこまでの価値があるのでしょうかね?
光と影は共存するものだ……お前の視野にも似たようなところがあるだろう、違うのか?
クロムの答えを聞いて、フォン·ネガットは軽く笑っただけで、それ以上話すことはなかった
やがて代行者は振り向き、トンネルの奥に向かって歩いて姿を消した
錆びついた床に沿うようにして、カムが半崩壊した洞窟から登ってきた
帰ってきたか、無事か?
カムを見て、クロムは立ち上がろうとしたが、機体の脚部は完全に断裂しており、上手くバランスを保てなかった
ざっと見ただけでも、その機体には深刻な侵蝕と損傷があることがわかる
それはこっちのセリフだ。その負傷を見てみろ
私は大丈夫だ
お前の言葉は信じない、医者に聞く
隊長の傷なら僕が処置した。今はただ、それ以上悪化させないようにするのが精一杯なんだ
チッ、早く帰るぞ。ここでは何もできん
ああ、全員が集まったから、帰るとしよう
隊長、俺が運びます!
いやいい、自分で歩ける
クロムの言葉ははっきりしたものだったが、その疲労は隠せておらず、ただ無理に強がっているのは明白だった
……隊長に気をしっかり持ってとは言ったけど、動く必要があるとは言ってない
そうだよ!それ以上はやばいって、さっきバンジも言ったじゃん!だから先に戻ってって言ってるのに!
俺を待つためにここを死守したのか?
帰れる輸送機は1台しかない。送ってきたやつが戻ってきたんだ、いつまでもここに残ってると再びあの代行者に攻撃されるかもしれない
チッ、カムイ!無理矢理でもこいつを背負え、撤収だ!
オーライ!
クロムはそれでも断ろうとしたが、カムイに片手で肩に担ぎあげられた
重傷で上手く動けない、クロムはようやく抵抗を諦めた
全速前進!
ストライクホークが撤退したあと、焦土の廃墟の影からふたつの暗い人影が現れた
あんなにひどい怪我をして、本当に無事に帰れるんでしょうか?
無事に空中庭園に帰すために、侵蝕の臨界点を超えないよう、できる限り彼へのパニシングをコントロールしたつもりですよ
陰影に溶け込むその姿は、薄笑いのような声を出した
しかしそれも侵蝕の一線を越えてないというだけです。彼が持ちこたえたとしても……そうですね、機体の修復には1カ月以上はかかるでしょうね
…………なぜそんなことを?
目の前の男は笑って、彼女の額を指差した
これは宣戦布告です――海馬体と意識海を弄ぶのがお好きな権力者たちに届けてもらうために、伝令は生かしておかなくてはね
少女は言葉の意味を理解できず、頭を傾けて疑問の意を示した
小さな騒ぎで再びあの人たちの注意を引こうとしてるだけですよ。何せ彼らにとって、生者は死者より口封じが難しい分、厄介だ
でも、今までは人類に見つからないように、なるべく行動を隠してきたのに……
今度は……彼らの注意を引くつもりですか?
人類の注意を引くのは初めてのことではないですよ、ただしばらくやめていただけです
私はこの目で赤潮を見た時から、昇格ネットワークが歴史の中で示す輝かしい未来が手に入るとわかっていました
引き続き隠密に行動していては、より良い獲物を得るのは難しい。今度は、私たちが行動する番なのです
それに、αはなんとしてもルナに向けられていた人類の矛先を、私に向けようとしているようですから
たとえ今彼らを殺しても、今後も同じことが起こる。αを排除してもいいが、それだと今どこにいるかすらわからないルナが、次の禍根になる
私は最初から赤潮に必要な「食料」を探してるんです、空中庭園が誰かを送ってきてくれるなら、尚更都合がいい
こうやってお互い有益な結果を得ることができるんだから、もうすぐ彼女は私に感謝するはずですよ
…………
「彼」が心配ですか?
…………はい
大丈夫、ですが空中庭園に上ってからまた地球に戻る度胸がある者を見たことがないので、あの者にはもう会えないでしょうね
はい
これからの狙いはやはりあなたの「母」でしょう
彼らは間違いなく再びここにやって来るでしょう。彼女を守る任務はあなたに任せますよ、私にはまだやることがある
少女はうなずいて、両手で彼が渡してきた水晶の角錐を受け取った
使い方、わかりますね?
……はい
輸送機は順調に地球低軌道に入っていた
隔離ボックスに入ったカム以外、カムイとバンジも少し不安そうな様子だ
バンジは再びクロムの逆元装置を検査した。機体は侵蝕されて、戦闘のせいで酷い損傷だが、幸い逆元装置は破壊されていない
こんな傷では、順調にいっても少なくとも1カ月以上はお休みだ
クロムは無理矢理に頷いた。無力感に支配され、彼はただ機内の壁にもたれるのみだった。窓の外の薄暗い天空を見ているだけで眠くなるようだ
離脱する前、救援要請のカウントダウンを取り消した以外に、クロムは更に緊急撤退要請を送っていた。近くで救助活動を行う執行部隊がすぐに離脱するようにだ
もしたったひとつでも、小隊があの代行者に遭遇したら――結果はひとつだ
犠牲
クロムにとって、犠牲は決して馴染みのない言葉ではない
「戦争とはそういうものだ」
彼は父親がそう言ったことを思い出す
「戦争に犠牲はつきものなのだよ」
彼はそう言った
兵士である限り、戦場に行くのであれば、いずれそんな日が訪れる
「申請はもう承認されている。今回の任務を完璧にこなしたお陰だ」
…………
いくつかの古い記憶がクロムの意識海に表れていた
以前、彼はひとつ深刻な「失敗」を経験したが、その経験がクロムに「新生」をもたらしたのだ
では、今回は?
(最悪の結果だとしても、少なくとも皆を守れた)
そんな思いを抱いて、クロムは自分が最後にフォン·ネガットと対峙した時、心に浮かんだ考えを思い出した
(もし最悪の結果ではないなら……)
もし、ほんの少しでも希望を抱けるなら――
もし今回の戦闘での負傷により、機体交換のタイミングが早まるなら――
それなら……意識海偏差による汚染症状を安定させるため、ただひとり、汚染に抵抗できる素質を持つ[player name]を、しばらくあの部屋から解放できるかもしれない
[player name]と一緒に行動できるなら、今回より良い結果を手にするだろう。あの秘密の拠点を潰し、そして……
ランストン、我が息子よ。ジョン·スミスの息子として、何をなすべきかわかっているね?
有用な物だけを選択し、つなぎ合わせて、完璧な自分を創り上げるのだ
(私は自分のやり方でその目標を達成します、お父さん)
だが……もしこの重要なプロジェクトが最後の切り札になり得ないなら
(そのままスターオブライフに留められ、機体の修理を1カ月待つことになる)
今回の道中での監視の様子を思い出すと、自分がスターオブライフで1カ月寝ていた方が、一部の者にとっては都合がいいかもしれない
…………
[player name]と面会した時に、尻尾を捕ませたつもりはないが、彼らにとっては新しい標的になったようだ
それでも、クロムは後悔していなかった
なぜなら、人を救おうと思うならば、まず相手の意志を確かめる必要があったからだ
そして、彼は[player name]の意志を、確かに受け取っていた
「ネズミ」になって紐をかじり[player name]を自由にするか、[player name]に自分の協力をさせるか……彼は必ず生き抜き、自分のやり方で目標を達成する
(彼らに私の邪魔はさせない)
――彼は行動し続けなければならない、たとえこのような状況だとしても
……スターオブライフと通信がつながらないな。負傷者の収容状況を確認したかったんだけど
通信に問題があったのか?それとも、付近に信号遮断装置でも設置されたのか?
クロムは口を開けて訊こうとしたが、すでに侵蝕と負傷の両面の影響から、声を出すことができなかった
チッ、誰かがエンジンの側で小細工をしたようだな
さっきは慌てていたから、そこまで細かく検査していない。飛行してる真っ最中にエンジンを弄る訳にもいかん
空中庭園に戻ってから報告だな
皆はうなずき、輸送機の飛行音の中で黙りこくった
クロムは皆に自分の考えを話したかったが、今や視界までもが徐々に暗くなっていた
ここで寝たら、どうなるかについてバンジからの説明はない
しかし、バンジの表情からすると、問題ないということではなさそうだ
しっかりと気を保ち、すぐそれと第三者がわかるように……クロムは無理矢理自分の体を駆使して、ずっと避けていた指の関節を動かしてみることにした
……A29
彼は指先に滲んでいる循環液で、手のひらに簡単かつわかりやすい、内容を推測できるような数字を書きつけた
A列、29番、それは彼の端末の連絡先の、アシモフの個人通信アドレスだ
アシモフはほとんどの時間を彼の作業室で過ごしている。機密プロジェクトの研究に関する時だけ、このアドレスで彼への連絡が許されていた
そして、このアドレスは彼の友人か、そのプロジェクトに関わった者にしか知らない
彼らの最も乱暴な手段、信号遮断によってその計画を邪魔するならば、一縷の望みとしてあの天才のことを手に刻んでおくべきだろう
予想通りにいけば、バンジとカムイは全ての通信が無駄なのを試したら、この数字を思い出すはずだ
そうなれば、連絡帳を見て最も想像に繋がるもの――この数字は当然、連絡帳に関する手がかりと思いつくはず
この数字をもっとはっきりさせておくために、クロムは再び損傷した指先を動かした
痛い、骨や心にまで刻まれた痛みだ
この任務の前長らくは、自分を目覚めさせるために痛みを使ったことはなかった
しかしなぜか、クロムの心にはある苦い懐かしさが生まれていた
輸送機が安全に予定された軌道上にたどり着いた時、空中庭園はすでに人工の夜の帳を下ろしていた
クロムにとって、窓の外の偽りの月は、ともにファウンス士官学校で無数の夜を過ごした馴染みだ
繰り返しの作業、繰り返しの練習、繰り返しの試み
全てはランストン·スミスがずっと1番であり続けるため
しかし今はもう……その冷たく堅い「完璧」を維持する必要はなくなった
そして、「スミス」になることが彼の唯一の目標ではなくなった……
月による親近感が安心させたのか、それとも自分の身体がすでに限界だったのか
クロムの意識は、再び沈み始めていた……
着いた!
まずこのボロ輸送機のクソ信号遮断範囲から離れて、スターオブライフに連絡だな
よっしゃ、隊長運び役は俺が!
彼の状態は更に悪化してる。ゆっくりそっと抱えて、平らにね
「ありがとう、頼んだ」
こう言葉をかけたいが、口からは何ひとつ出てこなかった
待って!カムイ!隊長の手のひら、何か書いてある
A29?
輸送機に乗る前にはこんなのなかった、言いたいけど言えない言葉、とか?
発声モジュールが完全に壊れたんだ、ひとまずスターオブライフに着いてから考えよう
バンジはクロムの手を握ると、彼の手のひらに書いてあった文字をこすって消した
行きますよ
頼れる隊員、頼れる友人、本当の安心感。ストライクホークの隊長になったことは、彼にとってどれほど幸運なことだろうか
ちょっと……
クロムが完全に昏睡状態へと陥る直前、カムイには彼の口角が少し上がったように見えた
時間は人間の日常でいう「夜半」の範囲だが、駐機場外にはまだ輸送機修理のスタッフが残っている
彼らは半分ほど上げた安全扉と、そこから現れた金色の姿に少し驚いたようだ
目にした者のほとんどに「後ろ姿だけでバカっぽい」という印象を残した青年は、慌てた様子を見せている
おーい!!医療班いる?
地球から戻った戦闘員はまず左の消毒通路を通って、エリア輸送車に乗ってスターオブライフの緊急救援受付に向かってください
右の隔離ドアにいるスタッフが、冷たくカムイに規則を述べてきた
お決まりのマニュアル言葉を聞いて、カムイは無言で完全に意識不明の者を抱えると、飛ぶように消毒廊下に向けて走っていく
彼らの姿が完全に消えたあと、隔離ドアの後ろにいたスタッフは集まり、ボソボソと話し出した
……あの運ばれてたのって、スミス家の……
一体何の任務だろう?まぁ、もしグレイレイヴン指揮官があれくらいの重体で運ばれてても、そんなに驚かないけどさ
あの人は人間だからね。でもこっちは……スミスさんはどんな気持ちだろう
避難通路を走って通り抜け、カムイはクロムを抱えて消毒通路に突っ込んでいった。バンジとカムも続いて入ろうとする
おっと、同行はここまでだな
……彼にとってもその方がいい
カムの言葉を聞いて、バンジは何かを言いかけたが、黙っていた
全部解決したら連絡するよ、安心しろって
カムは無言で小型浄化塔の出す運転音の中、カムイと抱えられた者を見ている。周囲からの消毒スプレーの中で待つ皆を静寂が包む。誰もこんな時何を言うべきかわからないでいた
消毒完了を知らせる音がついに響いた。カムは頭を下に向けたまま手を振り、カムイとバンジがクロムを連れて、速やかにエリア輸送車に向かうところを見送っている
バンジは再び、この苛つくほどに馴染んだ場所に立っていた。目の前の光景は記憶の中より混沌としている
075号都市の大規模作戦の影響を受け、以前から忙しいと有名なスターオブライフは、今や血と循環液の痕まみれの地獄と化していた
この戦いが始まる時から、ここの人々は大量の死傷者を予測していた。たとえ最善を尽くしたとしても、拡散していく災難には対応し切れなかった
宇宙兵器が赤潮の大部分を蒸発させたあともずっと、大量の負傷者が075号都市のあの廃墟に残されているのだ
彼らは大量の異合生物を排除、物資を輸送、データ収集等の仕事に従事していたのだった。作戦の中核チームと比べれば大した役ではなくても、同様に重要な仕事なのにかわりない
バンジはカムイを連れて勝手知ったるショートカットを通ると、速やかに緊急救援ロビーに入り、クロムを臨時修理作業台へと下ろした
僕らは救――
悪い、整備室は満員なんだ
バンジの言葉を待たずに、スタッフは一言のもとに断ってきた。そしてすぐさま、助けを求める部屋へと走っていく
負傷者がこんなに?バンジ、やっぱ直接ハセン議長の側の誰かに繋ごう!
バンジはひと言で返事すると、ふたりはすぐに自分の端末を開いて、ハセンとセリカに連絡した
誰にも通信できない
……セリカも通信に出ない
まさか夜中だからか?
…………
アシモフとか、他の人は?
ほとんどは任務だけど……アシモフは試す価値があるな
ふたりは通信先を開き、何度も救助を求めた。しかし、アシモフも通信に出ない。しばらく経つと、見知らぬ顔が通信に出てきた
セリカ!?
……すいません、セリカさんはまだ会議中なんです。何かあるなら私から、彼女にお伝えします
ふたりはすぐ相手に状況を説明した
負傷者は通常プロセスを経由して、スターオブライフに向かってください
ここはもう満員なんだ
スターオブライフの収容範囲の負傷者は……少々お待ちください
状況をセリカさんにお伝えしますが、彼女や議長は医師じゃない……そこでおとなしく、待たれたほうがいいですよ
何だって!?
この回答は完全に基準に則ったものです。必要とあれば、説明を繰り返しても構いません
……お前ッ!
はいはい、もうわかったよ
バンジはすぐに通信を切った
どんな理由かわからないけど、どうやらハセン議長とセリカにも何か問題が起きてるみたいだ。通信まで管理されてしまうとはね
あれ以上話してても埒が明かない。他の方法を考えないと
あ、バンジ先生じゃないですか?お久しぶりです
その時突然、曲がり角からよく知った顔が現れた
君、まだここに……!
フフ、他にいく当てがないんです
それよりか、今すぐ機体の整備できるところが必要なんだ、整備室は空いてないの?
見ればわかるでしょう
その医者は少し気まずそうに笑った
整備室じゃなくてもいい。適合する行動モジュール、機体循環浄化装置があれば
ご自分で?
彼女はすぐに臨時修理作業台に走ると、クロムの機体の型番で在庫を探してくれた
適合する腕部モジュールは1個しか残ってないです。でも、整備室がないと交換できませんよ
それに腕だけでは、どうにも……
記録された在庫以外にも、前にスターオブライフには緊急用の物資を残す習慣があっただろう、あれは――
さっき調べたのはそれなんです
今は状況がめちゃくちゃなんです、でも昔のよしみですから、循環浄化装置1台をお貸しします
彼女は振り返ると、続いてバンジに重い口調でひと言を告げた
もしくは、他の方法を探すかです、バンジ先生
……まずはその浄化装置を貸してくれ
相手はうなずき、体を横にして廊下の人混みに入っていくと、すぐに循環浄化装置を押しながら戻ってきた。バンジとともに浄化装置をクロムの体に繋げる
すぐに彼を連れてここを離れた方がいいです
彼女は浄化装置を接続している最中、バンジの隣に来て声を潜めて言った
なぜ?
あらゆる意味でまともな救援が得られないからです
訊かれても、私には、医療物資が不足しているとしか……お答えできないんです
それ以上話すのは、私にとっても危険で
浄化装置を接続し、彼女は咳払いをした
では仕事に戻らせてもらいますね。もし他の方法が見つかったら、装置はこのままここに置いておいてください。私が回収しておきます
ありがとう
彼女はうなずいて、そのまま振り向くと、スターオブライフの紋章が掛けられた曲がり角へと消えていった
まさかもう……方法はないのか?
とりあえずもうすぐ壊死になるパーツを交換しさえすれば、回復できる可能性はある
でも空いている整備室も、適合する機体パーツもないんだ
ここにないなら、他の場所はどうだよ?そうだ、A29とか?
……僕もそれを思い出してたんだけど、あれは一体どういう意味だろう?
謎解き系のゲームだと、この手の数字は大体パスワード、ランドマーク、他は……多くのなかからある特定の何かを示す場合かな
隊長が僕たちと認識を共有している以外のものを残すとは考えにくい。パスワードは除外、ランドマークだとA29に一番近いのは……何かの店だ
じゃ、一番可能性が高いのは最後だ
ある特定の何か……連絡帳?
この答えを導き出す前、ふたりは救援を呼ぼうとずっと連絡帳を見つめていた。その直後とあれば、連絡帳を思いつくのは当然といえた
ふたりは見解の一致を経て、すぐさまクロムの端末を取り出した
A列、29番……あれ、28と29もアシモフって書いてあるな
……試してみよう
バンジは連絡帳のその番号を押してみた
…………
しかし、最後の希望である英数字の向こうからは、誰の応答もなかった
……………
周囲の忙しい騒音のなか、刻一刻と時間がすぎていく。バンジの額は珍しく汗をかいている
……交換できるパーツさえあれば、僕がここで交換してみる
隊長のお父さんに連絡してみるか?隊長はあんまり自分ちのこと言わないけど、他の人から聞いたことがあるんだ
カムイが珍しく神妙な表情で告げたその言葉に、バンジはぽかんとした表情で頭を上げた
……あの噂か、僕も聞いたことがある。でも、さっきの状況を見ただろ。彼らだって、隊長の父親には手回ししているだろう
……やっぱり、引き続きアシモフに助けを求めるべきだ
バンジは再び連絡帳の中の名前をタップした。1回、2回、3回、4回、5回……
突然、通信から接続の表示がきた
アシモフ!!!
な、なに!!
通信モニターの前には誰もいなかった。ただそこからは、幼い感じの声が聞こえてくる
ご、ご、ご、ごめんなさい、勝手にアシモフさんの通信に出ちゃいけないと思ったんだけど、ずっと鳴り続けてるから……
アンタ誰だ?いやそんなのどうでもいい、アシモフがどこにいるのか知ってるか?
え、なに?どうでもよくないよ!私はロサ、ここに来たのは、アシモフさんにいくつか訊きたいことがあって……
通信のカメラに届かない身長とその幼い声からすると、相手はせいぜい6、7歳くらいの子供と思われた
でも今ここにいないよ、たぶんこっそりどこかで研究してると思う
彼に急ぎの用事があるんだ、どこにいるかわかりそう?
急ぎの用事、なの?……じゃあ、科学理事会のB3エリアに行けばいいかも。あそこなら、誰にも研究を邪魔されないみたいだよ
B3エリアは科学理事会が新造した実験施設だ。スターオブライフとはそう遠くないところにある
行こう
ふたりの暗い表情にようやく希望の光が表れた。カムイは再びクロムを抱え上げると、外に停めていた輸送車に飛び乗る
車両が素早くB3エリアに入っていくと、ビルの階段前にひとりの幼い女の子が立っていた
こんにちは……私がロサ。急ぐ用事って、何か手伝えないかと思って慌ててきたの……アシモフさんはたぶん、閉鎖ラボにいるよ
閉鎖ラボ?
うん、アシモフさんは自分が邪魔されるのが嫌だから、だから……
彼女は長々と説明しようとしたが、カムイが焦りから眉根を寄せたのを見て、その声に緊張をにじませた
ご、ご、ご、ごめんなさい!すぐ連れていくよ!!
ロサは前を走ると、転びかけながら空中に浮遊していた球状の機械によじ上り、音速に近いスピードで避難階段に向かい、曲がり角の壁にぶつかった
ア、ア、ア、アシモフさん……!
ロサが泣きそうなか弱い震え声で呼びかけると、閉鎖ラボの奥からはさまざまな実験器具が倒れるような音が響いた
階段を上ると、バンジとよく似た目の下のクマをこしらえたアシモフが、自分が倒したものを片づけていたところだった
バンジの脳裏にふと「アシモフを驚かせる者が?」という疑問が浮かんだが、それより優先されるべき問題があった
アシモフ、隊長を助けてくださいっ!
……
カムイが抱え上げているクロムを見ると、クマを浮かべたアシモフの顔に更に墨がかかったようになった
ついてこい
アシモフはすぐに閉鎖ラボへと走り、ロサは怯えながらそのまま手を振って、彼女は一緒に入らないという意を示した
ここは救助センターじゃないんだがな、ちょうどいいタイミングだ
朝から、ずっとクロムの機体に残る問題の改良を続けてたんだが、いろいろと邪魔が入って、全ての端末は作業室に置きっぱなしだった
そしてまさに今、一番厄介な問題を解決したところだ
アシモフはドアを開けると、カムイが抱えていたクロムを受け取り、整備台に横たえた
バンジ、お前も手伝え
バンジはうなずいて、すぐに整備台の近くのさまざまな機械をクロムに接続する
俺は?
確認したいことがある、俺の端末を持ってこい。ロサが持っているかもしれん
端末?
急げ
はい!