リオラはページをめくり、その子供を理解するための内容を大まかに書き留めた。名前、おおよその年齢、身体的特徴の記録、そして、ある日付――
その日付を数秒ほど眺めてから、彼女はファイルを閉じて会議室の扉を押し開けた
青白い照明が、先遣隊の隊員たちの顔を照らしている
異重合塔が彼らに残した傷は、いまだ癒えていない。それでも、誰もが今回の会議の重要性と緊急性を理解していた
上座の席は空いたままだ
異重合塔が消失した際に残された亀裂についてだけど……ユリアン、観測した状況を説明してくれる?
ユリアンは壁にもたれたまま、弱々しく掠れた声で口を開いた
不規則な加速が拡大している。滲み出す白い霧の範囲は日ごとに広がっている
昨日戻ってきた時の速度は0.05%だったが、今日はもう測定できない。霧が信号を遮ってしまっている
遮るというより、「吞み込む」感じだ。信号もそうだし、他のあらゆるものもだ。いずれ……この世界の全てが貪りつくされるだろう
残念だけど、それが私たちが直面している現状よ
彼女は机の上の端末に目を落とした。そこには、ある会議記録が保存されている。ドミニクが残したものだ
この端末……ドミニクが二重の備えをしていたことは、皆も知っていると思うけど……
もう1度、全員で確認しておきましょう
端末の表面から微かな光が投射され、空中で半透明の人影を形作った
ドミニクがそこに立っていた
クリスはテーブルの上に置いた手をぎゅっと握りしめた
端末から聞き慣れた声が流れ出した――落ち着いた、紛れもなく全人類をその肩に背負っている者の声だ
もし君たちがこの記録を開いているのなら、それはひとつ目の備えが失敗したということ
私は塔の中で行方不明となり、しかもその失踪は勝利をもたらすものではない
投影の中のその人物は聞き手に理解する時間を与えるかのように、しばしの間、口をつぐんだ
つまり、私の仮説の正しさが証明された。最も悲惨な形での正しさ、我々が最も望まない類いの正しさで
異重合塔はカイウス汚染の根源ではなく、単なる表象にすぎない。我々の世界の力だけでは、救済は成し得ない。他の世界の力と、真に手を取り合わなければならない
「もし本当にそうなったら、どうやって他の世界と連携するのですか?」投影の中から、かつての先遣隊員の問いが響いた
他の世界に対し、ともに戦うための招待状を送る
文明の終焉に最も近い場所であり、同時に最も危険な場所――異重合塔から、私たちは可能な限り、他の世界へ向けて我々の声を発信しなければならない
投影の中の他の者たちは一様に沈黙した
ドミニクの判断が空手形ではないことを、彼らは理解していた。ドミニクにはまだ言うべきことがあるとわかっていたからだ
そうだとしても、文明の選択に関する情報を知るだけでは、どの世界にとってもまったく不十分だといえる
力を持たない文明は、最終的に我々と同じように、取り返しのつかない衰退へと進むことになる
彼らの世界が我々の世界のように死にゆく前に――選択に抗うための力を手にしなければならない
疲弊しきった人々にとって、「力」と呼べるものがまだあるとすれば、それは彼らの傷だらけの機体ではなく――
全員の視線が、ニモの側にある立方体に注がれた。それはカイウス汚染を利用して作られた鍵であり、異重合塔のコアを封じているものだ
誰もが、それが見せつける恐るべきエネルギーを目の当たりにしていた
――異重合塔のコア。我々はその力を利用しなくては
取り込まれた異重合塔のコアを基盤に複製し……我々が利用可能な技術設計図を生成する――それを「質点」と呼ぶ
クリスはぼそぼそと呟いた
……ドミニクは、あの時すでにこうなるのをわかっていたんだな
あの人はいつだって最悪の事態を想定していたわ
投影の中のドミニクは淡々と語り続けた。その口調は、天気予報でも告げるかのように終始落ち着いていた
だが、最後にこの言葉を口にした時、あの人が窓の外を見ていたことを皆は覚えていた
その視線は目の前の景色ではなく、遥か遠く、まだ存在しないどこかを見据えていた
他の世界と手を取り合ってこそ、我々の世界は救われる
投影は一瞬静止し、映像のドミニクは何かを思いついたかのように少し首を傾げた
……あとはよろしく
投影は消えた
静かに机の上に置かれた端末の微かな光が、ゆっくりと消えていった
リオラは光が消えた端末を無言で見つめ、しばらくしてから静かに口を開いた
ニモ、質点についてはあなたが一番詳しいわ……皆に説明してくれる?
ニモは椅子の背にもたれていた。異重合塔の中で鍵を使い、コアを封印したのは彼だ。その時の操作が意識海に与えた衝撃は、まだ完全には消えていなかった
……異重合塔のコアを吸収した鍵は、一種の「技術設計図」と言える。それを基に複製が可能だ――その複製された技術を「質点技術」と呼ぶ
できる限り多くの質点技術を掌握してこそ、より多くの可能性/世界>に適応できる
しかし、異重合塔のコアが「鍵」によって吸収される必要があったのと同じように、そこから開発された質点技術にも相応の器が必要になる
現時点でわかっている唯一の器は――意識海だけだ
コアに触れた瞬間、はっきりと感じたんだ。一部の力は受け入れられたが、それ以外は拒絶された、とね
……質点の力と適合する意識海だけが、その、それ以外の力を担えるんだ
適合する……意識海?
彼女は確認するように繰り返した
そうだ
でも、完成したとして、それをどうやって使うの?
「それは、他に存在し得る世界次第で……それぞれの使い方に委ねられる」
ニモは聞こえないほど小さなため息をついた
恐らくドミニクは、ニモがコアを受け取っても、彼が長らく望んでいる死は訪れないとわかっていた。そうでなければ、この情報を彼に託す必要はなかったはずだ
質点技術が完成したとして、それをどう伝えるんだ?
……「弦計画」を更に推し進め、質点を拡散させるには、あの亀裂に――もう一度、霧域に入らなければならない
誰もが、あの恐ろしい亀裂を覚えていた。それは今も音もなくゆっくりと広がり続けている。白い霧を溢れさせ、まるで永遠に血が止まらない傷口のようだった
あの中へ入る……再び全員が黙り込んだ
リオラは机の端に腰かけ、静かに目の前の人々の顔を見つめていた
彼女はひとりひとりのことをよく知っている。名前も、何を恐れ、何を失ってきたのかも
だから彼女は、「私たちがやらなければならない」というような言葉を口にしたくはなかった
……この道を進んだ先がどうなるのかは、わからない
ドミニクは道を残してくれたけれど、その先に何があるのかは、私たちに教えてくれなかった
私が確実に言えることはひとつだけ――あの人は、こうすることに意義があると信じていた
そして、その信念のために命を差し出したのよ
彼女は少し言い淀んだ
だから……皆に訊きたいの。このまま先へ進む覚悟はある?
クリスがすぐさま答えた
訊くまでもないだろう?
彼の声は更に大きくなった
ドミニクは命を賭けたんだぞ。じゃあ、俺たちはここで何してるんだ?やるに決まってる
ヘルガは何も言わなかったが、小さく頷いた
ユリアンは静かに鼻をすすった
通信は僕が担当する。弦計画の信号プロトコルは解読に時間がかかるが……できなくはない
リオラ、君はそれでいいのか?質点技術の開発には、意識海を器にすることが必要だ。ドミニクが言っていたが、それに耐えられるのは君の意識海だけだ。でも……
それがどれほどの苦痛を伴うか、彼は口にはしなかったが、皆がはっきりとわかっていた
ええ、任せて
よし。必要なデータは僕が集めよう
先遣隊員たちは、ひとりまたひとりと、それぞれのやり方で決意を示した
リオラは毎日ともに過ごした仲間たちを見つめ、そしてすでに空になっているドミニクの席を見上げた。彼女の瞳に複雑な感情が一瞬よぎり、すぐに消え去った
そして目の前の仲間たちを見つめ、静かに微笑んだ
それじゃあ、始めましょう
ルシア、どうしてベッドから出たの?
もう大丈夫。何か手伝いたくて
ここに残るために、何かをしようとする必要はないのよ……ただおとなしくしていれば大丈夫よ
「ただおとなしくしていて……私たちの希望だから」。リオラはこの言葉を心の中にとどめ、しゃがんで視線をルシアと同じ高さに合わせた
ルシアは少し俯いて考えた
でも、みんな、毎日戻ってくる度に私のところへ来てくれるでしょ
リオラは少し驚いて目を見開いた
それに……ルナと一緒だった時は、家のことは全部私がやってて――
ルシアは残りの言葉を言い切らなかったが、リオラには伝わった。彼女は労わるようにルシアの額をそっとなでた
実験カプセルから戻ってきたヘルガは、相変わらずぶっきらぼうに口を開いた
戻って寝てなさい。転べば怪我が増えるだけよ。もう1度処置できるほど、薬に余裕はないの
リオラはヘルガに向かって、小さく首を振った
少し歩かせてあげて……ずっと寝たきりなのもよくないわ
ヘルガはルシアを見た――顔色はまだ少し青白いが、小さな足でしっかり立っている
……走らない、重いものを持たない、眩暈がしたらすぐに止まる。わかった?
わかった
……誰がやった?
誰も答えなかった。ルシアはすでに別の場所へ行っていた
翌日、出発前に装備する時間は半分に短縮された……戻ってくると、彼は黙々と新しく持ち帰ったパーツをきちんとそれぞれの場所に置いた
誰か動かしたか?
だが、肝心な部分の乱雑さはそのままで、周囲だけが整えられていることに気付いた。ケーブルがもう床を這い回っていない
……ああ
彼は再び端末に向かった……しばらくすると、自分の足下に転がる空のケースをゴミ山の方へ蹴りとばして片付けた
ある時ルシアは、ヘルガが片手だけで器具を整理しているのを見て、彼女の左側に立ち、器具をひとつひとつ手渡した
手伝えなんて言ってないけど
それでもルシアは離れず、ただ彼女の傍らにいた
まあ、いいわ
ヘルガが次の器具を必要とした時にはそれを差し出し、必要がない時は静かに待っていた
あの日以来、ヘルガはもう彼女に離れろとは言わなかった
ニモは戻ってきた際にそれをちらっと見ただけで、特に何かするわけでもなく、その場を通りすぎていった
3日目、その毛布の位置は少しだけずれていた。誰かが座り、元に戻したのだ
毛布の畳み方は、ルシアのやり方ではなかった
美味しくない……
彼女はもうひと口飲んだ
医務室
クリスとニモはそれぞれベッドに横たわっていた。ふたりの機体は一部が分解され、内部の損傷した構造が露出していた
クリスの左腕の関節は、またしても完全に粉砕されていた。ニモの胸腔内側には深く長い亀裂が走り、1度は溶接して修復したものが再び裂けてしまった痕がある
隣のベッドにはユリアンがいた
医務室にいる唯一の外傷のない「負傷者」として、彼は暗い顔で体を丸めて縮こまっている。改造された眼球はいつもの落ち着きのなさを失い、真っ直ぐ壁を見つめていた
ヘルガは3つのベッドの間を行き来していた……ルシアが入ってきた時、彼女は右手に持った工具で、クリスの関節の処理をしていた
ルシアはヘルガの側にある、さまざまな大きさの器具が入った工具箱の前でしゃがんでいた
ッ――!……痛覚システムを切れないのか?
無理
なんで……ッアアア!待てって――
意識海に偏移がある。でも、安定剤はこの前使い切ってしまった。痛覚システムを切ったら、偏移率が更に上がるわよ
我慢して
クリスは歯を食いしばり、顔の筋肉を歪ませた。指先が白くなるほど、ベッドの縁を強く握りしめている
ルシアは、この光景全てをその目で見ていた。彼女はクリスのベッドの側へ行き、折り畳んだ布を差し出した
……何だ?
注射の時、タオルを噛んだら少し楽になるって、ルナが言ってたの
クリスはその布を見て、目の前の小さく真剣そのものな顔を見た
……お前の妹と同じ扱いか?
彼はぶつぶつと長い間文句を言っていた……だが結局、それを噛むことにしたようだ
クリスの処置を終えると、ヘルガはニモの方へ向き直った。彼の胸腔の亀裂は、クリスの関節の損傷よりも厄介だった
溶接には高い精度が必要な上、損傷箇所はコア領域のすぐ近くだ。クリスと同様、痛覚の遮断ができない
青年はベッドのシーツを力いっぱい握りしめ、こめかみのバイオニックスキンに汗を滲ませた
だが、彼は一切無表情だった。最初から最後まで声をあげることはなかった
ルシアは側で工具を手渡しながら、何度もこっそり彼の様子を窺った
手術が終わると、彼女はニモのベッドの側へ行き、先ほどの布を差し出した
……あなたも噛む?
必要ないよ
痛いなら痛いって言った方がいいよ。余計、痛くなるよ
……手術はもう終わったんだ
彼はそれを断らず、ただ疲れたようにため息をつくと、その布を受け取って傍らに置いた
リオラは中には入らず、扉にもたれたまま、一連の様子を眺めていた。そして、ヘルガがニモのベッドの側を離れた時、ようやく中に入ってきた
状況はどう?
クリスの関節は再構築したわ。ただ、予備パーツはどうにか最後の1セットをかき集めた状態。ニモの亀裂も溶接したけど、溶接材もあと1回分が限界ね。もうそれ以上はない
また今日みたいなレベルで損傷すれば、この次は修理できるかわからない
リオラは何も言わず、黙ったままユリアンへ目を向けた
彼の方は?
意識海が沸騰してる。「脳のオーバーヒート」よ
ユリアン……また20時間以上もぶっ通しで通信を中継していたの?
ベッドの上から弱々しい声が返ってきた
あの霧……亀裂から滲み出て、信号に酷く干渉するんだ。中継を続けなければ、外に出た者との通信が途絶する。結果、僕の代わりにここに横たわる人が5、6人増える……
…………
それに、ただ信号に干渉してるだけじゃない
中継している時、感じるんだ。あの霧が、構造体たちの力を抑え込んでいると
それに、霧の中から新しい「何か」が現れている。以前のような、カイウス汚染に侵蝕されたものとは違う……
彼は、気怠そうにクリスとニモの方へ顔を向けた
彼らは、そいつらにやられてこうなったんだ
医務室はしばらく静まり返った
工具箱の側でルシアが、使い終えた器具をひとつずつ丁寧に拭き、順番に戻していく。その動作は静かだったが、金属が触れ合う微かな音は、静寂の中でやけにくっきりと響いた
クリスは布を噛み締めたまま、くぐもった声で言った
子供の前でそういう話はやめろ
ユリアンは首をすくめた
ルシアは聞こえていないかのように器具を拭き続けたが、その動作は少しだけ遅くなった
リオラはルシアの側にやってきて、そっと身を屈めた
ルシア、たくさん手伝ってくれてありがとう
あとはヘルガに任せて、少し休まない?
ルシアはリオラの顔を見てから、ヘルガを見た。ヘルガは小さく頷いた
……わかった
おいチビ、ちょっと待て……渡すものがある。お前、毎日花壇の前でぼんやりしてるだろ。ニモが「あの子にあげよう」って
君に「花を踏むな」って言っただけだ。今のこの世界じゃ、花は貴重なんだから
何でもいいさ……ほら、受け取れ。タンポポの種だ
ルシアは少し戸惑いながら綿毛のタンポポを受け取ると、滅多に手に入らない宝物のようにそっと抱えた
ありがとう
彼女はそっとその場を離れた。金属の床に響く足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。医務室には大人たちだけが残った
ヘルガ……もし弦計画をこのまま進めるなら、これまで以上に亀裂の方への派遣任務を行うことになるわ。今の状況じゃ……
死傷者の見積もりを訊きたいの?
……ええ
さっきも言った通り、クリスの予備パーツはこれが最後の一式。ニモの溶接材料も、あと1回分しか残ってない
「今日」の時点でね
医務室に長い沈黙が続いた
クリスは平気な風で口元から布を外したが、傷口が裂けた痛みに声を上げた。見上げていたニモの目が、さっとリオラに向く。ユリアンは体を丸め、疲れ切ったように目を閉じた
リオラは聞こえないほどの小さなため息をついた。言葉にはしがたい傷が、心の奥を抉った。彼女はしばらく立ち尽くし、やがて背を向けて医務室を後にした
夜
ルシアは空っぽの花壇にタンポポの種を丁寧に植えると、しゃがみ込んでしばらく眺めていた
すぐに咲くことはないとわかってはいたが、生命を象徴する美しいものに、新奇さを感じずにはいられなかった
部屋へ戻る途中、彼女はリオラのラボの前を通りかかった。ラボの外の机には、数日前に廃棄された原稿が置かれたままだった。原稿はいくつかのファイルにまとめられていた
大人たちの仕事に興味を引かれたのか、ルシアは思わずそのうちの1冊を手に取った
見てもよくわからなかった
文字自体はほとんど読めたが、並べられた言葉はまるで別の言語のように難解だった。「世界減衰係数」、「質点の許容閾値」、「弦計画信号プロトコル」……
表紙をめくると、それらのファイルは奇妙な文字で分類されていた
彼女はその文字をしばらく見つめ、唇を動かして発音してみようとした
オー……?
そうじゃないわよ、おチビさん
ルシアはビクッとして、危うくファイルを落としそうになった。彼女の目線の先、いつの間にかリオラがそこにいた
勝手に見たんじゃないの――
わかってる。いいのよ、どうせ他に読む人なんていないんだから
彼女はルシアを引き寄せて並んで座ると、ファイルを受け取ってパラパラとめくった
読める?
ルシアは正直に首を振った
この
ルシアは真剣な顔で頷き、口の中でその発音を繰り返した。普段は無口な子供の目が、今はどこかワクワクした光で微かに輝いている
リオラは思わず微笑んだ
仕方ないわ、あなたには難しいわよね……
彼女はファイルを閉じて脇に置いた……表紙に書かれたギリシャ文字にじっと見入っているルシアの様子を見て、少し考えた
その代わり――お話をしてあげようか?
お星さまを知ってる?
空にある、小さなナイトランプのこと?ずっと前にお母さんが教えてくれた
ひとつ、ふたつ、みっつ……ナイトランプがいっぱい!
その無邪気な言い方に、リオラは思わず微笑んだ。だがすぐに、鼻の奥がつんと痛くなった……
ルシアはいつも気丈に振る舞っているから、リオラはたまに、彼女はまだただの子供だということを忘れてしまう
リオラはそっとルシアの頭をなでた
そう、空にあるたくさんの星は……あなたのお母さんが言っていた「ナイトランプ」よ
でもね、どの星もすごく孤独なの……あれらはそれぞれが光っているけれど、あまりにも遠く遠く離れていて、お互いの光は届かない
どの星も、夜空には自分だけしかいないと思っているのよ
ルシアは静かに耳を傾けていた。こんな風に大人の足下に寄り添って、物語を聞けるのは珍しいことだった
でもね、ある人たちが言ったの――それじゃダメだ、って。星と星は、本当はお互いに見えるはずなんだって
もし、誰かが星の光を別の星へ届けられたら?それを、次の星、また次の星へと伝えていけたら……
最後は、夜空全部が明るくなるでしょう?
……どうやって伝えるの?
彼ら自身が、光になったの
彼らは最初の星から飛び立って次の星へ行き、最初の星の明かりをそこに残すの。そして、また次の星へ飛んでいく
次の星へ行くには、どれくらい遠くまで飛ばなきゃいけないの?……ここから私のお家までくらい遠い?
多分、もっともっと遠いでしょうね
だけど、そんなに遠くまで行ったら、星の光はどうやってお家に帰るの?
……もしかしたら、帰れないかも
ルシアは少し表情を曇らせたが、それでもその答えをちゃんと受け止めたように頷いた
「ある人たち」って、どんな人たちなの?
リオラは再び考え込んだ。頭の中に、以前ルシアの問いに答えた時の言葉が浮かんだ
戦士よ。その人たちも、戦士だったわ
ルシアは無言になり、それから小さな両手を伸ばした。片方は人差し指を伸ばし、もう片方は握って、ふたつを重ねた。ゆっくり腕を左右に広げると、指と拳の距離が離れていく
すごく遠い……こんな風に、ずっとずっと遠くまで離れちゃうんだね
ええ。そしてそんなに遠くへ行ったとしても、彼らが何かを成し遂げたとは限らない……出発はしたけれど、別の星にたどり着けなかったかもしれない
宇宙の中で迷ってしまったのかもしれないし……あるいは……出発はしたけれど、結局宇宙が明るくなることはなかったかもしれない……
でも、すごく勇敢だよ
あんなに大きくて、あんなに真っ暗な宇宙でも怖がらなかった。光を届けるために、どんなに遠くたって、他の星へ向かって飛んでいったんだ……
広くて真っ暗な中を進む光って、すごくかっこいいと思う。ルナがこの話を聞いたら、きっと気に入ったわ
だから私は、彼らは英雄だと思う
リオラは小さく口を開いた。さまざまな思いが胸に沸き上がってくる
彼女はルシアの目を見た――その目に疑いや慰めの色はなく、ただ7歳の子供特有の、理屈ではない確信だけがあった
彼女はその子供の期待を裏切ることができなかった
ええ……本当に英雄かもしれないわね
じゃあ、その英雄たちの名前は何ていうの?
リオラは一瞬、言葉に詰まった
これは、ただ思いつきで作った物語にすぎず、登場人物の名前すら用意していなかったし、彼らが英雄と呼ばれるとも思っていなかった
彼女は変わり映えしない天井を見上げてから、ぼんやりと再び視線を落とした。ルシアも、それを追うように視線を落とす
彼らはこの研究のため、この世界を治すため、ずっと戦い続けてきたの
その時、ルシアの想像の中に広がる漆黒の夜空を、ひと筋の光が横切った
――物語の中でぼんやりとしていたその姿が、次第に輪郭を帯びていく
ど、どうかしら?
彼女はためらいながらオメガと言ったのだが、まさかルシアの顔がこれほど憧れで輝くとは思っていなかった
かっこいい、英雄オメガだね!
そう、英雄オメガよ!
それから英雄オメガはどうなったの?
えっと……光を他の星に届けるために、英雄オメガは宇宙の最深部まで飛んでいったわ。でも、そこで他の惑星は見つからなかった
あまりにも遠くまで来すぎたせいで光が尽きてしまい、オメガは宇宙の中に消えていった
そんなあ……
でもね、英雄はオメガひとりだけじゃないの。その後ろには、まだたくさんの英雄がいるんだから
英雄Ψ、英雄Χ、英雄Φ……他の人も次々と旅立っていくのよ
英雄プサイ、英雄カイ、英雄ファイ……
ルシアは英雄たちを指を折りながら数えていったが、何度も繰り返すうちに、最後にはどの指がどの文字だったのかわからなくなってしまった
こんなにたくさん英雄がいるんだ……最後のひとりは何ていうの?
ひとり、またひとりといなくなって……最後の英雄も敗れたの?
……最後の英雄は、全ての始まりでもある、最初の文字――
……!α……αは、どんな英雄なの?
αは……
リオラは愛おしそうに小さなルシアの頭をなでた。指先に、細く柔らかい髪の感触が伝わってくる
彼女はずっと遥か先の未来を見るかのように、ルシアを見つめた……
αは、すでに旅立った英雄たちとは少し違うの。まだ子供で、皆の小さなヒーローなのよ
ルシアは目を丸くして、どこか納得がいかない様子だった
子供?みんなよりも小さい英雄なら、あまりすごくないと思う……
そんなことないわよ……だって彼女は、全ての英雄にとっての希望であり、光なんだから
彼女がこの星にいるだけで、他の英雄たちには帰る場所が――「家」があるってことだもの……
でも、英雄はそんなに小さいのに、どうやって光を届けるの?
その英雄、今はまだ小さいけれど、これからゆっくり成長していくの。少しずつ大きくなって……いつか他の英雄たちと同じように、輝きを放つようになるわ
小さなαは、英雄たちにとっての英雄なのよ
私たちにとってただひとりの、一番大切な英雄よ
それはあまりにも遠く、彼女たちの歩む道と同じくらい遠い……しかし、彼女はその未来を見てみたい気持ちが抑えられなかった
彼女はドミニクの言葉を思い出した。ずっと昔、まだ全てが悪夢ではなかった頃、ドミニクが観測所の窓辺で外の夜空を眺めながら、何気なく口にしたあの言葉――
いつの日か、この夜空にある全ての星の光が互いに手を取り合うようになる……いつか我々は宇宙全体を照らすはず
あの時は、また大げさなことを言っていると笑う者もいた……だが今、そう語っていたあの人はもういない
ルシア
なあに?
オメガ……ガンマ、ベータ、そしてアルファ。英雄たちはステキな名前があるわね
口角がほんの少し上がっただけだったが、ルシアは小さく笑った
さあ、もう寝なさい。続きはまた明日話してあげる
彼女はルシアの手を取って床から立たせた
ルシアは彼女に連れられて少し歩いたところで振り返り、棚の方を見た
リオラお姉さん
ん?
英雄たちは、最後に星空を照らせたの?
リオラは口ごもった。混乱した記憶の断片が胸から湧きあがる
裂けた扉、そびえ立つ巨塔、失われたリーダー……そして傷だらけの人々
……まだよ。彼らはまだ、飛び続けてる
照らせるよ
えっ?
きっと、夜空を照らせる
アルファ……アルファ
ルシアはその誇り高き名を心の中で繰り返した
彼女は、いつかきっと皆の誇りになる。いつかきっと最後の英雄になる
想像に胸を膨らませながら、彼女はおとなしくリオラの後についていった
ルシアを寝かしつけたあとも、リオラはしばらく断熱毛布の側に座り、彼女の呼吸がゆっくりと穏やかになっていくのを見守っていた
そして彼女は立ち上がると、観測プラットフォームへと向かった
灰白色の天穹。その上を横切る亀裂と音もなく滲み出す白い霧
彼女はニモがいつも立っていた場所に立ち、顔を上げて、徐々に侵蝕されていく空を見つめた
星はなかった
たったひとつの星も――
