少し前、端末に1通のメールが届いた。中にはひとつの座標が記されていた
この無駄な言葉を一切使わないスタイルからして、差出人は明らかだ。しかしいつもは「ここで待っている」と締めくくっているのに、今回は「すぐ来て」と少し焦った様子だ
何かあったのだろうか、興味をそそられる
指定された場所に着くと、そこはひっそりとした路地の角だった。人通りはほとんどなく、祭りの騒がしさとは打って変わって、午後の穏やかさと静けさに満ちていた
コン――コン――
音がした方を振り返ると、店の開け放たれた入り口にもたれかかったαが、指でこげ茶色のドアを軽く叩いていた
気のせいだろうか。彼女の肩は少し沈み、表情にもいつもの張りがなく、疲れているように見えた
彼女は手招きし、店の中へに入っていった
ここは塗装を扱う店のようで、内装は派手ではないが、店主のこだわりが細部に感じ取れる
足下に気をつけて。転ぶわよ
彼女の言葉で視線を下に移すと、床一面に物が散乱していた
先ほど見た景色とは真逆だ。マネキンは倒れ、壊れているものもある。色とりどりの人工毛髪が床に散らばり、絡まっていた
見るからに……何かしらのトラブルが起こったようだ
αは無表情のまま散らかった店内を進み、倒れたマネキンを跨いで、混乱の中心へと向かった。そして奥で屈むと、何かを掴んだ
立ち上がった彼女の右手には、首根っこを掴まれた白い猫の姿があった。猫の口には、大きなネズミが咥えられていた
犯人よ
猫、ネズミ、散らかった現場……何があったかは察しがついた
床に倒れたマネキンを起こし、ふと人工毛髪についているタグを見ると、予想以上に高価なものだった
αはため息をつきながら、白猫を解放した
手持ちじゃ足りないから、代わりに立て替えてほしいの。貸しにしておいて
αが言い返そうと口を開いた時、視線がドアの方に逸れた。そこには老婦人が立っていた
店の混乱に気付いた老婦人は、地面に落ちている髪を見て、声を上げた
あら!どうして床に落ちてるの?
駆け寄ってきた彼女は床に落ちた髪を拾い上げると、こちらを見て言った。少し責めるような口調だが、優しい雰囲気が滲み出ている
ちょっとそこでおしゃべりしている間に……若い方々、どういうことか聞かせていただける?
αと一緒に床に落ちた髪を拾い、片付けを手伝いながら、老婦人に事情を説明した
老婦人はわかったという風に頷いたが、どうもちゃんと話を聞いているようには見えない。途中からαの長い髪に心を奪われているようだった
老婦人は突然手を伸ばし、αの胸元に垂れる長い髪の毛先を手に取った
とても綺麗な髪ね
αは警戒態勢を取ろうとしたが、老婦人に悪意がないことを察知して、そのままじっとしていた
本当に綺麗だわ。今まで構造体の髪をたくさん見てきて、たくさん作ってきたけど、こんなに美しい髪は初めて。どんなお手入れをしてるの?
特に何もしていないわ。普通に洗うだけよ
彼女は老婦人の手から髪を引き抜いた
弁償の件だけど……
ちゃんとお手入れしないともったいないわ。こんなに綺麗な髪なのに
いいことを思いついたわ、あなたの髪をお手入れしてあげる。それで弁償の話は終わりにしましょう
……他の何かでは?例えば金銭とか
あらあら、お手入れさせてもらえないのね……それなら、その髪を切って弁償してもらおうかしら
老婦人は優しい笑顔で、少し恐ろしいことを言った
αはこちらをちらりと見て、「見てないで助けて」というような視線を送ってきた。彼女が困る姿は滅多に見られるものではない。なんだかいたずら心が湧いてきた
……
こちらへどうぞ
店の奥には、構造体専用のヘアケア設備が整っていた
まったく、面倒なことになったわね
彼女はため息をつきながら手を伸ばし、束ねていた長い髪をほどいた
彼女はシャンプー台に座り、両手を椅子に置いて、頭を傾けた。エアコンの風で髪がなびき、赤い毛先が微かに揺れていた
この瞬間のαは、いつもの尖った雰囲気とはどこか違って見えた
……こっちを見てないで、ご婦人を手伝いなさいよ
床に倒れているマネキンのせいで、老婦人は準備に苦労していた。彼女を手伝い、必要な道具を揃え、シャンプー台から手を伸ばしやすい位置に整理して置いた
その時、外から声が聞こえてきた。どうやら老婦人を呼んでいるようだ
あら、大変。今日は用事があったのを忘れていたわ
そこの若いお方、構造体の髪をお手入れした経験はある?
それなら、やり方を教えるわ
彼女はとても丁寧に、どういう順序で何を使うかを教えてくれた。複雑な作業には慣れており、覚えるのはそれほど難しくなかった
よさそうね。じゃあ、後は任せたわ
ちょっとの間だけよ、そんなに長くかからないから。あなたは若いのに賢くて丁寧ね。お陰で安心してこの子の綺麗な髪を任せられるわ
αを見ると、準備を整えてこちらを見ている
彼女は承諾もせず、否定もしなかった
老婦人はいくつかの注意点を伝えてから、店を離れた。いつの間にか、自分がαのヘアケアを担当することになってしまった
まずはシャンプー。髪を櫛で梳かして、ぬるま湯で濡らし、特製シャンプーを泡立てて……
その間、αの目はずっと開きっぱなしだった――正直、そんな風にじっと長い間見つめられると、落ち着かない。必然的に動作もぎこちなくなってしまった
なぜ……こんなことに……
そうじゃなくて……
彼女は小さな声で呟くも、それ以上何も言わず、静かに目を閉じた
緊張をほぐして、彼女なりに協力してくれているのがわかった
ぎこちなかった所作も徐々に滑らかになっていった。急かされることもなく、焦ることもなく、作業は淡々と進んでいく……
ついに最後の工程まできた。後は髪を乾かすだけだ
……
αは椅子に仰向けに寝た状態で濡れた髪を後ろに垂らしている。人間はドライヤーで慎重に作業を続けた。この事態の張本人である白猫は、αの足下でのんびりとくつろいでいる
彼女はくすっと笑った
たまには、こういうのも悪くないわね
αの髪のケアが終わったあと、老婦人の店を片付けた。最後に改めて弁償することを提案したが、老婦人は笑って手をひらひらさせた
実をいうとね、あのネズミが毎日商品をかじるから困ってたのよ。この猫がネズミを捕まえてくれて、とっても助かったわ。だから、弁償なんて必要ないのよ
とどのつまり、この猫が元凶ってわけね
αは跳ね回って髪に触れようとする白猫を捕まえ、自分に突き出した。猫がこちらの腕の中に飛び込む形になった
今回は借りができたわね。何か手伝ってほしいことでもある?遠慮は無用よ
……いいわよ
