緑色の人影が宙を舞い、地面に叩きつけられた……彼女の胸には、見ただけで痛みが伝わるほどの大きな傷口が開いていた――彼女は夜航船の主、曲だ
それからもうひとつの姿が凄まじい速度で飛び出し、5本の指を尖らせて「曲」を破壊しようとしている
//命令執行【指定対象を殲滅します】
しかし含英の手が「曲」の胸を貫く直前、遠くから大きな剣が投げつけられ、彼女の動きを止めた。しかたなく、彼女は数歩後ろへしりぞいた
含英姉さん、やめて……!
現れた少女は回転する巨大な刃を再びつかむと、そのまま横になぎ払って含英を後退させた。そして曲を援護しながら後ろへ下がった
曲様……お怪我は大丈夫ですか!?
大丈夫です、この体はそう脆くない。だがあなたは一体誰……
私が誰かなんて、どうでもいいです……私も自分でよくわかっていないので!
「曲」は頷いて立ち上がり、周りに群がっている人々を見た
出てくるがいい。他の侵蝕体は全部始末しました。お前に勝ち目はない
人混みから編笠を被った男が現れた。少女は彼の顔を覚えていた。3日前の夜、含英をさらった悪党の男だ
十分だよ。ここに引き入れた侵蝕体はただの目くらまし……全てはお前を殺すためだ
……含英姉さんに何をした!
この人形に行動する意義を与えただけだ――人間の道具としての意義をな!
捉えよ!
数体の護衛機械体が現れ、男を地面に押さえつけた。しかし彼は笑い出した
無駄だ。俺が死んだところで、この人形は己の使命を貫徹する
「曲」を襲った含英は赤い循環液まみれの自分の両手を見て、ハッと我に返りショックを受けているようだ
私……一体何を……
男は笑い、含英に話しかけた
含英、よくやった。自分の存在価値が何かを考えるんだ
私の価値……は……//命令執行【指定対象を殲滅します】
含英は苦しそうに頭を振った。しかし魂の奥底から聞こえるその指令をどうしても追い払えない
違う……私の価値は……
本機、第00001回起動、成功しました。ヴィリアー様、本機のコードもしくは名前を設定してください
お前はただの道具で、このシミュレーションAIも僕の実験品だ……名前は不要だ
私は……道具なのですか?はい、承知しました
では私は何をすればよいのでしょうか?
お前は華胥の全ての意識を受け止めるために、僕が創り出した入れ物だ。それがお前の価値だ
わかりました。私はそのために全てを捧げます
本機、第00378回起動、成功しました。ヴィリアー様、こんにちは
しかし目の前のヴィリアーは難しい顔で機械の調整に没頭している。そんなヴィリアーを見て、彼女に突然新しい感情が生まれた
ヴィリアー様、前回の休眠で私は夢を見ました
まさか機械自ら話しかけてくるとは思わず、ヴィリアーはかなり驚いたようだ
夢の中で、私は本当に華胥様になって、ヴィリアー様と一緒に……
機械体は夢など見ない。やはりその人格プログラムには欠陥があるようだ
本機は夢を見ない……ならヴィリアー様、あなたは夢をご覧になりますか?夢を見るとは一体何なのでしょうか?
もういい……人間を真似て話すな。気味が悪い
それに何度も演算をした結果、華胥の意識を完璧に受け止められるのは構造体の意識海だけだと判明した。だから機械体のお前にはもう用がない
本機は……華胥様になれないのですか?
ああ、お前にはもはや価値はない
自滅処理をするべきだが、もう時間がない。早く華胥のバックアップを取らないと……どうせここはもうじき侵蝕体に攻め込まれる。ほっておけばいい
ヴィリアーは素早く片づけを行い、自分がここと関係した全ての証拠を隠滅した
ヴィリアー様……
なんだ?
彼女の脳裏によくわからない感情が無数に芽生えた。逃げたい、引き留めたい、弁解したい、泣きたい、訴えたい、怒りたい、狂いたい。だがそれら全ては引きつった笑みとなった
本機を作ってくれてありがとうございます。ヴィリアー様、ご武運をお祈りします
うぅ……!
含英の首の「枷」が赤く発光し、彼女は自分の体を制御できなくなった
含英の鋭い爪が少女の大きな剣とぶつかり合って、ガキンという音が響く
少女がバランスを崩した刹那、含英の長い足が蹴りを繰り出した
あ……!
蹴り飛ばされた少女は空中でバランスを取り戻し、瞬時に剣を地面に突き刺すことで地面との衝突のダメージを回避した
含英は自分では制御できない指令をなんとか抑え込もうとし、ほんの一瞬理性を取り戻した
悠悠……私を破壊して!
いいえ……私は含英姉さんを助けに来たんです。約束したでしょ、必ず一緒に生きて、一緒に九龍に戻るんだって!
「悠悠」という名に、少女は一切懐かしさを覚えなかった。それに、何のために九龍に戻ると約束したのかすら覚えていない。しかし、今となってはそれもどうでもいい……
ごめん……悠悠……姉さんが悪かったの。あなたが言うように……探し続ければ、いずれ自分の価値がわかるんだと思っていた
でも、私はただの作られた機械にすぎない。プログラムと指令に縛られるだけの、何の価値もない人形なの……
そうじゃない!そんな訳ない……
少女は持っていた剣を放り出し、震えている含英の体をギュッと力いっぱい抱きしめた
含英姉さんは無価値な存在なんかじゃありません!
姉さんの踊りが大好きなお客さんを、忘れたんですか?踊る度にみんなが拍手をしてくれたんですよ
市で助けたお友達は?彼らもいつもお礼を言いに来てたじゃありませんか
それに、姉さんがいたから阿一が直ったんです……阿一は話せないけど、きっとお姉さんに感謝しているはず
それに私を……私にもう一度命と希望を与えてくれました。私に再びこの世界を旅する機会を与えてくれました。その全部が、含英姉さんの価値です!
含英は周りの住民たちの間にいる見知った顔を見渡した。彼らは自分を励まし、喝采してくれた。他の誰でもない、「含英」という名の自分を
歳月という名の宝箱の中には彼女が大事にしまっている宝物が眠っている。全ての宝物が自らの手で自分の名を書き続けてきたものだ
まばゆくて、色鮮やか……今の私は、変わったの?
彼女は再び自分を抱きしめている少女を見た。この少女がいなければ、自分はまだ昔の夢に囚われたままだっただろう
入れ物としての私を満たしたのは、華胥様の意識ではなく……悠悠と皆と、夜航船の全てだった……
華胥……どうしてその名を。お前は一体、何者なのです?
目の前の「曲」をヴィリアーだと思っていた含英は少し驚いたようだったが、やがて寂しげに笑った
ヴィリアー様、やはりもう私をお忘れなのですね……でも構いません。では、もう一度自己紹介をいたしましょう
「枷」が再度赤く光ったが、含英はそれを歯を食いしばって我慢した。悠悠の手をそっとほどくと、彼女はゆっくり振り返り、首の「枷」を握った
私の名前は「含英」です。とても気に入っている名前です、どうか覚えておいてください
何をしてる!早くやつらを殺せ!!
「ゆりかご」という名の男は自分をおさえつけている機械体を押しのけ、もがきながら含英のアトリビュートを入力したが、含英の制御は不可能だと瞬時に悟った
なんだと!?何をした……お前は……一体何になったんだ!
まさか「枷」を破壊しようとでも?それをするとお前自身も「枷」のセキュリティ制限システムで破壊される
華胥の概念では、機械は無意味な自滅や、指令を裏切ることなどありえない。だが目の前の含英の行動は理解を超えていた――そう、人間のそれと同じように
含英姉さん……!
悠悠、知ってる?機械でも夢を見るの。私はずっと同じ夢を見続けていたけど、悠悠と出会ってからは、毎日違う夢を見るようになった
含英は少女の髪をなでずにはいられなかった。数年前のように、彼女の耳元でささやいた
楽しい夢、悲しい夢、舞台で踊る夢、星空を眺める夢……でも、一番よく見る夢はあなたの手を引いて一緒に九龍を歩く夢だった
彼女には「枷」のコントロールコードをハッキングする行為が、自分の身を滅ぼすことだとわかっている。だから、そのようなことは決して起こさせない
夢は実現しないと人々は言うけど……でも私がいなくても、強いあなたならきっといつか、私たちの思い出を載せたこの夜航船と一緒に九龍に戻れると思う
含英は悠悠を押しのけ、微笑みながら数歩下がった。全ての人から距離を取り、まるで彼女ひとりしかいない舞台の上に立ち、カーテンコールを受けているようだ
ダメ……!
私は自分が大切に思っているもの全てを守りたい。皆や、悠悠、あなたの笑顔を守りたい……だから、もう泣かないって姉さんと約束してくれる?
少女はこの夜航船で多くの涙を流してきた。だがここにある全てが彼女に無数の思い出も残してくれた。含英の宝物は、彼女にとっても同じように大切なものだ
約束します。もう泣きません……私も姉さんみたいに、ここを守ります。それから、みんなと九龍に戻ります。たとえ……
うん、悠悠ならきっとできる、約束、指きりげんまんね
ふたりの間は離れていたが、含英は笑いながら少女に向かって右手の小指を立てた。それはふたりだけの約束という意味だ
指きりげんまん、嘘ついたら……
嘘ついたら針千本飲ーます……百年間約束を守ります……
少女も右手の小指を立てたが、泣き崩れて小さな声しか出せなかった
含英はこくんと頷いた。そして、彼女が首の「枷」を力の限り引っ張った瞬間、「枷」のセキュリティ装置から流れた電流が、含英の全身を貫いた――
……華胥、どうして「ゆりかご」にコントロールされた機械体を破壊せよと命令しなかった?なぜあの構造体の少女に彼女を連れていかせたのだ?
あの機械体は極めて特殊で、私の推論では……「含英」という名の機械体が特別な価値を持つようです。特殊性を惹起するであろう対象を、側に残すのが最善と判断しました
ヴィリアーは鼻で笑い、それ以上その点を追及しなかった
つまり、お前はあの新たな構造体を僕らに仕えさせようと決めたんだな。まだ幼いが、通常の構造体をはるかに超える力を持っているようだ
彼女は龍の子「蒲牢」として、夜航船で警備を担当させるべきだと思います。そうすれば、今回のような侵蝕体の侵入を防げるかと
ああ、それでいい……なら、候補躯体として九体の龍の子が揃ったことになる
ヴィリアーは振り返って華胥に頷き、久しぶりに満足そうに微笑んだ
躯体交換の装置は完成済だ。私は再び「曲」になり、自らお前にふさわしい躯体を選ぶ……全世界の構造体がこの夜航船に集まり、我々のために続々と身を捧げてくれる
それがヴィリアー様の夢なのですか?
無論。僕らの夢じゃないか
私の……夢……私も夢を持っていいのですか……
華胥は目を閉じた。もし自分が本当に体を手に入れたなら、含英と似ているのだろうか。ヴィリアー様の横に立つ自分はどんな表情をするのだろうか、そう想像してみる……
無数のデータを集めてみたが、答えを見つけられなかった
ガァアアァ!!!
阿一が巨体を揺らしながら、大きな剣を持って少女の側にやってきた
うん、わかっています。今日は私たちが「蒲牢衆」として、市のセキュリティを担当する初日ですね
彼女はその大きな剣をひっくり返しながら眺めて、何を思ったのか部屋の隅に戻した
しばらくは使わないと思うから、持っていかなくてもいいかな。それに使う時は、手元に呼び寄せられますし
少女は鏡の前に立った。後ろに大きな「蒲」の文字が書かれており、彼女の今の身分を物語っている
含英姉さん、「悠悠」の名前はあなたと再会するまで大事にとっておきます。今日から私は「蒲牢」。この船の皆さんを守って……いずれ、必ず一緒に九龍に戻りましょう
蒲牢は自分の右手の小指を見た。まるで、含英姉さんの指がまだ絡められているかのように
じゃ阿一、出発しましょう!