真っ黒な翼を持つ侵蝕体がゆっくりと小さな丘の上に舞い降りた。月明かりの下、その姿は人々を震え上がらせた
怪我を負ったあの構造体が逃げられると思うか?
ガブリエルは、手に持っている本から目を離すことなく、ゆっくりと質問した
アナ……私の後ろに隠れて……
ロイドという構造体兵士は、足に怪我を負った構造体を自分の後ろに庇って、あえて好戦的な口調でガブリエルを挑発した
ふん、飛べるなんて卑怯だろう……それに、そちらも怪我をしているようだ
ガブリエルは本を閉じ、自分の胸を見た。彼が着ているマントに、明らかにダメージを受けて循環液が漏れた跡が残っていた
確かに、貴様は立派な戦士だな。たとえ命懸けでも、私に傷を負わせることができる構造体は稀だ。なかなかいい、でも意味ないことだ……
ガブリエルは静かにマントを引き裂いた。剥き出しになった傷口は、すでにパニシングによって修復されていた
なんてことだ……化け物め
ロイドは強張りつつもかろうじて笑みを作った。こうも強大な力を持つ侵蝕体は初めてだった。そして更に恐ろしいことに、この侵蝕体には高い知能もあるらしい
ロイドさん……私、まだ戦えます……
アナは自分の制式刀を抜いた。しかし彼女は立つことさえできず、とても戦える状態でないのは明らかだ
心配しないでいい。彼のはただのハッタリです……侵蝕体は彼だけだからたいしたことはできない。ここは私に任せて
ロイドは後ろにいるアナに、合図をしたら東の方向へ走るようにと指示した
あなたはすぐに空中庭園に戻って、司令部にこの新しい敵のことを報告してください……わかりましたか?
残念だ……人類はパニシングに直面すると、受け入れるのではなく、逃げることしか考えない……
世界を破滅させるパニシングと、手を取り合って友達になれとでも?私がなりたいのは英雄だ、お前のような化け物になるつもりなんかない!
ロイドは手元の旗槍を握ると、急に突進していった。10数mの距離が一瞬にして縮まり、すぐにガブリエルの胸の前へと立った
悪くない。ただ「不意打ち」は、機械にとっては意味がないのだ
槍先とガブリエルの鋭い爪がぶつかり、激しい火花が散った……拮抗しているようで、実際は明らかにガブリエルの方が優勢だ
アナ!
アナはロイドを見やると、歯を食いしばって東へ向かって走っていく。撤退する大部隊に合流できれば、安全なはず……
……それは、手遅れだな
瞬間、鋭い爪に力が込められ、ガブリエルはロイドを振り払った。そして、左手で鋭い杖型の刃をアナに投げつけた。アナは目を瞑り、死の飛来を待つことしかできずにいる
アナが再び目を開けた時、自分がまだ生きていることに気づいた――間一髪、ロイドが手にしていた旗槍を投げて、ガブリエルが投げた杖を跳ね返していたのだ
これは驚いた……貴様の瞬発力、判断力、正確さ……そして、救いようのない愚かさ
ガブリエルは大袈裟に手を広げて、ロイドの右肩に深く刺さった鋭い爪を引き抜いた。ロイドは口から大量の循環液を吐き出した
なおもロイドは重傷を負っているとは思えないほどのスピードで素早く後ろに跳び、距離を取りながら、アナの前に立ちはだかってみせた
戦力として使えない構造体を救うために武器を捨て、重傷まで負うとは……信じられんな。これが貴様らの「英雄」ということか?
ガブリエルの嘲笑を耳にし、ロイドも笑い出した
ハハハ……どうやらお前は嘘をついたな。機械でも、「不意打ち」はたまに効果があるようじゃないか?
それを聞き、ガブリエルは左側の翼の根元の損傷に気づいた。3枚の翼の活動能力が失われている
なるほど、その武器をふたつに分けて、片方であの構造体を助け、残りの半分で……私の翼を狙ったということか
アナはふらついたロイドの側に駆け寄って支えた。至近距離で見ると初めて、ロイドの傷の酷さがわかる
ロイドさん!なぜ……
アナ!聞いてくれ!
ロイドは乱暴にアナの話を中断した。彼は、今は迷う暇などないと痛いほどわかっているのだ
あの侵蝕体は今、飛行能力を失っている。彼を崖に引きずり込むんだ。そうすれば、足を怪我して素早く動けない君を追うことはできない
すぐに立ち上がって!走れ!私が食い止めておくから……
でもこのままだと……ロイドさんが死んでしまう……
ロイドはわざと平然とした様子で微笑んだあと、凛とした表情を浮かべた
大丈夫……彼をしばらく足止めすれば、意識伝送で離脱します。信じてください
ロイドさん……私みたいなバカでも、あなたが嘘をついていることはわかります。こんなに強い侵蝕体の前で意識伝送だなんて、リスクが大きすぎます
でも、もう他に……
いえ、まだ方法があります……
アナはロイドから離れて一歩下がると、彼に向かって優しく微笑んだ
私が意識伝送をします……ロイドさんひとりなら、きっと無事に逃げられます
そんなことは駄目だ!!!意識伝送は……
意識伝送は嘘であり、救いは存在しない――しかし、ロイドはその真実を伝えることができない。それは彼とアナの命を合わせたものよりも、重い嘘なのだ
では、ロイドさん。また戦場で会いましょうね
駄目だ!駄目だ、駄目だッ!!!
ロイドは駆け寄ってアナの手を握ったが、その手はすでに硬直し力を失っていた……アナという構造体の意識は、「意識伝送」機能によって、永遠に消えてしまっていた
おや?この構造体は自己消去を選んだか……だが、遅かったな。もう少し早くそのお荷物を捨てていれば、貴様も生き延びられたというのに
ガブリエルはゆっくりとアナの傍らに崩れ落ちたロイドの前に立ち、左手を差し出した。真っ赤なパニシングがその手の平に凝縮されている
しかし貴様には十分な素質がある。我々の新しい仲間になれるかもしれない。さぁ、昇格ネットワークの選別を受け入れるがいい……
強烈で真っ赤な閃光が更に光を強めた――そのせいで、ガブリエルはロイドが密かにアナの刀を握ったことに気づかなかった
次の瞬間、銀色の光が煌めき、ガブリエルの左手が手首から切り落とされていた
自分の判断を改めなければならないな……貴様の強さは私の想像を超えていたようだ。しかも……
ガブリエルは胸を貫かれたロイドを見て、首を振った――ロイドがガブリエルの左手を切断したと同時に、ガブリエルの鋭い爪は彼を貫いていたのだ
そのせいで……貴様を殺さなければならなかったからな
ガブリエルは真っ赤な循環液にまみれた右手で、不器用に近くに落ちていた帽子を拾い上げ、ロイドに向かって敬意を表す仕草をしてみせた
お陰で、今日は「英雄」という言葉の意味を学んだ……強い力、強固な精神、しかし心底残念だな……昇格ネットワークの力になることより、人間のために戦うことを選択したのは
……人類は、「英雄」を戴く資格などないのだ
ガブリエルは再び帽子を被り、去っていった――折悪しく雨が降り出し、ボロボロになったロイドの体を静かに濡らしていく
ごめん……アナ……私は最後まで、真実を伝える勇気がなかった……
申し訳ありません……ニコラ長官……英雄として再び空中庭園に戻ることができませんでした……
ロイドはボロボロになったポケットからノートを取り出して、強く胸に抱きしめた。自分の命よりも大切なものであるというように
将来、いつの日か「ロイド」は、英雄なんて必要ない、嘘なんて必要のない世界でこそ、生きられるのかもしれないな……
その時、彼は再び、我々と……どんな違う人生を歩むんだろう?
過去の黄金時代の劇作家のように、私たちの記録――もう秘密にしなくてもいい物語を、伝えてくれるのかも……
雨と風の音が徐々に聞こえなくなり、ノートを握りしめた手もやがて力を失っていった
もしそうなら……私たちの犠牲と嘘は、無意味じゃなくなったんだ
頼んだよ……
未来の「ロイド」