ふぅ……
瓦礫で塞がった穴の前でロランはパンパンと両手を払い、今まではウォーミングアップだという風情だった
どうして逃がしたのです?
彼らは唯一「母体」に対して直接干渉を与えた変数だ。君も見ただろ。「母体」は初めて恐怖に近い感情を生み出した
恐怖を知ってこそ、進化の正しい方向がわかるのさ
……
彼らはまだ「母体」の感知範囲から出ていない。これまでで唯一生き延びた変数が、またどんな刺激を与えるのか、見てみたくない?
貴重なサンプルだ。今殺したらもったいないよ
それに……これは余興だ。彼らがどこまで逃げられるのか見てみたいんだ。塔の中での芝居よりずっと面白いだろう?
ハイジはわずかに眉をひそめた
それは計画外の事態です
まずあの方に報告して、判断を仰ぐべきです
ロランは肩をすくめた
お好きにどうぞ
通信が繋がって、フォン·ネガットのホログラムが現れた
状況はどうです?
ロランは腕を組んでもたれかかりながら、ハイジがフォン·ネガットに報告するのを見ていた
……私の不注意で、塔内へおびき寄せた人類が、ママへ養分を提供する分離機配列を壊してしまいました
安定的なパニシング供給がなくなり、彼女はかなり弱っています
あの人類の妨害がなければ、ママは今ごろは任務を完遂していました
そうなのですか?
フォン·ネガットは突発的なこの事態に少しも怒っていない。むしろ興味深そうに眉を上げた
分離機配列の修理を試みています。最低限でも浄化塔を稼働させれば、最後までパニシングを供給できます
孵化は遅れます。それに……
このような不完全な条件では、ママの体内の「例の物」に予測できない欠陥が生じるかもしれません
大丈夫ですよ、よくやってくれました
君と君の母は、無事に任務を成し遂げた
それとロラン、感謝いたします。約束通り、あなたが欲しがっているもうひとつの物を差し上げますよ
それはどうも
空中庭園はすでに母体の位置を突き止めました。彼らが派遣した偵察構造体が来ます。全ての研究資料を持ってすぐに撤収してください
ですが……
今回も、あのグレイレイヴン小隊が作戦に参加するんですよ。消耗せずに彼らに勝てる自信があるとでも?
今は、もっと重要なことがあるでしょう
……
わかりました
いい子だ
君の母親のことは心配しなくてもいい。機は熟しました
「母体」の孵化が遅れるなら、これから来る空中庭園の軍隊を「彼女」の最後の客人にしましょう
グランドフィナーレはまもなくですよ。私と一緒に見届けましょう
通信終了
ロランと別れ、ハイジはフォン·ネガットの指示通り、地下の温室に戻った
監視塔内のモニターはハイジの指示により電源が切られた。その後ハイジは端末からメモリーを抜いた
上方にぶら下がる母体をちらっと仰ぎ見てから、彼女は暗闇の中を歩き去っていった
怪物の悲鳴がすぐ近くに聞こえる
ザックの意識はまだ混濁している。危険な青白い少女、嘘をつく謎の難民、響く悲鳴、増えていく赤い数字。目の前で赤と黒の光が点滅する……
そう、彼は浄化塔のエネルギーシステムを停止して、この塔への怪物の侵蝕を止めようとした
全力で浄化塔のエネルギーシステムを止めても、あの怪物の成長は止まらない
パニシング供給のほとんどを失った母体は一時的に混乱しているようで、赤いへその緒が狂ったようにうねっている。一部のへその緒は枯れて動かなくなっている
しかし、動けなくなったのは養分を失った異合植物だけでなく、ザックも同じだった
潰れた異合植物はザックを侵蝕し、立ち上がることを許さなかった
彼は手を上げた。袖口から広がった侵蝕のせいで服はすでに血に染まり、皮膚に貼りついている
指の間から、ザックは遠くの卵を見た
黒い外殻の隙間から見える赤い内部組織の中に、何かの影がはっきりと見えている
彼の心に不思議な感情が湧いてきた。この塔に入ってからずっと密かな視線を感じていた。誰かが混沌の中からずっと自分を見ていたのだ
視界が赤い液体に覆われた。あと少しで、あの卵の中から自分を見ていた何者かの姿が見えるのに――
――目の前が暗くなり、血の色をしていた世界が暗闇に覆われた
ここにいたんだね
その時、誰かが彼の前に立った。ザックは充血した両目を開いたが、侵蝕のせいで視神経が圧迫され、目の前の人の姿がよく見えない
惨めだ……
彼の声は笑うように軽やかだった。すでに、眼の前のこんな惨劇には慣れてしまっているというように
残念だな。君が構造体だったら……
助けられたかもしれない
お前……ロルモ……
意外だな、私がわかるのかい
仲間はもう逃げたよ
そうか……
ザックは鞄に手を突っ込み、しばらくしてから1本の血清を取り出した
もし、彼らに会ったら……これを……彼らに渡してくれ……頼む
ゴホゴホッ……彼らの補給はもう……少ない
君たちのルールでは、医療物資はコルテスが保管してたよね?
はは……3人ともそれぞれ隠し持ってたさ。誰も言わないだけで
だから……本当に離れ離れになっても、彼らは生き延びるさ
俺はもう助からない。あいつらも俺の死体から持ってけばよかったのに
私は、君を一度騙した悪役だよ?それでもまだ私を信用するの?
……お前の目的なんかわからない。だが、最後に見た……彼らを助けただろ
俺はもう助からないから……この血清は俺と一緒にここで腐るより、お前が持ってた方がまだマシだ
それに、お前が誰かも……知ったところでどうしようもない
ロランは無表情のままザックを見ていた
かつて仲間を「募集」していた時、多くの構造体がパニシングに侵蝕される前に自分に手を差し伸べ、助けてくれと求めてきた
役者のロランは、悲劇の台本を数え切れないほど読んできた。昇格者のロランは、数え切れないほどの悲しい現実を経験してきた
今回、彼と手を組んだ人間にも生に対する強烈な欲望があった。しかし彼が口にしたのは、他者を救う願いだった
同情を誘う芝居なのか?それとも死にゆく人の心は善良になるのか?
……彼らに、生きてほしいだけだ
なるべく多くの補給を手に入れ、生存できる場所を見つけてほしい。コルテスはアジサイの種を植え、それが芽吹き、花が咲くのを見るんだ
保全エリアで、彼女の娘の行方がわかるかもしれないし……
パニシングや馬鹿らしい争いのせいで流浪しなくてすむ生活……
「髭」も、無理に……笑う必要がない日々を……
目から涙をあふれさせながら、ザックは痛みに震えていた
……
彼の声は塔の轟音にかき消された
君が前に話していたあの映画
結末を知りたい?
勇敢な騎士は塔の上へたどり着いたが、秘宝など何もなかった。騎士は絶望して死んだ。これが本来のシナリオだ。だけど主演俳優は、そのシナリオに反対した
あの時の彼は甘ちゃんで、大馬鹿野郎だった。人は努力すれば、幸せを掴めると思っていたんだ
現実がすでに十分辛いものなのに、どうして人の心を打ち砕くような悲劇にする必要がある?と彼は言った
彼は監督を説得して、エンディングを変えたんだ
騎士は絶望していたが、塔にいた神が騎士の旅をずっと見ていた。彼の希望、足掻き、絶望を知り、かつて弱かった人類の心は、かくも大きな力を秘めていたのかと驚嘆したんだ
ロランは淡々と述べた。そのストーリーを熟知している口ぶりだ
神は人類に希望の火種を授け、人類の災難はやがて去ると告げた
いい……結末じゃないか……
笑えるよね?あの主演俳優は自分の運命すらコントロールできないくせに、虚構の人物の運命にこだわってさ。一体それにどんな意味があるっていうんだ?
意味……
もちろん、それらは虚構さ……だが……その諦めない精神に、確かに俺は感動した
それが……映画の存在意義じゃないか?
誰かが演じ、誰かが見れば、その登場人物が……観客の心の中で本当の生を得るんだ
あの瞬間の感情が本物なら、それが真実か嘘かなんて関係ないさ
……
全身が侵蝕され、皮膚がただれていく中で、ザックは弱々しく微笑んでいる
命の灯が消える寸前、彼は旅路で見聞きしたものを思い出した。風化したポスターの前での雑談、鞄の隙間に隠した映画のディスク、家族と映画を見たあの遠い昔の午後を
……俺がやった全ては……決して無意味じゃ……ない
彼の声は塔の轟音にかき消された
残念だ、もう少しおしゃべりをしたかったのに
ロランはしゃがみ、ザックの手の中のものを受け取った
また彼らに会えるかどうかはわからないよ。でもこの血清、君の言う通りに必ず役立てる
普段、約束をほとんどしないんだ。でも今回は信じても大丈夫だよ
……ありがとう
どういたしまして。ここにきて珍しく信用されるなんて不思議だね。皆いつも私の嘘を信じて疑わないくせに、本当の話は誰も聞きたがらないから
ザックの耳から血があふれ、彼の全身の臓器が急速に衰え始めた。もう目の前の者が何を話したかも聞こえてはいないだろう
……
それに、「僕」を覚えてくれていた「観客」への最後のサービスだ
ロランが最後の独り言を口にした瞬間、ザックは手を差し伸べたまま呼吸を止めた
歪んだ叫び声が塔のあちこちに響き、永遠に覚めない悪夢のようだ。ロランはぶら下がっている卵を見上げた
……これも、まだ見ているのか?
それには誰も答えない
スカベンジャーの体を、その悲憤に満ちた顔を、バサッと落ちたマントが覆い隠した
……Este no es nuestro final. (ここは我々の終わりではない)
安らかに眠れ、我が友
前へ進む……何があっても、前進する
コルテスと「髭」はお互いを支え合い、無限に広がっているかのような森を歩いている
背後の浄化塔は赤い光を発する植物に占拠され、空へ続く大樹と化した。彼らを導いたあの白いマークも完全に覆われ、浄化塔はまったく見えなくなった
何かが浄化塔の中で育まれ、産声を上げる瞬間を待っている
かつてふたりにとって生きる希望の象徴だった浄化塔が、いまや心の中に居座るトラウマと化した
かつて人類の生きる希望の象徴だった浄化塔は、いまや災いを育む温床と化した
森の中から人型をした怪物の叫び声が聞こえ、その絶え間ない叫び声の中にはザックの声も聞こえる
しかしザックの体はあの塔の中に永遠に残されるはずだ。やがて犠牲になった彼らの仲間の声を真似ながら、歪んだ人影が襲いかかってくるのだろう
彼らはザックの望みを、無駄にすまいとした
しかし全身の力を振り絞っても、ここまで来るのが精一杯だった
「髭」とコルテスは目を見交わして、唯一のグレネードを取り出した
――その必要はない
何かが夜空を切り裂き、「髭」の手の中に落ちた
それは1本の澄んだ血清だった
――まさか、君たちがまだ生きていたとは。驚かされたよ
ふたりに近づいてきた怪物がショットガンに吹き飛ばされ、鎖剣に巻き上げられて、森の奥へと放り投げられた
ちょうどよかった。せっかく約束したんだ。果たせなかったら寝覚めが悪いしさ
お前……
amigo(友よ)、今は私と戦うタイミングじゃない
私は君たちの命の恩人だよ
次はどこへ行くんだい?
俺たちに……行ける場所なんてあるのか?
コルテスは流血している左手を押さえている。彼は鞄を逃げる途中に失っていた
もちろんあるさ。行きたいと思えば
ロランは笑いながら、空を指さした
遠くからエンジン音が響き、暗闇に星の光が見えた
違う……あれは星ではない。森に近づきつつある輸送機だ
招かれざる客の到来を察知したかのように、後ろの巨木から咆哮が聞こえ、ガサガサと異合生物が移動する音が聞こえた。まるで獣が歯を剥いて威嚇しているようだ
しかし「星」は動じず、森林公園へとまっすぐ向かってくる
そう、本当の星のように
あれは……
空中庭園の輸送機か?
そうさ
さあ、今こそ助けを呼ぶ時だ
旅人は不毛の戦場を歩いていた
目の前は黒焦げの大地だ。見渡す限り、残骸と壊れた武器が散らばっている。砲火も悲鳴もすでに消え、ここにあるのは気が狂いそうになるほどの静けさだけだ
災厄の源はとっくにここを後にしている。燃え尽きた枯木が倒れて、地面に溜っていた赤い液体を飛び散らせた
土に染みこんでいる液体が果たして異合生物のものなのか、それとも構造体のものか、それとも人類の血なのかはもはや判別できない
旅人は識別できないほど損傷している残骸の前で立ち止まり、近くにあった汚れた血清を拾い上げた
夜空は硝煙に覆われ、霧は晴れない。月でさえ雲の後ろに隠れ、淡い銀色の光を発しているだけだ
その幻のような月明りを見ていたロランの意識海に、ぼんやりと声が響いた
遠くて冷たいが、微かに迷いを感じる声だ
あなたたちが見たいのは、どんな世界?
ロランは今まで歩いてきた焦土を、そっと振り返った
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