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All of the stories in Punishing: Gray Raven, for your reading pleasure. Will contain all the stories that can be found in the archive in-game, together with all affection stories.
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夢なき者

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<size=55><i>物語の幕開けは</i></size>

<size=55><i>一面に広がる水仙郷</i></size>

ネイティアは花の海に仰向けに身を委ね、頬をなでるそよ風に香りを感じていた

ふぅ……

ここは彼女が最も愛する場所。午後のひと時、何もない時間に身を潜めては、静寂へと心を溶かしていた

なんて優しい風……ここに来ると、春が戻ってきたような気がする

夜ご飯まで……もう少しここで……寝ちゃおうかな

彼女は目を擦り、体の力を抜く。微睡みの引力に、その身を預けようとしていた

首筋を擽る草の茎が、くすぐったくも心地よく、憂いのない安らぎに包まれていく

目が覚めたら……ママのご飯が食べられる……

前から食べたかった、ミートパイだったらいいな……

囁きながら、焼き色のついたパイの皮が瞼に浮かび、想像の中で満ち足りた微笑みが唇を緩ませた

名を呼ばれた彼女は、はっと目を見開いた。そこは白く整った病室。花の海も青空も、全て幻のように消えていた

ダメか。催眠状態には入ったが、睡眠には至っていない……

前よりは、少しでもよくなっていますか?

判断はまだ難しいです。この症例は稀で、前例がありませんから

他に何か試せることはありますか、先生……

……ママ?

ベッドに横たわる少女が恐る恐る問いかけた。その言葉に、ふたりの大人の会話が止まる

大丈夫よ、ネイティア。先生のお話では、治療のお陰で症状は少しずつよくなってるって。すぐに元気になるわ

女性は優しく身を屈めて、娘の額に滲む汗をそっと拭った

焦らなくていいの。また来てみましょう、次はきっと「夢」が見られるわ

……うん

少女は慣れた手つきで頭の装置を外し、ベッドから降りて母親と並び立った

ママ、帰ったら……ミートパイ、作ってくれる?

検査が長かったから、お腹すいちゃった

ふふ、わかったわ。ネイティアのお願いだもの

母親は少女の背を優しくさすり、小さな手を引いた

では先生、今日はこれで失礼します

いつも通り、ここに来たことは……

ご安心を。「無夢症」のことは口外しませんから

老いた白衣の男性は落ち着いた声で答えた

医学と私の職業倫理を信じてください。彼女のことを他人が知ることはありません

それに、そのつもりであれば、とっくにやってますよ

本当にありがとうございます、先生……

深く頭を下げたあと、母親は少女の手を引き、静かに田舎の小さな診療所を後にした

9月、収穫を終えたばかりの畑に雨が降り、道はぬかるんでいた。ネイティアは母の手を握りながら、足下を確かめるように慎重に歩いた

帰り道、彼女は今日病院へ来る前に学校で起こった小さな出来事を話し始めた

今日また授業中に大雨が降って、雨漏りしたんだよ。校舎の屋根からずっと「ポタポタ」って水の音がしてたの

雫が教室にも落ちてきて、頭とか机が濡れるから教科書が濡れないように全部しまってね、先生の板書だけで授業を受けたの

他愛ない話だったが、隣にいる母親はひと言も逃さずに耳を傾け、頷きながら並んで歩いた

ふたりが村の外れに建つ小さな家に戻った時、ちょうど今日の物語も終わりを迎えた

夕飯を作るから、ネイティアは裏山から薪を取ってきてちょうだい

今日は雨が降ったから、地面に落ちてる枝じゃなくて、少し遠回りでも山に登って木の枝を切ってきてね

うん、わかった!

ネイティアは戸口にあった斧を手に取り、離れたところから大きく頷いて返事をした

99……100本!よし、これで終わり!

斧を手にした少女は、手慣れた様子で最後の1本の薪を籠に投げ込み、額から落ちそうな汗を拭った

山頂から小さな村を見下ろすと、全てがとても小さく見えた。ネイティアはこの景色が好きだったが、母に言われなければ、わざわざここまで来ることは滅多になかった

あれが麦畑で、あっちは学校。それで、あれが診療所……

少女は木の切り株に腰を下ろし、幼い頃から暮らしてきた小さな村を眺めていた

あれが村を出る道。谷に沿って歩けば、次の町に着く……

……あれ?あの人たち、誰だろう?

のんびりとした声が、ふいに凍りついた。峡谷の奥を凝視する彼女の視線の先には、馬に跨り、武装した一団が村へと猛スピードで駆けていた

馬蹄の響き、はねる泥水――遠くからでも彼女はわかった。その一団は、これまで村と交易していた商隊でも、遠方の町の保安官でもない

どういうこと……?

言葉が終わらぬうちに、村の方から爆ぜるような轟音が響いた

目を凝らすと、30分ほど前まで自分がいた診療所から、黒煙がのぼっているのが見えた。誰かが村へ乱入したのは明らかだった

ママ……!

その集団の悪意に気付いた瞬間、恐怖が胸を貫いた。ネイティアは籠を投げ捨て、家へ向かって全力で駆け出した

しかし間に合わなかった。山を下り、村に戻った時――そこにあったのは砕け散った瓦礫と、道に投げ捨てられた食べ物ばかり

なぜお前の診療所に「無夢症」の記録がある?これこそ、悪魔と通じている証拠だ!

さっさと吐け、村に潜んでいる悪魔は一体誰だ!?

違う!これはただの病気だと医学も証明している!普通の人間でも患うことがあるんだ!

診療所の本も器具も乱暴に引きずり出され、年老いた医師は「証拠」を突きつけられながら、地面に押さえつけられていた

よく調べてくれ!この村で悪魔が人を傷つけた事件など一度もない!

医師はなおも必死に訴えたが、上から見下ろす「裁判官」は耳を貸さぬ様子だった

証拠があるのに、まだ悪魔を庇うのか。悔い改めぬ者は、死に値する!

ぐああっ――!

ひっ……!

岩陰に身を潜めていたネイティアは思わず声を漏らした。つい先ほどまで自分を治療してくれていた医師が、瞬く間に斬り殺され、井戸へと捨てられたのだ

(先生……!なんでこんなことに?この人たちは一体誰なの?)

ネイティアは唇を強く噛み、悲鳴が喉から漏れるのを抑えた。次は自分が井戸に投げ込まれるのではと、恐怖に凍りついた

よーく目を光らせろ!悪魔は狡猾だ。村には惑わされた狂信者もいるかもしれん。情けをかける必要はない、騙されるな!

ハッ!

規律正しい隊員たちは命令を受け、村中に散り、捜索を続けた

(ここに隠れてちゃダメ……なんとかして、見つからないように家へ……)

彼女は斧の柄を握り締め、建物の影に身を寄せ、村の地形を頼りに母の待つ家へと急いだ

運命の女神が彼女に微笑んだのか、小さな体は捕魔隊の包囲網をうまく躱して村を抜けた

赤く染まった麦畑を駆け、荒らされた診療所を越え、ついに30分ほど前に母と別れたばかりの家にたどり着いた

息を潜め、恐る恐るドアを押し開ける。物心がついて以来ずっと暮らしてきた家なのに、今は恐怖しか感じられなかった

ママ……?

勇気を振り絞って母を呼んだ。次の瞬間、慣れ親しんだ手が彼女をクローゼットに押し込んだ

ネイティア!ここに隠れて!

何があっても出てきちゃダメよ、いいわね?ママとの約束よ

慌てる母の言葉が終わらぬうちに、ふたりの男がドアを蹴破り、家に踏み込んできた

村のやつらが口を揃えて証言している。お前ら母娘は、あの悪魔狂信者の医者の診療所に、しょっちゅう出入りしているそうだな

お前のガキはどこだ!

ネイティアはクローゼットの隙間から、独眼の男が食卓のミートパイを見て、眉をひそめるのを見た

俺たちは前線で血を流しながら悪魔と戦っているというのに、お前たちはその裏で、悪魔から授かった飯を楽しんでいるとはな……

醜いもんだな、至高の御方の言う通りだ。お前ら狂信者は、骨に巣くう膿だ!

至高の御方に誓って、私たちは狂信者ではありません。私も娘も、生まれてこの方、悪魔と関わったことなどありません……

母親は必死にクローゼットの前に立ちはだかったが、すぐに独眼の男に髪を掴まれ、床に叩きつけられた

あの医者のジジイみてぇに死に際まで言い訳しやがって。お前ら狂信者は、どいつもこいつも

歯の抜けた男が短刀を抜き、床に跪いて震える母親の胸元に突きつけた

俺たちをバカにしてんのか?悪魔の手を借りずに、お前らがこんなにいいもん食えるわけねぇだろ?お前は畜生なのか?四六時中食ってなきゃ死ぬってか?

違うんです。今夜は、今夜は特別な日で……

知るか。至高の御方は教えてくださったぞ?狂信者に慈悲をかける必要はないとな

今ここでお前らを見逃せば、また別の村で悪魔の手助けをして、無知で善良な人々を惑わすだけだ

独眼の男は、隣にいる歯の抜けた男に武器を持ってくるように合図した。彼はすでに決断していた

人類を守るため、大義のためだ。お前ら狂信者を根絶やしにする――

その言葉を聞いて、ネイティアは震え上がった

(ダメ……ママを守らなきゃ。こんなところに隠れてる場合じゃない……!)

(でも、どうすればいいの?私ひとりで勝てるはずない……)

その瞬間――彼女は、はたと気付いた。自分が手に斧を握ったままだということに

(……)

正面から行っても、ふたりの大人に敵うはずなどない。不意を突くしかない――チャンスは一度きり

お前ら手分けして探せ!どこかにガキが隠れているはずだ!

今まで人を傷つけたことなどない。ネイティアは深く息を吸い、斧を高く掲げて、クローゼットの扉を蹴り開けた

この悪党め!ママを放せ――

だが、斧は空を切った

突然、抗えぬ力がネイティアの首根っこを掴み、彼女の体を床に引き倒すと、容赦なく腹を強く蹴りつけた

彼女は何が起きたかわからないままテーブルの下へ倒れ込み、手にした斧は大きな音を立てて床に落ちた

隠れていた男

ビンゴだぜ。親分の言う通り、やっぱりここに隠れていやがったか

姿を潜めていた3人目の男がクローゼットの陰から現れた。ネイティアの髪を掴んで頭を持ち上げ、テーブルの側に立つふたりの男に見せつけた

こいつが、あの医者がずっと隠してた「無夢症患者」か。綺麗な顔してるじゃねぇか。まさかこいつが悪魔の子孫とはな

ふたりとも捕らえて聖堂に連れて帰れ!裁判にかけるんだ!

やめてください!お願いです、うちの娘は本当に悪魔なんかじゃありません!

村の皆に訊いてください。私たちは村の誰も傷つけたことはありません、皆が知っています……

独眼の男は哀願を聞く気もなく、苛立たしげに母親を蹴飛ばした

黙れ。それ以上口を開いたら、すぐに至高の御方に会うことになるぞ

お願いします。どうかご慈悲を、あの子はまだ子供――

その懇願は突如断ち切られ、鋭い刃が母親の背に突き刺さった

ククク、悪魔の子孫にはこれがお似合いだぜ……

男は息を漏らしながら笑い、短刀を温かい体から引き抜くと、赤い液体が彼の手を伝った

さっきからずっとキャンキャン吠えやがって。頭がカチ割れるかと思ったぜ

お前、正気か?上からは生け捕りにしろって言われているだろ!

激昂した「親分」は彼の顔面を激しく殴りつけた。男の抜けた歯の間から血が流れる

わ、悪かった!次から気をつける!

さっさと連れて帰るぞ。これ以上余計なことをするな

おうよ

人を殺したばかりの男たちは、まるで何事もなかったかのように雑談を交わし、手短に後のことを決めた

跪いたままのネイティアの目は虚ろになり、倒れた母親の下に広がる赤色を呆然と見つめながら、掠れた声で呟いた

……どうして?

どうしてあなたたちは「正義」と「守護」の旗を掲げながら、こんなに酷いことができるの?

ママは、今まで誰も傷つけたことがないのに。どうして憶測だけで殺すの……

男たちは一瞬黙ると互いに視線を交わし、ようやくこの少女が自分たちに問いかけていることに気付いた

よく聞け。お前らが悪魔だろうが狂信者だろうが、どうでもいいんだ。俺らに必要なのは「疑わしい者をひとりも逃さなかった」という事実だ

かつて俺は情けをかけて、ある狂信者を見逃した。するとそいつは別の村に逃げ、そこのやつらを皆殺しにした

親分は任務の達成感に浸るかのように、目の前の小娘が脅威でないと判断し、悠々としゃがんで話し始めた

俺は根こそぎ断ち切らなかったことを激しく後悔している。お前らに、他人を傷つけるチャンスを与えてはならないんだ

だから俺は誓った。世界を守るために、悪魔と繋がる者をことごとく滅ぼすと!

ククク……そんなこと話しても、どうせこいつもすぐに――

その特徴的な笑い方と煽りは、そこで途切れた

一閃の赤い光とともに「親分」の首がスパっと切り落とされ、頭がごろりと床に転がった

全ては一瞬の出来事で、彼自身もネイティアの髪を掴んでいた男も反応できなかった。か弱い農家の娘は瞬時に斧を手にし、大の男の首をいとも簡単に斬り落としたのだ

クソッ……動くな!

真っ先に反応した男は銃を抜こうとしたが、間に合わなかった。ネイティアの髪を掴んでいた腕が無造作に斬り落とされる

――!

ドサッ

まるで枝から切られた薪のように、数kgの腕と切り落とされた髪が床に落ちた

ぐあぁっ!!!

そのまま胸に致命的な一撃を受け、男は命乞いをする間もなく絶命した

ヒィッ!

これを目の当たりにして、男の嘲笑は悲鳴に変わった。彼はよろめいて後ずさりし、跪き、これまでと打って変わって媚びるような笑みを浮かべた

ま、待ってくれ!俺はあいつらとは違う!

む、無理やりやらされたんだ!本当は、お前の母親だって殺したくなかった!でも、お、脅されて……言うことを聞かないと、俺の娘を殺すって!

……他人を傷つけるチャンスを与えてはならない……だっけ?

斧を握る少女は彼を見ず、ただ地面を見据え、ゆっくりと1歩1歩近付いた

大事な教訓を学べてよかった……ちゃんと守らないと

ぎゃあああああ!!!

その男の悲鳴が完全に途絶えるまで、ネイティアは斧を幾度も振るい、重い刃を彼に打ちつけ続けた

どれほどの時間だったのだろう。ほんの1分の出来事だったのか、あるいは30分にも及んだのか

疲れ果てて斧を手放した時には、夜の帳がすでに下りていた

ネイティアは長く息を吐き、3つの屍の息がなくなったのを確認すると、静かに床に倒れた母親のもとへ歩み寄り、跪いた

ママ……私のせいで、ごめんなさい

私にもっと勇気があれば、こんなことにならなかったのに……

彼女は嗚咽を漏らし、大粒の涙が血に濡れた床に落ち続けた

少女は命綱を握るかのように、まだ温もりの残る母の手を必死に掴み、永遠に失われようとするその温かさを感じようとした

これから……私はどうすればいいの?

……ネ、イティア……

ネイティアの耳に届いた声はか細かったが、馴染みのある温かい声だった

ママ!?

彼女は歓喜とともに母親を抱き起こしたが、その体は目を開けることはできても、もはや生きる力を失っていた

ネイティア……あいつらの言葉を信じちゃダメ……あなたは悪魔なんかじゃない……

血に染まった震える指がネイティアの頬に添えられたが、すぐに力なく滑り落ちた。ネイティアの頬に、流れる涙のような血の跡を残して

知ってたわ……あなたは気にしない振りをしてるけど……本当は夢を見る人を羨ましく思ってること……

でも……「夢を見られない」ことは、あなたの罪じゃない……あなたは優しい子……

あなたは……素直で優しい心を持ってる……それこそが……悪魔じゃない証拠……

ママ……

臨終の母の言葉は、彼女の胸に温かく切ない感情を湧き上がらせた

ママ、私はどうすればいい?どうすれば、私の心が本物だって伝えられる?

あなたは……あなたのままでいればいい……

母親は精一杯の力で、最後の微笑みを浮かべた

覚えてる?小さい頃に話した……伝説……

「全ての優しい魂は……最後に水仙郷に戻り……愛する人と再会する」……

これは、お別れじゃない……あそこで待ってるわ……ネイティア……その日まで幸せに……生きて……ママとの約束……ね……

ママ……?

彼女は信じられず、何度も母親の体を揺すったが、閉じた瞳が二度と開くことはなかった

ママ……!ママ!!!

裁判官

罪人、ネイティアへの判決を述べる。捕魔隊数名を殺害した罪により、地獄での永劫の苦刑に処す。再び人として転生することは許されぬ!

鐘のように響く槌音とともに、ネイティアの魂は果てのない深い闇へと落ち、幾千にも及ぶ広大な牢獄に閉じ込められた

彼女の魂は人間の資格を失い、裁判所の名の下に「悪魔」という枷をはめられた

ネイティアは冷たい川の水に浸かり、ぱちりと目を開けると、果てしない赤が天を覆っているのを見た

そこには空も雲も、花も緑もなかった

岸辺に立つ悪魔

おい、起きろ。そんなところに寝てたら邪魔だ!

彼女は見知らぬ悪魔にぐいと引かれ、何が何だかわからぬまま岸に上げられた

ふむ……ネイティア、複数人を殺害、判決は悪魔……おお、なかなかやるな。弱そうな小娘なのに、いい根性をしている!

悪魔は「渡し守」から渡された判決文を読み、彼女の人生をあっさりと1行でまとめてしまった

あの……私はどこへ行けば……

どこにも行く必要はない。地獄に来たんだから、何をするのもお前の自由だ

岸辺に立つ悪魔は手にしている櫂を弄びながら、無造作にアケローン川から「胎児」を掬い上げ続けている

ただひとつ、地上に戻ることは考えるな

ここへ来たからには、二度と太陽を見ることはない。どんな信仰を持っていようと、至高の御方とも教会ともさよならだ

ネイティアは無垢なまま地獄を彷徨った。しかしどこへ行っても、他の悪魔たちから異端児のように疎まれた

というのも、地獄では生前の罪や長年の悪夢を語り合うのが悪魔同士の礼儀だったが、ネイティアにはそのどちらもなかったからだ

ハハハ!つまり君は、生きている間は夢を見ることができず、悪魔と疑われるのが怖くて、毎朝「夢を見た」と嘘をついていたのか?

そんなことがあるとは……面白い。もしかしたら、君は生まれつき「悪魔の子孫」なのかもな。地上でも魔除けは必要ないってわけだ

騒がしいバーで、ネイティアの告白はまたしても客たちの笑いの種となり、屋根裏にまで笑い声が響いた

彼女は恥ずかしくなり、心の中で何度目かの後悔をした。仕事のためと割り切って、次は適当に猟奇的な話をでっちあげた方がいいかもしれない

マスター、私の誠意を信じていただけましたか?どうか、私にチャンスを……

ネイティアの言葉は、より低く、重みのある声に遮られた

俺の領地に、誠実しか能のない役立たずは要らん。神父にでも懺悔しに行け

もっとも、教会に足を踏み入れた瞬間、天使に頭を吹き飛ばされるだろうがな

ハ、ハルファス領主様!

先ほどまで笑っていたマスターは、その客人をひと目見るなり、たちまち笑顔を引っ込めた

もちろん、全てあなた様のご意向のままに。この娘、どう処分いたしましょう?

ネイティアは半ば怯え、半ば懇願するような眼差しで、白いマスクをつけた大柄な悪魔を見た。地獄においては領主こそがこの地の法であり、その意志は絶対だ

彼は一瞬の迷いも見せず、燃え尽きた煙草の灰を払うように、彼女に冷たい目線を投げた

目障りな

お前の過去などどうでもいい。その腑抜けた姿に、吐き気がする

領地のゴミだ、放り出せ

きゃっ――!

ネイティアが悲鳴を上げた。ハルファスの黙認の下、酒瓶を持った手下たちが周囲を取り囲み、邪悪な笑みを浮かべながらネイティアの頭を殴りつけた

手下たち

失せろ!二度と顔を見せるな!

ゴンッ――!後頭部に激痛が走り、ネイティアは手下たちに領土の外へと追いやられた

地獄は苦悩が尽きないが、数少ない利点のひとつが、物を放り出すのに自ら手を汚す必要がないことだ。領主が指を鳴らせばたちまち「追放」となる

惨めな姿で放り出されたネイティアは、額に流れる血を拭うと、森の中でゆっくりと立ち上がった

ハルファスの領地にも……私の居場所はなかった

じゃあ、私はどこへ行けばいいの……

カカカカ!自分の姿を見てみろ小娘、どこが悪魔だ!

しわがれた高い笑い声が木の上から響いた。ネイティアが見上げると、夜の闇の中、鳥の黒い影が枯れ枝にとまっていた

地獄の掟は弱肉強食。誰にでも尻尾を振るやつが、どうやって敬意を得る?

地上に戻って天使に頭を食いちぎられたら、その哀れな頭も少しは冴えるかもしれんな!

初対面のワタリガラスの毒舌は一向に止まる気配がない。そんな時、ネイティアはふとあることに気付いた

……あなたは、ハルファスの領地での出来事を知ってるの?

カァ?何をたわけたことを。ワシは「千里眼」のモリガン様だぞ。このちっぽけな地獄で、見逃すものなんてあると思うか?

モリガンと名乗るワタリガラスの悪魔は、誇らしげに翼を広げてみせた

かつてはワシも立派な悪魔の領主だった。でも、ハルファスのハト野郎……あいつが罠にはめやがって、この森に閉じ込められたんだ

それ以来ワシは毎日ここで、あいつと因縁がありそうなやつを見張っていたのさ

そう言うとモリガンは羽ばたいて降り立ち、ためらいなくネイティアの頭にとまった

あんたの記録を読んだ。一気に何人も殺すなんて、なかなかできることじゃない。やつらはあんたを見下してるが、ワシにはわかる。あんたは生まれついての復讐者だ

こんなクソみたいな世界で、生き延びるには手段がいる……あんたを見下したやつらを見返してやりたくはないか?

……あなたは私に何を望んでいるの?

さあ、何だろうな?あんたには驚異的な力があるか?歴史に残る名声があるのか?そんなものないだろ。ワシが気に入ったのは、あんたの「何もないところ」だ

ワシはハルファスを倒したい。あのハト野郎に警戒されずに近付けるのは、あんたみたいな小物だけだ

でも、もし私が失敗したらあなたは私を見捨てるでしょう。私はただの使い捨ての駒だから

少女の不満そうな訴えに、モリガンは腹の底から笑い声を響かせた

当然だろ!それが悪魔の流儀だ。黙って慈悲を待つより、利益を示して互いを利用し合う。それが真の取引ってもんだ

それが嫌なら一生この世界の隅っこで、酒瓶で頭を殴られているんだな!

そうだ、ひとつだけ保証してやろう。あんたが同意すれば……この地獄で、誰にもワシらを踏みにじることはできなくなる

……

一瞬の間に、無数の記憶がネイティアの脳裏をよぎった

幼き日、夢を創作し続けた日々。冷たい母親の体を腕に抱いた夜。審判の天秤が彼女に下した罪の重み……全ての光景が彼女の目の前に現れた

過去の選択の全てが冷たい縄となって、彼女の首を締めつけてくる

……私は、本物の「悪魔」になれる?

その問いは、彼女自身に向けられたものだった

それを決めるのはあんた自身だ。ワシはあんたを理想の姿に導くだけだ

……いいわ

少女は覚悟を定め、ワタリガラスを懐に抱きしめた

モリガン……教えて。あなたの力をどう使えばいいのか、そして、使うべき道を

私は弱さを捨てる。そして、新しく生まれ変わる

――いいぞ。よく言った

その瞬間、ワタリガラスの体から爆ぜるように眩い炎が噴き出した。それは体を焦がす熱ではなく、彼女の胸の空白を満たすような、穏やかな温もりだった

これはワシからの贈り物だ。悪魔には心臓なんてない。だが、その胸の空洞は魔力を宿す器にちょうどいいんだ

それは流星のように彼女の手の平で燃え盛ると、闇夜を照らした

ネイティアが目を凝らすと、白い肌の上に黒い蔦のような紋章が現れ、内から芽吹いた種が枝を伸ばしていくように見えた

モリガン、これは……?

未知の力に彼女は恐怖を感じていた。しかし、もう後戻りはできない

怖がらなくていい、こんなもんはただの魔法陣だ。すぐに終わる。醜い痕が残ることもないしな

だが「侵蝕」は止まらなかった。ネイティアの体は「真の悪魔」へと姿を変えていく

忘れるな。この瞬間こそが「悪魔の領主」の始まりなんだ

その声は静かながら、ネイティアの魂に深く突き刺さり、重たく響いた

モリガン

ネイティア、あんたはワシの力で真の悪魔となる。それは、永遠の苦痛を進む道だ

この先には永遠の苦しみ、尽きることのない悪意のみがある

ワシはあんたを永遠に呪うだろう。その呪いの中であんたは何度も痛みを超え、運命の試練を乗り越える――

あんたは最終的に自ら冠を戴き、苦難そのものとなる

ハルファスの領地にて――

数カ月後

数カ月後 ハルファスの領地にて――

絶え間ない喧騒が満ちるバーには、今日も悪魔たちの笑い声が響き、酒と欲望が惜しみなく注がれていた

その奥では領主ハルファスが椅子に深く腰を下ろし、手下たちが持ち寄った魂を黙々と数えていた

99……100

最後の「魂の瓶」を木箱に投げ込んだ。その手つきには命の重さも、ためらいも感じられない。まるでただ薪を投げるかのように無造作な仕草だった

目標の達成を確認すると、彼は両腕を振り上げて叫んだ

同胞たちよ、喜べ!聖堂は我らに、生死の法則に逆らって魂を刈ることを禁じた。だが、俺はその鉄の掟を欺く道を見つけたぞ

人間界に送り込んだ「悪魔狂信者」どもが役目を果たしてくれた。やつらは姿を偽り、災厄を撒き散らす。もはや我らの手を汚さずとも、人間たちは我らの家畜となる!

さすがはハルファス様、万歳!!!

最高だ!そうでなくっちゃ、もう何世紀も新鮮な魂を味わってねぇんだ。喉が干からびちまってるぜ!

食わせてくれ!食わせてくれ、ハルファス様!「瓶詰めの魂」を、俺らにも!

喜びに湧き立つ悪魔たちは、自らの選んだ領主の英断を大声で讃え、歓声を上げながら立ち上がった

数千年、いや数万年。我ら悪魔は至高の御方が定めた掟に縛られてきた。だが今日、ついに反撃の刻が来た!

人間の中に仕込んだ偽の信徒のお陰で、天使どもは我らの存在を暴くこともできまい。信仰が徐々に蝕まれ、人間界はいずれ我らの狩場となるのだ

このハルファス、我が名にかけて誓おう!悪魔の領主として、我らにふさわしい全てを勝ち取ってみせる――

ふふ、悪魔の領主が聞いて呆れますね。いつから手下を欺くことしかできなくなったのでしょう?

バーの扉がゆっくりと開いた。風雪をまとい、ネイティアが静かに入ってきた

なんだてめぇ?ハルファス様に楯突くなんて――

悪魔の手下の言葉が終わる前に、その頭部が見えざる強大な圧に潰される。熟れすぎたトマトのように弾け、真紅の鮮血が壁一面に飛び散った

――!!

これで静かになった。お話の続きをどうぞ、ハルファス様

驚愕する悪魔たちをよそに、ネイティアは腕をゆっくりと下ろし、ハルファスの方へと歩を進めた

どこのガキだ?俺の領土で騒ぎを起こすとは、命が惜しくないんだな?

数カ月しか経っていないのに、もうお忘れですか?

少女は肩の雪を払うと、「端正で厳かな」微笑みを浮かべた

私はネイティア。あなた方に恐るべき真実を告げに来ました。ハルファスが言う「人間の手を借りて魂を刈る」という行い、……それはまったくの嘘です

彼の真の狙いは聖堂と結託して「悪魔が法を破った」という証拠を捏造し、聖堂が地獄へ侵攻する口実を作り上げること!全ては「死の王」を殺すための策略です!

その言葉に、悪魔たちは一斉にどよめいた

マジかよ……天界と戦争だって?……俺はそんなのゴメンだ……

ちょっと待て。あいつ、この前俺たちが追い出した小娘じゃ……

彼らは気付いた。目の前の少女は、数カ月前に無様にバーから追い出された「ネイティア」だ。僅かな間に、彼女は「上級悪魔」となって戻ってきたのだ

彼女は恐らく、非凡な資質を持つだけでなく、別の悪魔の領主に見込まれたのだろう。その領主はハルファスの悪行を知った上で、彼女を実行者として送り込んだはず――

だとすればこの告発には、到底無視できない重みがある

ほう?誰の差し金か知らんが、目が眩むような報酬でも積まれたか

だがな、「槍に操られた駒の命は短い」という言葉を聞いたことはないか?

ネイティアが明らかに周到な準備を整え、自分を失墜させるためにここへ来たことを悟り、ハルファスは告発を真正面から受け止めた

地獄の掟は知っているな?もしお前が俺に敗れ、誰もお前を助けなければ……

俺がお前の魂を喰らう

答えろ、小娘。お前は「真理の口」の試練を受ける覚悟があるか?

恐れる理由はありません。私は、あなたの卑劣な嘘を暴くだけ

領主が格下の悪魔に敗れたら、相手の願いをひとつ叶えるのが地獄の掟……ハルファス、あなたにその覚悟は?

望むところだ

それでは「ガルム」を召喚しなさい。この審判、死の王の使い魔に見届けさせましょう!

「真理の口」とは死の王が作り出した、悪魔の領主のみが使用できる魔法陣だ。召喚された「ガルム」は舌で嘘の味を見抜き、虚言を吐く者の腕を丸ごと食いちぎる

悪魔たちが固唾を飲んで見守る中、ハルファスは「真理の口」を召喚した。ネイティアが自らの腕を魔犬の口の中に差し入れ、厳かな儀式が今、始まった

欺く者がどちらであろうと、今日、ひとりの悪魔が地獄での座を失う

小娘、先ほどの戯言を繰り返せ

カァ……誓います。これから私が語るのは、全て真実です

銀髪の少女は腕を魔犬の牙の間に置きながら、高らかに宣言した

私は生前、一家全員を獣にも劣る者たちに殺されました。その場で仇を討った私は、愚かな裁判官たちによって地獄へ落とされました

家族を殺した黒幕が誰であっても、私はあの畜生どもも、その裁きを下した者も、聖堂も、永遠に呪い続けます

だからこれから行う証言に、聖堂を庇うつもりも人間界への未練も一切ない

彼女のこの言葉に、多くの悪魔は無言で肯首した。彼らのほとんどは望まずして悪魔となった者で、聖堂の裁きを正当だとは見ていなかったからだ

第一の証言を終えると「ネイティア」は咳払いし、核心を語り始めた

数年前、ある小さな村に捕魔隊の連中が押し入り、村を屍の山と血の海に変えた

母を殺した者たちを殺し、極刑に処された私は地獄に落とされた

母に手をかけたやつらはこう言った……「お前らが悪魔だろうが狂信者だろうが、どうでもいい。どうせ死人に口なしだ」

かつてはその言葉の意味がわからなかったが、今ならわかる

全てはハルファスの陰謀だった。彼は天使と結託し、「悪魔が法を破る」と偽証し、地獄へ攻め込む口実を与えたかったのだ!

ふざけた妄言だ!「ガルム」、こんな根拠のない推測に耳を貸す暇はない。こいつの腕を嚙みちぎってやれ!

「証言」を聞き、怒りで顔を紅潮させたハルファスは大声で叫んだが、死の王の愛獣は悠然とあくびをしただけで、それ以上動こうとしなかった

その沈黙は、ネイティアの証言を認めたも同然だった

ありえん!あからさまなでっちあげだ!幼稚な嘘をつきやがって……「ガルム」、なぜ動かない!?

苛立った彼は魔犬に向かって怒鳴り散らしたが、死の王の愛獣はやはり微動だにしなかった

遅れてやってきた危機感が、彼の全身をじわじわと包む。皆の視線が注がれる中、ハルファスはやっと気付いた。「真理の口」を召喚することこそが、ネイティアの目的だったのだ

以上で証言を終えます。「ガルム」は私の言葉が真実であると証明してくれましたね

少女はゆっくりと魔犬の口から腕を抜いた。その白く滑らかな手には傷ひとつなく、まるで自身の潔白を証明するかのようだった

周囲を取り囲む悪魔たちは、ハルファスに疑惑の視線を投げかけ始めた。言葉こそないが、その眼差しには明らかな動揺と審判の気配が満ちている

ハルファス、次はあなたの番。さあ、「真理の口」に腕を置いて言ってください……

「私は悪魔狂信者の組織化によって一切の利益を得ておらず、全ては悪魔たちと地獄のために行ったこと」

そう「真理の口」に向かって言うだけでいい。簡単でしょう?

…………

しかしハルファスはいつまで経っても口を開かなかった。その異様な沈黙が、不安という名の霧を広げてゆく

おい……言わないのか?

みたいだな……さすがにボスが聖堂と裏で繋がってるとは思わねぇけど……あの小娘の話だと「人間の中に仕込んだ偽の信徒」には、別の目的があるってことだろ?

じゃあ、あのもっともらしい理屈は一体なんだったんだ?「鉄の掟を欺くため」とかよ……

ハルファスが「真理の口」で証言できるはずはなかった。金庫に眠る金貨の山と木箱いっぱいの「瓶詰めの魂」こそが、悪魔狂信者を仕立てた真の目的だからだ

「悪魔狂信者」というお題目を立て、「瓶詰め魂」を下級悪魔に分け与えたのも、自らの存在をカモフラージュするための工作に他ならなかった

彼は読み違えた。目の前の小娘が、真偽半ばの言葉で「真理の口」を欺くことができるとは、まさか思ってもいなかったのだ

彼は自らの配下たちの前で、完膚なきまでに敗れ去った

俺の負けだ、小娘……地獄の掟は守る

それでも僅かに残った誇りを守るために、ハルファスは自分の手を「真理の口」に差し入れた

自らの傲慢さが俺の敗因だ。欲望に囚われた俺は、独善的な邪道を歩んでしまった。だが、死の王に誓う。俺は地獄への反逆など決して考えていない

「ガルム」の両目が微かに輝いた。この欲望に溺れた悪魔の領主が捧げた最後の懺悔を、刮目して見届けている

さあ、言ってみろ。お前の願いは何だ?

……

よし。このルーンを使えば、どんなに距離があってもワシがあんたの声を借りて話せる

これは1度きりしか使えない古代の秘術なんだ。うっかり発動するなよ!

私の声を借りて話す?よくわからないけど……何の役に立つの?

彼女は自分の手の平に刻まれた「醜い」黒い紋章を見つめながら、困惑した表情で質問した。モリガンは彼女に「正気か?」とでも言いたげな視線を返した

おい、まさか大図書館に行ったことがないのか?たかが数世紀で、もう誰も「真理の口」の伝説を知らないのか?

いや、それでいいか。誰もこの秘術の存在を知らないなら、それだけ安全ってことだ

とにかく質問は後だ。ついてこい、これから数カ月であんたを「大悪魔」に育て上げてやる

華奢な少女は手についた唾液を静かに拭いながら、敗れ去った悪魔の領主に、哀れみの眼差しを向けた

あなたの手下たちを連れて、立ち去りなさい。そして、アケローン川の波音が届かぬ辺境を彷徨い続けなさい

彼女はすっと人差し指を伸ばし、血に染まる天蓋の彼方を指し示した

二度と私の前に現れないで……次は領主の座も、その命も失うことになる

その夜から、長い年月がすぎ去った。ネイティアは小さな悪魔から、その名を轟かせる大魔女へと成長していた

彼女は人間だった頃の全てを捨て、心臓をも失い、代わりに多くの悪魔に敬われる万魔の王となった

地獄の民がネイティアを語る時、皆は怯えた瞳で彼女をこう呼んだ――「生まれながらの悪魔」「夢を持たぬ魔女」と

ネイティアはその呼び名を拒むことなく、むしろそれを自らの冠として受け入れた

災変の前年、焔星月4日。明月が空高く輝く中、魂の狩人であるネイティアは長い鎌を手に、1枚のガラス窓の前に長い間立ち尽くしていた

その向こう側には、ひとりの人間が静かに眠っている

その人間は、本来であれば彼女が刈り取るべき対象だった。いつものように夢へと忍び寄り、魂を持ち去るはずだったのだ

人間の夢は十人十色。だがそのどれもが、欲望や執念に結びついている。夢の中で信念を砕けば、人は自らの意思で魂を悪魔に差し出すしかない

だが今回、ネイティアは死の王から与えられた任務をどうしても果たせなかった

グレイレイヴン……鋼鉄軍団の統帥

彼女はためらいながらも、驚きを帯びた声でその名を口にした

なぜ……あなたの夢は一面の花畑なの?

彼女が人間の夢の中で見たのは、かつて母親が幾度となく語ってくれた、あの風景だった

その夢の中では草が芽吹き、鳥がさえずり、花々は咲き乱れ、枝葉が風に揺れていた

人間の影はただひとり遠くに立って、遥か彼方を見つめている

……

彼女はその人その人に声をかけようと、1歩前へ踏み出した。その瞬間に心が揺れ、それ以上動けなくなった

一体、何を話せばいいのだろう?

彼女はこの人間を「理解」したことなど1度もなかった。ましてや、自分はどんな存在として語りかければよいのだろう

彼女は踵を返し、夢の中に足を踏み入れた時と同じように、静かにその場を去った

夢を見たことがなかった少女は、ある人間の夢の中に、自らが幾度も紡いできた「嘘の光景」を見出した。その瞬間、彼女の中に「生まれてはならない疑問」が芽生えた

もし私が……あなたみたいな「人間」になれたら……

私も、あの景色を夢に見ることができる?

悪魔の肉体を持つ少女に、再び「人間に戻りたい」という思いが芽生えた。彼女は鎌を置き、指先でガラス窓にそっと触れながら、その向こうで眠る人間に向けて静かに呟いた

あなたのような「人間」に、なってみせる

グレイレイヴン……これから私は、あなたの全てを真似して生きるわ

そうすれば、きっといつか……同じ夢の中で、あなたと出会えるかもしれない