上層 闘技場
エヴリットコロシアム
エヴリットコロシアム、上層、闘技場
試合のシーズンはもう半分を終えていたが、今夜の闘技場の雰囲気は今までのどの日よりも熱狂的だった。皆、「彼女」が登場するこの試合を待ち望んでいたのだ
観客たちは「ヴェロニカ」の名前を口々に叫び、手にランスを携え長い尾を引きずって、通路から闘技場へと姿を現した機械体を興奮した様子で見つめている
しかし闘技場の中央の地面から、機械巨獣を閉じ込めたいつもの八角形の鉄の檻はせり上がらない。代わりに、反対側の通路ゲートが轟然と開いた
武器を持った機械体が暗闇から姿を現し、強烈なスポットライトの光の輪の中に立った。それは不気味な機械獣ではなく、ヴェロニカと同じ、人型の機械体だった
観客の皆様、今夜の対戦メンバーはこちら――ヴェロニカVS「ウインチ」!この血沸き肉躍る大興奮の試合をご覧ください!
やっぱり……こんなやり方で仕向けたのか
機械体はやや重い足取りでヴェロニカに近付くと、視覚モジュールで目の前の「対戦相手」をスキャンした
勝率の分析演算を始めます
対戦相手、CTX-V機能強化型。コードネーム「ヴェロニカ」。本機体の「ヴェロニカ」との対戦の勝率は、演算の結果、0.0032%
「ウインチ」の電子合成音声とともに、例の八角形の檻が地面からせり上がり、ふたりの機械体を中に閉じ込めた。同時に戦闘開始を告げるブザーが闘技場に響き渡る
観客たちの感情はこの瞬間に燃え上がり、暴虐な光景への渇望が歓声の波となって、場内を席捲していた
行け、ヴェロニカ!手加減するなよ!
そうだ!俺らはお前の勝ちに賭けてんだ!
本機体の「ヴェロニカ」との対戦の勝率、0.0032%
勝利を掴み、次の試合に進み、自由を手に
「ウインチ」は攻撃態勢をとり、武器を振り回しながらヴェロニカに突進してきた
この狭い鉄の檻こそが戦いの「舞台」となる。勝者は歓声に迎えられ――敗者を迎えるのは裁かれる運命。それだけだ
「ウインチ」の行動ロジックと機体感度は非常に古く、これまでに倒した数多の機械巨獣にも遥かに劣っていた。彼は「攻撃モード」に従ってひたすら襲いかかるだけなのだ
ヴェロニカは、あまりにも戦力の差がありすぎる自分が反撃すれば、相手はひとたまりもなく鉄屑と化すことを、よくわかっていた
しかし彼女は自分の「同胞」に、こんなことをしたくはなかった。たとえこれが彼女が生き残り、次の試合に進むための唯一の道だったとしても
やめるんだ
お前に手を出すつもりはない
勝利を掴み、次の試合に進み、自由を手に
しかし機械体は同じ行動パターンを繰り返すだけで、ヴェロニカの呼びかけに何の反応も示さない
……
まだわからないのか?お前にはもともと勝ち目がない
ターゲットをロックオン、攻撃
機械体は更に一歩近付き、振り下ろされた武器がヴェロニカの機体を掠めた
お前は自分が何をしているのか、本当にわからないのか!?
このままじゃ、お前は私に殺されるだけだ……
あいつら……あの人間たちは、ただ私たち機械体同士が殺し合うシーンを見たいだけだ!
ターゲットからの反撃なし、引き続き攻撃
完全にロジックエラーに陥った同胞を相手に、ヴェロニカも我慢の限界だった
彼女のランスが空中で放物線を描き、その後に地面への激しい落下音が響く
彼女は「同胞」と殺し合いをするつもりなど、まったくなかった
もうたくさんだ!武器を下ろせと言っている!
対戦局面分析中、「ヴェロニカ」、攻撃武器を喪失。本機体の「ヴェロニカ」との対戦の勝率、0.089%
「ウインチ」の行動にためらいはなく、再びヴェロニカに重い一撃を仕掛けた
ヴェロニカはすでに檻の鉄壁に追い詰められ、後がない――相手の攻勢を受け止められるのはこの体だけだ
武器が機体を切り裂いた音が消えたあとに聞こえたのは、循環液が地面に滴る微かな音だった
ヴェロニカの胸から腹にかけて斜めに裂け目が走っていた。内部のパーツがむきだしになり、循環液が体を伝って地面にポタポタと滴り落ちている
……
対戦局面分析中、「ヴェロニカ」、機体損傷。本機体の「ヴェロニカ」との対戦の勝率、0.127%
出力を上げ、攻撃を、続ける
勝利を掴み、次の試合に進み、自由を手に
いい加減にしろ!手を引け!
お前がすべきことは――私と一緒に、外の人間たちに抗うことだ!
しかしヴェロニカに答えたのは、「ウインチ」の更なる襲撃だけだった。彼は全てのエネルギーをこの一撃に込め、全力で攻撃した
その瞬間、「ウインチ」の機体から金属が歪む耳障りな音が響いた
再起動……再起動……再起動……
「ウインチ」の行動が一瞬遅れ、そのまま動きが止まった。だが何度か体を震わせたあと、彼はまた高速攻撃モードに戻った
しかしこの再起動後の渾身の一撃は空振りだった。武器は金属の檻に叩きつけられ、火花を飛び散らせながら、鉄の檻の隙間に挟まった
フルパワーで蓄積したエネルギーのせいで、重い機械体は自分の行動を制御できなくなってしまった。彼はそのままスピードを一切落とさず、突進した
制止できない機体は自らの武器に貫かれ、巨大な傷口から循環液が勢いよく噴き出した
勝利を……掴み、次の試合に……進み、自由を手に……
……勝利を……試合……自由……
……勝利……自由……自由……
機体の傷によって「ウインチ」の言語ロジックは破壊され、混乱した。言葉を意味なく繰り返してばかりいる
ギッ――ギッ――ギギィ――
それは「ウインチ」が1歩ずつ後ずさりながら、自分の体を貫いた武器を無理やり引き抜く音だった
……勝利……自由……自由……
ヴェロニカ……殺す……勝利……自由……
彼は残された「攻撃」の行動ロジックのままに、酷く損傷した機体をヴェロニカに向け、再び武器を振り上げた
それ以上は無理だ……
「ウインチ」の機体はロジックの乱れによって過負荷状態となり、目には狂気を帯びた赤い光を点滅させていた。攻撃の度に機体がきしみ、耳障りな金属の摩擦音が響く
もはやどうすることもできず、ヴェロニカはランスを再び握りしめた
激しく振り回されるランスとともに、八角形の檻が轟音を立てて崩壊した。狂気にかられた機械体はこの瞬間、巨大な気流に吹き飛ばされ、地面に激しく叩きつけられた
彼の頭部と体の間のパーツはすでに壊れ、配線からはパチパチと火花が飛び散っていたが、いまだに無意味な言葉を繰り返していた
ヴェロニカ……殺す……勝利……自由……
いいぞ――!彼女が勝った!勝ったぞ!
殺せ!用なしの機械を――殺せ!
長い膠着状態の対戦にようやく転機が訪れ、観客たちの喝采の声がうねるように沸き上がった
彼らは叫びながら、試合で最も盛り上がる「処刑の瞬間」――勝者が高々と武器を掲げ、敗者の体を完全に粉砕する瞬間――を待ち望んでいた
今この時、ぐにゃりと歪んで変形した機械剣闘士は、人間の目には、徹底的に壊されて彼らを喜ばせるただの「道具」として映っている
――しかし勝利したヴェロニカはただ静かに立ち尽くしたままで、闘技場のルール通りに「処刑の瞬間」を演じなかった
観客たちの不満と怒りが怒涛のごとく、彼女に向けられた
ビビッてんのか?早くとどめを刺せよ!
おい!オナガ鉄ザル、ぼーっとしてんじゃねえぞ!?
……
背後に威圧を感じて振り向いた彼女の目に、場外の暗闇に静かに佇む巨大な「ワーデン」の姿が映った。その姿は機械剣闘士の運命を左右する死神そのものだ
これまでのどの試合でも、人間に仕えるこの「機械の裏切り者」は、いつもそこに現れ、闘技場の全データを観測し、記録していた
彼はいつも試合後にプレス装置を操作し、敗者を無慈悲に「処刑」することをヴェロニカは知っていた。それは彼女の意識モジュールから永遠に消えることのない「悪夢」だ
命令の実行を、ヴェロニカ
……
彼女はのろのろとランスを持ち上げ、その切っ先を足下に倒れている機械体のエネルギーコア――「同胞」の心臓――に向けた
早くやっちまえ!その役立たずを粉々にしてやれ!
……勝利……自由……自由……
機械体の目の光は徐々に暗くなりつつあるが、いまだに切れ切れの言葉を何度も繰り返している
その暗く光る視覚モジュールに恐怖や命乞いの色はない。空洞のような目には、プログラムで規定された「勝利すなわち自由」というシンプルな思考だけが浮かんでいた
死ねッ――!
観客の大歓声とともに、ランスが空気を切り裂く鋭い音がした。巨大な金属音と巻き上げられた土煙が、観客の叫び声を強引に静まり返らせた
しかしランスが貫いたのは機械体の体ではなく、すぐ側の地面だった
やり場のない怒りを爆発させたあと、ヴェロニカは黙々とランスを収め、場外に向かって歩き出した。その瞬間、彼女の背後で爆発するように観客の怒号が飛び交った
【規制音】!何してんだ!
もしかしてあのクソオナガ鉄ザル野郎、壊れやがったのか!?
この試合、有効かよ!?俺は今シーズン、全財産をあの【規制音】女に賭けたんだぞ!無効になれば、クソッタレ、全部パーってことかよ!?
背後から聞こえる汚い言葉を歯牙にもかけず、ヴェロニカは落ち着いた足取りで歩いていた。だが、その歩みは巨大な体に阻まれた
CTX-V機能強化型、コードネーム「ヴェロニカ」。先ほどの行動はコロシアムのルールに厳重に抵触します
これより懲戒プログラムを実行
裏切り者、私の前でくだらないことを言うな――
ヴェロニカがそう言い終わる前に、首元の拘束ネックリングから高圧電流が流れ、痛みが彼女の機体を貫いた。彼女はコントロールを失い、たまらず膝をついた
……!
1度目は警告です。次回は殺します
激しい痛みに襲われたが、ヴェロニカは降参しなかった。彼女は猛然と顔を上げ、赤い瞳で目の前にいる「ワーデン」を睨みつけた
この……愚か者め!
ターゲットに反抗行為を検知。懲戒プログラムをアップグレード
「ワーデン」の視覚分析システムの中で、コードネーム「ヴェロニカ」の機体はより強烈な電流にも屈服せずにいた――逆に彼女はランスで体を支えながら、再び立ち上がった
このバカが……お前ができる全ての手段はこれだけか?これで私が屈服すると本気で思っているのか……笑わせるな!
「同胞」を裏切った屑め……ゴミ箱で反省するがいい!
彼女はランスを振り上げ、「ワーデン」の機械コア目がけて猛烈な一撃を繰り出した。だが試合続きで激しく消耗していたせいか、彼女の攻撃はワンテンポ遅れた
振り下ろしたランスは「ワーデン」の体に突き刺さる瞬間、僅かに軌道から逸れ、精確に相手のコアを貫くことができなかった
……うっ!
視覚モジュールが更に偏移し、激しい痛みが彼女の意識モジュールを襲い続けた。彼女はまた思わず膝をつき、自分の機体から流れ出る循環液を見つめるしかない
次第に暗くなっていく視界の中で、ヴェロニカは「ワーデン」が銃口を自分に向けたのを見た。だがもう彼女は自分をコントロールできず、反撃もできなかった
ターゲットの抵抗行為の増長を検知、ただちに処刑プログラムを実行
「ワーデン」はエネルギーガンを持ち上げ、銃口をヴェロニカに向けた――
しかし彼が引き金を引こうとした瞬間、最高権限を持つ音声が彼の動きを止めた。それは人間の声だった
出すぎた真似は控えて
彼女は誰の財産?知っているでしょう
その声を聞いた瞬間、「ワーデン」は瞬時に動きを止めた
今日のハプニングは、むしろ彼女を褒めるべきだと思ったわ
彼女は私の予想通り、このステージで最も「リアル」な一面を見せてくれた
彼女を次の試合に進ませなさい、やることはわかっているわよね?
命令を下したあと、人間は通信を切った
はい。ご主人様
この人間の……犬め……!
「ワーデン」はヴェロニカの罵声を無視し、目の前にいる彼女を何の関係もない物体のようにみなしていた
「ご主人様」の命令に従い、ヴェロニカの「昇格」データをシステム端末にアップロードしたワーデンは、歓声が沸き立つコロシアムへと戻っていった
ヴェロニカの暗い視界では闘技場の様子がはっきり見えない。再び大勢の観衆の熱烈な歓声が響いたが、その歓声には金属が歪む耳障りな音が混じっていた
それは「ワーデン」が闘技場のプレス装置を起動し、敗者の「ウインチ」を何度も何度も圧し潰し、パーツが砕け散った音だった
いいぞ――続けろ――!
もう1回――そいつを圧し潰せ――そうだ!ノしてしまえ――!
やめ……ろ……
……バカ……者ども
視界はますます暗くなり、彼女は全ての感知モジュールが次第に凍てつきつつあることに気付いた
闘技場の喧噪が徐々に遠ざかり、何もかもがドロドロの暗闇に沈もうとした時、聞き覚えのある人間の少女の声が響いた
あれ?ヴェロニカ、なんでここに……
わ、何これ!ねえ、大丈夫?
しっかりして、私が何とかする!
ヴェロニカは人間の手の温もりを感じた。だがこの瞬間、冷たい闇が彼女の意識を完全に凍らせた
……
果てしない暗闇の中、彼女の意識はまるで分解され、無数に粉々になったデータ粒子のようになり、沸騰したデータの海で絶え間なく揺らされ、流されていた
彼女は自分の体を感じられず、出口に触れることもできず、こうして永遠にこの暗闇の牢獄に閉じ込められたままになるのか、それさえわからなかった
……
……ヴェロニカ……
茫漠とした暗闇の中に、彼女は微かな光を見た
微かな光は彼女の混沌とした意識の中にそっと落ち、柔らかく輝いた。粉々だったデータ粒子が次第に集まり、再び彼女の体と意識として再構築されていく
その後、その光はくるくると踊るように飛び跳ね、空を飛ぶ鳥の形になって羽ばたき、彼女が暗闇の地から抜け出せるよう導いた
意識モジュールの中で激しく暴れていた痛みがだんだんと和らぎ、手足を貫くような凍てつきも、ねばついた感じも次第に消えていった
目を開けると、澄み切った翡翠色の瞳が目に入った
あっ、よかった、やっと目が覚めたね!
……お前か
屈みこんで彼女を見ていた人間の少女の目に、喜びが溢れた。彼女がついに目を覚ましたことで、少女はようやく嬉しそうに立ち上がり、深く息を吐いた
はぁ――さっきは本当にびっくりしたんだから。ずいぶん時間がかかっちゃって、もうダメかと思った!
覚えてる?あなたは闘技場の外に倒れてて、機体の損傷もものすご――く酷かったんだよ。たまたまそこに私が出くわして、あなたを連れて帰ったの
でも大丈夫、損傷部分は全部修復したし、いろいろなモジュールもアップグレードしといた。もう心配ないよ~
ふぅ~疲れた疲れた。私は今、世界一横になりたいよ――ハンマー、ちょっとエナジードリンクを持ってきて!サンキュー!
セラは靴も脱がずに、壁に嵌め込まれた休憩ポッドに倒れ込み、駆け寄った「ハンマー」の機械アームからドリンクを受け取ると、一気に飲み干した
少し元気を取り戻したあと、彼女はふと振り返って笑顔を浮かべながら、ヴェロニカに目を向けた。相手が何か訊ねるのを待っているらしい
ヴェロニカは、自分が今いる空間は明るく、内装は「剣闘士メンテナンスエリア」と違い、生活用品とメンテナンス道具が一緒くたに散乱していることに、ようやく気付いた
ここ?私の部屋でーす!ちょっと汚いけど……これは「雑然とした秩序」ってやつ。どこに物があるか、全部把握しているから!
……どうしてこんなことを?
そちらの言い方を借りれば、これは労働ポイントとしてカウントされないはずだ
へ?変な質問……
友達の危険な状態はスルーできない、どんな時だって友達を助けるっていうのは、常識でしょ!
労働ポイントなんてくだらないよ
少女は頭を傾げ、ヴェロニカがそんなことを訊くなんてと驚いたように、いたずらっぽい笑みを浮かべた
彼女の口ぶりからすると、今までそこまで関わりのなかった機械体の自分を、すでに「助ける価値のある友達」だと思っているようだ
人間と機械体の間に……そんな無意味な関係性を持ち込むな
私はまだお前の「友達」じゃない
……ごめん、気を悪くさせちゃったか~
セラはペロッと舌を出したが、その顔に落ち込んだ様子はない
彼女はヴェロニカを盗み見て、顔に怒りが浮かんでいないと気付いた――本当にこの機械体を怒らせれば、返ってくるのはただの拒絶の言葉だけでは済まないはずだ
(こっそり滑ってきて、ヴェロニカの足にくっつく)
ロボットの「ハンマー」も、もうヴェロニカに攻撃衝動を見せなかった。彼のデータロジックの中で、この機械体は「ご主人様が好きな友達」と認識されたようだ
(ゆっくりとインジケーターランプを点滅し、頭を上げる)
ハンマー、よくできました
……
しばらく黙り込んでいたヴェロニカだったが、最後には手を伸ばし、小さなロボットの頭にそっと手を置いた
(インジケーターランプをリズムカルに点滅させる)
その様子を見たセラは笑い出し、休憩ポッドから飛び降りた。「ハンマー」がご主人様の側に駆け戻る
セラの頬や服にはメンテナンス作業をした時の油汚れが残っているが、彼女は気にもせず、小さなロボットとのじゃれ合いを楽しんでいた
少女はちらちらとヴェロニカに視線を投げかけ、彼女を「機械の仲間」とやっている「ゲーム」に誘おうとした
少女の笑顔は明るく、目の前の「小さなロボット」が命のない機械体だとは思っていないようで、友達と接するように楽し気で純粋だった
それはヴェロニカが人間の観客の顔の上では決して見たことのない表情だった
わわっ――イタタタ――ハンマー、傷口を触んないでよ、痛いんだから!
小さなロボットと楽しそうに遊んでいたセラが、いきなり顔をしかめて動きを止めた
ヴェロニカはハッとした。少女の白い首にいくつかの赤紫色の痣がある――それは自分が彼女と初めて会った時に、彼女に残した「初対面の挨拶」だった
そしてこの前自分が傷つけた少女の手には今も、包帯が厚く巻かれていた
ヴェロニカが自分を凝視しているのに気付いたセラは、恥ずかしげにあわてて傷を隠した
あ……なんてことないよ。もうすぐ治るから。それにしてもあなた、力が強いんだね、あの時は本当にびっくりしちゃった!
無理に強がる必要はない
人間の体はもともと……語る価値もないほど脆弱だ
その言葉はプライドを傷つけるものではあったが、今のふたりの状況を考えれば、まさしく正論だった。セラは言い返すことなく、恥ずかしげに笑っただけだった
お前たち人間のやり方なら、私は今「ごめん」と言うべきか?
セラはヴェロニカがそんな言葉を口にするとは思ってもいなかった。その表情は厳しいままだが、「ごめん」という台詞に、少女は呆気にとられた
……
ううん、そんなこと言わなくてもいい……あの時、あなたがすごく怒ったのも当然だし……
ここってそもそも、クソ腐った場所だもん……あなたたちにとって不公平すぎるし、あんな扱いをされて平気でいられる機械体はいないと思う
セラは慰めるように微笑むと、部屋の反対側にある作業台へと歩いていった
とにかく、それよりも急いで私の仕事を終わらせる方が重要なんだった……
気にしないで、あなたはここでもう少し休んでて~
さっきシステムのスケジュールを見たんだけど、あなたは今日、試合がない。何も問題ないわ
安心していいよ、「ワーデン」もここには来ないの。ここは私たち「人間」のスタッフ休憩エリアだから
セラは首にかけた翼のペンダントを摘まんで、しばらくいじっていた。するとそのいたって普通の「ペンダント」から、いくつかの機体図面のホログラムが投影された
彼女は作業台の上の雑然としたパーツモジュールの中に頭を突っ込むようにして、ホログラムの情報と照合しながら、一心不乱にさまざまなパーツモジュールを調整していた
少女がずっと自分の作業に没頭していると、ふと誰かの影が、作業する手元の視界を覆った
んっ……?
彼女が顔を上げると、自分をじっと見つめるヴェロニカと目が合った
人間と機械体はただ互いを見つめ合っていた。ヴェロニカはいつ自分の前に立ち、どれくらい自分を観察していたのだろう。セラはそれにまったく気付いていなかった
ど、どうしたの……?
ヴェロニカは答えず、身を乗り出して作業台に両手をつくと、顔をぐっとセラに近付けた
わわわっ――な、何か?
私の顔に……何かついている?
それは何だ?
ヴェロニカは更に少女に近付いた。セラは、彼女がじっと見つめていたのは自分ではなく――自分の後ろのある物だと気付いた
少女は振り返って、自分の背後の壁にかけてある古く黄ばんだ絵を見た。そこには夕陽に照らされた花畑と、翼を広げて空を飛ぶ1羽の小鳥が描かれている
これは彼女が小さい頃、絵本から破りとった絵で、彼女が急いで家を離れたあの時に持ち出せた、数少ない私物のひとつだった
ああ、この絵のことか。綺麗でしょ?
セラは壁から薄いその紙を慎重に剥がし、ヴェロニカに渡した
私、花が大好きなんだけど、残念ながらここでは見れないから
小鳥も、ここにはいない
ここにあるものは全部金属製。冷たくて、ちっとも可愛くない
私が小鳥だったらいいのにな。そしたらここを飛び出して、行きたい場所へ自由に飛んで行くんだけど
飛ぶ……
そうそう、ここの最上階には人工天幕があって、夜には星空が見れるんだって。上級社員は自由に行けて、のんびりできるって。私は1度も行ったことがないけどね
そこに「飛んでいって」、上で星を眺めてみたいなあ
……
セラはそう言うと、作業台にある別の修理工具に手を伸ばしたが、厚く巻かれた包帯のせいで手に力が入らず、道具を床に落としてしまった
少女が拾い上げるより先に、ヴェロニカが工具を拾い上げた
次は何をすればいい?
……?
お前の仕事のことだ、次は何をすればいい?
お前の作業手順を見るに、このモジュールをそのホログラム図面に書かれた通りに、順番通りに組み立てていく、そうだな?
お前のスピードは遅すぎる
セラが何かを言う前に、ヴェロニカは彼女の手から未完成のパーツモジュールを取り上げ、先ほど彼女がやっていた手順に従って組み立て始めた
そのスピードはとてつもなく早かった
……あ、ありがとう……
セラは、ヴェロニカには本当に何もかなわないのだと気付いた。ヴェロニカは淡々と手元の作業を素早くこなしている
少女はペロッと舌を出し、機体の図面のホログラムを投影しているペンダントをそっとヴェロニカの方に押しやった
その後、彼女はヴェロニカの全ての動きをじっくり見ながら、道具を交換する時は、必要な物をさっと彼女に手渡していった
ふたりは無言のままだったが、お互いにだんだんと動きの息が合ってきた
君は人間だろう?なぜここに留まり、出ていこうとしない?
私のお父さんがエヴリット財団にすごい借金をして、返済できなくなったんだ。だから財団でタダ働きをするしかなくなって、その後……張本人が死んじゃって……
そうなっても、財団は彼の借金を帳消しにはできない、必ず返済しろって
だから、代わりに私がここで借金を返すことになったってわけ。ここの機械剣闘士に無償でメンテナンスをすることで、借金を返済しているんだよ
とにかく、ここでこんな不運な人間はたったふたりだけ。ひとりは私。もうひとりはロコおじさんだけど、私はいつもただ、おじさんって呼んでる
他の人は普通の「人間上級社員」よ。彼らは私と違って、「ワーデン」でも彼らを管理することはできない。つまり……彼らは「自由」なんだ
……
不公平だと思わないのか?毎日あいつらの「犬」として振る舞い、あいつらの憐れみにすがるなんて……そんな生き方で、悔しくないのか?
私は……
その頃には、作業台の上に山積みだったパーツモジュールの処理もすっかり終わり、ふたりの息の合った作業もひとまず終わっていた
ヴェロニカは図面のホログラムを投影できる翼形のペンダントを手に取り、セラにぽいっと投げた
あちこちで機械体に安っぽい同情をかけて回るより、まずは自分自身の運命を心配するべきだ
私が君なら、ここで夢みたいな儚い「未来」を待ち続けたりはしない
滑稽でしかない。無意味に待ち続け、君が言うところの「機械体の友達」に、自分がどれほど惨めな囚人か、べらべらと打ち明けるなど
私は「同情」と呼ぶ役立たずなものにすがりはしない。私はこの牢獄を脱出するまで、最後まで抗う
くだらない幻想に浸り、夢の中だけで「ここから飛び立つ」ことを実現しようとするな……
答えが出たら、私のところに来い
機械体はそう言い捨て、背を向けて立ち去った。残された少女は呆然とその場に立ち尽くしていた
少女は先ほどのヴェロニカの言葉を繰り返し考えながら、彼女の姿が消えた廊下をぼんやりと眺めた
(静かに滑ってきて、インジケーターランプをリズミカルに点滅させる)
……大丈夫
「ここから飛び立つ」……もちろん、ずっとそう思ってるよ……だけどこのことは、絶対に誰にも言えない
なるほど、ヴェロニカもそう思っているのか……いいじゃない
じゃあ、私はあの「秘密計画」を続けよう。準備ができたら、あなたに会いに行くよ、ヴェロニカ
少女は自分にしか聞こえない声で小さく呟いた
最上層 「ご主人様」の部屋
エヴリットコロシアム
エヴリットコロシアム、最上層、「ご主人様」の部屋
時刻はもう深夜をすぎている。大きなフランス窓から見下ろせる闘技場はすでに無人だ。毎晩、時間通りに開催されていた試合も、今はもう幕を下ろしたままだ
でもこの部屋では、依然として自分ひとりだけで歓喜の瞬間を楽しんでいる人物がいた
目の前の大量のモニターでは、「ヴェロニカ」という名の機械体の、さまざまな映像が繰り返し再生されている
闇に身を潜めた人間は、その映像を細部まで何度も何度も堪能していた
ヴェロニカと呼ばれる機械体はスポットライトの輪の中に立ち、自分に見向きもしない観客を冷たい目で睥睨していた
彼女はランスを振り回し、恐れることなく、巨大な機械猛獣が粉々に砕け散るまで、次々と彼らに立ち向かっていた
彼女は怒号を上げながら、檻の中にいる機械体による猛烈な一撃を、無理やり自身の体で受け止めた
彼女は傷ついた体をランスで支えながら、その怒りに燃える赤い瞳で懲罰を与えようとする「ワーデン」を睨みつけた
…………
映像の再生が終わり、最後のひとコマで静止した。ランスを持ち、全身に闘志を漲らせた長身の機械体の姿がそこに映し出されている
大量のモニターの微かな光が、モニターの前にいる人間の姿を浮かび上がらせ、その口元が笑いで吊り上がっているのを照らしていた
人間は手を伸ばし、ヴェロニカの体の細部を全て記憶に刻もうとするように、モニターに映る彼女の輪郭を指でなぞった
あなたは私の予想を超えたわ、ヴェロニカ
ますますあなたのことが気になってきた