Story Reader / 叙事余録 / ER13 織り奏でる緒言 / Story

All of the stories in Punishing: Gray Raven, for your reading pleasure. Will contain all the stories that can be found in the archive in-game, together with all affection stories.
<

ER13-2 穿つ針

>

小さい頃のことはよく覚えてないの。裁縫師のお爺さんの話を聞く限り、私は工房の入り口に捨てられて、身にはネームプレートひとつしか着けていなかったって

このネームプレートが光を反射していなかったら、私は雪の中でそのまま凍死していたのかもしれない

裁縫師のお爺さんには、ネームプレートを肌身離さず持つようにと言われてた。これは君のお守りだよって

だからこの鉄片をこんなに大事しているのね

でも、針おばさんは私のことは好きじゃないの。彼女は「この子、あいつら汚いホームレスの子供じゃないんなら、犬が咥えてでも連れてきたんだろ」と言ってる

裁縫師のお爺さんは、その言葉を気にすることはなかったみたい。私は彼にとっての宝物だと言ってくれた……

少女の表情は帽子のつばの影に隠れて、はっきりとは見えない

彼女は周囲の騒がしい声を一切気にせず、上品そうにカップを持ち上げると、カップの底に小指を這わした。お茶の湯気に、軽やかな言葉を乗せるようにして話す

その後はどうしたの?

最初の数年、小さいシルエットちゃんの未知の生い立ちがトラブルにならないように、

工房ではいつもこそこそと暮らしていた。彼女は騒ぐな、静かに、賢くしなさいと要求された

シルエットちゃんはいつだって退屈し、ミシンの針が立てるガタガタという音を聴いて過ごすしかなかった

彼女がすくすくと健康に成長してようやく、年老いた裁縫師は落ち着きを取り戻し、これは自分の娘だと公表するようになった

かつて、裁縫師の部屋にはたくさん鉄の箱があって、全ての箱に「却下」と赤くスタンプを捺された手紙が詰まっていた

シルエットちゃんの出現で、彼はようやくその鉄箱の錆びた匂いと空っぽのクローゼットから解放された

いつからか、彼は戻ってきた手紙を鉄の箱に入れなくなった

彼はまるで我が子を愛でるように、彼女を慈しんでいた

彼女は天から授かった偉大な贈り物

彼は会う人、会う人にこう吹聴し始めた

私が胸に抱きしめているのは私の喜びそのものなんだよ

彼の手にはいつだって、あの子の小さな重みと一瞬の温もりが宿っているかのようだった

ほらシルエットちゃん、また背が大きくなった。もうすぐすると、ドアの軒先じゃシルエットちゃんの身長記録ができなくなっちゃうな!

彼は自ら土木定規とチョークで線を描き、これらの年輪のように増える記録を笑いながら見つめていた

ある日、工房の者は老裁縫師が返事のない手紙の代わりに、日記を書き始めたことに気付いた

「毎日自炊している。可愛い服を着たシルエットと、手を繋いで一緒に出かける……」

「時間の流れはどうしてこうも遅いのか。大人になった彼女を目にするのが待ちきれない」

この1段を書き終えると、年老いた裁縫師はペンを置き眼鏡を取って、ふと日記の文字を見つめながら長い間黙り込んでいた

「時間の流れはまた、早すぎもする。君はまだこんなに小さい、私はもうちょっと……君の傍にいたい」

小さいシルエットの成長を喜ぶ反面、自分はもう彼女の傍に長くいられないことを憂う気持ちがあった

初めて歩み、初めて転び、笑い声が響く。シルエットちゃんのために何度も誕生日ケーキを作った。退屈だとせがまれて、針に糸を通す方法や子供用ハサミの使い方を教えた日々

シルエットは幼すぎて、自らの存在とその成長が工房にもたらした変化や大人たちの態度の意味は理解できなかったが

他の子たちと違って歓迎されていない雰囲気は感じていた

彼女はますます、自然と身についたその趣味に自ら深く没頭するようになった。端切れの中で遊ぶことから始まり、やがて自分の服を不器用ながらも縫い直せるようになっていた

これは縫い糸、そしてこっちがリッパー

糸ってのは見た目は柔らかくても、ピンと張れば鋭くなる。使う時は十分に気をつけるんだよ

糸おばさんは地面にしゃがみ込み、ひとつずつ丁寧に、少女に仕事の命綱であるさまざまな道具を説明した

ほら、糸おばさん、この前見つからないって言ってた針、ここにあったよ!

おやまあ、あんたは本当に視力がいいね……

糸さんはいつもニコニコしていて、近所の子供たちから懐かれている

布さんは使う予定の絹を抱えて歩いてくると、不思議そうにひと言訊ねた

シルエットちゃん、どうして裁縫を習いたいの?

裁縫ができるようになれば、工房の役に立てるから!

針さんと鋏さんはちょうど隣で布を裁断しながら位置を決めていたが、その言葉に動きが一瞬止まり、互いに暗い視線を交わした

布さんはシルエットが裁ち鋏を試そうとする様子に、自分の娘が生まれたあとの姿を思い描き、丸い顔で微笑んだ。彼は思いやりたっぷりにシルエットちゃんを褒めた

本当にいい子だね。でも、その尖った道具はまだあなたには危ないんだ。いい子だから、ぬいぐるみで遊んでなさい

子供の無邪気な言葉を、弟子たちは同じように純粋な気持ちでは聞けなかった

工房の収入はすでに以前ほどない。たとえ技術を身につけたとして、将来の道はあるのだろうか?

時代はとっくに機械による大量生産へと進み、名のあるデザイナーはいつも上流階級が独占している。彼らのように手作業の縫製にこだわる普通の工房は自転車操業の状態だった

ロプラトス、この世界で最も有名な娯楽の都には、上流社会の高官や富豪たちが次々と押し寄せ、帳簿に流通する金は指をパチンと鳴らせば湧き出るように満ち溢れている

高価なスーツや礼服、それに吹きつけるVIPサロンの香水は全て、身分と財力の象徴で、毎日違ったものを披露する必要があった。誰もこのような場で軽んじられたくはない

権力者たちが最も好む言葉は唯一無二であり、どれだけ多くの人手と労力、時間をかけかつ特別な納期で作られたかが誇示され、見栄の張り合いはますます先鋭化していく

職人精神、フルオーダーメイド!これこそが優越感の源であり、彼らが社交の場で他人に自慢する根拠になっていた

人々はさまざまなメディアのニュースで取り上げられる新技術や華やかな宴会に驚き、保険業はかつてないほど発展し、まるでこの全ては永遠に続くかのように隆盛を極めていた

その煌びやかな生活は黄金時代の光だった。光が今まさに自分たちの顔を照らす時、見上げれば眩しい輝きで他のものは目に入らない。もちろん、この片隅の工房もだ

……工房の役に立てる、か……

……時代はとっくに変わってる……

少女はよく聞き取れず、好奇心でいっぱいの表情で訊ねた

みんなが話しているのって、一体どんな時代なの?

未来に何の不安も感じていない者だけが、心ゆくまで生活を楽しむことができる。黄金時代とは何か――それについて、誰もがはっきりと自分なりの考えを持っていた

小さいシルエットもまた、悩みを持たぬ者のひとりだ。大人たちの思いは我知らず、時代の流れも知らず、ぬいぐるみを手にぴょんと飛び去り、工房には重く沈んだ静寂が残った

5歳の子供の心配事といえば、今のところただひとつだけだ

あの子たちに一緒に遊ぼうって誘っていいかな?私の一番好きな子犬のぬいぐるみ、見せてあげるんだ!

試してみてもいいけど、あの子たち、君のことが好きじゃないかもよ

シルエットちゃんは何度もためらいながら、ついに勇気を振り絞って子供たちの方へと歩み寄った

一緒に遊んでもいい?

えー、あなたって誰もいらないっていう子で、犬が咥えてきたんでしょ。そんな子とは遊ばないよ!

そのうちひとりの女の子が不満そうに、失礼すぎる態度で彼女を指差すと、周りの他の子供たちも次々に笑い出した

違うもん!適当なこと言わないでよ!

ほらね、言ったでしょ

パパとママがいない子なんて、一緒に遊んだら不幸がうつるよ!

いるもん、裁縫師のお爺さんが私のパパだよ!

ふん、あのお爺さんならジィジくらいの歳じゃないの。あなた、いずれ一緒に捨てられるわよ

そんなことないもん!

あの子は君をバカにしてるし、お爺さん裁縫師の悪口も言ってるんだ

そうなったらあなた、きったないカッコして街でゴミでも拾って食べるんじゃないの……誰もいらないっていう子犬みたいにさ。キャハハ!

なんてことを!思い知らせてやれ、黙らせるんだ!

シルエットちゃんは心を決めると、リーダーの女の子が振り向いて他の子たちと嘲笑っている隙に、近付いて彼女を強く押した

女の子はそのまま冷たい水たまりに転げ落ちた。服と髪があっという間に汚れた泥水でびしょ濡れになり、わあっと大声で泣き出す。他の子たちはたちまち散り散りになった

よくやったよ、見せつけてやるんだ、力こそが全てなんだって

あれ、今はそっちが汚い子供じゃないの?

シルエットちゃんの心に異様な喜びが湧き上がった。彼女は勝ったのだ、誰ももう彼女に嫌なことを言わないだろう。ブラットの言う通り、力こそが一番大事なのだ

しかし、常日頃の年老いた裁縫師の祈りの言葉が心に響き、すぐに別の感情が彼女を包み込んだ

年老いた裁縫師はずっと敬虔な信者だった

生産力が急速に発展して信仰が希薄化していくこの時代、そういった人はかなり稀少だった。大多数の人は神聖な信仰より遥かに強く、進歩への信念を持っているからだ

聖母のご加護があらんことを、と彼は時々、会話の最後にそう付け加える。しかし工房の他の人たちは、その言葉をほとんど真剣に受け止めていなかった

清らかな良心を持つ人こそが幸せに暮らせるんだ

彼は週に一度教会で祈りを捧げることにもとても熱心で、時にはシルエットちゃんも連れていった

小さいシルエットにはまだ大人たちの祈りの言葉の理解は難しく、ただ座って足下の花柄のタイルを数えていた。170から190枚ほど数え終わると、祈りは終わりに近付く

教会に行かない日でも、年老いた裁縫師は手を綺麗に洗い、リビングの入り口に座って朗々とした声で祈りを捧げ、故人が光り輝く世界へ旅立つようにと祈っていた

[どうか私たちの罪をお赦しください、私たちをお助けください]

ヒックヒック、うう……いじめられた……

わ……私は……

グスッ……うええん!――大人に言いつけてやる!あなたがやった悪いこと、全部話すからね!

私、悪いことをした?

まさか

あんなの放っておけばいいんだ。ずっと一緒に遊んであげるよ、親友になってあげる

行こう、ブランコで遊ぼう!

小さいシルエットの心臓はドキドキと激しく鼓動していた。彼女は自分は間違っているのではないかと思ったが、年老いた裁縫師の悪口を言うなんておかしいとも感じていた

彼女はふたつの世界の狭間で揺れ動き、どちらに向かうべきかわからなくなった

ひとつの世界は光に満ち、美しく、正しい場所で、彼女は正しいことをするよう求められている

もし彼女が間違いを犯したのなら、心から人に許しを請うべき世界。全ての善良でよい魂はここへと向かうのだ

もうひとつの世界は見知らぬ場所で、恐ろしく、灰色の霧に包まれている。そこにいるのはほぼ戒律を破った者たちで、彼らはうんと自由そうに思える

例えばブラットのように。彼はまったく気にせず、平然とふたつの世界を揺れ動くブランコに座っていられるのだ

小さいシルエットはゆっくり家に戻り、光に満ちた秩序正しい世界へと帰ったが、彼女の心はもう片方の世界に残って、今日のことを打ち明けるべきかどうか不安に揺れていた

どうして誰も私と遊んでくれないの?

僕がいれば十分じゃない

冗談だよね、でしょ?だって私、何も悪いことしてないのに

彼女はそう自分を慰めたが、罪悪感と恐怖の汚水が影のようにまとわりつき、足首を囲むようにして押し寄せてきた。彼女は老裁縫師がその手のことを好まないのをよく知っていた

彼がいる工房は全てがきちんと整い、公平で公正だ。間違いを犯すと誰であっても厳しく裁かれ、その過ちを償うように求められた

弟子たちは彼が大部分の面において厳しすぎると思っていたが、それでもこの絶対的な正しさには従わざるを得ない

聖母は人々が跪いて悔い改める声を望み、そのような信者を限りない愛で包み込んでくださる。人として生まれた以上、誰もが原罪を背負っているのだという

小さいシルエットには、聖母に祈るべきかどうか、明確な答えは出なかった。聖母なら、この不安を取り除き、正しいことと間違っていることを教えてくれるのだろうか?

彼女はそっと工房の作業部屋の扉を開けた。布の山の中から年老いた裁縫師が顔を上げ、笑顔で手を振ってきた。温かく明るく安全で、彼女にとってなじみ深い匂いが漂ってくる

シルエットは微笑んで、今日のあの出来事は自分だけの秘密にして、その秘密を固く守ろうと決めた。今はとりあえず、光の世界に帰るのだ

この冬が終わったら学校に連れていってあげよう。必要なものはもう、用意してあるんだ。うちのシルエットちゃんもすぐに読み書きができるようになる

学校?

小さいシルエットは敏感に眉をひそめると半歩後ずさりし、唇を噛みしめて指をもじもじさせながら、今にも泣き出しそうになった

学校って、どんなところなの?

私、遠くに連れてかれちゃうの?もう私のこといらなくなったの?

天候は一変し、短時間の快い冬の日差しは消え、厚い雲は重い毛布みたいに、まるで品物を受け取りたちまち帰る不機嫌な客だった。工房では埃だけが目の前を灰色に霞ませている

光に満ちて安全だった彼女の世界はぐらつき、脆弱で軽すぎて、まるで今にも地面に落ちて割れてしまいそうな卵だ

ハハハ、君をいらないなんて、そんなことを思うわけがないだろう?昼間だけだ、君は昼間に学校へ行くだけで、夜には私が迎えに行って家に連れて帰るんだよ

どうして私は「学校」へ行かなきゃいけないの?

そこで知識を学び、好きなことを学び、新しい友達ができるからさ。学校は、人間が持つ一番よいもののひとつといえるんだ!

新しい友達……ブラット以外の友達ってこと?

他の子たちは私の友達になってくれないの。私は、パパもママもいない悪い子だって……

年老いた裁縫師は少女の俯いた顔を見つめ、申し訳なさそうに両手を重ねると、手の平にできたタコを指でなぞりながら、彼女を安心させるための言葉を思案しているようだ

悪い子?そんなはずがあるもんか……

あなたは毎日一生懸命に裁縫を学んでいるし、早く大きくなって私の手伝いをしたいって言ってくれただろう。学校に行けばね……

彼はそっと少女が抱えていたぬいぐるみを手に取り、それを操って彼女を笑わせようとした

私、行きたくない、私が好きなのは裁縫のお仕事なんだよ!ずっと教えてくれたじゃない……それを続けるんじゃダメなの?

自分の名前の書き方を知りたくないかい?それに私の名前も

私……よく知らないもん、苗字とか名前とか

ハハハ、私のフルネームはシルエットちゃんには長すぎるんだ。私の祖父や高祖父、それにこの工房の歴史も含まれている。君はいつも人を名前じゃなく、道具で呼んでいるし

でも、学校に行けば何もかも学べるよ。人の名前を覚えるのは、大切な礼儀のひとつだからね

本当?学校に行けば覚えられるの?

もちろん。そうだ、覚える前に君の名前をここに縫いつけておいてあげよう

ほら、シル……エット

年老いた裁縫師の粗い指が針と糸を取ると、まるで蝶が舞うように軽やかに動いた

深い青色の縫い糸は、彼女の髪の色と同じだった

少女は憧れの眼差しでぬいぐるみの耳の内側に新しく現れた点や丸い影を見つめたが、まだ理解することも覚えることも難しかった

でも大丈夫、学校に行けば彼女にだってすぐに覚えられるだろう

針と糸でボロ布をぬいぐるみに、服に縫い直せるように、君にも器用な手がある。これからは人生も自分の好きな形に縫い合わせていけるんだ

好きな形……

子犬のぬいぐるみが耳を振り、首を揺らしながら、体をくねらせて彼女の方へ歩いてきた

どこ、どこにいるのかな?わたしのこいぬ

みみとしっぽが目印

「どこ、どこでしょう?」

木のうしろにいたよ

どこ、どこでしょう?

みみとしっぽが目印

どこ、どこにいるのかな?わたしのこいぬ

なでなでしたら

キスしてハグもしてあげる

わたしのこいぬ、だーい好き

少女は目の前で元気に跳ね回る子犬のぬいぐるみに無邪気に笑い転げ、老裁縫師の温かい胸に身を委ねながら、その縫い目の跡を何度もなで、ニッコリと破顔した

人々が貧しく困窮するのは、裁縫というものは基本的に誰にでもできる技術だからだ。彼らこそ、代替不可能かつ必要不可欠な存在であるべきだった

工房は時代に忘れ去られたようでありながら、今も人力で丁寧に運営されており、大きなミスも、道を外れたこともなかった

しかし時代の変化は避けられず、工房の注文は減少しつつあった。徐々に、もっと先進的な機械を使う大工場に取って代わられていた

人類が数千年かけて積み上げた服飾の技術は、目を見張る速度で機械コードとして学び、切り貼りされていく。そして、あちこちに模造の「新しい」製品が溢れていった

広範囲にわたる複雑な刺繍に対しては、今もなおより高価で柔らかく軽い糸を使う必要があった

その刺繍や模様は、高貴さとセンスを表現し非常に複雑なデザインで、無数のスパンコールや小さなビーズを使う

これを作れる精緻な機械は、開発コストが人力の比ではない

工房の注文は次第に、目にも手にも負担の大きい難しい細かな仕事が大部分を占めるようになり、他の工場の一部の附属品のようになっていった

年老いた裁縫師は白髪が増え、手も自由に動かなくなった。ほとんどの時間、弟子たちに仕事を任せ、

自らは単純で古臭い、時代遅れの婦人服を縫うことしかできなくなっていた

彼は自分の手で作った、今すぐ使うものではない衣服を1枚ずつクローゼットに掛け、ラベルを縫いつけていた

あの子が学校に初めて行く日に着る服、あの子が大人になってから着る服、あの子の初めてのウールのベスト

あれはもしかしたら将来、パーティドレスに使うかも……

彼は大切にしているハンカチを取り出し、それをしばしじっと見つめた。まるで妻の笑顔がまだ側にあるかのように、普段使わない小さなビーズや布片を楽しげに集め続けた

このような悪化していく先が見える生活に、全ての人が耐えられるわけではない

裁縫師のお爺さんはもう歳だし、新しい技術は受け入れられないんじゃないか

そうとも限らない、本人の考えを訊いてみなけりゃ……

知っているだろ、彼が何があっても新しい機械に変えようとしないのは、あの時の事故が再び起こるのを恐れているからだって

厳格で、融通が利かない、時代遅れだし、腐りきってる、邪魔……!

ロプラトスからの依頼は増える一方で、舞踏会やパーティはどんどん盛大になっていってる。俳優や歌姫たちの依頼を取れなきゃ、こっちが入り込む余地なんてない

工房の売りがブレなければ、きっといつかうまくいくよ

売り?もう誰も品質なんて気にしちゃいないよ。今は、物を取り替えるのも服を着替えるみたいに簡単で早いのがいいんだ

勤勉や努力なんて、もう称賛されなくなった……今、人々はギャンブルと、街中のあちこちにある宝くじ売り場に夢中なのさ

聞いた?隣のパン屋の若いの、宝くじの1等に当たって、大喜びで仕事を辞めて帰ったんだって……

まるで扉を叩き壊さんばかりの激しいノックの音が、皆の雑談を遮った

その場にいた全員の視線が、思わず来訪者に集まった

お客様だよ~みんながいつも言ってる、あのワイシャツの人たち

シルエットちゃんはビクビクしながら、いつも針と糸をさわる場所から自分の部屋へと戻り、しっかり施錠した

マイスター、市議会からかなりの額の資金が提供されました――これでのんびり引退して、悠々自適の生活が送れると思いますよ

年老いた裁縫師はその言葉を鼻で冷たく嗤ってあしらい、手に持っていた裁ちばさみをどんと重く置いた

ここのところ、何日かおきにそれぞれ別の「ワイシャツの人物」がやって来ていた。皆、目的は同じらしい

引退?何十年と裁縫をやってきた年寄りに引退しろだと?

マイスター、私があなたなら、可能な限り早く繁栄のロプラトスで落ち着いた生活を送るために、すぐにサインをしているところですが

一体何に執着されているんです?

執着だと?

年老いた裁縫師はカッとなって、怒りのあまりにコーヒーを袖口にこぼしてしまった

今までこの町の全ての上着、全てのスーツやパンツ、カシミヤのニットベスト、あんたの母親、祖母の代のエプロンまで――全てはこの工房が作ってきたんだぞ

それを、金銭にしろだと?

出ていけ!何度も言ったはずだ!

ワイシャツの人物は舌を出して唇を舐めると、プロとしての姿勢を見せようと話を続けた

ですが、時代が変わったんですよ。マイスター

人は新たなものの誕生を恐れる傾向がありますが、結局、最後にたどりつく答えは同じです

現在、読書や手紙を読む人などほとんどいません。金貨と紙幣はクレジットに変わっていて、この先は完全に技術と進歩の時代を迎えるでしょう

ご存知ですか。ニュースで見ました?直径600mの小惑星が数年以内に地球に衝突する確率が高いと観測され、人間の技術連盟は問題解決のためにすでに宇宙船を出していました

バンと宇宙でクラッカーが爆ぜ、脅威は消えました。前例では恐竜を絶滅させ、世界は数世紀の氷河期に入った。でも今回は違う。我々の最たるエリートがそう保証したのです!

この栄誉は高貴で偉大なる全人類のものです

年老いた裁縫師にはこの浮ついたスローガンに感動した様子が一切なく、ワイシャツの人物はイラつきながらも振り上げた拳を下ろすしかなかった

ふん、そのご高説を披露すれば誰かがスーツのポケットから投げ銭してくれるとでも?物乞いもずいぶん斬新になったものだな!

(チッ、何もわからない愚民どもめ)

お伝えしたかったのは――あなたの素晴らしい技術をもちろん尊重していますし、それにこの工房だってひとつの時代の尊厳を築き上げ、まさに歴史そのものといえます。ただ――

世界初のミシンを壊しても糸車と織り機の時代には戻れはしません。進歩は不可逆的なのです、マイスター。この地の進歩、共通の明るい未来のために、どうかご理解いただければ

よくもそんなことが言えたものだ!

一体誰がお前たちに、何でも好き勝手に価値を決めていいと言った?この工房だの、目の前で生きる人々の未来だの、お前にそんなことを決める資格があるのか?

ワイシャツの人物はこの古びた工房を眺めた。閑古鳥のせいで100年の歴史を持つ看板のアルファベットはいくつもペンキが剥げ落ち、修理する者もいない

何人かの作業員は上の空で仕事をしており、手元のつまらない針仕事より明らかに会話の続きを気にしている。ワイシャツの人物もそのせいか、我が意を得たりと上向き調子だ

アーチボルトさん、信じるか信じないかはご自身の自由ですが、あなたは我々の間では有名人なんです

あの事故は誠に遺憾でした。これらのファイルに署名していただければ、私たちは喜んで――あの時の出来事に納得のいく答えをひとつ多くお出ししようと考えています

署名だと?納得のいく答え?お前らはあの頃とちっとも変わってないな。ファイルに署名さえすれば帳消しだと……

そんな与太話、誰が信じる!?

私は何もいらない。でも生きていた彼女、それをどう戻すというんだ!

年老いた裁縫師の声が詰まり、彼は何度か深呼吸をしてから、かつてもう不要なものとして寂しく空っぽだった時代もあるクローゼットを見つめた

あの事故に対してご不満があるのは理解いたしますが、物事は分けて考えるべきです……

物事は分けて考えるべき……

ハッ。お前たち白シャツ連中はいつも来てはすぐに消え、無関係でございとばかりに冷たい言葉を吐くだけだ。誰も責任を負わない、誰も本気で関心を持っていない

誰だって知ってるさ、あの連中の口を塞ぐために多くの札束を使ったんだろうってことはな!

私はただ責任者がちゃんと、原因、問題箇所、失敗者を、補修布を使うように直してほしいだけだ!直せないならボロ布なんぞ徹底的に捨てろ!こんなこと……絶対に許せない!

あなたはいつも長々と話し続ける。ここ何年も連日、苦情の手紙、請願書を送ってくることが、怒りを物語っています。どうやら、ちゃんと心の中でご理解いただけていないようだ

あの不幸の原因を作ったのは我々ではない!

ワイシャツの人物は我慢の限界に達し、シャツの一番上のボタンを外すと、それまでになく激しい言葉を放った

あなたはどうしようもなく愚かだが、あなたの弟子たちは違う。こんなボロ建物、火をつければ一瞬で跡形もなく灰になる

早く吹っ切れた方が、皆のためなんだ

ハッと息を飲んだ者がいたのだろう、しっかり掴んでいなかった糸巻きが床に落ちた

畜生!もういい、また今度くる

ワイシャツの人物は堂々と外へと歩み出た。木の床を踏みつける新しい黒の革靴から、ギシギシと鋭い音が響いていた

糸さんは頭を横に振りながらドアを閉め、刺繍の作業へと戻った

針さんと鋏さんは作業台の側で布を引っ張るが、いつまでも片方にシワが残ってしまう。布さんは巻き尺を強く掴み自らの頭にくるくると巻きつけ、危うく首を絞めるところだった

二度と来るな、偽善者め!!!

年老いた裁縫師はあの後ろ姿に罵声を浴びせたあとに、彼の弟子たちに向かって振り返った。失望に打ちひしがれる彼と、誰も目を合わせようとはしない

し、師匠。あの、さっきのお話、一度考えてみても……

針さんは勇気を振り絞ってそう言葉を発した。緊張で手の平に汗が滲んでいる

バカを言うな!裁縫の技術を教えたのは、工房を売る誰かに加担させるためじゃないぞ!

老人は激怒してバンバンと作業台を何度も叩いた。怒号が工房に響き渡り、その振動で道具がガタガタと少し揺れている

違います、わ、私が言いたいのはそういう意味じゃなくて!

布さんが絶妙なタイミングでフォローに入る

ああ、あの、キャサリンはちょっと場を和ますジョークを言っただけですよ。でしょう?私たちの中でオールマイティに裁縫が一番うまいのは、あなただけじゃないですか!

……この数年は給料も上がらないし、納期はますます短くなるし、仕事がどんどんきつく、やりにくくなってきたな

鋏さんも立ち上がり、針さんを庇うように前に立ちはだかった

なんだと……!!

怒らないでください、師匠。皆、最近は雑用が多すぎて疲れているだけなんです……

お前までもそんなことを言うのか?

聖母様よ、どうかご加護を……

昔はこうじゃなかった――

年老いた裁縫師の記憶では、肉屋も、労働者も、パン屋も、鍛冶屋も、そしてもちろん仕立屋も、皆嬉しそうに家の前の長椅子に腰かけ、同じ陽だまりの中でいきいきしていた

皆が助け合い団結して、逞しい体と揺るがぬ目つきで、手工業の美しさと誇りを静かに守り続けていた

……少なくとも今ではない

さっさと仕事に戻れ!それとも、お前たちはこの工房が今すぐ潰れてもいいと思うのか?

老人は酷く疲れていた。コーヒーの汚れを拭き取り、袖カバーとエプロンを外すと、裏の部屋へと駆け戻った

工房の空気はますます重苦しくなり、物言わぬ人々の苦渋の表情と、ミシンの針がカタカタと鳴る音だけがそこに残っていた

みんな、何をそんなに怒ってるの?

誰からも返事はない

ひとつの時代がまもなく幕を下ろそうとしている。穏やかで安定した旧秩序が突然崩れ去ったのだ。誰が責任を取るのか、誰にそれができるというのか?

重苦しい沈黙の中、何か、鋭いものが空中をスッと横切った

さて、誰か今言いたいことは?例えば、未来はきっとよくなるとか、そういうバカみたいなこと