Story Reader / 叙事余録 / ER11 遂生再始 / Story

All of the stories in Punishing: Gray Raven, for your reading pleasure. Will contain all the stories that can be found in the archive in-game, together with all affection stories.
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ER11-1 鳥かご

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「最終試験」を通過した翌日、ヘルタははやくもこの実験施設へと急いでいた

祝福の拍手もなければ、安らかな休暇もない。 巨大な機械を前に、ちっぽけなネジの成長を喜ぶ者はいない

学院の庇護を受け、悪夢のようなパニシングと侵蝕体から逃れる…… グストリゴからの卒業とは、その後の人生全てを、リーボヴィッツに預けることを意味している

もちろん、それは決して悪いことではない。グストリゴの生徒たちは、入学した瞬間に会社の刻印を押され、企業の所有財産となった

適者生存が彼らの運命だ。そして「最終試験」を無事に通過したということは、少なくとも彼女が淘汰される側ではなかったという証明になる

ホルスト

ボーッとするな、しっかりついてくるんだ

いら立たし気な声が彼女の思考を遮った。目の前の男が再び歩調を速めたので、彼女は仕方なく小走りで後に続いた

ディスクアレイを抜け、計算モジュールのエリアに入った途端、風の音が大きくなり、耳元で低く唸りを上げた

目の前には、巨人のようなラックがそびえ立っている

ランダウアー限界を突破したエントロピーの奔流が光回路の中を駆け巡り

極限まで計算速度を支えながら黙々と「思考」を続けている

それらは整然かつぎっしりと並び、果てしなく思えるほど連なっていた

<b><size=50>ダイアクロニックAIインキュベーションエンジン――第7マトリクス</size></b>

人々はそう名付けた

約2万平米の大地をカバー、地域の90%のエネルギーを集結――これが、リーボヴィッツが141号都市の地下に設置したスーパーコンピューティングセンターである

うう……

円の中心へと向かって、長い半径に沿って進み続けてから、どれほど時間が経ったのだろう?

まるでwhile文の無限ループのように、進めど進めど、この風景は一切変わらない

天井に高く掲げられた氷のような青白い灯りが揺らめきながら目を刺し、彼女は思わず眩暈を覚えた

長い旅路と冷たい景色が意識を朦朧とさせ、突然、酸っぱいものが喉元へと込み上げる

ホルスト……さん……

彼女は少し苦しげに、早い足取りで前を歩く男性に呼びかけた

相手はマトリクスの研究主任であり、彼女を指導する責任者でもある。初めて挨拶を交わして以来、彼は冷然と沈黙を保ったままだった

……

彼女のラボまで……後どのくらいですか?

だが依然としてペースは変わらず、パタパタと革靴の音を立てながら歩いていく

相手は足を止めることなく、ペースを緩める素振りすら見せない

彼女は言いかけた後半の言葉を飲み込んだ

(きっとできる。乗り越えられない障害なんてない……)

彼女は意味のない綺麗事にすぎない言葉を小声で呟き、込み上げる吐き気を必死に抑え込んだ

耳をつんざく冷却システムの轟音が、あらゆる雑音を呑み込む巨獣の咆哮のように絶えず鳴り響いている

そして寒い

思わず薄手の白衣をかき合わせた

本物のスーパーコンピューティングラボに足を踏み入れる記念に、彼女はわざわざ早めに白衣に着替え、長かった髪も短く切り揃えたのだ

成熟と信頼感を演出するための伊達眼鏡に、感情の見えないクールなポーカーフェイス……これが、学生が思い描く「研究者像」の限界だった

本当に退屈……

彼女は絶えずLEDが点滅する計算ノードを、ぼんやりと眺めていた。どうしても、この空間に自分が溶け込める気がしない

ノードの端から伸びる電気ケーブルはいくつかのカプセルと繋がっている。ヘルタは透明なガラスカバー越しに、側にいる実験体をまじまじと覗き込んだ

ウゥ――

突然、歪んだ顔が勢いよくガラスにぶつかり、ヘルタは驚いて後ずさった

実験体たちは皆、無力ながらも必死に腕を振り回し、力の限り、叫び声を上げている

その瞳に滲む苦痛と狂気に、ヘルタはぞっとして足を止めた

しかし、ホルストは足早にその中のカプセルのひとつへと向かっていく

状況はどうだ?

ご覧の通りです……どのモデルもテストをパスできませんでした

これだけいて、ひとりも使い物にならないのか?

そもそも、適性のある個体自体が極めて少ない上に、このプロセスは人間にとって非常に耐えがたいものですから……

短時間で思考をモデリングするには、強力な外部信号でニューロンを刺激して放電させなければなりません。その影響で、神経伝達物質の正常な伝達も遮断されます

最も顕著な副作用は幻覚です。彼女たちは記憶の中で最も恐ろしい光景を見ることになります。例えば高所からの落下や身内の死、あるいは侵蝕体に追われ殺される光景……

効率が悪すぎるな

これ以上のスピードアップはできません。もう一度サンプリングすれば、彼らが壊れてしまいます

その場にいる全員が黙り込んだ。ヘルタは緊張しながら、胸に抱えたノートパッドをギュッと握りしめた

人間に次の指示を催促するかのように、近くにあるラックの電流がカタカタと小刻みな音を立てている

……ドレイヴィでもう一度試そう

彼女は今日、すでに3度サンプリングを受けています

問題ない、彼女なら耐えられる

そうだろう?ドレイヴィ

沈黙――またしても長い沈黙が続いた

監視モニターの中央グリッドに、緑色のランプが点滅した。「同意」を示す信号だ

その時、ヘルタはハッと気付いた。その実験体に、もはや直接返答する力すら残されていないことを

なら、すぐに始めろ

彼はヘルタにちらりと目をやり、そのまま足早に歩き出した。呆然と立ち尽くしていたヘルタは、慌てて小走りで彼の後を追った

せ、先生……あ……あれは……

……学院で教わらなかったのか?

そ、それは……

男は彼女の前で足を止めると、振り返ってじっとヘルタを見た。 そして、何かを確認したあと、ようやく口を開いた

これが第7マトリクス計画……機械意識の覚醒を検証するための実験だ

機械意識の覚醒……AIモデルが膨大な情報を処理能力とフィードバック能力を持ち、かつ人間の社会的倫理や対応する感情を兼ね備えた時、それは「覚醒」と定義される

人間の意識をサンプルとして使い、AIモデルの成長を加速させる。あれらはそのサンプリング用の実験体だ

それはつまり、いずれ私もこの研究を担当するということですか?

ですが、私が受けた任務は……

もちろん、君の専門はこれとは別だ……これらの研究は二次的なものにすぎない

君の任務は……あの鳥籠から、「彼女」が産んだ「卵」を取り出すことだ

「ピッ――」、虹彩認証の通知音が鳴る

続いて低く唸るような音が響き、巨大な認証ゲートが次々に解除され、通路の奥に小さな部屋が現れた

足下の床一面にびっしりと数式が書き込まれ、その数式は遠くの実験カプセルまで伸びている

暖色の人工照明に照らされた室内で、迷うように持ち上げていたヘルタの足が、再び床を踏みしめた

訪問者の足音を聞いた少女は、辛そうにカプセルの中で起き上がった

……

しなやかな長い髪には、まだ微かに実験用の溶液が付着している。 それは特殊な色合いで、ピアノの鍵盤のように黒と白が交じり合っていた

先ほどヘルタが目にした実験体とは違い、少女の顔には捉えどころのない表情と深い悲しみだけが浮かんでいた

彼女の視線は雛鳥の綿毛のように、ふわふわと僅かに戸惑いながら、ヘルタの上にそっと落ちた

こんにちは、ええと、ド……ドレ……

ユイ·ドレイヴィです

あっ……そ、そうです、ドレイヴィさん――

「ユイ」という聞き慣れない音のせいで、ヘルタは一瞬、相手の言葉が聞き取れなかった。 その失態に気付き、彼女は慌てて顔を上げた

わ、私は会社から派遣された助手のノイマン……いえ、ヘルタ!ヘルタ·ノイマンです。ヘルタと呼んでください――

……

……

……

(ヘルタよ、ヘルタ!――名前を呼んでくれるだけでいいから!)

彼女は気まずそうに眼鏡を押し上げ、むくんだ両足をぎこちなく揉んだ

ドレイヴィさん?

少女は固く両目を閉じたままだ

彼女の唇からは絶え間なく白い霧のような息が漏れ、体も抑えられないほど震えている。その青白い顔に血の気は一切ない

揮発する溶液の蒸気が漂い、その中で彼女はゆっくりと体を縮こまらせた

ドレイヴィさん!?

ヘルタは実験カプセルへ駆け寄った

なんて冷たさなの!

手をカプセルの中へ伸ばした瞬間、身を切るような冷気がヘルタの肌を突き刺し、彼女は思わず息を呑んだ

……大丈夫です

ヘルタが彼女の腕を支える前に、少女は意図的に避けるようにカプセルの壁に寄りかかりながら、のろのろと立ち上がった

回復したか?

ヘルタは部屋の入り口に立つ男へ視線を向けた。彼は見慣れた光景だといわんばかりにふたりを冷たく見るばかりで、手を貸そうともしない

1時間43分52秒。今回のサンプリング時間だ。調整と休憩を含めれば、もう2時間程度が必要だな

神経パルスは、まだ増幅の余地があるだろう?

ホルスト先生、待ってください!

はい

10%の増幅を試します

20%だ。耐えられなくなったら中止しろ

はい

先生、彼女が受けている負荷は、すでに他の実験体の2倍です……更に20%も増幅すれば、神経系が耐えきれず崩壊してしまいます

大丈夫です、ヘルタさん。私の意識なら、この程度の負荷にしばらくは耐えられます

99%の信頼レベルで、実験による不可逆的な影響は発生しません。これはマトリクスの演算結果です

残りの1%は?

その時はカプセルのセーフティシステムが、パルス電流を遮断しますから

で、ですが……

痛みはないのだろうか?

ヘルタの脳裏に先ほどの実験体たちの姿がよぎった。恐ろしく獰猛な顔は、檻に閉じ込められた野獣のようだった。彼らが受けている精神的な圧力はひと目でわかる

人間が痛みを感じる仕組みは、基本的には共通している。異なるのは、その痛みに直面した時にどんな表情を見せるかだけだ

ヘルタは、カプセルの壁にもたれかかる少女を見た。白い水蒸気が、彼女の唇の隙間から絶えず漏れ出している

ホルストは眉をひそめ、ゆっくりと息を吐いた

まあいい、しばらく休憩するとしよう

ヘルタはホッと息をついた

ドレイヴィさん、あの、私の手に掴まって……

大丈夫……自分で歩けます

彼女はふらつきながらカプセルを出ると、傍らの実験台に右手をつき、ゆっくりと立ち上がった

私の端末に今回のサンプリングデータが届いた。他の実験体と比べても、効果はかなりいいが……

彼は話の矛先を一転させた

だが私の知る限り、この<phonetic=天に選ばれた人>モデル</phonetic>は、まだ不完全な部分があるんじゃないか?

はい。ロバスト性と汎化能力に欠陥があり、更なるサンプリングが必要です

できるだけ早く準備しろ。今日はまだ時間がある

……もう一度試します

いいだろう

え……でも、ドレイヴィさんは今日はすでにサンプリングを3……いえ、4回しているはずでは……?

彼女は先ほど外で聞いた研究員たちの会話を思い出し、小声で呟いた

何か疑問でもあるのか?ヘルタさん

ホルストは、蚊の鳴くような呟きすら聞き逃さなかった

い、いえ……ありません……

そんなに緊張するな。別に君を責めているわけじゃない。ただ、疑問があるならはっきりと言えばいい

ヘルタはおどおどと顔を上げ、ホルストの表情を窺った……確かに、そこまで厳しい態度ではないように見える。不安を覚えつつ、彼女は口を開いた

ドレイヴィさんは、まだ十分な休息を取れてません。実験のリスクはどんどん高くなっているのに……

彼女が同意したとしても、担当の研究員がこんなハイリスクの実験を許可するでしょうか?

彼女はラボ内を見渡した。しかし、自分たち3人以外、研究員の姿はひとりも見当たらない

ヘルタさんの指摘は考慮すべき問題だ

で、君は実験を承認するかね?ドレイヴィさん

承認します

え……えっ?

ヘルタは慌てて「マトリクス」に入る前に配られた研究室の資料をめくった……

ユイ·ドレイヴィ:「リーボヴィッツマトリクス·量子並列性によるベクトル解析降下の最適化戦略」

「神経信号とモデルアーキテクチャのブリッジ接続と変換」……

「人間の意識サンプルに基づくモデルのプレトレーニングプラン」

リーボヴィッツ141号分区-マトリクス計画前首席研究員

第7マトリクス計画NO.0001号実験体

研究員と実験体、どちらもドレイヴィさんなんですか?

前……首席研究員っていうのは……

実験体になった者が、再び研究員を務めるのはふさわしくないだろう?まあ、彼女自身の意思ではあるがな

優秀な研究者であり、最高の実験体でもある……どの面から見ても、彼女には他と比べものにならないほどの価値がある

ホルストの口角が満足げに吊り上がった

その瞬間ヘルタは背筋が凍り、そして悟った。あの幾重にも重なる厚いゲートが存在する理由を

ここは……ドレイヴィの牢獄?

仕事環境には満足かな?

この待遇が誤解を生まないことを願うよ、ヘルタさん

会社の財産にも優劣があってね。ドレイヴィさんは、会社にとって最も貴重な財産のひとつだ

そのため、会社の計算資源は彼女に最優先に割り当てている。彼女は自分が望むあらゆる研究素材を手に入れられる

こ……これが「優遇」ですか……

ホルストは無言で冷ややかにヘルタを一瞥した。 ヘルタは思わず首をすくめ、口から出かかった疑問を飲み込んだ

……申し訳ありません、先生

優遇かどうかは、彼女が決めることだ

少なくとも私が見るに、マトリクス計画の研究進展と彼女個人の幸福は、等価であり同義語だ。置き換えたところで、何の問題もないだろう

彼はつまらなそうに肩をすくめ、唇の端に皮肉な笑みを浮かべた

ユイはこの会話にまったく関心がないのか、ただ淡々と今回の実験データを整理していた

雑談はここまでだ。神経パルスの強度を上げ、実験効率の向上を忘れないように

わかりました

今日の実験は早めに終わらせ、データを収集したら私に報告書を

……はい

明日、天に選ばれた人モデルを他の部署に引き渡し、共同研究を開始する

……

何かまだ質問があるのか?ユイ·ドレイヴィ

…………

ユイの態度を察した瞬間、男の表情は険しくなり、鷹のような視線が鋭く突き刺さった

こんな重要な局面で計画を台無しにするのか!

ヘルタは不安そうに少女の方を見た。ユイの顔は相変わらず蒼白だったが、虚弱のせいで口を閉ざしているわけではなさそうだ

ヘルタの錯覚だろうか?虚ろに見えたユイの瞳に、不思議な反抗心が宿った気がした。ユイはもたれかけていた体をなんとか起こし、ホルストの視線を受け止めた

天に選ばれた人は、まだ雛形の段階です。ハイパーパラメータの調整も完了していませんし、データセットにはまだまだノイズも多いんです

……2週間あれば、なんとか

データのノイズリダクション、パラメータ調整……分担してやればもっと効率よく進む。君も、実験体と研究員を両立する必要はないんじゃないか?

君ひとりで研究を進めるより、他の部署に仕事を振った方が進捗は早くなる

前回のモデルは、テスト中にデータ汚染で制御不能に陥り、結局皆さんによって完全に廃棄されました……信頼した結果がそれですか?

ヘルタがちらりと見た時、ユイの目の端に言葉にできない悲哀が揺らめいていた

それは単に、そのモデルに十分なロバスト性がなかったことが証明され、自然淘汰されたにすぎない

我々の研究開発スケジュールは、君にひとりでじっくり最適化させる余裕はない。一刻も早く雛形を作り、それを他の部署と共有して改良を重ねるのが正しいやり方だ

使えなければ次と入れ替える。本部が求めているのは結果だけだ。プロセスがどれだけ規範に則っているかなど、誰も気にしない

ユイの体が2回ほど危なっかしくふらついた。ヘルタは支えようとしたが、ユイはそれを手で制止した

黄金時代の完全に人為的に外部で訓練されたモデルとは違うんです。人間の意識サンプルから生成されたモデルは、本質的にはブラックボックスです

卓越した推理能力を持つ一方で、内部の不可解さも無視できない事実です

さまざまな問題に対する決定の下し方は、生成された人格に大きく依存する……それをどう最適化し補完するかを理解しているのは、研究員ではなく「モデル」自身です

人間の意識のサンプルを採取して機械意識の生成研究を加速させて生み出されたモデルは、他者による調整がほぼ不可能です……

一気に話しすぎたせいか、ユイは苦しそうに身を屈め、必死に息を整えようとしていた

くだらん与太話だ

ホルストは険しい表情のまま実験台に向かって歩いた

マトリクスには何人の人間がいて、いくつ計算ユニットがあると?2週間もの間、人間の脳もコンピュータも全て無駄に稼働させることになる

黄金時代のスーパーコンピューティングセンターなら、1秒間に1000ペタ以上の浮動小数点数演算を実行できた。君は今のマトリクスのアルゴリズムをどれほど浪費する気だ?

東エリアの執行官殿がまもなく視察に来る。我々に残された時間は僅かしかない

あの方を満足させられなければ、我々は永遠にこの141号の片隅に閉じ込められたままだ。唯一のマトリクスコアを守り続けるだけでは、真のブレイクスルーにはならない

モデルが使えないのなら次を試せ!迅速な反復、迅速な淘汰だ!

…………

ホ、ホルスト先生……私もここでドレイヴィさんの研究を手伝います。ですから……

ヘルタさん。君の、発言は、求めていない

ホルストは重々しい声で、一語一語を区切るように言った

覚醒した機械意識……これは人類にとってほぼ未踏の地です

天に選ばれた人モデルの現状は、テストに耐えうる基準には達していません

……

2週間では……完成度50%の欠陥品を手にすることになります

1週間だ。それまでに結果を見せてもらおう

……

彼女は固く唇を閉じ、その苛酷な結果を受け入れたようだった

次の瞬間、軽やかな羽がはらりと落ちるようにして、ほとんど音を立てずに―― 彼女の体は力なく崩れ落ちた

ドレイヴィさん!?

ヘルタは後ろから彼女をそっと支え起こした

なんて軽さだろう。彼女の体は紙のように軽く、ヘルタは危うく力を入れすぎてしまうところだった

実験の後遺症のせいか、彼女の体は完全に脱力している。ヘルタは彼女の体を近くの椅子の背もたれに寄りかからせた

今は休息が必要です

彼女に必要なのは実験だ

一歩一歩詰め寄るホルストの痩せた体が、長い影を引き伸ばしていく

??

(シャーッ!)

その時、白と黒のまだら模様の猫がユイの前に立ちはだかり、ホルストに向かって全身の毛を逆立てた

そんな取るに足らない微調整にこだわっていては、時間を無駄にするだけだ

執行官殿が満足する実験成果さえ出せれば、たとえ制御不能になろうと構わない。覚醒という目標そのものは二の次だ

さっさと自分の状態を整えて、次のサンプリングに取りかかれ

ユイを落ち着かせたあと、ホルストはヘルタに目配せし、彼女を廊下へ連れ出した

さて、ヘルタ。君は彼女の助手として、この1週間でできるだけ彼女に多くの成果を出させ、天に選ばれた人を早く他部署に引き渡せるようにしてもらう

ですが……

ユイの弱り切った姿を思い出し、ヘルタはどうしようもなさそうに目を伏せた

彼女のバイタルサインはかなり微弱です……心電図の波形も不安定に乱れて、体温も異常なほどに低いですし……私は、その……心配で……

彼女が生み出した「卵」を回収する――それが君の仕事だ、ヘルタさん

彼女が天に選ばれた人モデルの修正を続けるためには、継続的な実験が不可欠だ

でもこれはもう……精神に影響が出るというレベルではありません。命の危険さえ……

まさにその理由で、これこそが君の仕事だと言っている

えっ?それは……私が担当する研究内容の話ですか?私はドレイヴィさんの研究を補佐するために来たわけでは……

男はネクタイを軽く引っ張り、逆光の中で僅かに凶悪な表情をのぞかせた

ああ――どうすれば彼女を生かしておけるか、という研究だ

?!

もちろん、それは彼女が産み出した成果を手に入れられるという前提での話だ。つまり……

今後、君は彼女に「命の危険」を冒させてでも達成しなければならない任務に、何度も直面することになる

彼女が合格レベルのモデルを引き渡すことさえできれば、後は死のうが構わない。成果を得るまで、ただ彼女を生かし続けるんだ

……

ヘルタは無意識に拳を強く握りしめ、爪が手の平に食い込んでいることさえ気付いていなかった

私が欲しいのは天に選ばれた人だ。早ければ早いほどいい

ホルストの背中を見送ったあと、ヘルタはぼんやりとしたまま実験室へと戻った

ふと、ふわふわとしたものが足下に擦り寄る感触があり、ヘルタは視線を落とした――先ほど主任を威嚇した猫だ

??

(ゴロゴロ……)

<phonetic=5号>V</phonetic>、おいで

V

にゃ~ん……

白黒の猫を見て、ユイの冷たい表情は少し和らいだ

ドレイヴィさん、さっき医療部と連絡を取り、ブドウ糖と、神経安定剤をいくつか送ってもらいました……

わかりました

ヘルタは彼女の袖をまくり上げ、露わになった青白い肌の腕に駆血帯を巻き、アルコールを塗りつけた……

それにしても冷たすぎる。実験カプセルの溶液と同じく、氷のような手の冷たさに、ヘルタはまた息を呑んだ

ヘルタが温かいパッドを当て、手の甲に針を刺し込んでも、ユイは微動だにしない

協力はしないが抵抗するでもなく、糸の切れた操り人形のように、彼女はただ椅子の背もたれにおとなしく寄りかかっていた

実験を中断することはできないんですか?

ユイは無言で顔をそむけた

今の天に選ばれた人を引き渡せば……恐らく廃棄される運命は避けられない

主任は彼女に改良のための時間を与えなかった。サンプリングを諦めれば、これまでの努力が全て水の泡になる

これは、一度動き出したら二度と止まることのできない列車だ

ヘルタは悟った――彼らが最初から、ユイに「中断」という選択など用意していなかったことを