巨艦の誰も知らぬ片隅で、尋問はいまだに続いていた
実験しなかった?別のプロジェクトが順調にいきすぎて、ジイさんがあのガキどもに期待しなくなったからか?
ええ。意識融合実験は、予想以上に順調に進んだわ……
人体の限界を克服しなければ、たとえ零点エネルギーの概念が現実になったとしても、人類は決して恒星間植民を達成することはできない
ボコノン計画?人工生態圏の実験で植民艦の居住環境を向上させる?資金提供はもちろん可能だ。そんな安易な方法で済むなら安いものだ。だがリスクは分散させておかねばな
思考を保持したまま肉体を変える。それは、更に検討するに値するプランのようだな
この子供たちは、傭兵軍隊の1個大隊や低温核融合炉、オータム級宇宙戦艦よりも重要だ。最終的に彼らは、世界を変えうる唯一の存在となる可能性がある
彼は今でもあの老人の言葉を覚えている。だが、激動する時代の前では取るに足らない約束だ
子供たちの脳を機械の体に移植した罪は、取り返しがつかず、意識伝送と融合という狂気の思想が彼の地位を奪いつつあった。消耗品なりの覚悟はしたが、良心は振り払えない
……向こう岸という約束があったからこそ、私たちは汚れた血の中へ飛び込んだんだ。だが今になって、血の海で溺れ死ねというのか?
実験サンプルは依然として貴重な資産です。あなたの黒野への貢献が、ここで帳消しになるわけではない
この候補者たちを基盤に、あの老いぼれは、彼直属の黒野情報局に所属する機関――ボラード機関の設立を決めた。そして、私はボラード機関の総監に任命されたわ
グループ首脳からの異動命令は、彼女に十分な意欲を与えた。もはや、彼女は「ロスウォットの助手」という立場から完全に脱却していた
情報局だと?私の手元にいる子供たちは、アルファベットすら満足に読めず、ただ条件反射で命令を遂行することしかできないパブロフの犬だ!
不条理だという感情は怒りへと変わり、男は激しく反論を叩きつけた
それこそがエージェントの最も基本的で貴重な資質では?命令の意味を考えず、任務が自分の限界を超えているかどうかすら疑わない……ただ本能的にできる限り任務を遂行する
なら、基本的な教養は?あのジイさんは世界政府という牙城を崩したいようだが、資料も読めず、まともに取り繕うことすらできない子供たちに、それができるとでも!?
子供たちの生きる意味は、あの手術を受けることだけだ。運がよければ新たな人生が手に入る。だが、この施設で最も稼働しているのは、地下の火葬炉と構造体回収室だ!
彼は今なお全てが理解不能だった。何か成果を上げられれば唯一、良心を慰める方法になっただろうが、彼が生き甲斐としている贅沢は今、奪われようとしている
ご心配なく。エージェントの役割はさまざまですから。子供たちに全知全能を求めたりしない。ボラード機関は今後、成人候補者を採用し、この子供たちが編入されるのは――
ボラード機関第0部門の監視及び掃討部門です
彼女は顔色ひとつ変えなかった。彼女にとってこの会話は、単なる業務の引き継ぎにすぎない
……黒野の小さな殺し屋というわけか
彼は虚しくなり、抵抗を諦めた。いや、この結末は前からわかりきっていた
その通りです
必要な情報を全て伝え終えた彼女は、アームチェアからゆっくりと身を起こした
孤児院の家長として、最後の日々を存分にお楽しみくださいな、ロスウォット院長
テーブルの向こうに座るロスウォットは、青銅の彫像のように硬直していた。彼は、去っていく訪問者が扉を閉めた音にも気付かなかった
扉の内側に掛かっていた防水紙に描かれた解剖図が、いつの間にか床へ落ちていることにも気付かなかった
しばらくして、はっと夢から覚めたかのように、彼はデスクの引き出しを開け、1束の書類を取り出した
それは孤児院に収容された100名以上の子供たちの名簿だ。その内容は、ロスウォットの脳裏に深く刻み込まれている
なぜなら……その中の半数以上の候補者は、彼自身が直接「スカウト」したからだ
引き渡しの日までは、私がまだ院長だ
君の言う通りだ
彼はそう呟き、自身の決断を下した
……わかりました
中年男性の指示を聞き終えた子供は、ただ静かにコクリと頷いた
金縁眼鏡をかけた院長先生が宿舎に姿を見せることは、滅多にない。それは、この孤児院では暗黙の常識だった
大半の子供たちは、孤児院に来た初日にこの謎の男性の姿を見るだけだ
だがその彼が、最も孤立した子供のベッドの側に腰を下ろし、誰にも聞こえないように、彼女の耳元でそっと囁いていた
しっかりやるんだぞ、この機会を無駄にするんじゃない。さあ、荷物をまとめて
彼は子供の肩を軽く叩くと、折り畳み椅子から立ち上がった
小さな頭は黙ったまま俯くと、ロッカーの扉の向こうに姿を消した
1分後、彼女の私物は全て行軍バッグに収められていた
よし、行こうか
男が子供を連れて部屋を後にすると、室内にひそひそと囁き声が広がった
……彼女、手術に選ばれたんだ
子供たちのリーダーがキッパリと自分の判断を言い放つと、そのひと言が議論に波紋を広げた
そんなわけないだろ!あんな出来の悪いやつ、誰が選ぶってんだよ……
取り巻きの子供ははっきりと異議を唱えたが、心の奥底にある本音は口に出せなかった
アンタの考えてることなんてお見通しよ。一番に優秀なエレノアなのに、どうして地獄行きが彼女じゃないんだ?ってことでしょ
……
彼女は、悪口の対象が同じ寝室の隅にいることなど、気にも留めていないようだ
ふぅん、ワガママなのがよかったのかもね?手術台に縛りつけたら、薬瓶や試験管を叩き割っちゃうかもって、大人たちもビビってるんじゃない?
そのからかい交じりの嫌味を聞いた子供たちの間に笑い声が広がった。子供たちのリーダーは、寝室の隅にいるその人物の方をそろりと見た
エレノアにとってこんな戯言は、気にかける価値すらない
寝室の片隅で、声をひそめて会話を交わすふたりの少女は、周囲の騒ぎにまるで関心を持っていなかった
本当に彼らの言う通りなの?
青い髪の少女は冷静に問いかけた
まさか。あの子は養子として引き取られたの
誰に?ここは外部から隔離されてるんだと思ってたけど
前に、私が傷病報告を提出しに行った時、たまたま院長室の前を通りかかったの……
院長先生は電話中だったけど、ヒソヒソ話していて、聞かずにはいられなかった
エレノアは盗み聞きするような悪い子じゃないんだけど……
私、迷子になっちゃって。だから綺麗に畳んだ報告書を膝の上に置いて、廊下の長椅子に座ってたの。院長先生が電話を終えたら、医師のオフィスの場所を訊こうと思ってね
そこ、静かなフロアだったでしょう?
少女は、評価を下すことなく、ただ自分が知っている事実を述べた
そうなの!だから、会話の内容がうっすら聞こえて、つい聞いちゃったの……
残念なことに、院長先生はもう電話を切るところだったわ。何かを保証する約束をしたみたいで、最後に自信ありげにこう言ってたわ……
……「今後ともよろしくお願いします、グルートさん」って
じゃあさっきの子は、その電話の人に引き取られたの?
それはわからない
私が医師のオフィスのことを訊ねたら、院長先生は少し不思議そうな顔で私を見たあと、「主治医は休暇に入った」って言ったわ
ボラードで一番忙しい医師が休暇なんて取ると思う?だから、私はわざわざオフィスまで行ったの。そしたら、本当に扉はしっかり施錠されてた
彼女にとって、シュエットは最良の聞き手だった。この情報を打ち明けたところで危険はない。いずれにせよ、この状況の変化は遅かれ早かれ子供たちの間に広がるからだ
ただこれは、彼女が初めて恐怖を感じた瞬間だった。これまでは全ての流れを把握できていたのに、今はできていない
……手術はもう続けられないのかもしれない
彼女はついに自分の判断を口にすることを決めた
!!
青い髪の少女は、どう答えるべきかわからず、この情報自体すら理解できずにいた
ズルしないで!アンタ、今のビー玉、自分で動かしたでしょ!?
リーダーがそう言ってるだろ!早くビー玉を置けよ!
入口近くのベッド周辺が再び騒がしくなった。腕白な子供たちが、このめったにない自由時間を無駄にするはずもなく、ワイワイとチェッカーに熱中している
エレノアやシュエットは、たとえ興味を持ったとしても、こうした遊びに加わることはほとんどなかった
エレノアは、対戦相手の次の一手を予測するのが得意だった。そして、情け容赦なく相手を「詰み」に追い込んでしまう
そうなると、負けた子供たちはエレノアがいない隙を見計らい、その鬱憤をシュエットにぶつけるのだった
好きに遊ばせておけばいいわ……私たちに残された時間は、もうそんなに多くないんだから
わからない……養子に迎えられるって、新しいお父さんやお母さんと一緒に暮らすことなの?
そうだと思う。私も信じたいわ……きっとそうだって
「手術」が何を意味するのかさえ、本当に理解している子供はひとりもいなかった
教官が姿を見せない時、保育士が小さなカートを押しながら宿舎へとやってくる
クリスマスや子供の日――彼女はいつも、子供たちに小さなチェリー付きのケーキを配ってくれた。外の世界と隔絶された子供たちは、祝日の意味を理解していなかった
甘いケーキは、ビスケットよりもずっとおいしかった。だが保育士はごく稀に、ある子供のベッドへ真っ直ぐに向かうと、糖衣錠が入った小袋を差し出した
選ばれた子供は、色とりどりの小さな錠剤を口に入れると、保育士とともに寝室を後にする
そして、その子供は二度と姿を見せなかった
……養子縁組計画ですって!?命が惜しくないなら、正式に申請してみればいいわ。あの老いぼれが、最高の暗殺者をご機嫌伺いに寄越すわよ!
彼女は分厚い資料の束をデスクに叩きつけた。威厳ある態度は崩さなかったが、その声には火薬のように燃える怒気が滲んでいた
最初の2文字を見落とすな。「極秘」養子縁組計画だ
孤児院の秘密はまだ一切漏れていない。クティーラ計画の進展にも、ボラード機関にも何の影響もない
子供たちに「院長」と呼ばれる男性は、冷静に彼女の非難を受け流した
それに、私が送り出したのは平凡な候補者ばかりだ。つい2日前にも、ある精神科医が孤立していた子供を引き取ったが、その子はテストの成績もほぼ毎回最下位だった
つまり視点を変えれば、私は機関が必要とする最も優秀なエリートだけを篩にかけているともいえる
彼の弁明は水も漏らさぬ完璧さだった
私が今日、ここへ来た理由はご存知?
彼女は口ぶりを変えたが、それは友好的と呼ぶにはほど遠いものだった
他の引き継ぎの件か?
あの老いぼれは、最高機密だけは「閲覧後は即焼却」と紙の書類で伝達する。そこのデスクに置いてあるから、自分で確認して
彼女は資料の束を顎で示し、ロスウォットは無言のまま表紙をめくった
……異動命令?
彼は最悪の事態を覚悟していたが、この結果はあまりに異常だった
デスクの向こう側に座る女性は冷たく笑った
それにしてもあの老いぼれ、なぜあなたをここまで重用するのかしら?孤児院を潰した上で、なお別の道を与えるなんて
今日からあなたはボラード機関所属のエージェントよ
命令を受けるか、それとも……
彼女は俯き、意味ありげにネックレスの先の宝石を見つめた。その透き通る輝きの下には、最も致命的なシアン化合物が仕込まれていることを院長は知っている
私の黒野氏のグループへの忠誠心は、一度たりとも揺らいだことはない。その点については、疑わなくて結構
異動命令を受けよう
感情を排したプロの表情が彼の顔に戻った
なら、あなたの最初の任務はもう始まっていることになるわ
贖罪のチャンスというわけか
彼は、遠慮なく会話の主導権を奪った
……好きに言えばいいわ。ともかく、あの老いぼれはボコノン計画の実行を正式に承認したわ
クティーラ計画は、私たちが未来を手にするための第一歩よ。だけど、世界政府の動向も決して油断はできない
エデン計画のスケジュールが組み込まれたけど、長距離宇宙船内の人工生態圏の信頼性については、黒野は最初からずっと疑問視している
ボコノン計画は、私たちのこの分野での競争手段を切り拓く。そして、その実行拠点はロプラトス郊外にある北米生態科学研究所よ
私に何をさせる気だ?
訪問者の説明はすでに終わった。彼はいつも前置きを省き、ストレートに本題に切り込むのを好んでいた
研究所所長のモンツァノは、莫大な予算を要求して施設を建設しようとしている。でも老いぼれが賭けているのはクティーラ計画よ。モンツァノの要求額を全額支払う気はないの
でも、この砂漠には黄金の道が敷かれた都市があるわよね?ちょうどいいことに、ロプラトスの実質的な支配者は、モンツァノの兄、フレッド·シンクレアとその夫人よ
彼女は、孤児院を取り囲む荒野の先にある極楽の都を見透かすように、窓の外に視線を向けた
モンツァノに協力し、ロプラトスから資金を調達するのか?私が金融関係の仕事は不得手なのは、君もわかっているだろう
彼は少し不満そうに言った。この任務は、あの老人がわざと彼に醜態を晒させるつもりで任命したのだろうか
フン、思い上がらないで。この資料にはシンクレア夫妻に関する調査結果も添付されているわ。まずは読んでみたらどう?
ロスウォットは再び紙の資料をめくり、情報にざっと目を通した
……フレッド·シンクレア……旅行中に、31歳年下の歌手フェリスと出会う……
男性不妊症と診断済み……男女問わず養子を検討……
……目標のフレッドの直系親族で存命しているのは妹のみ
彼が紙の束から顔を上げた瞬間、パラゴンスキーの鋭い視線とぶつかった
あなたが飼い慣らした小さな殺し屋たちの出番じゃない?
シンクレア夫妻を殺したところで、モンツァノが確実に資産を相続できるとは限らない
彼は資料を閉じた。胸の奥にはすでに不吉な予感が湧き上がっていた
もちろん、同世代の者に財産を譲る人間なんていない。でも、子供への愛は誰であれ、変わらないわ……
今更子供を望むべくもない高齢で、後継ぎについて唯一の希望を若い妻に託すような老いた富豪なんかは、特にね
ロスウォットは一瞬唖然とし、目の前の女性が何を示唆しているのかを悟った
あなたの養子縁組計画は、なかなか悪くない発想ね。お陰で話がずっとスムーズになるわ
つまり彼女は、ロスウォットが勝手に独断したことに怒っただけだった
任務はいつから?
今すぐにでも適任者を選び始めて。もう邪魔しないわ
ロスウォット深々と息を吸った
来訪者が去ったあとに、彼があの祈りの言葉を口にしないのは初めてだった
「主よ、我らをお赦しください」――
だが、子供をただの道具として扱うこの論理の中で、神など一体どこにいるのだろう?
同じオフィス――しかし、デスクの向かいの椅子には、新機関の総監よりもずっと小柄な姿が座っていた
前回の傷病報告で、何か結果は出たか?
彼は上の空で世間話をしながら、話をどう進めたものか考えていた
院長先生が、主治医は休暇だって仰ったじゃありませんか
……ああ、そうだったな。歳を取ると忘れっぽくなるんだ
そんなこと仰らないで、院長先生。全員のことを考えすぎて、お疲れなんでしょ?
少女の礼儀正しい笑みが、なぜこの選択をしたのかという理由をロスウォットに思い出させた
この特別な子がどこで読み書きを覚えたのか、なぜ絶対音感を持つのか、更に宿舎の子供たちに「チェッカーの達人」だと噂されていることも、彼にはどうでもよかった
その全てが、任務においてこの上ない強みとなるのだ
君は賢い子だ。ボラード孤児院の状況が決してよくないことは、もうわかっているだろう?
本来なら、病院と協力し、なんとか運営を続けられるはずだったが……
彼は、目の前の少女にどの程度まで言うべきか、慎重に考えた
手術がうまくいっていないせいですか?
……そう言ってもいいだろう
少女の淡々とした態度に、彼は大人の嘘が通用しないことを悟った
ともかく、この孤児院はもうすぐ閉鎖される
この世界には子供を望みながらも授かれない人々が大勢いる。彼らは、完璧な生活を願っているんだ。今後、君たちはそういった新しい家へ行くことになる
院長は、叶うはずのない未来を冷たく約束した
院長先生が私を呼び出したのは、何かお考えがあるからなんでしょう?
院長先生は、ずっと私たちのことを一番に考えてくれました。だから、私も院長先生の言うことをちゃんと聞きます
少女は完璧ともいえる笑顔を見せた。だが、ロスウォットはその奥に隠された深謀を読み取ることができなかった
我々の養子縁組の告知を見た、ある老紳士とその夫人が、君のことを気に入ったらしい。いい日取りを選んで、君に会いに来ることになった
すでに決まっている。明後日、彼らはここに来る予定だ
彼はふと、自分の言葉に嫌悪感を覚えた。まるで、ペットの譲渡について話しているようだったからだ
わあ!私の新しいパパとママになってくれるんですか?
ロスウォットが最も言いづらい任務の内容を伝えるよりも先に、少女は無邪気な歓声を上げた
安心してください、院長先生。私、きっといい子でいます
でも……ひとつだけお願いがあるんです
彼女の輝いていた瞳はほんの一瞬翳ったが、それでも、礼儀正しい笑みは決して絶やさなかった
友達のことだろう?
心配いらない。それもすでに考えてある。あの子の新しい家は、君の新しい家のすぐ近くだ
眼鏡の奥には真剣な眼差しがあった。それは、彼が唯一口にした誠実な言葉だった
嘘じゃないですよね?
嘘じゃない、約束する
なぜこの少女は、上品さと無邪気な快活さを自在に切り替えられるのだろう。彼女はまさにこの任務に最適だ……そう考えて、ロスウォットは言いようのない恐怖を感じた
じゃあ、私とシュエット、それに院長先生も、きっとまた会えますよね?
……
ロスウォットは答えなかった
彼女の喜悦が滲んだ目元は滑らかな弧を描き、彼に鋭い鎌の刃を連想させた
広々とした宿舎の中、ベッドはすでにほぼ半分以上が空になっていた。持ち主のいない荷物やリュックが目を引く
ロスウォットは、部屋の隅で縮こまっている青い髪の少女を見つめ、小さくため息をついた
(これが、私が君のためにできる全てだ……)
そう心の中で呟きながら、彼は少女に歩み寄った
……シュエット
少女は黙り込んだままだ
シュエット、もう行く時間だ
彼女はゆっくりと立ち上がった――彼女は決して命令には逆らわない
……エレノアは?
わかっているだろう、選ぶのは私たちじゃない。養子縁組希望の家族たちだ
じゃあ……私はまた捨てられた?
彼女は激しく動揺したりはしなかった。ただ、ちらちらと揺らめく残り火のように、ゆっくりと光を失っていった
エレノアに新しい家族ができるのは、いいことじゃないか
そう言った瞬間、彼は自分の慰めがどれほど愚かしいのかを悟った
少女は返事をしなかった
私たちが行くのは、エレノアの新しい家のすぐ近くだ
私が新しく開いた裁縫店だ。前に、君が暮らしていたロプラトスだ
男性がそう言った瞬間、少女がピクリと反応した
さいほうてん……?
彼女は、遠い記憶の奥底から呼び覚まされたかのように、その言葉をゆっくりとひと文字ずつ繰り返した
私にそんな才能があるなんて知らなかっただろう?
心配しなくていい、すぐに新しい生活が始まるんだ
彼は好機を逃さず、そっと少女の手を取り、安心させるように語りかけた
少女はコクリと頷き、それ以上何も言うことなく、無言で荷物をまとめ始めた
ロプラトス
3日後
美しい衣服が、控えめな内装を彩っていた。マントや訓練服しか知らない彼女は、美という概念を、娯楽施設の客たちの服装に垣間見るだけだった
男は彼女を連れて無垢材の階段を上り、2階の一角にある小さな扉を開いた
そこは設備の整った暖かな寝室だった。硬いベッドが一律に並ぶ無機質な宿舎とは、まるで別世界だ
ここが君の新しい家だ
もうすぐ日が暮れる。道中疲れただろう、今日はゆっくり休むといい
承知しました
彼女の論理では、言われる言葉を全て命令として捉えているようだった
ここではもう訓練はないんだ。もちろん命令もだ。もっと気を楽にしていいんだよ、シュエット
しかし少女はその言葉に取り合わず、真っ直ぐベッドへ向かうと、手荷物から拘束バンドを取り出した
彼女が手首を持ち上げ、筋肉に刻み込まれた動きをしかけた時――オレンジ色の拘束バンドは、男にさっと奪い取られた
……
こんなもの、もう必要ないんだ。それに、訓練服内蔵の循環洗浄機能なんかより、温かいシャワーの方がずっと気持ちがいいぞ
彼は、ベッドの向かいにあるバスルームのドアを手で示した
ありがとうございます、院長先生。でも、今日はもう少し眠くて
わかった。ああ、最後に……これから、店には新しい客がたくさんやってくるだろう。この街には善人も悪人も大勢いる。決して安全とはいえない……
彼は、穏やかな口調で話題を変えた
私に何も言わずに、勝手に外へ出てはいけないよ
2階には生活に必要なものが全て揃っている。興味があるなら、色々見てみるといい
少女にはその言葉の意味がわかっていた。それは、禁足令をただもっともらしく言い換えただけだ
それじゃあ、ゆっくりおやすみ
重厚な木の扉が、男性の背後で硬い音を立てて閉まった
少女は訓練服を脱ぎ、柔らかなベッドにゆっくり横たわった
……エレノアは、どこ?
正直なところ、彼女は少しエレノアが恋しかった。たとえまた捨てられたのだとしても、誰かに頼られる感覚は嫌ではなかった
不可解な禁足令は、彼女にこれからの裁縫店での生活に漠とした不安を感じさせた。それでも、彼女は抑えきれない本能的な憧れを持っていた
浮浪者になる前、針仕事は彼女が最も得意とし、誇りにしていた技術だった
いずれにせよ、この夜はここしばらくの間で、彼女が最も穏やかに眠った夜だった
手首をフレームに縛りつけることもなく、夢の中で彼女は自由に包まれていた
そして夢の中では、澄んだ振動が奏でる「タンホイザー序曲」が響いていた
パラゴンスキーは長い話を終えると、軽く咳払いをし、それ以上何も言わなかった
ほーう……ロスウォットはシュエットを引き取り、ロプラトスに諜報拠点を設立する名目で、街に根を下ろしたってわけか
なるほどねェ。道理で、後になってジイさんが殺し屋を使ってロスウォットを消したわけだ。機関の候補者を私物化しようとしたってことじゃねえか?
彼は吐き捨てるように毒づいた
ええ、彼はそれをせめてもの保護だと考えていたみたい。シュエットをボラード機関第0部門に所属させたくなかったのよ
保護したものの、結果は上出来とはいかなかったか
……エレノアが任務を完了したあと、ボコノン計画はしばらく順調に進んでいた――クティーラ計画の順調な進展を受けて、あの老いぼれが最終的に資金を切るまではね
暗殺事件の後、シュエットはモンツァノの下に潜伏し、一部の情報を収集したわ。でも、まさかパニシングが全ての計画を狂わせるなんて、誰も予想していなかった
モンツァノは、シュエットを寝返らせることに成功したと考え、彼女を二重スパイとして黒野に送り返そうとしていた
でもパニシング爆発後、モンツァノとエレノアは行方不明になった
とはいえ、彼女たちは脱出に成功したという噂もある。私はむしろ、その噂の方が信憑性があると思っているわ
それについちゃ心配ご無用。それと、アンタの昔話にも感謝する。これから空中庭園のネジ1本まで分解して、徹底的に調査してやるさ
そんなセレブ様がこの巨艦に乗り込んでいたというのに、俺たちがきちんとした歓迎をしないなんて……とんだ失礼を働いちまったぜ
彼はまたもや嘘くさい表情を作って見せた
その後のことは、あなたもよく知っているはずよ
ボラード機関の元総監は自身の話を全て語り終え、意外にも少し心が軽くなっていた。この話は本来、彼女の胸に秘め、墓場まで持っていくつもりだったからだ
まったく、泣かせる話だねェ……初代議長のように臥薪嘗胆、大義のために尽くす人材……我々黒野の本領発揮というところだな!
男はファイルを閉じ、感極まったかのように、無理やり数滴の涙を絞り出した
パラゴンスキーには、これが最終判決だとわかっていた
報告をどうやって議会に提出するかは、これから決める。裏で失敗を背負う者がいるからこそ、我々の事業は前へと進むことができるのさ
過去のことは水に流そうじゃないか。議会だって、全ての人体実験プロジェクトはここで終了した、という報告を受ければ、それで手仕舞いにするさ
お前さんの尊い犠牲によって、真のウィンター計画は順調に進むんだ
彼は錆びついたスキットルを取り出し、金属製のテーブルに重々しく置いた
それはパラゴンスキーの私物だったものだ
では、レディに少々プライベートな時間を作って差し上げよう
……
男は立ち上がり、部屋を後にした
彼女は皮肉を気にも留めず、最後の言葉を口にする機会さえも、自ら手放した
遺言など手の届かない望みだ――それは、英雄にだけ許される
彼女はエメラルドのネックレスを見つめた。透き通った美しい宝石の奥には、致命的なシアン化合物が隠されている
パラゴンスキーはスキットルの蓋を開けると、宝石の裏に隠していたものを全て中に入れた
そしてカクテルを調合するかのように、ゆっくり容器を揺らした
最後の瞬間まで威厳を貫く者は、黙して去るようなことはしたくなかった
……旧世界に、乾杯
そう言うと彼女はスキットルを持ち上げ、一気に飲み干した