奉仕員がバンジを前に押し出し、皆に自己紹介するように言った時、バンジは人々の中に青紫色の髪の者がいることにひと目で気付いた
明らかに、向こうもバンジのことを見ていた
更にありありと伝わってきたのは、相手がバンジを歓迎していないということだ
バンジが「グループ活動」に参加し、初めて皆との昼食を楽しんでいた時、青紫色の髪の少年がバンジに2度目の出会いの第一声を放った
自分の場所に帰れよ
……
バンジに「帰る場所」はここ以外にない。彼は少年の言葉を無視して、スプーンで皿の中の食べ物をすくった
次の瞬間、少年が手を伸ばしてバンジのスプーンを奪った
ペール!
少し離れた場所にいた奉仕員がテーブルの異変に気付いた。彼女は少年の名前を叫びながらやってきて、スプーンを取り返してバンジの手に戻した
お前のせいだ。母さんはすぐに目を覚ますはずだったのに!
目を覚ます?
バンジはあの研修医がペールに言った嘘を思い出したが、今回は真実を伝えないことにした
ペール、これで今日は2度目の規則違反よ。もし次に違反したら、お仕置きしますからね
こいつが先に突っかかってきたんだ!
バンジが?彼は今日ここへ来たばかりじゃないの
ここでじゃない、病院でだ!母さんは休眠するだけだって先生が言ってたのに、こいつが……こいつが……!
奉仕員はペールの言いたいことを察したのか、彼をどこかへ連れていった
その日の残り半日、バンジがペールに会うことはなかった
バンジや同年代の子供たちは、オモチャでいっぱいの部屋に入るよう促された。部屋の床は柔らかく、バンジが「スズメ」の端末でしか見たことのないものがたくさんあった
安全そうな滑り台の側に座り、子供たちが滑って遊ぶのを眺めていたバンジは、ここでの時間がメルヴィの助手ほど楽しいとは思えなかった
外の「空」がすっかり暗くなっても、バンジがこの滑り台で遊ぶことはなかった
静かな夜、バンジはそっとベッドに潜り込んだ
バンジはペールの次に育成センターに受け入れられたため、運悪くペールと同部屋だった
だがバンジはこの部屋割りを気にすることなく、宿舎の中をじっくり観察していた。机の上の小さなナイトランプ以外は、全て彼にとって興味深いものだった
やがてペールが部屋に戻ってきたが、彼は上のベッドにいるバンジを無視してそのまま寝てしまった
……
ペールは扉が開く微かな音で目を覚ました。ナイトランプの小さな光を遮って、黒い影が扉の側に立っている
ん?
ペールはすぐに起きて、声を抑えてバンジに話しかけた
お前、何してんだよ
寝たくない、外に行きたいんだ
正気か?消灯後は外に出ちゃダメだって言われなかったのか?
言われなかった
じゃあ勝手にしろよ、問題児。捕まったって俺は知らないからな
……奉仕員のおばさんに呼ばれて何を言われたの?しかられた?
いいや、お前との同部屋を断ってもいいって言われただけだ。育成センターにはまだ空き部屋があるから、部屋にひとりずつでもいいって
それを断らなかったの?
おばさんが言ってた。お前はよく悪夢を見るし、病院でもひとりで寝たことがない、すごいビビりだって。まあ、俺はお前より年上だからな
僕、別に怖がりじゃないよ……ふわぁぁ……
バンジはあくびをした
眠そうにあくびしてるのに、何で寝ないんだよ?
……寝たら怖い夢を見るから
……ふうん、おばさんたちの話、本当だったんだ
ペールは不機嫌そうに枕に頭を戻した
お前と話すことなんてない、さっさと寝ろよ。今日は休みだったから、皆と一緒に1日中遊んだんだろ?明日からはそんなに楽じゃないぞ
明日は何をするの?
いろいろだよ
バンジはゾクリと震えた
「夜明け前から注射されたり薬を飲まされて、食事や睡眠はナシ。その上、怖~い魔女の婆さんに叩かれる」?
?
何言ってんだ?基礎教育センターで授業や活動をするだけだ。育成センターの同じくらいの年齢の子供がグループに分かれて、それぞれ授業を受けるんだよ
お前は俺たちのグループの中で最年少、俺が最年長だ
ここで13歳か14歳になる頃には、どんな職業に就くかを考えられるようになる
俺は少し年上だけど、お前たちと同じグループに分けられたから……多分、16歳くらいでここを出るだろうな
ここを出たら何をするの?
お前には関係ないだろ
基礎教育センターって?授業を受けるための場所なの?基礎教育って何?
……ったく、何でそんなに質問が多いんだよ
バンジは人間社会に偶然迷い込んだ雛鳥のように、好奇心と不安を感じながらも、初めて聞く言葉の全てを真剣に噛み締めていた
僕……
いつもそんなにノロノロしてるのか?面倒なやつだな
ペールの声は次第に大きくなった
短い会話の中でバンジの脳内にいくつもの知らない言葉が引っかかったが、彼はそれらがいい意味ではないと感じていた
病院の先生たちは、僕のことをそんな風に言わなかったよ
僕はバカじゃないし、「問題児」でもない。ノロノロもしてないし、どこかへ「帰る」こともしない。そんな風に言うのは間違ってるよ
もういい!俺は寝る!これが最後の警告だからな!
どうしていつも僕とそんな風に話すの?
バンジも顔を強張らせた
先生、先生って……そればっかりだな。でも、その先生たちがお前をここに捨てたんだろ?お前が先生たちを好きでも、先生たちはどうだ?お前を引き取ってくれたか?
……
まさか、自分は俺とは違うと思ってるのか?皆、お前を捨てたんだよ、ポイってな!ゴミを捨てるのと同じように――うわぁっ!
ペールのとめどない悪口がいきなり中断した――バンジが猛然と体当たりしたからだ。バンジがペールの顎に強くぶつかり、倒れ込んだペールは頭をぶつけそうになった
ペールは3秒ほど頭が真っ白になったが、すぐに屈辱を晴らすべくベッドから跳ね起き、ためらうことなく反撃に出た
ふたりは取っ組み合いを始めた。幸いすぐに当直の担当者が駆けつけ、騒ぎは数分もせずに終わった
青少年育成センターに来て2日目で、バンジはお仕置きを受けた
今日は本来、彼らのグループの入学式だった。他の子供たちの話によると、寄宿生は外部から通学する生徒と一緒に授業を受け、同じ内容を学ぶらしい
ペールいわく、通学する生徒には両親がいるが寄宿生は孤児、という簡単な違いらしい。バンジはまだ外部の生徒に会ったことがなく、少し興味が湧いた
お前が手を出さなきゃ、俺たちだって入学式に参加できたんだ……もう昼になるのに、あいつらどうしてまだ帰ってこないんだろう
……
廊下の向こう側から賑やかな声が聞こえてきた。入学式を終えた新入生たちがようやく戻ってきたのだ
彼らは先生たちの指示に従い、廊下の両側にある教室に入っていった。新入生は次第に分かれ、廊下の端に着く頃には「同じグループ」の寄宿生だけが残っていた
子供たちはうつむくペールとバンジの前を歩きながら、ジロジロと眺めてきた。やがて、彼らが何をしでかしたか知っている子供たちがふたりをからかい始めた
ペールのせいで、新入りまで悪い子になっちゃったね!
「俺のせい」ってどういうことだよ?
……僕は悪い子なんかじゃない
うっそだあ。だったら、どうして寮長がお仕置きなんかするのよ
ナタリーはおどけた顔をしてみせた
ほら、皆静かに!
ペールのぶすっとした顔を見て、奉仕員は彼にも注意をした
ペール、これ以上問題を起こさないで
先にふっかけたのは俺じゃない!
でも、先に悪口を言ったのはあなたでしょう?
俺は――
そろそろ昼食の時間だから、もう口答えはやめて。とにかくふたりとも怪我がなくてよかったわ……もうこんなことしちゃダメよ。ペール、教室に入りなさい
育成センターの奉仕員は引率の教師と二言三言交わすと、ペールに教室に入るよう手で促した
バンジもペールの後について教室に入ろうとしたが、奉仕員にそっと引き止められた
バンジは私と来て
バンジは椅子の上で両手をギュッと握りしめた
背後からメルヴィの特徴的な足音が聞こえ、バンジははやる気持ちを抑えながら振り返って彼女を出迎えた――
メルヴィと別れてさほど間もなかったが、それでも彼は恋しかった
だがメルヴィの表情を見た瞬間、バンジは呆然と固まってしまった
喧嘩したんですって?しかも、あなたから手を出したって
メルヴィは険しい表情でバンジに問いかけた――スターオブライフから急いで駆けつけたのだろう、白衣を着替えてもいない
思わずバンジは謝り始めた
ごめんなさい……しからないでくれる……?
殴ったの?怪我はしてない?
……?
大丈夫です、私たちも確認しましたが、ふたりとも怪我はありませんでした。本気ではなかったみたいですし
バンジの話を待たず、メルヴィは彼を立たせ、腕や足を持ち上げて全身を確認した
携帯用呼吸器は持ってる?もし息苦しくなったらすぐにつけるのよ
髪もちょっと伸びてきたわね……病院で切っておけばよかったわ……
メルヴィはしかることなくバンジを慌ただしく検査し、空色の小さな弁当箱を置いた――バンジに問題がないと確認すると彼女は少し怒ったように弁当箱を差し出した
スターオブライフから出てすぐ喧嘩なんて、なかなかやるじゃない……いいわ、この話は終わり。まず、これを食べなさい
メルヴィは弁当箱を開けた。中身は真っ黒な混沌とした物体で、恐ろしい臭いを放っている
見た目は悪いけど、味は悪くないと思うわ。たまに家で料理するんだけど、私もいつもこんなのを食べてるから、安心して
バンジはテーブルの前に座り、数口食べてからがっくりとうつむいた
もうお腹いっぱい
もう?ここに来てまだ2日目でしょう?リハビリしてた時より食事の量が少ないわよ?
……
バンジ?
バンジの涙がポタリとテーブルに落ちた
……そんなにマズかった?
違う……ペールが先に言い出したんだ。病院の先生たちは僕なんかいらないから、捨てたんだって
お母さんがどうしても僕をエデンに送るって言うから、僕は言う通りにちゃんとご飯を食べたし、ちゃんと眠ったんだ。なのに、先生たちに捨てられた
違う、誰もあなたを捨てようなんて思ってない。ただ、もう病院にはいられないの。これからは奉仕員や福祉員、先生や大勢の人に見守られて……ここが一番いい場所なのよ
いい教育を受けてこそ、空中庭園で「普通の人」になる資格が持てるの。バンジは私が見た中で一番賢い子よ。少し年下でもしっかり勉強できるし、将来は空中庭園で……
まだ、まだ方法があるよ。僕を養子にしてよ……おばさんが僕を養子にしてくれたら、通学する生徒になってちゃんと勉強する
私には養子を取る資格がないの……本当はあなたに会いに来ることもダメなのよ
今はわからないかもしれないけど、私はこうすることしかできないの
メルヴィは忙しい。今日はバンジに怪我がないかを確認するためだけに来たらしく、すぐに通信を受けてスターオブライフに呼び戻されてしまった
養子になれるという希望を断たれたバンジは、しょんぼりと弁当箱を抱えて戻った。寄宿生の食卓につくと、またペールが自分を睨んでいるのに気付いた
バンジに気付かれたペールはサッと視線を逸らし、軽蔑するように鼻を鳴らした
今度は何?
ペールはバンジの言葉を無視するように、スプーンでスープをすくって口に運んだ
弁当箱を開けたバンジはしばし心の準備をした。彼女の医療の腕は素晴らしいが、料理は酷い出来だった。しかし、彼はそれを食べようと決めた
メルヴィがくれるものは、彼にとって特別に大切なのだ
バンジが意を決してその正体不明の物体をすくおうとした時、ペールが我慢できずに口を開いた
意外だったよ、お前に後ろ盾があったなんて
後ろ盾?
お前にはわからないさ……どうせ、あの人はお前を養子にするんだろ?
バンジの瞳は暗くなった
違うよ。あの人は僕のお医者さん。あの人が僕をここに送ってきたんだよ
それでもお前に会いに来てるじゃないか、それが後ろ盾ってことさ
しかもお医者さんなんだろ?最高の職業だ。俺も大きくなったら医者になって、母さんを助けに行くんだ
バンジはペールの前で避けるべき話題を理解していた。彼は静かにメルヴィの弁当を飲み込んだ……ひと口も噛まずに
しかし、ペールの目の奥には明らかな羨望の色が浮かんでいる
バンジはあの日救急センターで号泣していたペールを思い出し、食べていたものを飲み込むと、思い切ったように弁当箱を前に押し出した
……何だよ?
食べたい?
やだね!俺がこんなもの食べたがってるように見えるか?
大丈夫だよ、分けてあげる
展示館
さあ皆、こっちへ来て。次の展示は「地球」館よ。出発前に先生が言ってたことを覚えてる?
騒いだりせず、地球という私たちの故郷をしっかり感じてみましょうね
子供たちは興奮しつつも声を抑えて静かに並ぶと、その扉をくぐった
ホール中央では投影された青い地球がゆっくりと回転し、地球に行ったことのない新世代の子供たちにその美しさと平和を教えていた
手を伸ばして触ってみてもいいのよ
教師に促され、子供たちが「地球」にそっと触れると、表面に水色の波紋が広がった
しばしの静寂の後、周囲の暗闇から突然白いカモメの群れが飛び立った。床は砂浜に変わり、貝の家を背負ったヤドカリが子供たちの足下で動き出す
わあ――
空中庭園では、地球本来の生態環境をたくさん再現しているの。日光、植物、そして風も……君たちが目にするもの全ては、地球から来たものなのよ
人類と地球は永遠に切り離せない絆で結ばれている。いつの日か、私たちは再び故郷に戻るでしょう
子供たちは代わる代わる「地球」に触れ、美しい未知の風景への憧れを見せていた
さあ、今から30分「地球」館を自由に見学していいわ。でも集合は時間通りにしてね、この後もまだまだ展示館はあるから……
待って、一番大事なことを話していないわ
えっ……?
パニシングの爆発が全てを破壊した。僅か数十年で、地球はボロボロになったのよ
同行の中年の奉仕員が手を振ると、バーチャルの地球がクルリと回転した。青い地球の表面が暗赤色に染まり、文明を象徴する光は消え、クレーターから黒い煙が立ち昇る
ちょっと、子供たちにそんな話は……
奉仕員はマイカをちらっと見たが、話を続けた
今、あなたたちが空中庭園で平和に暮らし、普通に教育を受け、自分の人生を楽しめるのは、誰かがあなたたちの代わりに犠牲になってくれているから
その人たちは前線の敵を恐れることなく、その身を削りながら、少しずつ地球の土地を取り戻している
あなたたちは他の子供たちとは違う。あなたたちのご両親の多くが前線で犠牲になり、その戦友や空中庭園があなたたちをここへ預けた。公共支援の下で成長させたいと願って
だからずっと忘れずに考え続けなさい。なぜあなたたちの両親が命を捧げたのかを。先人と同じ、この偉業のために奮闘すべきか、空中庭園という温室でのうのうと過ごすのか
子供たちはあっけにとられながら奉仕員を見ていた
もういいでしょう。まだご両親と離れたことすら理解できていない子供たちに、どうして前の世代の運命を押しつけようとするの
今日のことは育成センターに報告します。彼らの未来に責任を持てないなら、無責任な指導はしないでいただきたいわ
……
子供たちはまたあっけにとられたようにマイカの方を見た
さあ、皆、次の展示館に行きましょうか。次は「ゲシュタルト」が見れるわよ……
結局、「地球」館での自由見学は予定通りには行われなかった。マイカ先生は自由見学を中止すると、先頭にいた数人の子供を押すようにして外へ出ていった
列の最後にいたバンジは、ペールに小声で話しかけた
僕のお母さんは「犠牲」になってない
ああ、そうだな。俺の母さんも休眠だからな
……それより、「のうのう」ってどういう意味?
「平凡に」ってことかな?
じゃあ、メルヴィおばさんは僕に平凡な人になってほしいのかな
「役に立たない」人になれってか?
だったら、僕は平凡な人になんかなりたくない
……ちっ、お前がどんな人になりたいかなんて誰も気にしてねえよ
展示館から戻ったあと、子供たちはいつも通り皆で夕食を食べた。あの展示館で感情を昂らせていた奉仕員の姿はもう見えなくなっている
バンジは口をもぐもぐさせながら、昼間に見た光景を思い出していた。鳥、土、砂浜……どれも本物のようだった――足下が展示館の硬い床である以外は
ここの昼と夜も、地球環境の模倣であることを彼は知っていた。天気は晴れか曇りのみだが、彼は地上でもっと多くのものを感じていた
丘のてっぺんに座っている大人と子供を、1本の巨大なオークの木が風や雨から守っていた
雨がやみ、葉を濡らしていた雨水がポタポタと地面に滴った。完全に空が晴れた頃、女性は隣にいる少年を見つめ、微笑みながら軽く頷いた
雨がやんだわ。遊んできてもいいわよ、バンジ
麦畑で遊びたいな
ダメよ、麦の穂で手を怪我しちゃうでしょ
バンジは自分の指先を見た。人差し指に小さな傷がある――前にこっそり麦畑に行って、麦の穂を触った時の刺し傷だった
じゃあ海は?潮は引いてるから危なくないよ
危ないわ。あの「海」はいつだって危険なの
……
お母さん、今日も木の下でしか遊べないの?
……仕方ないわね、海に行って遊んできなさい
やった!
許可をもらった子供は大喜びで木陰から飛び出した。彼は柔らかく湿った土を踏み、咲き始めたばかりの野花を避けながら、丘の下の砂浜へ駆けていった
彼と「お母さん」と呼ばれる無口な女性は、ともに木の下で暮らしていた。母親は雨がやんで晴れるとバンジと話し、文字や地球の万物について教えた
彼女は晴れた日の陽光を好まなかったが、息子である彼は好きだった。日差しが砂浜を温め、その砂の上を歩くのはとても心地よかったからだ
わっ!
彼はどこからか転がってきた石につまずき、草むらに強く倒れ込んだ拍子に膝を擦りむいてしまった
何だこれ?……君は?
……
白い服を着た子供が草むらで腹ばいになって、転んでしまったバンジをじっと観察していた
君、あの人とそっくりだね……やっぱりあの人の子供なんだ
君は誰?どうしてここで寝てるの?
ずっと草むらに隠れてたんだ……君に見られるとマズイから
君、ずっと僕とお母さんの世界にいたの?
その言葉を聞いて、草むらに隠れていた子供は少しムッとした顔になった
ここは僕の場所なんだ。君こそ外から繋がってきたやつなのに。なんで僕が隠れなきゃいけないんだ
バンジ?
少し離れたところから母の声が聞こえた。バンジが体を起こすと、バンジを探す母の姿が見えた
僕に会ったこと、あの人に言うんじゃないぞ!
少年に突き飛ばされ、バンジは丘の斜面から転がり落ちた
バンジは回転する視界の中で、ここにあるものたちを見た。くるくる回る空、違う色の花びらをつけた花、鋸のようにギザギザした草の葉……
彼は突き飛ばされたことに怒りはなく、ただ目の前の全てをしっかりと記憶しようとだけ思っていた
またいつまでもボーッとして……やっぱり正気じゃないのか?
バンジは咀嚼するのをやめてスプーンを置き、ペールと顔を突き合わせた
……また突っかかってくるなら、今度は……
地面はあんな感じじゃないんだ
彼らの会話は、同じようにちゃんと食事をする気のない子供たちの注意を引いた
地上には砂浜やカモメだけじゃなくて、綺麗なものがもっとたくさんあるんだ
どうして知ってるの?まさか、地上に行ったことがあるの?
だって僕は……ううん、行ったとかじゃなくて……大人の端末で見たことがあるから
話しかけて、バンジはメルヴィの厳しい忠告を思い出し、言葉を途中で飲み込んだ。食卓には小さなクスクス笑いが広がった
僕、知ってるよ……地上には「パニシング」があるんだ
その声の小さな少年はゆっくりと手を挙げた
僕の……僕のお父さんもお母さんも功績を上げて戦死したから、僕は空中庭園に来ることを許されたんだ……
みんなは赤く光る機械を見たことないでしょ?人の腕や足が吹き飛ばされるのだって、見たことないよね?
バンジは自分の悪夢を思い出した。夢の中にも、赤く光る機械が現れていた
少年はどんよりと暗い目をバンジに向けた
バンジ、君が端末で見た地上は本当にそんなにいい場所だった?
……
勇気を奮い起こすようにバンジは椅子から立ち上がり、フロアマットが敷かれた床を踏みしめながら土の感触を想像した
うん、そうだよ。地上にはパニシング以外に、きっと素敵なものがいっぱいある
子供はたどたどしくつっかえながらも話し始めた
――まず、今日少しだけ見た海。貝殻以外にも、しょっぱい海水の中では魚が泳いでて……砂浜はどこもあんなに軟らかい訳じゃない。裸足では行けない浜もある
――それにいつも金色に輝いている麦畑。麦の穂は不用意に触っちゃダメなんだ
――陽光を遮る大きな木に、厚い落ち葉。木の下には温室で育てるような野菜だけじゃなく、草の上の露や雫、野の花があって、ナナホシテントウがいる
それに雨。雨がやむと鳥が木から飛んでいくんだ。カモメじゃなくて、羽根の先が灰色で、体に綺麗なごま模様がある鳥が……
その羽根って、抜けたりする?
するよ。羽根の手触りは、軽くて柔らかい……みたい
バンジの方に目を向ける子供たちは次第に増えていく。彼が話す、皆が一度として見たことのない景色について、じっと耳を傾けていた
羽根って匂わないのか?顔を近付けて匂いを嗅がなきゃいけない決まりでもあるのか?
な、ないんじゃないかな
子供たちは楽しげに笑い始めた。外の人工日光が、食卓の真ん中に座る痩せっぽちの子供に降り注ぐ。彼らは空を語り、大地を語り、本物の太陽や月について語り合った
いつか本物の地球を見れるのかな?私のお父さんとお母さんもそこにいるような気がする
きっと見れるよ。だって僕は地上に行って探そうと……
バンジはまたメルヴィの忠告を思い出し、それ以上は言わなかった
彼は育成センターの外の人工の空を目に、また考えていた。メルヴィが危険だとみなしていた自分の母は……まだ地上のどこかで自分を待っているのだろうか、と