山沿いに建てられた建物の板張りの露台の下に、ぶ厚い雲が広がっている
山にかかる夕陽は一筋の光をきらめかせて、山の向こうに沈もうとしていた
山を訪れると決めた者の心にあるのは、切り立った山の道や分厚い苔に覆われた岩、乗り越えるべき峠だけ
かつてはここから九龍の城が見えたが、ここを越えれば、二度と見えなくなってしまう
露台に立っていた機械体は老人の話を聞いて移動し、含英と老人を露台の端へいざなった
今は……雲しか見えません
含英はまだ受け入れられない「真実」に気を取られ、老人が話した景色を見る余裕はない
この山の機械体が実は全て人間だなんて……それはつまり……
その言い方は正しくないな。あれらの機械体は、ただ現実に動いている「本当の」機械体の夢の投影にすぎない
「ゆりかご」はその投影であるここの機械体に、彼らが抽出した実際の人間の記憶とデータを読み込ませ、現実の世界の機械体たちを操っておる
山に登ってから、私はずっと……人間を殺めていた……
…………
それが受け入れがたいか?
わからない……私にはわかりません……
含英の声も体も微かに震えている
あの機械体の奥にあったのは、生きている人間の記憶……私は……
もしかしたら、ワシらも人の形をした皮に詰め込まれただけの機械なのかもしれん。人間と同じように罪を犯し――
いいえ!それとこれとは違います!
含英は震えを止められないまま自分の両手を凝視していた
殺人の……道具
違う、こんなはずじゃなかった……
彼女はただ悠悠を捜し出し、「心」や「魂」を理解し、約束を成し遂げたかっただけなのに
彼女は犠牲的な正義という名の下に、自分の行為を正当化したいだけなのかもしれない。それはただの利己心の「別名」にすぎない……
私は一体……何を……
とは言っても、全て……生きている「人」ではあるまい
肉体はなく、記憶とデータだけが残っているだけで、それを「生きている」といえるか?
老人は本当の家族のように、力士の機械体の腕を慈しむようになでた
「ゆりかご」は人間の記憶とデータをコピーし、この夢に入れた。あの時から「彼ら」は全ての希望を捨て、死んだ
死を選んだのは彼らで、誰のためでもない……だから「彼ら」はあんたに感謝しているかもな
なぜ!?
たとえ思想や精神だけになっても、それでも、生きた人間です!
彼らの心や記憶、願いや苦しみ……私には全部聞こえた!
私の目の前で彼らは消えてしまった。まるで機械がバラバラになるように……潰えてしまった
老人は腰を辛そうに曲げながら、錆びて刃こぼれした刀を拾いあげた
彼には重すぎたのか、老人は震える手でその刀を含英に渡した
彼らの願いを聞き届けたんじゃろう?
誰もが生きるための代償を背負うことに、耐えられる訳ではない
人は過去のために生きることを選ぶ自由がある一方で、過去のために死ぬことを選ぶ自由もある
そんな彼らに希望を与え続けることこそ……真に残酷というものじゃ
含英はボロボロの刀を握りしめた。そこにはまだ誰かが残した温もりが残っているように感じられる
希望を持って生きることを選べるのに、どうして死を選ぶの……?
「希望」という言葉は「彼ら」にとって、あまりに重いからの
含英にはその考え方が理解できない。機械体にとってその論理的判断は理解不可能だった
もし判断アルゴリズムによって受け入れ可能とされれば、機械体は本来、それを拒めるはずもないのだ
希望を抱いて生きられるなら、なぜ生きることを諦める?
自分を責める必要はない
生と死の間には、人間でさえ理解できないことが多く存在する
お前さんはもっと重要なことをやらねばならん。その後にゆっくり考えればいいのさ
お前さんと友人は人捜しの最中じゃろう?
含英は黙って頷いた。だがこんな「事実」を消化するには、時間が必要だ
彼女、それと彼女が連れて来た九龍衆は、山頂の大殿だ。彼女たちはまだ生きておる
山頂……
お前さんが彼女を捜し出し、救えることを心から願っとるよ
もし彼女を救えないのなら……どうかこの夢を終わらせてほしい
老人は静かに背を向けると、血に染まるような夕陽と果てしなく広がる雲海を後にした
このままこの夢が続けば、九龍の街とてもあの機械体たちに破壊されてしまう
「ゆりかご」自身がもう何をしたらいいかわからなくなれば、機械体は手にした武器で何をすればいいかを彼らに教えるだろう
そうなれば生殺与奪の権限は……人間から取り上げられる
九龍を守るために、あの機械体と、人間……を殺せと?
その通り
どうにか……両立できる方法はないのですか?彼らの心と魂のデータを救いつつ、ゆりかごの復讐を止めるような方法が
あんたはどう思う?
もし両立する方法があるなら、悠悠は記憶を失わずに九龍環城に戻れる。自分も「ゆりかご」に支配されずに、あの夜、死ななくて済むかもしれない
両立できないのなら、全ての結果は彼女の選択次第となる
機械体にとっては考える必要すらない選択だった。多数を救うためには少数が犠牲になるのは仕方がない
彼女もどれを選択すべきかはよくわかっている――
――だが選択しようとすると、体のどこかで何かが疼くのだった
……そんな方法はないですね
そうだろうて。選択できることもあるが、選択できないこともある
この夢は……そろそろ終わらせねばなるまい
そうじゃ。夢と現実の間にひとつの扉がある
その扉を守っているのは、あんたがさっき会った僧侶だ
彼も……人間なんでしょうか?
ある意味では……な。だが彼は門を守ることしか任されておらん
お前さんはその扉を通らなければ、現実に戻れない
そこでやっと……茯神(ブクジン)に会える
ゴ―ン――ゴ―ン――
鐘の音がまるですぐ側で鳴らされているように、より重く、ハッキリと聞こえる
露台に集まっていた機械体たちの影は薄くなり、だんだんと消えていった
時間はさほど残されておらん……
茯神……?
ああ、彼もあんたと同じで、特別な機械なのでな。「心」を持っている
ただ彼はずっと現実を生きているのに、自分はずっと夢を見ていると思っておってな
ここの住民とは正反対ですね……
彼は夢を見る権利を奪われたんだ。機械体は夢を見ない
でも私たちは今、夢の中にいるのでは?
彼は現実でしか生きられない。しかし彼にとって……現実はあまりに残酷だ
ゴ―ン……ゴ―ン……ゴ―ン……
鐘の音は更に大きくなり、耳を害するほどだった
最後の最後に、ひとつワシの願いを頼まれてくれんか?
だがこれはあんたにとっては、ちと残酷なことかもな……
老人は含英に心の準備をする時間を与えるかのように、しばし口をつぐんだ
老人に言われずとも、含英はすでに唯一の選択が何かをわかっていた
彼女は「茯神」を、同じく「心」を持つ同胞を、殺さなければならない
彼女はすでに一度死に、夢で蘇った。残酷な現実に耐えている者には、夢の中で永眠する権利があるはずだ
もうワシの質問が何か、わかっている顔つきじゃな
しかしお前さんの心の中に、その答えはあるのか?
…………
彼女はもう「答え」を出せたのだろうか?
私は……わかりません
私には他人の生死を決める権利などありません。それは彼の「心」がすべき選択です
ならあんたの心は……もう答えを見つけておる。あんたたちはここで、見つけたいものを見つけられる
あの!
老人の姿が少しずつ消え始め、しばらくすると、そこにいるのは含英とシブナだけになっていた
鐘の音だけは耳元で絶えず響いている
全て消えてしまいましたね
黙って鐘の音を聞いていた含英の体を夕陽が照らし、冷え冷えとした台に彼女の影を長く伸ばしていた
血のような真っ赤な残照が、かつて彼女の手がその色に染まったことを思い出させた――
数年前、自分の両手を赤く染めた、あの「曲様」の循環液
あの夜、この色がもたらしたのは、狂ったような笑いや絶叫、新生、そして死だ
……含英
……はい
「ゆりかご」はこの山で、想像を絶することをしています
人間を殺し、人間の記憶とデータを抽出してデータ化した人間を作り、そのデータを機械体に読み込ませる……まさに生き地獄です
……その人間たちは、もう死んだと思いますか?
生理的な面から考えるなら、そんなことをされれば、人は命を落とすでしょう
でも私たちが出会ったあの機械たち――いえ、九龍人たち――彼らの行動、彼らの記憶は……紛れもなく生きている人間そのものだった
シブナは首を振った
どう解釈すればいいのかわかりませんが、どうも簡単には説明できることじゃなさそうですね
これは非常に残酷な事実ですが……我々はどんなに辛くても、この事実を受け入れるしかない
全ての物語が大団円で終わるとは限らない……今の時代、我々にできることはただ受け入れるだけです
もしかしたら、ユリシーズももう……
シブナは声を詰まらせた
しかし含英は気付いた。現実はおそらくシブナの想像よりも更に残酷だろうと――
「あんたたちはここで、見つけたいものを見つけられる」
自分は悠悠を捜している。老人が言うには、悠悠は山頂にいるはず
だがシブナは「ユリシーズ」を捜しているのに、まだ見つかっていない。もし彼女たちがユリシーズを見つけられるなら、彼もあるいは……
すみません。シブナさん、私は……自分を許せない
どうしたんです、急に
「だがこれはあんたにとっては、ちと残酷なことかもな……」
無念?後悔?それとも……罪を犯したから?
私にそんなことをする資格はあるの?
私はこんな偽りの夢の中にいたくない。でもここから出るためには、もっと残酷な事実に直面することになる
でもこんなことに……本当にやる意味があるの?
彼女は反射的に自分の首――消えない傷跡が残る場所へと手を伸ばした
あの夜、彼女は悠悠を傷つけ、悠悠を騙し、彼女に武器を向けた
同じくその夜、彼女は悠悠を守るために死を選んだ
彼女はただの機械体、しがない踊り子だった
彼女が全ての人間を守ることなどできない。だから自分の「希望」をひたすら握りしめるしかなかった
悠悠が生き延び、自分で選択できる人生を歩んでほしいと願っていた
彼女はその希望のために死んだ
夢の中で、彼女はずっとその希望を抱いていた
だからこそ、彼女は目覚めるまで、その夢の中で「生き続け」た
私は……自分がやったことを否定はしない
そもそも夢なんて、詩に描かれるような美しいものじゃない。この残酷な事実を背負って生きろというなら、私はそれにふさわしい代償を払うでしょう
事実がどうあろうが、人間だろうが機械だろうが、そして生きようが死のうが、私にはもう……覚悟ができています
残照と雲海に背を向けると、彼女は最後の道を歩き始めた