Story Reader / 叙事余録 / ER03 物言わぬ庭 / Story

All of the stories in Punishing: Gray Raven, for your reading pleasure. Will contain all the stories that can be found in the archive in-game, together with all affection stories.
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ER03-10 扉

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地下の密室への入口がわかったものの、中にバンビナータがいる保証はない。念のためバネッサとヴィラは各部屋を次々と調べて、バンビナータを探した

バネッサの胸に、再び喪失感が漂った

テセが去ってすぐ、「おもちゃ」をまた失うとは。バンビナータはテセと同じ道を歩むはずがないと知っていたが、積もり積もった焦りが彼女を苛つかせた

扉を開け、調べ、閉める。古い扉のギィィときしむ音は、思い出したくもない夢をバネッサの耳にふきこんでくるようだ

バネッサは昔、似たような扉を見た覚えがある。その扉を閉じると、他の扉よりずっと大きな音がするのだった

バネッサお姉さん、もう寝ました?

バネッサの悩みに感づいたのか、それともいつもと呼吸音が違ったのか

……

あんたには隠しごとができないね

さっきのパパとママの言葉に悩んでいるのですか?

……バンビナータ、何の才能もない人とかって、いると思う?

まさか毎回毎回、私の努力が足りなかったっていうの?

バネッサは順位がひとつ下だったせいで、実験室アシスタントの選抜に落ちたが、レイモンドのコネがものをいった。ペトラは怒り、恥をかかせるなとプロジェクトの予習を命じた

バネッサお姉さんがどれほど時間を費やしたか、バンビナータはよくわかっています

才能のない人は、いくら時間をかけたって無駄なんだ

バレエを習ってた時と同じ。私が練習していた時、あんたはただ横でぼーっと待ってただけだった

でもあんたは私みたいにくだらない基礎を何度も何度も練習しなくても、うまくできる

お姉さんは実験室に行きたくないんですか?ママは実験室なら、辛くて危険な仕事をしなくて済むって言っていました。それはいいことじゃありませんか?

研究者なんて、バレリーナよりもっと私には向いてない

バネッサはようやくバンビナータの方を振り向き、自嘲するように笑った

才能がなければ、行っても無駄。全力を出しても追いつけやしない自分の姿を想像すると、ほんと笑えてくる

そんなことありません。バネッサお姉さんはただ……そう、好きなことにまだ出会えていないだけです

バネッサに卑屈になってほしくなくて、バンビナータは慌てて否定した

かつてのバネッサの理論でいえば、欲しい結果が手に入れられないのは、その対象が好きになれなかったからだ

バネッサの目に浮かぶ壊れそうな何かを、彼女は今までにないほど真剣に見つめた。その真剣な眼差しと言葉のせいか、あるいはその熱量のせいか、バネッサはクスクス笑いだした

バネッサ

私の愚痴を聞いてくれるのはあんただけだね……はぁ、子供の頃はあんなにあんたが家に来るのが嫌だったのに

バンビナータ……もし私が本当に結果を出せることを見つけたいと思ったら、あんたは応援してくれる?

バンビナータ

もちろんです

バネッサお姉さんが何をしようと、応援します

無駄な言葉や、綺麗事を並べる必要はなかった

バネッサは左耳のイヤホンを外し、バンビナータに渡した。曲はふたつに分かれ、構造がまったく異なるふたつの心臓に流れ込んでメロディーを響かせた

数日後――

なんですって?実験室には行きたくない?

はい

バネッサは両親の目を避けずに受け止めた。バネッサはとっくに子供の姿から成長していた。かつて子供だった彼女も、今は自分の意志で行動する年頃だ

しかし年長者の旗手は方角を指し示すその旗を決して下ろさない。若い探索者が自身に反抗してゴールから遠ざかるなど、許せる訳がないのだ

絶対に許しません

バネッサ、パパがどれほどの人脈を使ったか、私がどれほどお愛想の笑顔を振りまいたか、わかってるの?

バニー……

……だから、もうそう呼ばないでって言ったよね

その行動は理性的とはいえないし、私たちを悲しませる。私たちが作った道は、最も正しい道のひとつなんだ

いくら求められても私にできないの。研究の才能はないし好きでもない。どんなに頑張っても結果は出ないし、努力も時間も無駄。なぜ能力を発揮できることをさせてくれないの?

あなたたちが欲しいのは、私が一番になることだけでしょう?

才能がない?好きじゃない?自分を何様だと思ってるのよ!世界はあなたのために回っているんじゃないわよ

でも、私にも自分でその世界を探求する権利があるはず!

そんな視野で、たとえ自分に才能があって、好きなことを見つけたとして、それをやり遂げることができるっていうの?

ペトラはソファから立ち上ると、唇をわなわなと震わせた

誰のためにプロジェクトを諦め、学位の取得を諦めたと思ってるのよ!

もしあの時、私が父さんと研究を続けられていたら……今の自分の主な「研究対象」が、他の金持ちの奥さんとの仲よしごっこなんてことはなかったのに

自分は成長し、飛べるようになったと思っているんでしょう。自らの羽を抜いてあなたに暖かい巣を提供したのは誰か、一度でも考えたことはあるの?

激高したペトラの声はどんどん大きくなり、リビングだけでなく、家全体がビリビリと震えているようだ

バニ……バネッサ、もうママを怒らせるな

これからの1カ月、外出禁止にしたことで機嫌を悪くしたのか?

じゃ、とりあえずバンビナータと3日間休んでから、また始めるってのはどうだい?

レイモンドはバンビナータをバネッサの前に押し出し、彼女からも説得しろと目配せした。バンビナータがバネッサの手をそっと握ると、バネッサの目は更に闘志に燃えた

つまりママは、私をママと同じようにしたいの?ママが敷いたレールを走らせて、ママが捨てた夢を私に達成させたいの?

パパは実験室のリーダーだから、いつも細かいことを気にせず指示を出してれば地位を誇示できるかもしれないけど、ここは実験室じゃない!家族のことなんだよ!

今の私を何歳だと思っているの?今みたいにパパのプロジェクトに「支障」が出ない限り、パパは私の言葉を一度も真剣に聞こうとはしなかった!

これは馬鹿げた質問かもしれないけど……あなたたちは考えたこともないだろうけど――本当に私を愛しているの?

本当に私を愛しているの?その声は鼓膜を破きそうなほどの大声だったが、微かに震えていることをバンビナータは聞き逃さなかった

この部屋の中で最もちっぽけな存在のバンビナータはバネッサの手をぎゅっと握りしめ、なんとか気持ちを伝えようとした

愛していないですって?なら私は誰のために、この家のために、こんなにも自分を犠牲にしたのよ!バネッサ!よくもそんな言葉を!

違う

あなたたちは……愛する価値のある部分だけを愛していると思う

あなたたちは、価値のある部分だけが、愛を注ぐに値すると思ってるんでしょう!

私はもう決めた。家を出てファウンス士官学校に入る。私の価値は私自身が探して定義するわ

士官学校だって?どれほど危ないところかを知らないからそんな……

確かに戦況に関することは私も端末でしか見たことがない。危ない選択だってことは十分わかってる

だから私は自分の目で見て、考えて、何をするべきか自分で判断したいと思う

わがままもいい加減にして、バネッサ

アハハ……何が自分の目で見て考える、よ。あなたは戦争の残酷さをわかっていない。実験用のネズミより経験がないくせに、どうやって判断できると?

親に反抗すれば自分が自由になれるだなんて、それがあなたの考える成長なの?

しかも端末で見た資料だけで、あなたの天職は軍隊だって確信できるとでも?

ママの言う通り、それだけじゃわからない。でも操られて、失敗ばかりしている操り人形のままでいるのは、本当にうんざり

バネッサ、操り人形とはどういうことだ?私たちがそうさせているのは、君の未来に対して緻密な計算をして出した結果なのに

どうしても戦争に貢献したいなら、研究の方向もいろいろある。戦闘向けの研究は数え切れないほどあるんだ。我が一族の実績と資源があれば、簡単に成果を出せる

そうなれば、誰もが君の成果を認め、君の名前が世に知られる。君がどれほど素晴らしい科学の家庭に生まれたかってこともね。そんな簡単な理屈がなぜわからない?

つまり私は研究者になっても、研究方向も決められないのね?敷かれたレールをただ走って玉座に座るの?なら、私は王冠にはめられた石で、本当に王冠を被るのは家名よね

バネッサはバンビナータの手を握り、一歩前へ出た

もういい。パパ、ママ、あなたたちが私の言いたいことを理解してくれるなんて、はなから期待してない

私はすでに端末から契約にサインして、全ての準備を終わらせてるの。4日後の朝には、私はファウンスで最初の授業を受けているから

荷物もほとんどまとめたし。あと最後にひとつだけ。私はバンビナータを連れて行く。だから彼女の記憶メモリーのメンテナンス方法と交換パーツをちょうだい

バネッサ、あなたには本当に……ガッカリさせられたわ

そんなことをしても自分の価値を無駄にするだけよ

……

それは駄目だ。バンビナータは……今、彼女の研究は停滞している。彼女がここを離れることは無理だ

それに、君の考えに同意した覚えはない。実験の重要な一員を連れて行くなどもってのほかだ

実験の重要な一員?あなたたちにとって、バンビナータは、家で飼っているただの実験の一員にすぎないの?

自分たちの代わりに娘の遊び相手をしてくれて、同時に「従順」のいいお手本になるから?

私たちはバンビナータに公平に接していたはず。今まで、彼女に嫌な思いをさせた覚えはないわ

バンビナータ、あなたまでバネッサの悪い影響を受けて変なことを考えてはいないわよね?

バンビナータ、君はそんなわがままな子じゃないはずだ。パパとママが君の実験のために、どれほど心血を注いだかはわかっているだろう?

我々から離れ、バネッサのふざけた考えにつき合う気なのか?

バンビナータは実験室で飼われ、あなたたちの実験のために存在する動物なんかじゃない!

<//自分>の考え?

金属と合成材料で造られた機体に、かつて直面したことのない思考的問題が浮上した

バレエ教室の大きな鏡が目の前に現れ、バンビナータはそこに映る、小さくて馴染みのない人の姿を見つめた

<//自分>とはどこにあるもの?意識海?合金製の脊柱?それとも……記憶メモリーチップの中?

バンビナータは鏡の姿をつぶさに眺め、<//自分>が組み込まれた部品から<//自分>自身を探していた

まさかあんた、バレエが好きなの?そうでしょ?

彼女の姿に憧れ、彼女の踊りを真似ること。これが好きということ?

バンビナータ……もし私が本当に結果を出せることを見つけたいと思ったら、あんたは応援してくれる?

バネッサお姉さんの決定を応援するのは、命令に従う習慣ゆえの行動なのだろうか?

あんた、指切りすら覚えていられないじゃない……

何を忘れたのかを<//知りたい>と思うことは、いい子であることに反する行為だろうか?

硬い鎧の下に隠された、脆い心に耳を<//傾けたい>と思うことは――

涙が溢れ出るのを<//止めたい>と思うことは――

結果が実らなくても努力を<//認めたい>と思うことは――

だが――

どうすれば、か……そうだね、いい子でいればいいよ

だから……

嵐の渦中にいる3人がバンビナータを見つめている。彼女の口から自分の欲しい答えが聞けるだろうと、期待に満ちた目をしながら

バンビナータの答えは――

沈黙

――いい子にならないといけない。それに逆らう<//自分>は間違いだ

<//欲しい>としても、間違ったことをしちゃいけない

何千日も側で見上げていた彼女の目を、今、見る勇気はない。沈黙、それはバンビナータが出せる限りなく正解に近い唯一の答えだった

……

ふん、見てみなさい、あなたと一緒にいたいと思う人なんて誰もいないのよ

バネッサ、バンビナータはいい子だから、我々の気持ちを汲んでくれる。それを君は、これっぽっちも学べなかったのか?

バネッサはふたりには答えず、うつむいているバンビナータを淡々と見つめた。先ほど声を荒げていた彼女とは別人のようだ

力を抜くと、その小さな手は力なくバネッサの手から滑り落ちた。それでもバンビナータは頭を上げない。バネッサは両親に向かって嘲るような笑いを浮かべた

そうね、正直なところ、私もこの面倒なお人形にいつもつきまとわれて、うんざりだった

側においておきたいものがあるなら、それを奪い取れるほど強くなればいい

いつか、誰も私に逆らえないようにしてあげるわ。その時、私は自分で見いだした価値をあなたたちに見せに戻ってくる

そう言い捨ててバネッサは自分の部屋からスーツケースを引きずり出すと、振り返りもせず玄関に向かった

バニー……!

行けばいいわ!

バンッッ!!

自動で閉まるドアをわざわざ叩きつけるように乱暴に閉める音が響いた。バンビナータは無意識に手を上げたが、すでにその人は去っていった

誰にも公平に静かに時は流れる

進み続ける時の中では、決意をした人は自分の選択に代償を払い、臆病な人は自分のためらいの中に沈んでいる

唯一違うのは、進み続ける時を記録する小さなチップの書き込みが上限まで達すると、バンビナータは記録された虚像の中の虚像をループして追いかけるしかない

バ……ネッサ?

定例検査が終わり、ペトラは再びリセットされたバンビナータを寝室に戻した。しかし彼女は寝室のドアにかかっている名札に、疑問を抱いたようだ

かつての記憶喪失と違い、今回は再起動後にメモリー内のバネッサに関するデータは全て新しい日常に上書きされていた

バンビナータにバネッサの部屋を使わせれば多くの不便が生じるとわかっていながら、ペトラは家からバネッサの痕跡を消そうとしなかった

「バンビナータが欠如した記憶をフィードバックできるかどうかを調べる」、それがペトラがそうした理由だ

バネッサはあなたのお姉さんよ。でも言うことを聞かない悪い子だから、今は家にいない

バネッサ……

聞き覚えはないのに、なぜか親しみを覚える名前を口にすると、意識海の奥から何かが浮かび上がった。だがその何かをどう掬いあげればいいのかわからない

もう休みなさい。今日の検査は普段より30分も長引いたから、2時間休眠するのよ。お父さんが帰ってくる前に起こしにくるわ

ペトラはそう言ってドアを閉めた

真っ白で巨大なベッドの片側にバンビナータは無意識に横たわった。なぜか真ん中の線を越えることを避けてしまう

……なぜドア側に寝ないんだろう。そっち側の方が便利なのに

完全に休眠する直前に、この疑問が目を閉じた暗闇にぽっかりと浮かび上がった

彼女は記憶データからこの無意識の行動の原因を探したが、答えはなかった

今までにない、怖いような感覚がバンビナータの背中を押す――彼女はその答えが知りたくなった

勇気を振り絞って彼女はベッドから起き上がると、部屋中の物を手に取っては眺め、その見えない姿を追いかけようとした

服、アクセサリー、香水……それらは脳裏にある輪郭を浮かび上がらせた。だがその輪郭の中は真っ白のままだ

足りない、ほかに何か――

バンビナータはベッドの方を見た。どこからか湧いてきた「直感」を頼りにブランケットを持ち上げると、はたしてそこには隠し引き出しがあった

引き出しの中には説明のつかないコレクションと、束になった紙が入っていた

バンビナータはその中から1枚だけ絵が描かれた紙を広げた。そこには踊る少女と輪郭しかない小さな人の姿が描かれている

陽射し、揺れるカーテン、音楽、優雅な姿……バンビナータの意識海に、ふっときれぎれの断片が浮かんだが、彼女がそれを捕まえようとする前に消えてなくなった

忘れては駄目

忘れたくない

せめてその輪郭だけでもつかまえたい……

バンビナータは引き出しからペンを取りだし、脳裏に映った虚像の虚像が消える前に、残せるだけを描き留めようとした

数年後――

指揮官、私たちはもうここで20分も立っていますが……

……

話していいと誰が許可した?

構造体は口をギュッと閉じ、頭を振りながら後ろへ下がった

バネッサは持っていた傷だらけのキーカードをポケットに戻し、ノックすることにした

はい――

ペトラの接客用の笑顔は扉を開けた瞬間、硬直した。周囲の空気が人を押し潰すほど硬化しそうになった時、バネッサの合図で隊員が端末を手渡した

バネッサ……

これは徴用指令だ。条例により、構造体バンビナータは我々と執行部隊に来てもらう。ホワイトスワンの精鋭候補として徴用するためだ

ペトラはドアノブから手を離し、バネッサの記憶と同じ姿勢で胸の前で腕を組んだ

ダメです

そこのお前、軍令違反の処罰を読み上げてやれ

構造体兵士が口を開こうとするのを、ペトラが冷静に遮った

私たちはバンビナータの入隊を申請した覚えがありません。彼女を連れて行く権利はないはずです

私が彼女に代わって申請した

この構造体は戦闘型ではないし、実験のサポートをさせています。機能も考慮せずに徴用するなど、軍の上層部ならそんな馬鹿げた決断をしないのでは?

軍は対象の兵士の能力を目標とする作戦基準にまで引き上げることができる組織だ。第一、それはあなたが心配することではない

――あなた!

バネッサ、あなたはバンビナータがやるべきことを知っているはず。なのに彼女を無理矢理ここから連れて行く気?

徴用指令に関する質問以外、私は何も答える義務がない

……バネッサ、あなたが戻るのを何度か想像したわ。あなたが大人になって戻るのを期待していたのだけど。人をガッカリさせる能力だけは今も変わらないのね

それが再会の心温まるご挨拶なんだな?ペトラさん、礼を言うよ。ではさっそく私の隊員を連れて行っても構わないか?

レイモンド博士がバンビナータの定期検査をしています。彼女を連れて行くなら、せめて検査が終わるまでお待ちいただきます

それに、私たちも家族としての別れを彼女に告げなければなりません

中に入ってお待ちください。我が家に何かあったのかとお隣さんに誤解されますから

ペトラは踵を返すと、太陽の中にたたずむバネッサを残したまま、ツカツカと階段に向かって歩きだした

ペトラが階段の曲がり角に消えるのを待ってから、バネッサは控えていた兵士とともに我が家に足を踏み入れた

ソファや絨毯、照明の色、芳香剤の匂いが変わっただけで、あとは記憶の中と同じだ

構造体兵士は初めて住宅エリアに入ったらしく、かしこまった様子でリビングの片隅に立っていたが、屋内の装飾をちらちらと見ずにはいられないようだ

そこで待て。勝手に動くな

はい、指揮官

バネッサはかつての自分の部屋へ向かった。ドアには自分のネームプレートがまだくっついている。磁石の片方が外れた以外、長年経っても変わった様子はない

ドアを開けると、室内は昔とまったく変わっていなかった。改良植物さえも昔のままだ

バネッサは大きく柔らかなベッドをそっと触った。学校の宿舎に入ったばかりのころ、ベッドが硬すぎて眠れなかったことを思い出した

これからバンビナータも同じ経験をするだろうか?

ふん。たかが構造体に、慣れる慣れないなんてないはずだ

バネッサはベッドから目を背け、横にある「秘密の引き出し」を開けた

引き出しの中は薄く埃をかぶっていた。どうやら前回開けてから、かなりの時間が経っているようだ

バンビナータの大事なヘアピン、気に入らないからとバネッサが彼女にあげたリボン、指人形にペン、更に十数枚の未完成の絵が入っている

バネッサはその紙の束を手に取った。1枚目はバレエを踊る女の子と、無造作に描かれたマルと棒だけの棒人間だ

2枚目は勉強をしている女の子と、無造作に描かれたマルと棒だけの棒人間

3枚目、4枚目……どれも子供時代の一幕が描かれており、その横にほぼ真っ白の小さな棒人間が描かれている

余白にはバンビナータがその時々に書いたと思しき言葉がたくさん記されていた

「お姉さん」

「黒色の蝶々のヘアピン」

「バンビナータは好き?」

「泣かない」

「実験」

「行かないで」

「覚える」

それ以外に書いてあるのは、全部バネッサの名前だった。最初は力強い筆致だったが、やがてためらうような筆跡となり、後の半分は正しいスペルですらなかった

一体いつから書いていたんだ……

バネッサはその支離滅裂な文字から目をそらそうとしたが、やはり何度も見てしまう

リビングから物音が聞こえた瞬間、バネッサはすぐに引き出しに紙を戻そうとした。だが少し考えこむと、バッグにこっそりとしまい込んだ

引き出しの中の他の物も調べたが、バンビナータの意識海の安定に役立ちそうなものはない。彼女は引き出しを戻すとリビングに引き返した

……指揮官!

何事だ?

今、レイ……レイモンド博士がこの構造体を私に預けて、2階に上がっていきました……

機体の起動は少なくとも3時間後にしてください

バネッサはペトラの冷たい表情を見ながら、バンビナータの後頭部を触った――思っていたとおり、あるはずのメモリーチップがない

おわかりでしょうが、レイモンド博士は研究に関するいかなる内容も漏洩しません。軍令には逆らいませんが、私たちにも自分の研究成果を回収する権利があります

あなたたちは……

いい加減にしなさい、バネッサ。こうなるってあなたも最初からわかっていたでしょう?あなたがバンビナータに固執するせいで、こんなことになったのよ

あなたに少しでも他人の苦労を思いやる気持ちがあれば、私が費やした全ては無駄にはならなかったのに。私とパパがバンビナータにかけた愛も無駄にはならなかった

愛?ほぅ……

彼女を車に載せろ、科学理事会へ向かうぞ

はい!

バネッサ!!

バネッサは足を止め、ヒステリックに叫ぶ母親を振り返った

ペトラの表情は相変わらず冷たいが、彼女は大きく息を吸い込むと、あふれる苦々しい思いを飲み込んだ

行けばいい。もう二度と帰って来ないで!

……そうするわ、ママ

機体更新の手術は成功だ。バンビナータの今の機体は戦闘水準に達している

交換した部品は前の約束通り、俺が保管する。いいんだな?

もちろん

わかった

メモリーチップは?

チップの雛形もないし、お前の説明だけで再現するのは不可能だ。だが端子と回路を分析して、記憶を保存する外付け記憶モジュールを設計した。容量と安定性は前より高いはずだ

だがチップを取り出す時、正常な方法で取り出されなかったらしい。彼女の記憶データは混迷を極めていて、初めて稼働した時、意識海に偏移症状が起きたほどだ

戦闘に影響ないよう、俺が外付け記憶モジュールに特別な記憶域を作り、戦闘、所属、任務情報等の基本情報を書き込んだ。記憶データが乱れても基本情報は瞬時に読み込める

書き込んだ情報が正しいかどうかを確かめてくれ

この呼び方……あなたが書き込んだのか?

バネッサは「バネッサお姉さん」と書かれている端末を指さした

一部の内容は彼女の残留記憶を自動整理したものだ。意識海が偏移するリスクを下げられると思ってな。もちろん、修正する必要があれば、そのまま端末上で変えてくれ

……彼女の昔の記憶データは、もう復元できないのか?

これが今できる最善の策だ。個人的には「あの実験」がもたらした後遺症だと思っている。俺の手元に詳しい情報がないから、これ以上はわからないがな

バンビナータの問題解決の鍵は、逆元装置が意識海に引き起こす衝突の理由と、その対策を探すことだ

だが、人類は今でも逆元装置の原理については研究途中なんだ。現在の研究知識では正しい解決法や回避方法を見つけるのは難しいだろうな

逆元装置の秘密が解明されれば、拒絶反応に関する理論も更に補完されるだろう。だが確かなのは、今の段階では無理だってことだ

……

唯一の朗報は「記憶喪失」といってもデータが消える訳じゃない。意識海の深層に沈んで彼女が自主的にそのデータを呼び出せないだけだ。人間だってそんなことはあるだろ?

つまりこの問題の解決法さえわかれば、理論上、彼女は全ての記憶データを自在に呼び出せるようになる

そちらがこれが最善の策だと判断しているのなら、とりあえずこのままにしておく

これからのことは……どうだっていい。構造体はこちらの命令に従いさえすればいいのだから

そうだね、バンビナータ?