ベラが南3拠点についたのは、翌日の正午だった
青年は無言でうつむいたまま漫画を読んでいる。いつの間にか愛用の栞が梨の花に変わっていた
「ちょっとその辺を見てくる」って、お花摘みのことだったの?
……まあそんなところ
梨の花を見つけたなんて、やるじゃない
お母さんは見つかった?
うん
彼女は複雑な表情で、ノアンの前に座った
死んだんだって、3年前に……。列車の中で病気になって。あの反乱を見る前にね
これ、彼女が残した日記。他の形見と一緒に友達に預けられていたの
ベラは持っていたノートを見せた
革命が成功すれば……全てがよくなるってずっと信じてたみたい。下層車両に小学校ができ、食糧やトイレに並ばない生活になったら、私を迎えに行くつもりだって
……………
彼女の願いは全部かなったのかしら……違うわね、全部無念な結果に終わったのよね?
彼女は泣きそうになるのをこらえていた
ちょっと……泣かないで。涙なんて一番役に立たないし、誰も助けられない
……うちのお母さんも同じ言葉を言っていたな。それに、泣いているのは君だろう?
青年はうつむいたまま静かに涙した
母親と私のセリフが同じって、そんなの昔から言われてる先人の知恵だもの
知恵だけじゃなくて、古臭い観念とかも、だろう
あなたがいつも読んでるファンタジーよりはマシだと思うけど!普通の人はどう頑張っても「カード騎士」だっけ?あんな、何でもやれちゃう英雄にはなれないんだから
カード騎士だって万能な訳じゃない。困難や問題が起きるから、話が面白いんだ
ふたりとも苦々しい表情で顔を上げ、それぞれの悲しみを心の中にしまいこんだ
……現実と物語は違うわ。倒されても倒されても何度だって立ち上がれるのは、物語の主人公だけよ
ふうん、そんな現実も理解してるんだ?君は例の本みたいに「困難は自分を成長させる薬」とか、そうとしか知らないと思ってたよ
実際のところ、困難は人を押し潰すものよ。でも私は、困難は自分を成長させるって信じたいだけ
そんなのただの自己満足だね
自己満足の何が悪いのよ。人は自分の感情に折り合いをつけなきゃ生きられないのよ
初めてあなたと会った時、あなたはいつも笑っていた。なのに今の自分の顔を見てみなさい、それだって「自己満足」のせいじゃない?
そんなこと言われる筋合いはないけど
ベラはフンと笑った
あの日、列車で一体何があったの?どうしてあなたはこうなったの?
そんな話、誰かからさんざん聞いただろう?
それは人づてに聞いた話、あなたから直接聞いた話じゃない。シュレックって名前だって本名じゃないんでしょう?
本名かどうかなんて重要?
もちろん。名前は人の過去と現在を表すものよ
その過去が面倒を引き起こすこともある。僕は自分のことを説明したり証明したりするのが面倒なんだ
そんなに気にしてるってことは、まだ過去と和解してないのね?
…………
和解しようとしたよ。皆はもう死んでしまったし。でも君だって、何も教えてくれないじゃないか
訊かないからよ
なら今訊けば教えてくれるのか?
教えない
ほらね、お互いさまだ
…………
パートナーなのに話し合わないなんて、おかしくない?
これまでみたいな感じでいいだろ?本とかの話とかさ
それで通じ合えると思う?いい加減、自分の悲しみを乗り越えることを覚えなさいよ
君だって同じだろ
私には時間が必要なの
はいはい、僕もだ
会話は途切れ、ベラは難しい顔つきのまま新しい話を始めた
……アジール号に戻る気はないの?
戻って何をするんだ?
それもそうよね。ヒースがいる限りあなたは戻れないし……じゃあ、これからも私と一緒に行動するってのはどう?
……どこへ行くつもり?
しばらくはここにいて、新しい場所に行こうと思う。どこだって、今よりはいい場所だと思うから
……人生の難関を乗り越えるための、祝福を込めた名前をつけてあげようか
別にいいわ
もう人生のどん底を経験したから、これより酷くなることなんてない。将来は今よりよくなるだけだもの
…………
どん底がどこにあるのか、誰にもわからない
災難とかじゃない。君は、僕や君みたいなスカベンジャーに襲われて、この世を去ってしまった
…………
ありがとう、ベラ
この言葉をもっと早く言うべきだった
僕が途方にくれていた時に、僕を見つけて、たくさん助けてくれた……
たまにカチンとくる時もあったけど、それは君も同じか。でも、君と出会えたから、僕は今ここに立っていられる
だから、ありがとう……それと、ごめん……最後まで君に本心を打ち明けられなかった
「いつか春も来る……あなたが好きな花も咲く……」って君は言ったよね。あの時、やっと僕は気づいたんだ……
……本に挟んでいた梨の花のこと、まだ君に話していなかったなって
僕たちは自分の過去を隠して、ずっと本の話ばかりをしていたね
もし君が生きていれば、僕と一緒にオブリビオンの行商人になって、いずれお互いの本心を打ち明けて……親友になれていたのかも
……もう、今更何を言ってもしょうがないけど
お母さん、レイチェル隊長、フィールド、サーナ、ニーノ、ウェイラン、エド爺、ヒルおばさん……列車にいたかつての仲間は、誰ひとり残っていない……
……アジール号に戻る気はないの?
幻影はベラの生前の言葉を何度も繰り返した。しかしノアンはそれを気にせず、その声と会話を始めた
もう戻らないよ
数カ月前、僕はオブリビオンの拠点でマックと会ったんだ。ニーノも死んだって聞いた
ニーノ……
ニーノは後遺症のせいで、最近じゃ飯すらろくに食えなかった。先月、ベッドで寝たまま亡くなったよ
お前がまだ生きているのを知って、俺がアディレから出ようとしてた時に、これを渡してくれって頼まれた
自分が死んだら、列車じゃ誰も保管してくれないからってな
マックは見慣れたショルダーバッグを投げ渡した。その中には、ノアンが以前使っていた物が入っていた
短剣、レイチェルからもらった武器設計図、フィールドのノート、栞を挟んだ読みかけの漫画
飴も持ってきたけど、途中でなくしちまって
飴?
お前が11歳の時、誕生日プレゼントの飴を俺の姪っ子にくれただろう?
そんな昔のこと……
アジール号のことも教えてくれた。もうヒースはいないみたいだ
列車の中では環境がずいぶん改善されてる。あと数年もすれば、君のお母さんが望んでいた小学校だって、本当にできるかもしれないね
ニーノは僕たちの犠牲は無駄じゃないって、言ってくれた……
青年は振り返り、自らに寄り添っていたボーダーコリーをなでた
だからマックもアディレを離れて、新しい旅に出ようとしていたんだ
僕も……君がいなくなってから外科医学を習おうとしたんだけど、まだまだわからないことがとても多くて
少しでも自分でできる限りのことをして、昔みたいに人々の中にいようと思って
だから僕は……オブリビオンと協力関係を結んで、行商人になったんだ
でもプリア森林公園跡での災厄後、赤潮が町を飲み込み……多くの人が亡くなった
彼は赤潮の中の幻影を見つめながらしばらく沈黙した
どんなに望みが薄くても、命を投げ出しても、彼らは諦めずに戦い続けた。彼らの戦う姿を見て、僕は列車の人々を思い出したよ
…………
アジール号を離れてから、僕はずっと自分の選択と、あの革命の結末を悔やんでいた
皆が望む未来が実現されたとしても、彼らはもういない。じゃあ一体何の意味があるんだろうって
でも災難に立ち向かい、犠牲になることを臆さず戦う人たちを見て、やっとわかった……あの日、端末をヒースに渡さなかったのは正しかったんだ
妥協は仲間に対する裏切りだ、しかも彼らの犠牲を無駄にすることだ
君の言う通り、春は必ずやってくる……
ただ……寒い冬を越えられるのは、誰かが自分の魂を燃やして、雪を溶かしてくれたからだ
彼は頭を上げ、ほろ苦く笑った
今もこんな環境下で、災いと戦う人たちが毎秒ごとに命を落としている……彼らは自らの命でダムを築き、洪水を止めてくれている
もし再び同じ境遇になっても、僕は必ず前と同じ選択をするだろう
皆から預かったものを決して手放さず、僕は皆と同じ選択をする。そして未来への切符を誰かに渡そうと思う
さようなら、ベラ。僕はマッチと一緒にオブリビオンの拠点に行く。彼らが僕が運ぶ血清を待っているんだ
君の声を聞けて嬉しかったけど、でももう赤潮を見るのはこれで最後にしたいかな
――そうだ、思い出した
045号保全エリア、グレイレイヴン、あの時はまだ昏睡していた指揮官……僕は彼らと出会っていた……
オブリビオンたちと再び列車に戻ったあと、僕は確かに同じ選択をした
あの少年構造体は僕のことがわからなかったみたいだけど、ジャミラは覚えててくれたようだ……
後悔なんてない……
――この一生で、僕は多くの命の施しを受けた。だから僕もより大勢の人の未来のために、自分の全てを献げたい
――僕は彼らを愛し、彼らに愛されている
――僕たちが死んでも、朽ち果てても、それは空虚ということにはならない。夜空を照らす炎となるんだから
――その火が、たとえ蛍の光のように弱々しくても、希望の導火線に火をつけるには十分だ
眠りの中から答えを見つけた青年は、ゆっくりと両目を開いた
全ての記憶が彼の心に戻ってきた。これでもう、体に亀裂が入ろうが、縛られて身動きできなかろうが、青年は二度と迷うことはない