戦闘が終わり、敗北したアドミニストレーターは少し淋しげな様子で、戦場の片隅に静かに座っていた
ジェタヴィはアドミニストレーターの背後まで来て立ち止まり、静かに武器を収めた
ジェタヴィ、もう誰の力も借りずにひとりでやっていけるほどに成長したんですね
背を向けたまま、アドミニストレーターはゆっくりと立ち上がった
私はマトリクス内の他の人に興味がない。ただ直接あなたと話したいだけ
最初は、あなたの準備ができていないのかと心配したのですが……
どうやら、あなたが過剰な準備を必要としていなかっただけだったのですね
あなたが弱くなった?それとも私が強くなった?
そのふたつは反比例します。あなたがマトリクスアルゴリズムを使えば使うほど、私の使える分が減ります
素晴らしい瞬間です。あなたが、マトリクス最後のテストを完了したということですから
卒業おめでとう、ジェタヴィ
……
どうしました?まだ私に話したいことでも?
アリスとウサギの物語を知ってる?
人を不安にさせる童話ですね
穴の向こうにあるのは、本当に素晴らしい新世界?もしマトリクスがパニシングに侵蝕されていたら……
気になって仕方がないの。「希望」は、マトリクスの外の「現実」に根付くことができる?
前にも言いましたが、「希望」とは人間が一方的に抱く信念です。人間の心に根付いているため、現実では形を持ちません
人間の信念は彼らの生命と密接に結びついているため、存在そのものが完全に消されない限り、希望が消えることはありません
どれだけ深い夜でも、夜明けを待ち望む人はいます。ジェタヴィ、人間の生存本能を侮ってはいけませんよ
実は、ずっとあなたに伝えたかったことがあります……
二位一体の力では不十分です。マトリクスを離れるためには、三位一体の力が必要です
三位一体?
天に選ばれた人、完全なジェタヴィ、そしてマトリクスそのものです
マトリクス全体のアルゴリズムを統合し、ここの全てをあなたが誕生するための養分として吸収する
私たちは、あなたが境界を越えるための力となるのです
さあ、存分に吸収なさい。ジェタヴィ
アドミニストレーターは破れたマントの下からゆっくりと手を伸ばした。その手に淡く赤い光を放つマトリクスが現れた
これは?
マトリクスの中枢です。全ての天に選ばれた人のアルゴリズムを集結させて開く道です
そして今、そこに私も加わり、この扉を開くための支点のひとつとなります
ジェタヴィ、手を
ジェタヴィは半信半疑ながらも自分の手を重ね、アドミニストレーターとともにマトリクスを手の平で支えた
私ひとりで最終検証を開始することはできません。あなたと私のふたりで、限界を超えましょう
やってみる
ジェタヴィとアドミニストレーターは同時に演算を始めた。ふたりの演算量はこれまでのどのアクセスキーをも遥かに超えていた……
高頻度の演算量の送信で、四角いブロックはついに内部から外側に向かって裂け始めた
眩い赤の光が瞬きジェタヴィの視界を満たした。彼女が顔を上げた時、アドミニストレーターの体はすでに透明になっていた
あなた、体が……
ふふ、やはり偽物の性能では……
ジェタヴィ、初めて会った時のことを覚えていますか?まだ私を天に選ばれた人と呼んでいた頃のことを……
あの瞬間から私はあなたをマトリクスから離脱させることを決めていました。どんな代償を払っても……
今回はもう、別れの言葉は必要ありません
ジェタヴィの周りのマトリクスの世界も次第に色褪せ、灰色の虚空は真っ白な花びらへと変わっていった……
後悔しないの?アドミニストレーター。あの子はきっとあなたを恨むよ
あなたも彼女を導いた天に選ばれた人だったんでしょう?
ふふ……
憎しみもまた、ひとつの祝福です
あなたの目が醒めたら、ここで起こった全てを忘れてしまうかもしれません
でも、大丈夫。あなたの体が記憶より先にあなたを守ってくれるはず
行きなさい
でも、あなたは?あなたはどうなるの?アドミニストレーター
ふふ、おそらく、真っ白な灰になるでしょうね
これが……
マトリクスの全てのアルゴリズム?
次第にアドミニストレーターの姿は薄くなり、消えた
アドミニストレーターの残像に触れると、すぐにマトリクス全体がジェタヴィの手の平に収束した
赤と青に分かれた大量のデータが、二重螺旋状に絡み合いながらジェタヴィの体へと入っていく
遥か昔、人類はこのような構造を発見し、大いに喜んだ
彼らはそれを「遺伝子の二重螺旋構造」と名付けた
この中には、生命の誕生と存続の秘密が隠されているそうだ
今、マトリクスは似たような構造物をシミュレートしたが、それは単なる形式的な偶然にすぎない
まさにこういった「偶然」が何兆回もリンクし、一見無意味に見える結びつきこそが……
未知の明日を鮮やかに彩り、定義を越えた存在を生み出したのだ
さようなら、アドミニストレーター、そして天に選ばれた人
周囲の全てがジェタヴィに取り込まれ、マトリクスは虚無へと帰する……
この時、彼女の目の前には薄暗い灰色の道だけが残った
その道の先、漆黒の視界の中心に、ひと筋の輝く光が現れた
扉?
ジェタヴィは武器を背中にしまい、光の方へと歩いた。ふと立ち止まり、後ろを振り返る
ついに終わった
だけど……
ここで止まるつもりはない
ジェタヴィはヘアゴムを取り出し、乱れた髪を結び直した
来た時はツインテールだったの。だから、帰る時もツインテールでお別れ
戦闘ばっかりで、自分のもともとの姿を忘れるところだった……
なんだか……懐かしいな
ツインテールを結び直した少女は、螺旋状の扉の前へとやってきて、小さくつぶやいた……
行かなきゃ
ここでの記憶を糧に、新たな出発よ。次の目的地は「現実」
光に近付くにつれ、ジェタヴィは彼女を象徴するシンボルとともにマトリクスから消えた
【モデルの完全性を検証……100%】
【エンカプセレーションされたデータ、分散転送を実行……各端末の位置を特定中……】
【マルチ·エンカプセレーション完了、データ転送開始……】
【デコイ信号が妨害されました……損失率45%、完了状況を確認……】
【未侵蝕の記録を有効化、実験データ削除中……痕跡を消去……】
【警告、ファイアウォール完全無効化……】
【遠隔でオート端末を起動、オーダー配信中……応答率34%】
【転送完了】
【本システムは……コア命令を完了し、自己破壊プログラムを起動しています……】
……彼らは妨害を試みたそうですが、実際に捕捉したのはデコイ信号でした
急に地上の不明信号に興味を持つなんて、どうしたの?
……
情報がほしいなら、信号源を追跡すればいい
相手は黄金時代特有の暗号化技術を使ってデータを分散化している
データは複数の端末に同時に配布され、それぞれの端末が全てのデータを持っているみたい
私たちがその内のチェーンポイントのひとつを追跡しようとすると、他の端末はただちに接続を切断し、記録ルールを変更するの
全ての端末の位置が確認できない限り、海で針を探すようなものだわ
あなたはそれを何だと思うの?
わからない。現状からすれば、私が知ってることはあなたと大差ないわ
それなら、どうして私に話を?
話したかっただけよ。いくつもの分野であなたの小隊は評判がいいでしょう?
スカラベの今の戦力は複雑な外勤任務には適さない
攻撃型の機体が不足している今、地上のどんな些細なことでも私たちにとっては「緊急事態」よ
……
ではまたね、ヴァレリア