さほど広くない仮設宿舎の中、どこか滑稽で、どうすることもできない無言の攻防戦が繰り広げられていた
青い髪の構造体はぬいぐるみを手にしゃがみ込み、部屋の隅でそわそわと落ち着かない様子の訓練犬に向かって、できる限りの友好のサインを送っていた
彼女は、糸がふわりと落ちるよりもそっと歩み寄った。しかし、なだめようとしているその相手は、低く唸り声を上げて後ずさり、壁に体をぴたりと押しつけている
……ダメそうですね
このやり取りは、この1時間の間にすでに何度も繰り返されていた
自分とシュエットは食べ物や玩具を駆使して、最初の成功体験を再現しようとしていた。しかし、カッソーリは以前に増して不安がり、その手では近付くことさえできない
新しい環境、見知らぬ匂い……周囲の全てが刺激になってしまうのですね。その感覚、私には想像できます
ふたりの視線は、同時にカッソーリの首にかけられたネームプレートに注がれた。それは訓練士の端末と接続でき、動物の感情をモニタリング、分析できる装置だ
感情が高ぶれば、その感情を引き起こした記憶の断片を抽出でき、訓練士が対象の異常状態とその原因をいち早く察知し、適切な対応を行えるようになっている
接続完了です。始めましょう、指揮官
疲れた、お腹が空いた。なんとか食べ物を見つけた
何だよ、見つけたのはこれっぽっちか?腹の足しにもならねえな。失せろ!今日はお前の分はねえよ!
人間に奪われた……疲れた、お腹が空いた
ご主人様はご機嫌ななめみたい。遊んだら楽しくなるかな……
シッシッ、遊んでる暇なんかない。ハァ、犬に何がわかるってんだ……
蹴られて痛かった、悲しいな
寒い、暗い
何を吠えてやがる!おい、あいつは口輪をくくって遠くへ繋いでおけ
やかましくて頭が痛くなる。鼻が利かなかったら、とっくに車から放り出してるところだ
寒い、暗い
......
……きったないカッコして街でゴミでも拾って食べるんじゃないの……誰もいらないっていう子犬みたいにさ
お前たちは犬と同等か、むしろ犬以下の存在――犬は余計なことを考えない、ビビったりしない!……各自の任務を完了するように、後れを取った者には罰だ
……どこへ行ったの?まさか自分は……また捨てられたの?
......
目をぎゅっと閉じた構造体の少女の眉間には長年堆積した悲しみが深く刻まれている。膝の上で重ねた両手は、失われる運命の何かを必死に掴むように強く握りしめられていた
自分がそっと声をかけると、彼女の睫毛が小さく震えた
……指揮官
あっ、すみません。少しボンヤリしていました
……指揮官?
いえ、指揮官の手の温かさはホッとさせてくれます。私こそ謝罪を
そう言っていただけるだけで、すごく慰められます
恐らく……カッソーリを助ける方法がわかったかもしれません
カッソーリはとても賢く、執着心も強い子です。食べ物や玩具の記憶も全てがいいものではなく、それが原因で傷つけられたこともありました
今、この子に一番必要なのは安心感です。食べ物が奪われず、好意が裏切られないこと。そして、使い捨ての道具にされないということです
人も同じですよね。安全だとわかって初めて、「願い」や「未来」について考えられるのですから
指揮官の言葉は、ちゃんと届きましたから
彼女が過去に縛られて押し潰されそうになった時、人とのリンクから送られた思考は、その束縛を切り裂く刃のように効果を発揮した
青い髪の構造体は部屋の隅にいる訓練犬を見つめた。その瞳には穏やかな決意が宿っている
この子に希望と達成感を取り戻させてあげれば、きっと見違えるほど変わるはずです
あの時、あなたがしっかりと私のお傍にいてくださったように、今度は私がカッソーリの傍らに寄り添います
「ふたりで」……そうですね。これは共同任務でしたね
まだ自分と一緒に困難に立ち向かうことに慣れていないのなら、彼女にもっと安心感を与えた方がいいだろう
それでしたら、すぐに物資を整理して、指揮官が過ごしやすいように整えておきます
構造体の少女はサッと真剣な表情になり、部屋をぐるりと見渡した
棚の上に少し埃がありますね。あそこのクッションカバーは洗濯して、カーテンのタッセルは縫い直して……どれも大した仕事ではありません、指揮官。すぐに終わらせます
いえ。やはり私が片付けます
メイドは任務の偽装だったとしても、家事や整理整頓をしていると、いつのまにか心が落ち着くんです
……クラシックを聴きながらだと、なおさら
これは単なる責任感や感謝の気持ちからではありません。私が心の底からしたいと思えるし、そうすることで幸せな気持ちになれるんです
少女の青い瞳は澄み切っていた。少なくとも今この瞬間の彼女は、過去の影に苦しめられることなく、自分の願いを素直に言葉にできている
恐らく彼女の好意を受け取りきちんと応えることが、彼女にとって何よりも大切なことなのだろう
はい!
手慣れた分野とあれば、シュエットの動きはとても機敏で軽やかで、料理や家事を芸術の域にまで高めるかのように、非常にスムーズだ
警戒心を解かないカッソーリさえも、彼女の動作に惹きつけられ、興味深そうに耳をピンと立てた
段ボール箱の中の道具や物資は、それぞれしかるべき場所へと収められた。青い髪の構造体がティーカップを差し出す所作も、文句なしに完璧だった
鎮静効果のあるカモミールティーをご用意しました、指揮官
ティーカップを受け取りひと口すすると、温度はちょうどよく口当たりも香りも素晴らしい。彼女の心遣いは、どんな平凡な素材も魔法をかけたように変化する
自分の称賛の言葉に、構造体の少女は大きな激励を受けたように、背筋を更にシャンと伸ばした
今の準備では、蜂蜜がひと匙足りなかったんです。空中庭園に戻ったら埋め合わせをいたしますね
座るように言うと、シュエットも構造体用の特製ドリンクを手に、正面に腰を下ろした
少女は両膝をきちんと揃えて座った。ただ、指先でボトルの底をなぞる仕草に、微かな戸惑いが滲んでいる
顔を上げこちらと目が合った瞬間、彼女はサッと目を逸らし、ごまかすようにドリンクをひと口飲んだ
コホン……あの、指揮官、失礼を承知でお訊ねしますが……隣に座ってもよろしいでしょうか?
訓練士同士が近くにいる方が……カッソーリも私たちを早く受け入れてくれるかもしれません。それに…
不思議そうなこちらの反応に、構造体の少女はそっと唇を噛み、もじもじしながら体の向きを変えた
......
……ただ、あなたが休んでいるお姿を見ると、お傍にいたくなって
シュエットの耳はほんのり赤く染まっていた。彼女は椅子を自分の隣に動かし、少しためらってから、更にもう少し近付けた
彼女の銀灰色のスカートの裾が、自分の足の横にふわりと触れた
窓から差し込む陽光がティーカップの湯気越しに、ふたりの膝の上に柔らかく降り注ぐ。その穏やかな空気に包まれていると、時の流れがゆっくりになったように思える
どのくらいの時間が経ったのだろうか。シュエットの静かな声に、思考が引き戻された
[player name]、ほら、見てください
カッソーリが尻尾の先を小さく揺らしながら、ためらいながらも少しずつ、壁の隅からふたりの方へゆっくりと歩み寄ってくる
距離が縮まるごとにシュエットの笑顔が少しずつ綻び、それに合わせて自分の鼓動も高鳴っていく
――ついにカッソーリはふたりの足下にうずくまった。風雨に曝され続けた体が構造体と人間の脚の間に挟まれ、ゆっくりと命の温もりを取り戻していく
飲み物の缶とティーカップが小さくカチンと音を立てた
新しいスタートに乾杯
