……どうしました?
ポーチに手を入れて、露店で買った木櫛を取り出し、含英に手渡した
これを……私に?
含英は木櫛を受け取り、手の平に乗せた
とても気に入ったわ
ありがとうございます、大切にします
彼女の語尾はいつも柔らかな笑みを引き連れて、花々の間を吹き抜けるそよ風のように、知らず識らずのうちに心地よさを運んでくれる
でも、私からお返しできるものが……
もしよければ、1曲、舞いを披露しましょう
ええ、舞踊団で過ごした日々はとても大切な思い出よ
……夜航船に戻ってから、踊るのはこれが初めてだわ
じゃあ、ちょっとだけ待ってね
彼女は庭の中央に立つと、軽く息を吸い、腕を広げて舞扇を振った
舞台照明として月光を纏い、演奏の代わりに拍子を打ち鳴らして歌う
満員の客席にではなく、たったひとりの観客のために彼女は踊っていた
~樹の揺れる音~移りゆく人の影~蝉しぐれに雨音――
衣が宙を舞い、飾りがシャラシャラと音を立てる
万丈たる雲~大海を渡る~我が心は凪――
――浮世の些事は巡るとも、――浮世の些事は巡るとも、ただ儚く散るのみ!
時に扇子の陰に隠れ、時に遠くから見つめるその眼差しに、柔らかな月光に抱かれるような錯覚に陥る
夢から流れ出したかのような流暢で穏やかな調べの中、絹雲から月が顔を出すと、庭に差し込んだ月光が、天へ続く梯子のように輝いた
宙を舞い、身を翻し、地を転がる
その舞いを見ながら、かつて夢幻と思い、記憶の隅にしまっていたあの場景を再び思い出した
時間の概念を超越したようなその姿は、はるか遠い昔の「儚き夢」だった。それは一瞬ですぎ去ったが、ただの一度も忘れたことはない
花びらの舞う幻境の中で踊る少女は、実際に存在した――今、まさに目の前にいる
舞いが終わり、扇をたたんで一礼する彼女に、心からの拍手を送った
お目汚し、失礼しました
指揮官……いかがでした?
あら、ちゃんとここにいるのに
彼女はささやくようにそう言いながらこちらへ近付くと、隣にある竹椅子に座った。廊下でふたり肩を並べて、がらんとした庭を眺める
月が高く昇り、修復された2羽の機械ツバメがどこからか飛んできて、屋根の軒先に身を寄せ合ってとまった
ええ、それまでゆっくり休みましょう
安心した途端、溜まっていた疲れがどっと溢れた。眠気が押し寄せて、急激にまぶたが重くなる
虚ろな意識の中、柔らかい綿のような海に沈んでいく感覚があった
そんなところで寝たら、風邪を引きますよ
仕方ないという笑みとともに、優しい声が耳元に響く
徐々に視界が小さくなって暗闇へ落ちる最後の瞬間、含英の少し寂しげな表情を見た気がした
……
決メタ、アナタノ言ウ場所ヘ行コウ
ええ、新しい家族がいれば、アルカナもきっと喜ぶ
教会ガ……新シイ「家」ナノカ?
それはあなた次第よ。でも、そこにはメンテナンスをしたり、助けてくれる仲間がいるわ
最後ニ……別レノ挨拶ハイイノカ?
……ええ
あの方の立場や教会のルールからも、今はまだその時ではないと。私は……皆を困らせたくないの
舞いで別れを告げる、それだけで十分
……ただ、今回のことは、蒲牢にお礼を言わなきゃね
――目を覚ますと、夜が明けていた
窓の外を見る。空は晴れ渡り、荒れていた海も完全に収まったようで、しばらくは穏やかな晴天が続きそうだった
いつの間にか体にかけられていた薄い毛布が、動いた拍子にするりとベッドから落ちる
静まり返った部屋に声が響いたが、返事はない
急いでベッドから飛び降りて部屋を出た。中庭で含英と分銅の姿を探すも、辺りは静かで、自分以外には誰もいないようだ
夢から覚めたのか、いまだに夢の中なのか?
困惑していると、中庭の机の上に青玉の扇子飾りと古びた倉庫のカードキーを見つけた
扇子飾りを手に取ると、その温もりを残しながらも微かに冷たい感触が、これまでの時間が夢ではないことを教えてくれた
含英がなぜ何も言わず去ったのかはわからないが、彼女が夜航船に戻ってくれば、会う機会もあるはずだ
まだ口にはできない心の中の疑問も、いつか明らかになる日が来るだろう
庭は相変わらず荒れ果てているが、壊れた門は修理されている。床の埃も掃き清められ、門廊には小さなランタンが掛かっていた
ここは先ほどまでかりそめの「家」だった。過去に取り残された孤独な機械の憂いと執念が籠ったこの場所には、かつて現在の夜航船と同じ明かりと家族の団らんがあった
一瞬ですぎ去ったことだとしても、その思い出は確かに存在する
中庭の門をそっと閉めた時、1羽のツバメが肩にとまった。ツバメはクチバシで優しくこちらの頬をつつくと、翼を羽ばたかせて果てしない青空へと飛び立っていった