カヘティの衛星都市
現在――
工具室には古いオイルの臭いが漂っている。リン長官は腕を組み、ヒビが入ったレンガの壁にもたれかかりながら、ネイティアの話を黙って最後まで聞いていた
君はその人に助けられ、科学理事会に加入し、これほど長く……潜伏したのか
あの日から今日に至るまで、私は「高い塔」に関する情報を一切聞いたことはありません
上層部の古狸に忠誠心を示すふりはそう難しくありません。でもここでの出来事を忘れたふりをし、苦労と悔しさをひとりきりで抱え込むことは簡単ではありませんでした
ネイティアは革の椅子に座り、話をしながら、頭上の微かな灯りの下で赤霧遮断器の手入れをしていた
春には広場の歓声に胸を締めつけられ、気を失う。偽りの雪が天幕から降る冬には、私は本物の厳冬以上の寒さを感じていました
まるで世界中が薄いベールを隔て、私を疎外しているようでした。月日が経って部屋の中が勲章で飾り尽くされ、表彰台で紙吹雪を浴びようが、現実味を感じられませんでした
どうして最後、構造体に?
だってそうやって生きるのは……本当に辛すぎたから
彼女は遮断器を腰に戻し、ゆっくりと頭を上げた
意識海が果たして人間の頃の精神疾患を引き継ぐかどうか、当時は誰も知らなかった。私は自ら実験体となり、それが科学理事会で私が最初に取り組んだ研究でした
メスと鉗子が私の肉を剥ぎ取り、人間の魂には取り返しのつかない欠損が存在することを証明しました――私以降、精神疾患の患者が構造体手術を受ける必要はなくなりました
昔の人々は、常に技術の進歩は全てを変えるとのたまうが、少なくとも君が苦しんでいる分野において、彼らは何ひとつ変えていない
どんなに素敵なものも、私の体を通ると荒れ果てて朽ちてしまう。この世界で、私は永遠によそ者にすぎないんです。私の時はあの爆発の日、進むのをやめてしまった
時間はそうやって流れ、痛みはやがて私の体を麻痺させ、体の一部として刻み込まれていったんです
彼女はテーブルから最後の2本の鎮静剤を拾い上げると、腰のポーチにぐっと押し込んだ
少し前、墜落事件が起きたあと、世界政府議会はようやく圧力に耐えきれず、科学理事会がある計画を再開することを……承認しました
連合政府の承認を受け、私は情報部資料室の扉を開け、そこでアディレ大爆発に関するあらゆる情報を調べました
そしてついに、極秘レベルのファイルロックを解除し、当時事故の調査団が提出したディレクトリを見つけたんです
ネイティアはしばし言い淀んだ
中は空っぽで、全ての情報が削除されていました
彼女は小さくため息をついた
……もうひとつ、別の可能性がある。あの時、そもそも彼らは何も提出していなかった
どうしてそう思われるんです?
リン長官は軽く肩をすくめた
彼らとは20年の付き合いがあるからな
あなたは全然驚いていないみたい。あの日、一体何があったのか知りたくないんですか?
知るべきことはしっかりこの目で見た。知るべきじゃないことについては、もともと興味がない
リン長官は部屋の暗がりの方へと歩き、埃の積もった油絵の前で足を止めた
フリードリヒの『雲海の上の旅人』。これは当時、彼が教養を気取ってわざわざ購入し、自分のオフィスに飾った油絵のひとつだ
これほどの月日の中で、私が一途に気にかけていたのはただひとつだ。それはこの街を、生ける人全てを守ることだ。戦死した仲間の命を絶対に無駄にはできない
たとえ彼らの名が、世に知られることがなくても?
それでも彼らの栄誉と功績は、依然としてこの街に生きている
リン長官はゆっくり振り返り、ネイティアの目を見つめた
私にとっては、何千人もの人を明日の温かい食事にありつかせることの方が、どんな真実よりも重要なんだ
……
どうやら、あなたは私と一緒に行くつもりはないようですね
ネイティアは立ち上がり、指を曲げ伸ばしして、自分のコンディションが完全に回復しているのを確認した
君は……放射区に戻るつもりなのか?
夢にまで見た目標の場所はすぐそこなんです。引き返す理由があるとでも?
いつのまにか彼女はドアノブに手をかけていた
そんな決断をするとは、君らしくないな、ネイティア
マルガリータ……彼女がまだ私を待っているんです
彼女が扉を開けると冷たい風が吹き込み、床に散らばる紙片を舞い上がらせ、淡い紫色の髪を揺らした
これは昇格者の罠かもしれない。下手をすれば命を失う。それでもいいのか?
その心配はしていません。すでにある人と約束をしたので……
彼女はうっすらと笑いながら、1歩踏み出した
私の物語は、まだここで終わりはしません
いくつかの話を聞いているうちに、病室の外の強烈な消毒液の臭いにだんだんと慣れてきた
血清を受け取る人はあちらに並んで!通路を開けるんだ!
薄い霧はひっそりと扉や窓から入り込み、赤い粒子が夕陽に照らされ、渦を巻くように漂っている。その不吉で陰鬱な気配は人々の心身を蝕んでいた
事情はだいたいこんな感じだ。それから……私たちは面倒なことに巻き込まれて、じいさんがこの仕事を私に託し、私はオブリビオンと手を組んだ
アウリスはガラスの窓をそっとなで、その視線は終始窓の向こうにある病床に向けられていた。負傷して意識不明で横たわるその兵士は、彼女の知り合いのようだ
何?あんた、じいさんを知っているの?
人気者だね。統帥もよくあんたのことを話してた
あんたみたいな重要な「大物」が、なんでこんな危険な前線に派遣されたの?もしかしてなんか重要な場面でやらかして、誰かの面子でも潰したとか?
彼女は頭を傾け、その口調に僅かな揶揄をしのばせた。どうやら空中庭園に対して相当憎しみを抱いているようだ
ハンッ――そして昇格者にボコボコにされて、私たちと一緒に赤霧に閉じ込められ、ひとりの援軍もなしってわけだ
彼女は冷たく笑った
信用したってムダ。政府にそんな実力があるなら、とっくにあの昇格者を片付けていたはず。なのにボロ負けして、最後はカヘティ人に頼るとはね……
ぐあ……ウェッ!!
アウリスが話している時、突然武器を落とすガチャンという音がした。ひとりの兵士が吐きそうになるのを手で押さえ、足をよろめかせていた
おい!大丈夫か?
アウリスとともに兵士の体を支えた。彼は全身をぶるぶると痙攣させ、首に青筋が浮かんだかと思うと、頬を膨らませた
ゲエェ……オエェ!!
鼻を刺す悪臭とともに、兵士は猛烈な勢いで吐き戻した
熱を帯びた粘液状の吐しゃ物が石畳に飛び散った。その中には僅かに血と人体組織が混じっている
軽度の侵蝕だ……血清を注射するから、彼を支えてて
アウリスは素早く血清の注射器を取り出し、兵士の静脈の位置を探り、迷いなく刺した
はぁ……はぁ……
た、助かったよ……
目の充血がパニシングより赤い……壁のとこであんたを見かけたことがある
このクソ忌々しい霧は精神を蝕むんだ。元気がないなら無理しないで、さっさと休むことだね
……おふたりともお疲れさまでした。あとは我々に任せてください
何人かの医師が駆けつけ、力尽きた兵士を担架に移すと、人混みをかき分けて廊下の向こうの病室へと走っていった
廊下は再び静まり返った。遠方にいる人々の行列のあちこちから、咳き込む声が聞こえてくる
……
アウリスは眉をしかめ、拳を握りしめた
たとえ私たちが赤霧に食い尽くされようが、世界政府は助けに来ない
こんなことは何度も起きたし、嫌というほど見てきた
彼女は振り向き、病室にいる瀕死の戦友を見た
どんな援軍もいない。私がチョウとカヘティの人々を連れていく
あんたはどうする?私たちと一緒に来る?全ての戦力を集中しなきゃいけない。空中庭園のやつらも含めて
アウリスがこちらを見た
また戻るっていうの?赤霧に脳みそを焼かれちゃった?
……
アウリスは目を閉じ、ふーっと深呼吸をしたが、自分の決断を肯定も否定もしなかった
教えて。ネイティアが前に言っていた話は本当?あんたたち、放射区でマルガリータを見かけたの?
彼女はくるくると髪の毛に指を巻きつけながら、目に複雑な表情を浮かべた
あんたはネイティアと意識リンクをした
病状……?何年も経ってるのに、まだ空中庭園は治せていないの?彼女は構造体なのに?
アウリスの指の動きがなぜか落ち着きを失い、髪をかきむしった
彼女の意識海で何を見たの?まさか私が出てきたりしないよね?
彼女は眉をぎゅっと寄せた
……なら、私たちの別れを見たはず。あの腰抜けがどうやって私たちの身近に潜んだのか、そして最後には故郷を裏切ったかも
私の人生で最も後悔していることは、あの時もっと彼女をビンタしとけばよかったってことだよ
それって重要?彼女は最初から離れるべきじゃなかった
アウリスはゆっくりと手を止め、目を伏せた。口を開きかけたが、結局何も言わなかった
長い沈黙の後、彼女は背を向け、武器をかけた肩ひもを軽く引っ張った
時間が残した後悔があまりにも多すぎる。私は自分の目で確かめた答えしか信じない
作戦会議がもうすぐ始まる。私たちと一緒に来るのか、来ないのか。あんたが今後どうするかを考える時間は残り30分
少し休んでおいてよ。あんたの準備ができたら、いつでも出発する
前進指揮本部
カヘティの衛星都市
アウリスと一緒に指揮本部に入ると、そこには軍服姿の士官たちがぎっしりと座っていた
空気中に湿ったカビの臭いが充満している。10数脚の椅子がオーク製の長卓を取り囲み、その中央でホログラム地図が青い光を放っていた
……
すぐにひと目で隅に座っているネイティアに気付いた。彼女も自分に視線を向け、隣の空いている席をトントンと叩いた
……ふん
アウリスはじろっと睨みつけ、近くの椅子に腰掛け、足を組んだ
まあまあ。だけどここは……まだ少し痛い
彼女は顔をしかめながら、前腕をさすっていた
ここ……
パチン――自分が顔を寄せると、ネイティアはいたずらっぽく指で額を弾いた
カラスさん、これはこの前あなたが「出すぎたこと」へのお仕置き
発症した患者に意見なんて訊く?今度あなたがスターオブライフに搬送されたら、あなたの病室に行って、理事会への入職申請にサインしてもらうから
この時、指揮本部に重苦しい鐘の音が響き、人々はひそひそと交わしていた会話を止めた
リン長官は中央の席から立ち上がると、冷たい眼差しでその場にいる人々を見回した
……皆も知っての通り、カヘティの放射区で突如拡散が起き、連合政府の昇格者を討伐する「悪魔狩り」作戦は混乱し、一転して敗走することとなった
前日の午後、標準時間13時ちょうど、軍部の許可を経て、世界連合政府第6軍司令部が「悪魔狩り」作戦の中止命令を下した
赤霧の影響で我々の外部への通信が完全に途絶えた。今朝になり、カヘティ市街地に金色の巨木が成長して出現し、一瞬復旧した通信で、我々はようやくこの件を知った
リン長官が指を滑らせると、衛星都市から撮られた「黄金樹」の映像が映し出された。樹高は以前よりも高くなり、一般の建物の高さを超え、数十mほどあるように見えた
過去2日で、2000名近くの難民と兵士を受け入れた。たったひと晩で我々の医療備蓄は底をつき、120名近くの重傷者は瀕死の状態だ
昇格者の指揮により、衛星都市は侵蝕体に取り囲まれている。街のパニシング濃度は安全制限レベルを上回り、一部の人にすでに軽度の侵蝕症状が出ている
赤霧はカヘティを呑み込みつつある。司令部は慎重に考慮した結果、衛星都市を放棄し、6時間以内に撤退作戦、コードネーム「ヘブロン」を実行することに決定した
ここまでで、何かご質問は?
長官
人混みの中で、顔に包帯を巻いた士官が手を挙げた。リン長官は彼に向かって頷いた
この前、空中庭園の「悪魔狩り」作戦に協力するため、街のほとんどの車両が郊外の「墓場」に徴用されました
今、「墓場」は侵蝕体に占領され、我々の輸送力では何千名もの市民の避難作業を担えません
「墓場」は近くにある火薬庫の符丁らしく、この名を聞いて、ネイティアとアウリスがハッと頭を上げた
輸送官がある重要な問題を提示してくれた――輸送力だ。これも「ヘブロン」作戦の成否を左右する鍵となる。皆、自分の席にある作戦概要を開いてくれ
なお昇格者がいるため、敵は「戦術」を実行する知恵がある前提で我々は行動せねばならない。これまでのような、侵蝕体の集団を相手にするようにはいかない
ましてや今回、我々が直面する敵は――ジョン·ドゥだ。彼の手段は極めて残酷かつ狡猾で、更には動機も不明だ。作戦中、くれぐれも油断しないでほしい
作戦開始後の1時間30分以内に、各中隊は各々の管轄エリアで全ての非戦闘人員を動員して集合させるんだ。基準となる年齢、怪我の程度に従ってグループを分ける
1時間30分後に、砲兵中隊は南方面の平原にいる侵蝕体に、遠距離から砲撃を。全備蓄弾薬がなくなるまで撃ちまくれ。そのあと、持ち帰れないロケット砲をその場で処分しろ
砲撃後、一番損傷の少ないA中隊は南部平原の道に沿って突撃しろ。我々が南へ向きを変え、連合政府第6軍の主力軍隊と合流するふりをするんだ
しかし我々の真の目的は、B~F中隊の精鋭戦力で構成された、特殊混合中隊にある。A中隊の陽動作戦と同時に、特殊混合中隊は東方面に向かって「墓場」に潜入し、進め
この特殊混合中隊は、アウリスが総指揮を執る
横にいたアウリスが、人々に向かって手を上げた
「墓場」の確保に成功後、現地の軍備を活用し、その場で防御陣地を構築する。同時に現場の状況に応じて、対応する色の信号弾を発射。その色で作戦の継続の可否を判断する
通信兵が見た信号弾が緑色の場合、それは「墓場」が安全ということだ。B~F中隊の主力部隊は市民たちと、順次「墓場」へ転移する
同時に、敵を牽制するA中隊はただちに衛星都市に撤退し、街の地形を生かしながら侵蝕体との市街戦に持ち込め。主力部隊の移動のために時間を稼ぐんだ
物資と車両の補充の完了後、我々は概要に記されたルートに従って前進する。全員が放射区から撤退し、空中庭園と連絡が取れるまで、各中隊が交代制で援護する
もちろん、これは全てが最も理想通りだった場合だ。実際の戦闘では、A中隊の陽動作戦が失敗したり、特殊混合中隊が侵蝕体に包囲され、阻止される可能性もある……
そうなれば、如何なる例外的事態が発生したとしても、「ヘブロン」作戦は即刻中止する。そして全ての部隊への命令はただひとつとなる――全力で「墓場」へ総攻撃だ
まとめると、車両と物資を奪い取ったあと、撤退し支援を受ける――それが我々が生き残ることができる唯一の手段だ
異議はあるか?
冷たい視線が、再びその場の全員を見渡した
どうぞ、グレイレイヴン指揮官
その名を耳にした瞬間、指揮本部にいるほとんどの人が振り返り、一斉にこちらへ視線を向けた
それについては、私が補足します
立ち上がったネイティアを見て、一部の衛星都市の士官たちがひそひそと耳打ちを始めた
多くのカヘティ人にとって、ネイティアは今なお、あの時に故郷と友人を捨てた「裏切者」だ
だが、ネイティアはそんな非難の目を気にせず、発言を続けた
科学理事会の観測データによると、自然状態において、カヘティ放射区の赤霧の境界は比較的安定しており、無風条件下での1日平均拡散速度は毎秒0.1m未満です
稀に強風だとしても、赤霧が拡散する上限速度が毎秒0.6mを超えたことは一度もありません。これは我々の過去20年の観測データに基づいています
ネイティアは前に出て端末を操作し、あるデータを会議室のポートにアップロードした。中央のホログラムディスプレイに、今も右肩上がりで上昇する緋色の曲線が現れた
本日、私は衛星都市の浄化塔本体を確認しました。今朝6時17分頃、衛星都市の東方向の約9km離れた4号浄化塔基地が、通信途絶前に最後のパニシング警報を発しました
しかし、僅か2時間44分後の9時1分、赤霧は早くも衛星都市の最東端にある「墓場」の6号浄化塔基地に到達し、通過しました
彼女は腕を上げ、地図の上に7号基地から衛星都市へと延びる直線を引き、そこに時間を記した
これが意味するのは、赤霧の平均進行速度はすでに毎秒1.8m以上と、驚異的なスピードに達している、ということです
しかも、これはあくまで平均速度にすぎません。拡散過程における加速効果を考慮すれば、赤霧の前線の瞬間速度は更に速くなる可能性があります
複雑な地形での、急行軍の進行速度は毎秒1m~1.5mくらいです。車輪式車両でも、廃墟や侵蝕体が蔓延する環境では、平均速度を毎秒3m以上に引き上げるのは難しい
ネイティアは全員を見回しながら、彼女がはじき出した冷酷な結論を告げた
私たちは死と競争しています。しかもスタートの時点で、すでに後れを取っている
彼女の言葉にその場が静まり返った。現状を知った人々は顔を見合わせ、黙り込んでしまった
つまり、あんたの計算は証明もしてる。我々がその速度を上回れば、生き残る希望があるってことを
ええ、だけど、私が言いたいのは……
何も難しいことない。カヘティ人ならできる。私たちは戦火に鍛え上げられた戦士だからね。空の上にいる無能な穀潰しとは違う
教官、この作戦の開始時間を30分前倒ししよう。出発は早ければ早いほどいい
それだと各中隊は1時間内に事前の戦闘準備と、市民の避難作業を終わらせる必要がある……皆、できるか?
B中隊、問題ありません!
C中隊、任務完遂を約束します
高らかに応える声が次々と響き渡った。もはや退路はない。彼らは死とのレースになるこの任務を、必ず成し遂げねばならなかった
私も行く
そう言うと、ネイティアは人々の驚いた視線にも動じず、自分の隣に立った
理事会から任された任務はまだ完了していないもの。それにあなたの「安全」の保障も、私の責務のうちだから
彼女はうっすらと笑った
……我々はもうすでに作戦プランを立てている。カヘティの事情なのに、部外者に危険を冒させたくないんだ、グレイレイヴン指揮官
……正直に言えば、それは自殺行為としか思えない決断だ
だが出発前に、何か必要な物資があれば、いつでも私たちに言ってほしい。カヘティは最大限に努力するし、協力することを惜しまない
他に質問は?我々の「レース」は、すでに始まっている
今ここで宣布する――「ヘブロン」作戦、開始!
イエッサー!
この場にいる全員が同時に立ち上がり、司令部の最高権力者であるリン長官に向かって敬礼した
最後に、皆さんにもうひとつ情報をお知らせします
各方面の情報によると、放射区の中の「黄金樹」が成長し始める度に、赤霧の中のパニシング濃度が激しく変動します。更に「黄金樹」に近付くほど、周辺の侵蝕体も強力になる
このことから、私はあの「黄金樹」は、放射区のパニシングの放射源ではないかと推測しています
ですから、もし私たちが生きて戻らなければ……
あなたたちがこの情報を空中庭園に、外の世界に届けてほしい
会議の後、人々は足早に去ってそれぞれ自分の仕事へと戻った。自分の一挙一動が、5000人の命の安否を左右する。そのことを全員がはっきりと自覚していた
指揮本部の明かりは消え、すぐに静かになった。物音ひとつしない薄暗い場所に、申し合わせたように残ったふたりの姿があった
ネイティアは片隅に立ったまま、アウリスは今もまだ足を組んだまま座っていた
……
……
ネイティアは唇を僅かに動かし、何か言おうとした。顔を上げたその瞬間、同じくためらいがちなアウリスの視線とぶつかった
ふたりは揃って俯き、またもや沈黙が広がった。貴重な時間が、少しずつ流れ去っていく
……私と一緒に戻ってほしいの。マルガリータを探すために
どれほど時間がすぎたのだろうか。ついにひとりが沈黙を破り、胸の内を打ち明けた
こんなに何年も……あんたは今まで何をしていた……?
アウリスは険しい表情のまま、低い声で言った
話せることはあまりにも多くて長くなる。私はある決断をしたけど、それが間違いだったのか……わからない。ただ、私はずっとその代償を払い続けてきたわ
決断ってどんな?
あなたから離れ、皆からも離れること
……
アウリスはまた指に髪をくるくると巻きつけた
出会ってから一緒に過ごした時間は、数カ月にも満たなかった。なのに再会するまでに20年もかかるとはね
時間が経ちすぎて、多くの物事が変わってしまった。カヘティのあのマルガリータは……あんたたちが言うように、昇格者が作ったただの幻影かもしれない
私にとって、マルガリータはとっくに昔のこと。目下の急務はチョウたち、この街でまだ呼吸できる人なんだ。私は彼らを連れ、生きてここを出る
多くの物事が変わっても、あなたは変わってないわね、アウリス
ネイティア足を踏み出し、影の中から姿を現した
あの偽りの手紙を受け取ったあなたは、マルガリータのために危険を冒してここに戻った。そうでしょう?
それはあんたが変わったと思っていたから
アウリスは顔を上げたが、ピンク色の瞳には、虚しさと寂しさが浮かんでいた
あんたはカヘティのことを気にかけてくれる人になると思ってた。もう二度とあんたには負けたくないと思った
だけど今、またあんたの目を見て、言葉を聞いたら、全て自分の考えすぎだったんだなって
……怒っているの?私が放射区に戻るのは、ここの人たちを救うためなのよ?
そう言った時、こんなに焦った口調になったことが、ネイティア自身にも意外だった
知ってる?ネイティア。あんたって嘘をつく時、いつも私の目を見ないんだよね
そして今もそう
アウリスはふっと笑い、頭を振った
あんたが戻るのは、カヘティの人々のため?それとも、その永遠に治らない心を埋め合わせるためにだけ?
あるいは、今になっても、あんた自身まだ答えが出ないとか?
……
沈黙がすぐに全てを覆いつくした
ネイティアは無言で俯いたまま、ゆっくりと前に歩き出した
アウリスとすれ違う時、彼女はある物をテーブルに置いた
それは赤霧遮断器だった
……?
アウリスがそれに気付いた時には、ネイティアはもう指揮本部を出ていた。足音が次第に遠ざかっていく
彼女は遮断器を手に取り、この精巧な構造の仕組みを隅々まで観察した。視界の端に、ネイティアが遮断器で押さえた説明書があるのに気付いた
そこにはびっしりと文字が書き込まれ、約10年にわたる実験の注釈と、あらゆる詳細が事細かに記されていた
これが彼女が生涯を捧げ、心血を注いで開発した物?アウリスは突然、手の中の物がずっしりと重くなったと感じた
…………
アウリスは髪を指に巻きつけながら、ふと気付いた。ネイティアは衝動的に動いたのではないのかもしれないと。彼女は長年ずっと、カヘティに戻るための準備をしていた
彼女が心の中で何を思っていたとしても、自分を育ててくれたこの大地を、ずっと遠くから眺め続けていた
ネイティア、あんたって時々、本当に……
手間がかかる
