扉が閉じた。話し終わったドールベアが、ムーアの家を出ていった
部屋の中は、まるで淀んだ水のような雰囲気だった
ムーアは窓辺のワスレグサをぼんやりと見つめたまま、黙り込んでいた
ムーア……
つまり、君はずっと知っていたのか?
ドールベアの話を聞いて、ムーアはようやく、自分の頭に浮かんでいたものは幻覚ではなく、記憶だったと知った
エレーヌの顔から血の気が引き、真っ青になった
……ええ
なぜだ?
私は受け入れられない……どうして死ぬのが、あなたでなければならないの……
彼女のくぐもった声には、強烈な無念さが満ちていた
これまでに数えきれないほど災難を逃れてきたのに……
ぼろぼろの服をまとった人々は犠牲を払いながら、危険に満ちた侵蝕区域を通り抜けた
ううん、やっぱりマイカには言わないで!私たちはただ地上ですれ違っただけ。私やゲミーラたちは、まだ地上を旅してるって伝えて!
結婚式だって挙げたのに……
保全エリアで行われた質素な結婚式。それでも、誰もが心からの祝福を贈った
エレーヌ姉さん、結婚おめでとうございます!
未来があるって言ってたのに……
保全エリアの住民たちは、労働の合間に未来の明るい夢を互いに語り合っていた
今後落ち着いたら、肉まんの店を開きたいと思っているんだ
あなたは戻ってくると約束したのに……
警報が保全エリア中に響き渡り、遠くから異合生物の咆哮が聞こえてきた
君は先に避難するんだ、俺は……
でも、あなたは帰ってこなかった
ムーアはしばらくの間、彼女にどう答えればいいのかわからなかった
でも……この、俺たちが今いる世界は、全て偽りの……
偽りの世界の何が悪いの!
彼女は運命への憎しみをぶちまけるように怒鳴った
現実の世界なんて何もない!真相を追い求めなくてもいいじゃない!?
…………
まるで彼を永遠に側に留めておきたいというように、エレーヌはムーアに駆け寄って抱きしめた
お願い……行かないで
しかしムーアは答えない。焦点を失った目で、ブツブツと独り言を呟いた
……彼女が誰なのかを思い出した
何?
あの黒いドレスの……血だまりの中に横たわる女性だ
あの精神科医の言葉を聞いたあと……ムーアはいつも黒いドレスを着た女性を思い出していた
ムーアの言葉を聞いて、エレーヌは自分の体の体温が徐々に失われていくのを感じた
いや……
彼女は……彼女は俺の元チームメイトの婚約者だ。あの……危険が迫って……俺を押しのけた元チームメイト……
ムーアの呼吸が突然荒くなった
俺が空中庭園に戻ると、彼の婚約者が恋人の様子を訊ねた……彼らはまだ結婚していなかったから、軍部も彼女に訃報を届けていなかった
俺は……
彼は辛そうに唾をゴクリと飲み込んだ
……間違った決断をしてしまった。嘘をついたんだ……
俺は言った……彼は長い……長期任務を遂行していると。それで……
彼女が真相を知ったあの日……とても落ち着いていて、俺に「ありがとう」とさえ言った
その夜、彼女は自殺した
やめて……ムーア、もうやめて!
荒い呼吸が収まりつつあったムーアは、突然エレーヌの手を強く握った。苦悩するような眉間の皺は消えたが、その表情はどこか悲哀と旧懐の色を帯びていた
俺の過ちだ、エレーヌ。俺は間違ったことをしてしまった
違う……違うわ……
エレーヌは、ムーアが何を言おうとしているのかわかっていた
だから俺は、真実を追い求めることを選んだんだ
彼はエレーヌを見つめた
俺は真実を追わなければならない
ある保全エリア
地上
3カ月前
任務を終えたばかりのクロワは、少し疲れた様子で酒場に足を踏み入れた
電解液疑似酒を1杯注文したあと、クロワは隣にいるコーリを見た
今度の休暇、どう過ごすつもりだ?
丸々5日間とは珍しいよな
コーリは手に持った炭酸水を掲げた
思いっきり寝ます!
それから機体のメンテナンスをして、ベッドにもぐりこんで小説でも読もうかな
どこかに出かけて人と会ったりしないのか?
行きたいやつは行けばいいんですよ
あなたは?
まだ決めていないんだ……まずはムーアのところへ行こう。そろそろ彼の遺体を空中庭園へ送る時だ
これからは、記念碑の上で彼の名前を見るしかないんだな
…………
私は行きません。悲しすぎる。代わりに花をひと束持って行ってください
クロワは無理強いはしなかった。人それぞれ追悼のスタイルは違う。コーリの性格を知る彼は、彼女はひとりで負の感情を整理する方が向いているとわかっていた
クロワは電解液疑似酒の最後のひと口を飲み干すと、踵を返して酒場を出た
外の風が彼の僅かな酔いを吹き飛ばした。ふと彼はムーアがすぐ側に立っているのを見たような気がした
ムーアは相変わらずひょうきんな笑顔を浮かべていたが、その燃える瞳は胸を貫くようで、クロワは痛みを覚えた
そんな風に見ないでくれ……
あの日の血と炎が、再び身の回りで荒れ狂った
クロワは長い兵役を誇るベテランだったが、あの日ほど、死が自分のすぐ間近に迫ったことはなかった
骨の髄まで凍てつく寒気が、すでに彼の喉元を締めつけていた。ほんの一瞬、彼は全てを諦め、このまま異合生物の爪に貫かれるのも悪くないと思った
しかし、生き残ったのは彼だった。彼の代わりに命を落としたのはムーアだった
危機一髪のその瞬間、ムーアはクロワを突き飛ばし、彼に生きるチャンスを残したのだ
最後の瞬間、ムーアの顔にどんな表情が浮かんでいたのか、うまく思い出せなかった。覚えているのは、オレンジ色のその瞳から少しずつ光が失われていったことだけだ
クソ……お前を守ってやるって言ったのに……
クロワは、エレーヌが話していたあの野の花のことを思い出した。山の至るところに咲き誇る、ムーアの瞳の色と同じ花
何という名前だった?
ワスレグサだ……
クロワは保全エリアの一角へと歩いていった。空中庭園所属の3機の輸送機が停まっている
数名の兵士が物資を点検し、さまざまな箱を機内に運び入れていた。黒髪の兵士がクロワに気付き、声をかけた
今日はどうしてこちらへお越しに?あなたが空中庭園に戻るという連絡は来ていませんでしたが
クロワは手を軽く振り、相手の黒髪に一瞬目を止めた
便乗しようとしにきたわけじゃない
何か運ぶものがあるんですか?
ムーアに会いたくてね
黒髪の兵士は言葉を失い、気まずそうだ
貨物番号は?
そう言った瞬間、彼は後悔した
「貨物番号」。生前どんな夢を抱いていようと、どれだけ輝こうが、死んでしまえばシステムの名簿上、彼はただ頭に「SR」の文字を振った貨物として分類されるだけ
…………
SR-A2-034だ
黒髪の兵士は俯いて黙ったまま、端末で検索し始めた
あれ?
何度も確認したあと、彼は顔を上げてクロワを見た
物流リストに、その番号はありません
ありえない。あの遺体はまだ空中庭園へは運ばれていないはずだ
SR-A2-034でお間違いないですよね
そう、マンティス小隊のムーアだ
耐えがたい沈黙がふたりの間を流れ、黒髪の兵士は何度もリストを見直した。クロワの眉間の皺がだんだん深くなっていく
調べましたが……ありません
どこかにあるんだ!自分の目で確かめに行く!
それは規則違反です……
あれはムーアだ!お前も会ったことがあるだろう!
…………
彼は言葉に詰まり、ただ手を挙げて輸送機を指差した
全部あそこにあります
クロワは足音荒く機内に入り、遺体輸送キャビンを歩いた
彼は身を屈め、ひとつひとつ輸送キャビンを確認した。番号や名前、観察窓の下の顔まで、どんな細かい部分も見逃さなかった
それから彼は機内を無駄に3度も巡ったが、それでもムーアの遺体は見つからなかった
その姿が彼の人工網膜に焼きついたかのように、「ムーア」はまだ彼の傍らに立っていた
彼は足を止め、手の平で自分の目を覆って「ムーア」の視線を遮った
…………
空中庭園
少し前のある日
クロワは人気のない場所にある資料室に足を踏み入れた。ムーアの遺体が消えて以来、クロワはずっと調査し続けていた
これだ
クロワは軍歴が長く、人脈もそれなりに広かった。そのお陰で、丹念に調べた結果、いくつかの微かな手がかりを見つけることができた
ある空中庭園の議員が、しばしば裏取引を通じて物資の一部を横領していた。ムーアの遺体消失もどうやらその議員の暗躍と関係があるらしい
空中庭園が保全エリアに配給する物資は、いつも少しは損耗してしまう
そうだな、この物資の一部に誰も目をつけないことの方が、むしろ不思議だ
クロワはデジタルの資料にアクセスはできなかったが、空中庭園にあるコールドバックアップの物理的資料なら、ひと手間かければ目を通すことができた
時間はたったの20分、無駄にはできない
資料室の内外では、粛清部隊のメンバー3人が密かに位置についていた
クロワが資料をめくり、写真を撮っていたその時、刃はすでに彼を狙っていた
空気を切り裂く微かな音のみで、粛清部隊のイサリュスはキャビネットから下方へ飛び降りた
制式刀は、僅か1秒でクロワの肩関節から右腕を切り落とせる
!!!
間一髪のところでクロワは左に転がり、刃をかわした
刀は空を切り、床にざっくりとひと筋の刀傷を残している
粛清部隊、任務遂行!反逆者、降伏せよ!
待ってくれ!
クロワが言い終わるより早く残りの粛清部隊のふたりも動き出し、3方向からの刃がクロワの退路を完全に塞いだ
クロワは短刀を抜くと素早く左右からの刃を受け止め、その反動を利用して体を横にひねり、イサリュスの2度目の攻撃をかわした
腹部の服が裂け、バイオニックスキンに5cmほどの傷ができる代償を払いながら、クロワは再び攻撃を回避した
マンティス小隊クロワ、無駄な抵抗はもういい
その声、どこかで聞いたと思ったら……くそ、イサリュス、お前、私を捕まえに来たのか!?
……任務だ
ちっとも変わってない、相変わらず頑固な!
あなたはずいぶん変わったようだ。あの議員たちのために働き、自らの懐を肥やすとは……遺憾だ
その言葉を聞いて、クロワははっと気付いた
粛清部隊もあの議員を調べており、クロワはその議員の手下だと思われてしまっている
(……最初の一撃で殺さなかったのは、生け捕りにして証人にしようという腹か)
今「それは誤解だ」と言っても遅すぎるってもんか?
短刀をぐっと握り締めた。たとえそれが誤解だとしても、相手が最後まで話を聞いてくれるかの保証はない
イサリュスはストイックなだけでなく、戦闘力も抜きん出ている
自分が追っているあの議員のことを思い浮かべ、クロワはつい低い声で罵った
ゴンシンのクソったれめ!
