白い霧――
果てしない白い霧がルシアの視界に広がっている
指揮官……?
重篤汚染区域に入ってからは、誓焔機体でパニシングを代謝できるルシアがずっと先頭に立ち、リーとリーフがこちらを守ってくれた
どの分かれ道からだったかは思い出せないが、このどこまでも続く白い霧が、まるで悪夢のようにルシアの周囲にまとわりついた
ルシア……(ジジ)……そちらの位置が……ズレて……
最初のうちは、彼女はリーやリーフから送られてくる通信を受信できていたし、それを頼りに自分の座標を修正し、戻る道を探すこともできた
しかし、いつからか……
(ジジ)――(ジジジ)……
ルシアがどれほど試しても、通信が示すのはホワイトノイズだけだ
……リーフ?リー?
……指揮官?
誰からも応答がない
ルシアは警戒しながら鞘から刀を抜くと、この空間の境界を探るように慎重に足を進めた
白い霧に覆われた世界では、鞘から抜かれた刀の金属音が微かに響く以外は何も聞こえない
更に先へ進むと、視界の向こうに奇妙な建造物が現われた。まるで地に伏せて横たわる異形の巨人のようだ
…………
ここは第1零点エネルギーリアクターではない――彼女が任務情報で見たあの都市の姿とは異なっている
この都市は……一体何なのだろう?
再度通信を試したが、やはり応答はなかった。ルシアは端末をしまい、何もかもが不明という危険を考慮して、この都市を離れることにした
だが、次の瞬間――
彼女はすでに都市の通りへと足を踏み入れていた
……!!
ハッと振り返ったが、背後の来た道はすでに白い濃霧に覆い隠されている
都市が動いている?それとも……ここはそもそも現実ではない?
ルシアは試しに白い霧に向かって刀を振り回した
ギィン――!
冷たい刃が一閃し、霧は避けるように後退した。だが、瞬く間に再び集まってくる。彼女がもう元の道へ戻れないのは明白だった
……進むしかありませんね
警戒しながら刀を体の前に構え、彼女はゆっくりとこの眩しすぎる都市に入っていった
最初の通りには誰もいなかった
霧が立ち込める街道に、赤潮が這うように流れているだけだ
2番目の通りにも人影はない
赤い蝶がひらひらと数羽飛んでいるだけだった
3番目の通りで――
ほとんど透明なふたつの人影が、焦った様子で何かを話し合っていた
次第に反転異重合塔には「過去の私」に情報を伝える作用があるとわかり――それは構造体の私に限られ、「過去の私」が侵蝕されて初めて情報を受け取れるものでした
誓焔機体には例外的にもともとパニシングを読み取る能力がありましたから
塔の内部で見つけた情報から、指揮官はパニシング自体が
私たちはそれを使って過去の改変を試したんです。例えばあの夜、避難できなかった保全エリアを救ったり、プリア森林公園跡の惨劇を防ごうと……その後のリーフのことも
虚ろな人影は一瞬、ふと動きを止めてぎこちなく固まった。ルシアが警戒を強めたその瞬間、相手のぼんやりとした声が再びはっきり聞こえてきた
あるいはもっと前に遡って、九龍環城での戦いも変えようとしました
でもほとんどうまくいかず、成功しても効果は少ない。かえって深刻な問題を引き起こすこともありました。救おうとした人々は途中で襲撃され、救援はいつも手遅れでした
そして指揮官は突然、確信したように「今の反転異重合塔は異常だ」と言って、「
――!!
ぼんやりとした白い霧の向こうに、確かに自分と指揮官が会話をしている光景が見えた
指揮官の返事は微かで聞き取れなかったが、自分の切迫して必死な声だけははっきりと聞き取れる
これは……この街の中の幻覚?
彼女はそのふたつの「幻影」に近付いてみた。幻影は彼女に襲いかかることもなく、音もなく通りの中に消えていった
一体何が……
彼女は駆け出した
4番目の通りでは――
どこか見覚えのある蒼白い少女と、「コレドール」と呼ばれる少女が激しく戦っていた
……コレドール!?
目の前のコレドールは、あの一見無害そうな異合生物の少女の時とは明らかに別人のようだった。攻撃は苛烈で、赤潮を巧みに操りながら、蒼白い少女と激しく戦っている
やっと捕まえました
彼女が蒼白い少女を捕えた瞬間、相手は同時にコレドールの胸を切り裂いた
彼女の傷口には奇妙な「果実」が埋め込まれている
それを私の体に植えつけて、0号代行者の権限を私と共有するつもりですか?
フォン·ネガットはあれほど何度も失敗したのに、ようやく進展ですね。おめでとうございます。でもやり方が見え見えすぎました。私に気付かれないようにしなければ
コレドールは微笑みながら爪を傷口に差し込み、まだ体に溶け込んでいない「果実」を自らの体内からえぐり出した
完全には取り除けず少し残りましたが、あなたを倒すにはこれで十分です
5番目の通りでは――
蒼白い少女は透明の小さい箱を手に取り、指揮官に差し出した。中にはリンゴの形をした果実が入っている
その時ルシアは、指揮官がその少女のことを「カイウス」と呼んだのを聞いた
……これは……異合生物の意識の一部
コレドールはあなたの記憶を欲しがってる。もしあなたがこれを食べれば……コレドールはあなたごと、これを食べるかもしれない
全てうまくいけば、この果実はコレドールと一体化して切り離せなくなるの。私がそれを利用して彼女を抑えれば、彼女は赤潮を自由に操れなくなる
これは反転異重合塔とリンクしていて、時間が遡行しても変わらない。よくも悪くも影響があって、たとえ死んでも……彼女が自ら削除しない限りデータは復元される
でもこの果実を食べたら、あなたは……必ず死ぬ。異合生物を飲み込んだあと、結末に耐えられる人間はいない
指揮官――!
彼女はとっさに駆け寄ったが、指揮官がその箱を受け取るのを止めることはできなかった
一体何が起きている?なぜ自分は指揮官の側にいなかった!?
幻影は一瞬で霧散し、ルシアは疾走を続けた
彼女はこの「物語」の結末を必ず確かめなければならない
6番目の通りでは――
……ごめん……なさい……ごめんなさい……!!
材質不明の長い針が、指揮官の心臓を貫いている
これで十分でしょ……コレドール!
指揮官――!!!
この場所がただの幻影であることなど、彼女はもう忘れかけていた。刀を振りかざし、彼女は駆け出したが――
視界に映ったのは、指揮官がその果実を飲み込み――
目の前の赤潮へ、身を投げる姿だった
指揮官…………
彼女は崩れるように膝をつき、意識海は真っ白になった
機体交換の時に感じていた悲しみと痛みの正体、それは――
ここにあったのだ。彼女は何度も何度も――
彼女の指揮官を失っていた
暗澹とした悲鳴を吐き出したあと、ルシアは刀を支えに、ゆっくりと立ち上がった
これは……全部単なる幻影なだけ
自分に言い聞かせるように呟いた彼女の両目は赤く滲んでいる
7番目の通りでは――
つま先で地面を蹴り、街角を曲がった瞬間、周囲の景色は再び唐突に変化した
赤い蝶がふわりとエレベーターの死角に止まった
下がってください!
薄暗く見知らぬビルの階層に赤潮が轟音とともに押し寄せ、通路は一瞬で粉々に崩れ落ちた――
すぐ横にいた構造体が拳をエレベーターの閉ボタンに叩きつけた。赤潮が押し寄せてくる寸前でエレベーターのドアが閉まる
次の瞬間、押し寄せる赤潮の衝撃でエレベーターが激しく揺れた
もうすぐ地上に出られますから、まずはここから離れましょう。
エレベーターの中で、「ルシア」は隣の指揮官に向かって話しかけた
ガァン――――!
エレベーターを突き上げるような凄まじい衝撃音が響き、扉の金属が引き裂かれる鋭い音を立てた
異合生物です。エレベーターの下から攻撃しているようです
指揮官、上から脱出を――
だ、だめ――
彼女にはすでに見えていた。赤潮の中の悪意が押し寄せてくるのを
指揮官、ここは私に任せて、先に上へ行ってください
行かないで――
だが、すでに異合生物は湧き出していた。エレベーター内の赤潮は脚のあたりを侵蝕しつつある。人間がそれに浸かれば、待っているのは腐敗と死だけだ
指揮官……
彼女は絶望しながら前へ駆け続けた。だが、あの人が上へと這い登っていくのを止められない――
こんにちは、グレイレイヴン指揮官
私は赤潮の中にいましたよ。赤潮で構成される私を、ルシアが赤潮の中から見つけるのは無理な話ですよね?
…………
極度の怒りのあまり、発声モジュールはもう声を出すことさえできなくなった
彼女はただ目を見開いたまま、人間の肉体が赤潮によって引き裂かれていくのを見つめていた――
あと少しで、勝利の光が見えそうだったというのに
コレドール――!!!
エレベーターの中で戦い続けていた「ルシア」は彼女の怒号を聞いたようだった。彼女はゆっくりと手を止めると顔を上げ、流れ落ちてくるその赤い色を見つめた
「彼女」はこれが何かを知っている
エレベーターの中の、血に染まった煉獄を映し出す無限の鏡張りの回廊のように、「彼女」と指揮官は、この死のループを一体どれだけ、繰り返してきたのだろう?
何度死別を経験したのだろう?
いけない――諦めないで――!
ルシアは赤潮と鮮血にまみれたエレベーターの中に身を躍らせた
何があっても――
彼女は回廊の中に佇むもうひとりの「ルシア」と姿が重なったように感じた
絶対に――
諦めないで!
光紋刀が鋭い軌跡を描き、空気中に火花を散らさんばかりだ
切っ先を斜めに跳ね上げると、赤潮が刀身の峰を伝ってずるずると滑り落ちた。白い霧が次々に後退し、周囲の全ての景色が彼女の攻撃に押され、徐々に消えていく――
8番目の通り――
白い霧が僅かに晴れ、ルシアは刀を逆手に握り直し、前方へと駆けだした
刀の光が空間を切り裂き、青白い霧を斬り払っていく
彼女はもう立ち止まることはなかった。行く手を阻む全ての幻影を切り裂き、叩き割る
彼女は後を追って異重合塔へ入ってきたフォン·ネガットを叩き斬り、赤潮の中で再生したコレドールも斬り伏せた
切っ先が異合生物の胸を貫いた時、彼女はコレドールの陰謀を聞いた。刀身がフォン·ネガットの首筋を叩き斬った時、彼女は代行者とニモの会話を聞いた
霧が寄せ集まっては散る空間を、ルシアはひたすら進み続けた
どれほどの日がすぎたのだろう……数カ月、あるいは数年かもしれない
Ωコアがもたらす動力はまだルシアの機体を支えていたが、彼女の意識海は疲労困憊し、ほとんど空っぽに近かった
指揮官……
斬り払った白い霧の隙間から、見慣れた人影が微かに浮かび上がったのを視界の端に捕えた
……指揮官?
それはグレイレイヴン指揮官の背中だった
金色の光が霧の中に点々とこぼれ落ち、まるで希望へと続く道を形作っているかのようだった
光紋刀を握りしめ、ルシアは早足でその背を追いかけた
9番目の通り――
痩せた月が、冷淡にこの世界を見下ろしている
ルシアはそっと足を踏み出し、もはやお馴染みの幻覚に引き込まれる眩暈を待った――
その見慣れた姿は、以前よりもやつれたようだった。
墓碑の前だった
――指揮官!
彼女は光紋刀を握りしめ、衝動的に駆け出した――
白い霧が消え散った
周囲に広がるのは荒れ果てた廃墟だった。グレイレイヴンの3人が駆逐した侵蝕体が道路の向こうに積み重なっている
無数の幻影空間の中で追い続けたその人が、何事もなくルシアのすぐ側に立ち、彼女を心配そうに見つめていた
指揮官……
ルシアは思わず指揮官を引き寄せ、防護服の隅々まで丁寧に確認した――
問題ない――何も問題はない
間違いなく指揮官だ。グレイレイヴン指揮官、彼女の指揮官だ。傷ひとつなく、異合生物の「果実」を飲み込んでもいない。コレドールに殺されることなく、赤潮に溶けてもいない
指揮官の安全をもう一度確かめると、ルシアの混乱していた意識海はようやく少し落ち着いた
あの……
「幻境に入っていた」時間はほんの一瞬だったことに、彼女はふと気付いた
分かれ道も、白い霧も、幻覚の世界もない。たった一歩を踏み出しただけで、まるで無数の時間を渡り歩いてきたかのように感じられた
ルシアは口を開きかけたが、どこから話せばいいのかがわからない
パニシングが読み取った「幻境」の中で彼女が見たのは、休眠中に何度も「夢」として見ていた無数の断片だった
戦い続ける誓焔機体、深紅の螺旋の塔、白い霧に満ちた空間――
バラバラだった悪夢の欠片が組み合わされ、更に鮮明な断片となる。口にしてしまえば、それが現実になってしまわないだろうか?
……すみません、指揮官。私はただ……こうして指揮官と一緒に戦えるのは久しぶりで……
この感覚が懐かしくて、少し緊張してしまいました
彼女は嘘をついた
指揮官にまでこの死のループの苦痛を背負わせたくはない
もしこの悪夢が本当に現実になるのなら、彼女は災厄の全てを自分が引き受けることを望んだ
たとえその未来には自分がいなくとも
ルシアは嘘をついている
ルシアの緊張を敏感に感じ取っていた。彼女はわざと話を逸らし、何度もこちらに問題がないことを確認すると、リーがやっている簡易浄化器設置の手伝いを口実にその場を離れた
ルシアは何を「読み取った」?
過去に現れた「既視感」のような映像が脳裏をよぎる。だが、どの映像にも今の状況に重なるものはなかった
第1零点エネルギーリアクターがある都市に入るまで、自分は異常らしい映像を一切「見て」いない
ルシアが見たのは一体何だったのか……?
考え込んでいると、リーフがこちらに手を振った
指揮官、空中庭園が残した図面から、第1零点エネルギーリアクターの場所を見つけました
あちらです……あの廃墟になった「図書館」の地下です