バッカス劇場
9:30
ホルスト市
かつての優雅なバッカス劇場の姿は失われ、装飾は傾き、彫刻は崩れ落ちていた。激しい揺れに耐えきれず、天井すら今にも崩れ落ちそうだ
上品な身なりの来場者たちは我先に出口へ押し寄せ、耳をつんざくような悲鳴と叫び声が混然となって響いている
角をひとつ曲がったところで、ジョナサンは突然誰かに袖を掴まれた
ダメ……ハァ……ハァ……そっちはダメです!
なぜ?出口はこっちでしょう?
……ついてきて……ください
ダンデラは返事もままならなかった。日頃、デスクワークに慣れきっていた彼女の体力は、先ほど短距離を走っただけでほとんど尽きていた
自分の主張を伝えるなら、理由と結果を明確に述べることです。そうすれば相手は理解しやすくなり、賛成か反対かの判断がしやすくなりますよ
……わ、私は……あなたの被告じゃ……ありません!
では、原告のご婦人。現状を鑑みるに、人込みから離れるのは危険だと思いますが。怪物に目をつけられれば、生き延びる可能性は限りなく低くなるでしょう
原告って……あなたね……私は……
ダンデラは普段は礼儀正しいが、それでも口汚い言葉が口元から出かかった
彼女はどうにか気を落ち着かせ、歯を食いしばりながら警告した
だから……ハァ……だからこそ人込みを離れなきゃならないんです。怪物の狙いはあなたなんですから!
私が何のためにわざわざ走って警告しに来たと思ってるんですか!
……あなたの厚意は理解しましたが、もっと確実な証拠が提示されるまでは……
次の瞬間、ふたりの背後で耳を刺すような金切り声が響き渡った
ギィ――!
突然告げられた死亡宣告に、ジョナサンの顔色は一変した
……証人の発言は非常に説得力があります。あなたの言う通りにしましょう
そう言ってジョナサンは慌てて足を早めた
しかし数歩も走らない内に、彼はふいに振り返って引き返し、体力が尽きかけているダンデラの腕を引っ張った
走るんだ!
あ……ありがとうございます
出口はもう目の前だった。だがほっとする間もなく、背後から猛烈な風圧が襲いかかった
危ない!
ガァン!――――
だが血飛沫が飛ぶことはなく、代わりにひと筋の青い閃光がふたりの後ろへと矢のように走り、背後に迫る怪物を貫いた
その直後、エンジンをかけたままのセダンが出口に横付けされた
乗ってください
車に飛び乗り、後部座席に座ったジョナサンは、落ち着かない様子で何度も後ろを振り返っていた
助手席に座ったダンデラは車内のダッシュボードを探り、ピルケースと水を取り出してジョナサンに差し出すと、自分もひと粒飲み込んだ
メトプロロールです
どうも……
しばらくすると、ジョナサンの表情は目に見えて落ち着きを取り戻した
これでもう安全ですよね?
……ええ。劇場に現れたのは、全て彼女の分身です。撒いてしまえば問題ありません
アイリスは静かにゆっくり答えた
あなたは?大丈夫でしたか?
アイリスとお呼びください
そう言いながら、アイリスは助手席のダンデラを手で示した
こちらはダンデラです
原告のご婦人とも呼ばれています、どうぞよろしく
ダンデラは無表情のまま、アイリスの言葉を遮るようにジョナサンに手を差し出した
それを見たジョナサンは少し気まずそうに手を握り返しながら、自分の名を口にしかけた
よ、よろしく……私は、うっ――!
「うっ」さん、通称ジョナサンですね、知っています
ダンデラは手を放し、強く握りしめたのは自分ではないとでも言うように、平然と内ポケットから冊子を取り出してめくり始めた
ジョナサン、31歳、ホルスト市出身
肩書きは……国際政治関係教授、国際地政戦略研究の専門家。連合政府特別任命の国際法律事務所コンサルタント
最近の業務は、今後の『地球議定書』改訂作業に参加するため、ボンの法律条文の整理を行っている
言い終えると、ダンデラはジョナサンをちらりと一瞥し、一語一語を強調するように訊ねた
以上で、お間違いは、ありませんか?
……厳密で正確、情報も完璧です
それなら結構です。では次に……
ダンデラ……
アイリスがそっとダンデラの名を呼んだ。その声には、明らかに疲労の色が滲んでいる
後をお願いしてもいいですか?
え……あっ!気付かなくてすみません
大丈夫です
アイリスは軽く頷くと、すぐに車を停め、ふたりは素早く席を交代した
助手席に座ったアイリスは、少し体勢を整えて目を閉じた。そしてほどなく規則正しい呼吸音を立て始めた
あなたたちは一体どういう……
<size=30>シーッ——</size>
<size=30>声を抑えてください。知りたいことは何でも話しますから</size>
<size=30>今はアイリスさんを休ませてあげてください。彼女、とても疲れていますから</size>