鉄条網と監視用武器の背後に、コンテナ状のプレハブ小屋が整然と並んでいる。目に映るのは、連なる山々と決して溶けることのない雪だけだ
鉄灰色の壁は寒さをしのぐには役立つが、背後の山並みと比べると酷くちっぽけに見える
より厚い断熱壁を作り、暖かさを確保しても結局は一時しのぎにすぎない。いずれ必ず、発電機の燃料が尽きる日がやってくる
だが、それよりも深刻な問題が目の前に迫っていた――
終わりのない冬の中で水源が完全に凍てつき、拠点で清潔な水を得る唯一の手段は、氷を砕いて集めるしかない
……給水隊が戻ったか
遠くを見つめながら考え込んでいると、武装した給水隊が予定通り拠点に戻ってきた
――パイプをここに繋げてくれ
リーダーは猟銃をマントの下に収め、手慣れた様子で仲間たちにテキパキと簡潔に指示を出していた
同行していた若者がポンプを稼働させ、古びたゴムホースを貯水タンクに接続した
いつも通りですよ。細かい不純物が混じっているから、濾過しないと
中年男性は両手に息をハァッと吹きかけ、強張った指の関節を揉みほぐすと、今回の状況記録をめくり始めた
融氷装置が少し調子が悪かったので、後で修理に出す予定です
それから、川面の一部がすでに融け始めているため、歩くのは危険です。そのせいで開削作業に少し手間取りました
……川面が融けているだと?
バネッサは難しい顔で考え込んだ
外気温はさほど上がっていない。そんなことは起こらないはずだ……
いえ、赤潮ではなさそうです。赤潮が原因であれば、目視で氷塊の異変が観測できるはずです
彼が青年の方に頷いて合図をすると、青年はバックパックから金属で補強された試験管を取り出した
現場で融けた水の温度を測定し、サンプルも採取してきたんです
この暖流は、氷点よりも5.8度高いものでした
熱損失の置換速度を考慮すると……川の上流に温泉がある可能性を示しています
彼の鼻息は空気中で瞬時に凍り、話し終えると同時にすぐに消えた
サンプルはいつものように、ラボに渡しておけ
心ここにあらずといった様子で、彼女の視線は遠く針葉樹林に覆われた山々に向けられていた――川の水源地だ
もし本当に変異赤潮がこの水源を侵蝕し始めたのなら……しばらくは、蓄えた氷塊でしのぐことはできる。しかし、汚染された水源が循環システムに入り込んでしまえば……
人類がこの地域で再び飲用可能な水源を手に入れることは、困難になるかもしれない
ポンプはもう音を立てず、融氷装置の貯蔵タンクは底をついていた。貴重な浄水が、高くそびえる旧時代の穀物倉庫のような柱状のタンクを満たしている
目の前の貯水タンクは、この崩壊寸前の拠点が生き延びるための唯一の希望だった
若者はホースを引きずりながら車両の側へ戻ったが、隊のリーダーはまだその場を動こうとしなかった
[player name]、バネッサさん……
中年男性はいつの間にか手袋を外しており、荒れた指先で猟銃の銃床を神経質にこすり続けていた
?
温泉があるかもしれない場所を探すのは、本当に無理でしょうか?
彼はバネッサの無表情な顔から本心を探ろうとするように、不安そうに身を乗り出した
もし本当に温泉があれば氷を融かす手間も省けますし、給水作業もずっと楽に……
ダメだ
ですが先月、水不足のせいでジョーン夫人のところの末娘が……
まつ毛に雪を乗せた中年男性の目に、深い悲しみが溢れた
ダメだと言っている
バネッサは苛立ったように顔を背けた
あの山は未調査だ。変異赤潮や、変異した異合生物もいないという保証はどこにもない
ある「かもしれない」水源のために、給水隊をまるごと失うつもりか?
し、しかし……
彼は反論しようとしたがうまい言葉が見つからないのか、いたずらに指を曲げたり伸ばしたりしていた
俺はただ……
余計なことは考えるな。戻って食事をとれ
男性に話す隙すら与えず、彼女は冷たく言い放った
もし分析結果で、川の氷解は変異赤潮の侵入が原因ではなく、本当に上流に温泉があることがわかれば、それはそれで朗報だ
……わかりました。ありがとうございます
男性はがっくりと肩を落としてこちらに軽く会釈すると、のろのろと輸送車両に乗り込んだ
休息エリアに向かう給水隊を見送ったバネッサは少しイライラした様子で踵を返し、貯水タンクの点検を始めた
ジョーだ。ジョー·ウィリアムズ
少し間を置いて、彼女は更に付け加えた
……ジョーン夫人の末娘、リアータは……彼の娘だ
「道理で」?
こんな話なら……他にもゴロゴロあるぞ?
彼女は冷たく笑い、記録簿に今回の貯水量を書き込んでいる
貯水タンク周囲のパニシング濃度を確認してバネッサに伝えると、彼女は記録簿をしまい、前哨基地へ戻った
室内に戻ると、まつ毛や鼻の下を凍らせていた薄い霜が瞬時に溶けた。ゾクッとするような不快感が走ったが、すぐに暖かさが全身を包み込む
とはいえ、やはり一時的だ
温泉が汚染されていなかったとしても、結局、地下水であることに変わりはない。地質構造的に、変異赤潮の侵蝕を防ぐことは不可能だろう
変異赤潮はいずれ水の循環を汚染し始める。岩盤にも易々と浸透するだろう
彼女はフンと鼻を鳴らし、嘲るように言い放った
一時の希望など、何の役にも立たん。それよりも、浄化する方法を考えなければ……
赤潮はこの枯れた大地を音もなく流れ、自然の法則を守り続ける最後の浄土にまで手を伸ばしている
人類はとっくに運命に抗う力を失ってしまった
彼らが戦うべき敵は侵蝕体でも異合生物でも、醜悪な類人の群れでもない。真の敵は、この雪原や暗く垂れこめる空、永遠に安全に越えられない山脈――
凍結する岩石、融けゆく氷の洞窟、そして――
地球全体を覆い尽くす変異赤潮と、その中から孵化する新たな「生命」だ
そう気を落とすな
……
こちらに向けられた彼女の目には「言い訳するな」と書いてある
以前は、異重合塔のコアを手に入れれば、全てが解決すると思っていた。だが、今なお……
何も成し遂げられていないようだ
……言っただろう、この世界に英雄は必要ない、と
彼女はこちらを一瞥し、話題を変えた
ロサから連絡はあったか?異重合塔コアの解析の進捗はどうだ?
<b><ud><color=#34aff8ff><link=17>異重合コアの欠片</link></color></ud></b>を手に入れてから、ロサはラボにこもりっきりだ。進化する赤潮に対抗しようと、フィルターの防護能力の更新を試し続けている
では、私は先に行くぞ――おっと、もう12時だ
忘れるくらいどうでもいい食事なら、餓死する前に赤潮に放り込んでおく
彼女はいつもの笑みを浮かべると、身を翻して前哨基地を出ていった
バネッサが去ってすぐ、粗末な通信装置からザラザラとしたホワイトノイズが聞こえてきた
微かな人の声がノイズの合間に響いている。その支離滅裂な言葉の断片が次第にはっきりとした声になっていった
……拠点……水源は……応答を……
……天航都市から指揮官へ。拠点の水源はまだ安全ですか?
ロサに、川面の氷が融けたことを簡単に伝えた
もし、本当に温泉があるなら、珍しくいいニュースですね……
通信装置の向こうから、小さなため息が聞こえた
でも、残念ながら解析作業はまだまだ難航しています
それは問題ありませんでした。ですが目下のところ、ロードして復元できた情報は、異重合塔コア内部全体の1%にも満たないんです
用いられている技術が非常に複雑で、今の天航都市の設備では……何とか有効な情報を探りながら見つけ出すことに必死です
次の段階で、フィルターに関する内容が解除できればいいのですが。以前のフィルターを引き続き強化しなくては。変異赤潮が更なる進化を続けたらと思うと……
時間が……
彼女は言い淀んだ
時間――それこそ、今の彼らに最も不足しているものだ
……そうだ、今日指揮官に連絡したのは、もうひとつお知らせしたいことがあって……
彼女は気を取り直し、通信の向こうからパラパラとノートをめくる音が聞こえた
フィルターの強化に使えそうな素材のリストを作りました
赤くマークしたのは必需品で、それ以外は異重合コアの欠片の理論から使えそうだと推測したものです
物資を探して集める際、それらがあるかどうか、気に留めておいていただけますか
ありがとうございます
他に何もなければ、私はラボに戻りますが……
通話は向こうからだったが、自分も確認しておきたいことがあった
……もう一度はっきり言いますが、あれはアシモフ先生が提唱していた仮説にすぎません。非常に複雑な技術で、現時点では素材も環境も、製作条件を満たすのは難しいんです……
指揮官は、意識強化装置で何をされるつもりなんです?
少女の冷静な声が通信装置越しに響いた
……確かに、その可能性はあります
変異赤潮からどんな怪物が孵化するのか、誰にもわからない
……
ノートをめくる音がまた聞こえた。ロサが天航都市にある残りの素材リストを確認しているのだろう
天航都市の在庫で、試すチャンスはありそうですけど……
ですが、必ず造れるとは限りませんし、装置の動作の信頼性を保証するのも難しいです
では、ラボに戻りますね
くれぐれもお気をつけて、指揮官
人の声はピタリとやみ、小さな機械が電波のキャッチを止めると、ホワイトノイズが再びスピーカーを支配した
室内は湿っぽい静寂に包まれた。指揮官は室内の片隅に座ったまましばし考え込み、立ち上がって部屋を後にした
「食堂」は10数個のコンテナを組み合わせて作られた巨大な臨時施設で、拠点の会議場所や倉庫でもある。時には忙しい合間を縫って、皆が楽しむための娯楽施設にもなる場所だ
痩せた凍土の上であっても、自発的な秩序がしっかりと根付き、小さな互助コミュニティを形成している
すでに午後になり、仕事を割り当てられた難民たちはそれぞれの持ち場に戻っているはずだ
食堂に入ると、長テーブルや椅子の周りには、夜勤を待つ作業員たちがぽつぽつと座っているだけだった
……聞いたか?ジョーおじさん、水探しの決死隊をやるって言い出して、バネッサさんにこっぴどくドヤされたらしいぞ!
ジョーン夫人のためだろう……はあ、誰だって生き延びたいもんな
……そうさ。リアータは……拠点では一番若かったよな
……まだ18歳だ
…………
会話する青年たちのテーブルに、しばらく沈黙が漂った
こんな話はやめだやめだ
しかし、バネッサさんも容赦ないな。「ダメだ」だけでジョーおじさんを黙らせるなんて……
彼は何か小さな包みをいじりながら、興味津々といった顔をした
バネッサさんはホントすごい人だよ。次は俺も物資捜索隊に加わってみたいな……
おいおい、バカ言えよ。バネッサさんが危険な任務にお前を連れていくわけないだろ……それより、レモンシャーベットでも食べないか?
彼は噂話に興味を失ったようで、食べ物の話題に変えた
さては、あのくだらない本に影響されたな?自分が貴族サマだとでも思ってるのか?
「ようこそいらっしゃいました。こちらのお席をご予約でしたね。シャーベットをすぐにご用意いたします……」
青年はわざとらしい丁寧な口調で仲間をからかった
いいから食べようぜ――見ろ!この氷はな、俺がわざわざ食堂の水道管周りで取ってきた、すごく清潔な氷なんだぞ
彼は手の平ほどの紙包みを取り出すと、氷の入った水筒にそっと薄黄色の粉末を入れた
そして水筒の蓋を閉めて軽く振ったあと、隣の仲間に手渡した
これが、俺の秘伝のレシピさ――
訝しげに水筒を受け取り、蓋を開けてそっとひと口飲み込んだ途端――彼は顔を歪めた
うげっ、ペッペッ!なんだこの味!これ、配給のビタミンCタブレットじゃないか!
仕方ないだろ、地獄の沙汰も工夫次第ってやつだ!できるもんなら、お前がフルーツ缶をちょいと失敬してきてだな……
彼はわざわざ声を低めたが、すぐに言葉を遮られた
お前、正気かよ。そんなに死にたいのか?物資なんか盗んでみろ、バネッサさんに拠点から叩き出されるぞ
それに、最後のフルーツ缶はリアータに配給されただろ。それでもリアータは助からなかったが……死ぬ前に甘い物を味わえただけでもよかった
あっ!指揮官!
横を通りすぎる際に彼らの会話は全部聞こえていたが、物資を盗むなと警告する必要はない
バネッサの鉄の規律が、すでに大きな効果を上げていた。ましてや……この数ヘクタールの集落に、盗む価値のある目ぼしい物などほとんどない
配給物資を除けば、難民たちの私物は護身用の武器や、捨てられない大切な物品しかない
前者は秩序を築くため、後者は人々に「なぜ生きるのか」を思い出させるためにある
挨拶を済ませた住民たちは急いで仕事の持ち場に向かい、自分は食事の提供スペースへ向かった
指揮官!今日もこの時間まで仕事ですか?
皆さんのためにスープを残しておいたんですよ。まだ火にかけて温めてありますから
エマさんが待っていますよ。ついでに、手伝ってくれて……
指揮官、こちらです
携帯食とスープを持ったエマが厨房の奥から出てきた
警備隊の休憩交代の割り当てについてご相談が
アネヴァの隊の医療スタッフが負傷し、交代が必要です。イースの隊にいる医療スタッフをアネヴァのところへ回す予定ですが……
では、控えの医療スタッフを投入するしかなさそうですね……
エマがノートに何かを書き込んでいる間に、粗末な食事と薄いスープでキリキリと痛む胃を手早く満たした
あっ……そうだ、もうひとつお話が……
次の警備隊を手配し、エマは別の話題を切り出した
先ほど届けられた川の水のサンプルですが、検査結果が出ました
彼女の表情を見る限り、これから話す内容は明らかにいいニュースではなさそうだ
はっきりと赤潮の痕跡が検出されたわけではありません。ですが水質には明らかに異常な汚染現象が見られます。私の推測では……
あるいは、変異赤潮がすでにあの針葉樹林にまで広がっているかです
どちらにせよ、大墓碑の拠点で使用できる水源がなくなる直接的な原因になりかねない
ロサの計算によれば、パニシングは依然として極端に寒冷な地域を嫌っているようだ
天航都市ではすでに新型フィルターの設置が始まっており、大墓碑や周辺のいくつかの拠点の住民たちは、段階的に天航都市へ移動している
しかし本当に水源に問題があるならば、移動を早める必要がある
……わかりました。バネッサ指揮官にそう伝えておきます
ふたりが話している間に、その話を聞いていた人たちがテーブルの周りにゆっくりと近付いてきた。食堂にぽつぽつといた人々は、最終的に1カ所に集まった
……また移動ですか?
青年は諦め顔をしながらも不安そうだ
どうしてまた……やっとここに落ち着いたっていうのに……
何をもたもたしてるんだ、さっさと戻って荷物をまとめよう
あれっぽっちの家財とはいえ、ちゃんと整理しないとな……
人々は口々に議論しながらざわめいていたが、エマになだめられ、四方へ散っていった
夜の帳が下り、焚火の周りには再び寒さをしのぐために集まる人々の姿があった
あーあ、しばらくここで暮らせると思ったのに……
引っ越すのも悪くないさ。聞いたか?天航都市の方じゃ、もっといいフィルターが設置されたらしいってさ!
彼は周囲に座る人々を元気づけようと、無理に明るく振る舞った
……仕方ない。とにかく荷物をまとめるとするか
暖を取る気が失せた青年がため息をついて、背を向けて歩き出した途端、ローブをまとった人物にぶつかってしまった
おっと、悪い悪い……
……お気になさらず。そんなに急いでどちらへ?
ああ、聞いてないのか?また移動するんだってさ
まったく……移動、移動って、いつになったら終わるんだか……
……グレイレイヴン指揮官という方が戻ってきたのでは?
フードを被った女性は少し戸惑っているようだ
そう、グレイレイヴン指揮官って人が戻ってきて、確かに生活はだいぶよくなった
天航都市の方もフィルターが増設されたし、拠点自体もかなり整備された。でも……
住民の瞳には、隠しきれない悲しみが浮かんでいる
所詮はただひとりの人間ってだけだからな……
彼は「ただひとり」という言葉を強調した
どんなに優れてたって……ただの人間ひとりに、一体何ができるっていうんだ?
…………
おっと、話してる場合じゃない。荷物をまとめに行かなきゃ……君も早く身の回りの物をまとめた方がいい
もしいきなり襲撃されたら、何ひとつ持っていけなくなるかもしれない……この前、俺は母さんが最後に残してくれた鍵を失くしちまったんだ
昔の家の鍵だ、って母さんは言ってたけど……
……「家」なんて、一体どこにあるんだか