ルナの予想通り、彼らが行動を開始した同じ頃、廃墟の片隅に佇む漆黒の人影が反転異重合塔に向けていた視線をそっと戻した
行くのですか?
そう言って、毛布に包まれた小さな赤い人形を腕に抱いた少年が近付いてきた
ええ
人類が改造していたあの塔のコアが再び汚染されました。人類には悪い知らせですが、再び中に入れる状態に戻ったということです
異重合塔にこのような変化をもたらすことができる「もの」は、ただひとつ
その言葉を聞いて、少年の腕の中の人形はそっと顔を上げ、塔の方を見つめた
…………
どうやら、ドミニクは後継者を見つけられなかったようですね
後続の予定を、前倒しにする必要がありそうだ
フォン·ネガットは手を伸ばして少年の腕の中の人形を受け取ろうとしたが、彼女はその手を嫌がるかのようにギュッと縮こまった
毛布ごと抱いてあげてください、さあ
惑砂はそっと毛布ごと彼に手渡した
残りのものは全てリリスに託したのですか?
リリスはまだ、私たちの力の源がルナとどう違うのかを理解していません。彼女に託したのは必要なものだけです
次はあなたが私の代わりにルナを訪ね、彼女の手先の昇格者になるといいでしょう
ルナを頼れば昇格者の地位を保ち続けられるだけでなく、必要な時にはリリスに干渉できるようにもなりますから
……わかりました
彼女には危険な芽のことも話しておきました。もし彼女が私欲のためにコレドールのような存在と手を組むようなことでもない限り、そう気にする必要はありません
コレドール……
彼女が、前に話してくれたある種の異常性ですか?
その通り。ここで彼女を殺したとしても、彼女は新しい身分で再び現れるでしょう。コレドールではない別の「キャラクター」として
「正解の」者がその位置に立つまで続くはずです
カイウスは顔を上げ、ぼんやりと赤潮の方を見つめた
どうして……こんなことが起こるのでしょうか?
未来から過去に持ち帰るのは技術だけではありません。中に、その時代の問題も含まれてしまうのですよ
フォン·ネガットは腕の中の人形に語りかけるように言った
…………
もう止められない?
……一度解き放たれたら――再選別をパスできないルナ、あるいはコレドールであれ、それを頼みに昇格ネットワークと融合する日が訪れる。違いは誰が主導権を握るかだけです
両者を比べるなら、異合生物の体を持つコレドールの方が脅威はずっと小さいでしょう
……少なくとも今は
数カ月前にルナと話した時、彼女はすでに自分の計画を持っていました
さあ、ルナのところへ行きなさい、惑砂。これは最後の任務です
この件が終わったら自由にすればいい。自分のやり方で死を求めるか……生き続けるか
ローズがまだ生きている可能性があると知った以上、それを確認するまではひとまず生き続けます
フォン·ネガットは最後の別れの挨拶として、惑砂の細い肩を軽く叩いた
……また会おうとは言ってくれない?
もう十分なほど何度も「再会」したはずですが?
…………
少年は俯いた――彼は毎回の「再会」が、目の前の人が失敗した結果だと知っていた。彼はもう失敗に嫌気がさし、十分うんざりしているはずであることも
そうだね、もう十分
……失敗はもう十分
それでも彼の声は震えを帯びていた
あなたが突然命令を変えたり、以前と態度を変える時……ボクはわかってた……あなたはきっとまた長い旅を終えたばかりだったんだって
ボクもこれが最後であることを願ってる。そうすればあなたの望みがより早く叶うし。でも……
この言葉を投げかけている相手は何も答えず、何の未練も見せない。そのまま赤い人形を抱えて、反転異重合塔の方へと向かっていく
……あの!
そのひと言で、漆黒の姿は立ち止まった
これが最後なら……ひとつ訊いてもいい?
彼は沈黙で許可を示した
……あなたは……
ここにいるあなたは……
孤児院からボクを救い出してくれたギルゴア·グルート先生……ではないんですね?
ルナ一行は深まる夜の中、清浄地と異災区の境界でロランと合流した
ルナ様
ルナの状態を見て、ロランが常に浮かべている笑顔がすっと消えた
以前のご指示は全て完了しています
彼は笑顔とともに、今は伝えるべきではない懸念をも一緒に引っ込めたと思われた
ご苦労さま
空中に浮かべない代行者はそっと顔を上げ、皆の後ろに立つロランを見つめた
あなたの機体では、今の戦闘への対応は難しいでしょう
もしこの旅がうまくいけば、私が……
今それを考える必要はありません、ルナ様。今、大事なのは、この旅をどう順調に進めるかです
ルナは視線をロランの顔から、清浄地の方へ振り向けた
次にやることはひとつ――グレイレイヴン指揮官をここへ呼び出す
それも、他の誰かに気付かれないように
なんともやり甲斐のあるその任務にチャレンジできるとしたら、ラミアしかいないでしょう
ラミア
まま、待ってください。ここの警備、あんな厳戒態勢なんですよ。それに、昼間の出来事で中の連中の警戒心も高まってるだろうし
私でさえ、端の方にしか行ったことがないのに。指揮官があんなところまで行けるものですか?
のんびり探してる時間はない。通信が繋がらない以上、人類内部で連絡可能な人間をひとり捕まえた方がいいわね
ででででも、ルナ様は誰にも気付かれないようにって
どこかの部屋の中で騒ぎを起こすくらいで十分だよ。ルナ様の目的はこの状況で人間と戦争を始めることじゃない
それに確か君は、空中庭園の誰かさんとまだこっそり連絡を取り合える仲じゃなかったっけ?
…………
私があなたの後ろにいる。必要な時は敵を引き付けるわ
でもでも、本当に大丈夫なの?グレイレイヴン指揮官に連絡を取るためだけに、誰かを拉致するなんて……
……そんなことして、あの人を怒らせたりしませんか?
私たちがこれから話すことで、清浄地の悪化は止められるはずよ
あなただって、この状況でグレイレイヴンが許さないような虐殺をするつもりなんかないでしょう?
…………
彼女はルナを見た。ロランは、自分もついていくからと手振りで示している。更に催促するようなαの目つきを見て、ラミアはしぶしぶ頷いた
……はい
人魚は姿を消し、もう清浄ではない「清浄地」にそろそろと足を踏み入れた
ここで待っていて
αとロランの姿も彼女の視界から消え、そこにはただ夜風の囁きと遠くから僅かに聞こえる人々の声だけが残った
…………
グレイレイヴン指揮官にはどのくらい会っていないのだろう?彼女はもうよく覚えていなかった
再び代行者に会った時、あの人間はどんな表情をするだろう?憎しみ?驚き?それとも、いずれ彼女に会うと予想していただろうか?もし驚かせることができれば……
面白いかも……
……そんなことして、あの人を怒らせたりしませんか?
別れ際のラミアの言葉が頭の中に浮かんだ
…………
もやもやとした気持ちを抱えながら、ルナは清浄地に更に一歩踏み込んだ
体がとても重い
彼女は長らく歩いていなかった。もちろんこんなに遠くまで歩くこともしていない
このままグレイレイヴンに会えば、彼らはすぐに自分の異常を察知し、肝心の話し合いをする前に攻撃してくるかもしれない
元の状態に戻らなければ。たとえ再びパニシングをコントロールすることで、制御不能になるのが早まったとしても
ルナは手を上げ、異災区の高濃度パニシングに包まれながら、機体の浮遊モジュールを再起動した
すぐに馴染みある鋭い痛みが意識海を走り抜けた――パニシング侵蝕時に感じるあの痛みだ。制御が難しいパニシングをコントロールしたからだ、彼女にはわかっていた
侵蝕はどんどん酷くなっていく。彼女は自分の腕をグッと強く握り、かろうじて機体を支えながら浮上した
…………
徐々に強まる刺すような痛みが彼女の決心を引き裂こうとするが、それでもルナは浮遊をやめず、異災区の木々に身を潜めて自分の姿を隠した
――誰かが来た
やっと掴んだ希望もなくなっちまって、これからどうすればいいんだ。あんなに沢山の資源を清浄地につぎ込んだのに……
希望を掴んだ?本当に掴んだのかしら?
反転異重合塔は突然出現した……私たちはそれをずっと理解できないまま
以前の昇格者たちだってそうよ。昇格者を制御もできず、彼らを理解する機会もなかった
あの昇格者たちを再び捕らえるべきなのよ、特化機体も一緒に改良できるじゃない。まるで――
あっ、流れ星
彼らのその声につられて少女が顔を上げると、空を横切る流れ星がひとつ見えた
流れ星を見た時は願い事をするの
その流れ星自身の願い事はどうなるの?
大丈夫。流れ星は私たちの願いを叶えるために天からやってくるんだから
お父さんが言ってた。流れ星は私たちが見上げているからこそ、その責任を負うんだって
…………
負傷者は清浄地に駐在する皆さんによって、全員医療センターに運ばれました。軽傷の57名と構造体7体、重傷者は2名で、死亡者はいません
医療物資も……今は十分にあります。次の任務まで私は医療センターに留まって、バロメッツ小隊のリリアンと一緒に負傷者のケアをします
こんにちは……悪いんだけど、リーフさんに残ってもらうことになったの。私、人間の治療があまり得意じゃないし……ここはそもそも医者が少ないから……
はい!お任せください、指揮官
うん、さっきシーモン指揮官のところに行ったら、彼もあなたによろしくって
周囲の手がかりを捜索して巡回を続けていますが、今のところ異常はありません
彼は頷いて通信を切った
…………
今のところ、しばらくは何も変化はなさそうです。休んでいてください、指揮官
どうかしましたか?
その人間は反転異重合塔の下に立ち、青い結晶をなでながら、しばらくの間黙っていた
どんな夢ですか?
指揮官?
そう言ってその人間は俯き、手の中のデータチップをなでている
議会の決議が可決されたあの日、ナナミが残した全感覚模擬装置を通してドミニクのメッセージを見た
彼は言った。これは招待状であり、自分のデータを「ドミニク」に加えるためのテストに招待したのだと
この時代に必要なのは、「明日」のために努力する全ての生命だ。曖昧な過去の幻影じゃない
……ハハハ、■の予想通りの答えだ
そのような意志を持つ者だけに、招待状を開く資格がある
君の選択こそが……正しいのかもしれない……
暗闇の世界に再び静寂が戻った
たとえこんなことが起こったとしても、ドミニクとの統合を拒否したことを後悔する必要はないはずだ
一陣の夜風が深まる12月の寒さを運んできた
私たちが来た時よりも0.012%上昇しています
指揮官、やはり先に少しだけでも休んでください。このままでは……
突然、端末から緊急通信の通知音が鳴った
昇格者ロランを発見。ルシア、全面警戒を
通信の向こうから銃の連射音が響き、その後にリーが高所から飛び降りて走っている音が続く
ここの防衛は私が。リーフはどうしています!?
リーフは……αを発見しただって?
こんな時に、昇格者が全面的に動き出したということですか?
通信で何度もリーフに呼びかけてみる。だが応答がない
待って!!お願い、先に医療センターに来て負傷者を助けてください!
私たち、人質にされた……!
問いかける間もなく、リリアンの通信にラミアの顔が現れた
ひ、久しぶりだね、グ、グレイレイヴン指揮官……
今回は、えっと、トラブルを起こしに来たんじゃなくて、塔の問題を解決する方法を見つけた、から……
通信が繋がらなくて、こうするしかなかったんだ……そ、それで、清浄地の境界のこの場所まで来てくれないかな……位置情報はもう送ったから
そ、それから、グレイレイヴン隊だけで来てほしいんだけど。他の人には知らせないで、じゃないとこの人たちを……
ヒィッ!!
う、ウソじゃないって!本当に塔の異常を解決する方法を見つけたの!!今のこれ、最低の方法なのはわかってる……でも、戦わずに話し合えない?い、一度でいいから
本当なら私ひとりであなたに会いに行くつもりだったの。ルナ様もそうしろって。でもここ、警備があまりにも厳重で、どうしようもなかったから……
そ、そう。この反転異重合塔の問題は、多分……昇格ネットワークとも関係してる
その時、リリアンの端末からαの声が聞こえてきた
ラミア、医療センターにいるリーフがあなたを見つけたわ。ひとまず撤退して
人魚はレンズの外にいる人影に向かって頷くと、最後に通信越しにあの人間の姿をちらっと見て、大急ぎで立ち去った
指揮官……!
大丈夫です。医療センター内に負傷者は出ていません!
ロランも同じく撤退しました
清浄地内を巡回していた多くの構造体たちも昇格者の侵入に気付いています
次はどうしますか?
昇格者たちに言われた通りに、私たちだけで行くのですか?
了解!